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第六十六話 きっと、茨の道でも


 ラッティは朝が好きだ。


 「一日で一番好きな時間は?」と訊かれたら、まず間違いなく「朝、目が覚めたとき」と答える。ラッティはどちらかと言うと目覚めがいい方で、前日に酒をしこたま飲んでさえいなければ、大抵気持ちよく起きられるからだ。

 そうして寝台や寝台代わりの荷馬車から這い出し、朝一番に外の景色を眺めたときの、あの胸がすくような感覚がいっとう好きだった。

 さらに天気が良ければ文句なし。いや、仮に曇っていようが雪が降っていようが、あまり気には留めないのだけれど。


 何故なら新しい一日の始まりというのは、それだけでとてもワクワクする。今日はどんな一日になるだろう。昨日はツイてなかったけど、今日は何かいいことがあるかもしれない。そんな風に考えると、自然と胸が弾むのだ。

 たとえ変わり映えのない毎日を送っていたって、昨日が今日とまったく同じということはない。同じように、今日が明日とまったく同じということもない。


 昨日と今日、今日と明日。そこにある些細な違いを一つずつ拾い上げて、日に翳しながら楽しむのがラッティの生き方だ。人生なんて、気の持ちようでどうにでもなると知っているから。だからラッティはこの獣人隊商(ビーストキャラバン)を創設してからというもの、憂鬱な朝を迎えたことがほとんどない。かけがえのない仲間と共に迎える朝は、いつだって晴れやかで気持ちがいいものだ──でも。


「……」


 今日はラッティの十二年間の人生の中で、一、二を争うくらい沈鬱な朝だった。

 サン・カリニョの兵舎に与えられた一室で目を覚まし、窓辺に立ってぐぐっと伸びをしてみたものの、心はいっかな晴れそうにない。

 理由は雨戸を開けた先の空が、どんよりと重い雪雲に覆われているから……ではなかった。ところどころに寝癖のついた狐色の髪を掻き、ラッティは物憂いため息をつく。頭上の狐耳(みみ)は昨夜から伏せられたまま。

 丈の長い寝間着の後ろから垂れる尻尾もすっかり元気を失くしていて、ラッティは無意識のうちにそれを抱き上げながら、薄暗い部屋の一角を顧みた。


 グニドとルルがいつも身を寄せ合って眠っていた、干し草の寝床。


 そこに二人の姿はない。


(……様子を見に行かなきゃ)


 素足の裏が冷たい石の床にひっついてしまったみたいに動かないけれど、このままあの二人を放って、馬鹿みたいに突っ立っているわけにはいかなかった。

 ラッティは肌を刺すような寒さに腕を摩りながら着替えを済ませ、顔を洗い、鏡の前で長い髪を結い上げる。その頃になって、同室のヴォルクやポリー、ヨヘンも目を覚ました。ラッティがグニドたちのところへ行く旨を告げると、彼らも一緒に行くと言うので、仲間の準備が整うのを待って部屋を出る。


 ルルがエレツエル神領国の諜報機関である《兇王の胤(マンダウ)》に攫われかけたのは昨夜のこと。マナから知らせを受けたラッティが、アントニオを始めとする義勇軍の面々を引き連れて現場に駆けつけたのは、森での戦いが果てたあとのことだった。

 満月まであと少し足りない月が照らした森の姿は、ひと言で形容するなれば惨状。松明の火でも燃え移ったのか、大半の木々が焼け朽ちて無惨な屍を晒し、あたりには耐え難いまでの臭気が漂っていた。


 けれど臭いの原因は、焼け焦げた森だけじゃない。暗くてはっきりと姿形が見えなかったのが救いだが、焦土と化した森には丸焼けになった人間の死体がいくつもあって、さすがのラッティもいくらか吐いた。しかもそれがただの焼死体であったならいい。いや、良識的に考えれば全然何も良くないのだが、あの酸鼻極まる光景の中では、五体満足で焼け死んでいる死体は()()()()な方だった。


 問題はあちらこちらに飛び散った人間の体の一部だ。それは腕だったり足だったり、頭だったり内臓だったりした。これまで戦地の真ん中を突っ切るような危険な商売をしてきたラッティでさえ目を疑ったほど、原型を留めていない死体の山。

 グニドはそんな地獄絵図の真ん中にうずくまり、小さな小さなルルの体を抱いていた。ルルの腹部は血にまみれていて、白い手足は力なく投げ出され、ラッティには一瞬、彼女が死んでいるように見えた。


 結果的には早合点だったわけだが、たとえ一瞬でもルルが死んだなんて思ってしまった昨夜の自分を、完膚なきまでに叩きのめしてやりたい。

 おかげでラッティはグニドに声をかけることができず、ほんの数瞬かあるいはもっと長い間、彼の背後で突っ立っていることしかできなかった。

 ルルにはまだ息がある、と教えてくれたのは、ラッティたちよりも先に現場に到着していたアビエス連合国のマドレーンだ。

 『狂魔女』の異名を持つという彼女は、一体どのようにしてラッティたちを追い越したのかいつの間にか森の中にいて、分かる限りの情報を教えてくれた。


 すなわち、ルルを傷つけられたグニドが怒り狂って散々に暴れ回ったこと。その過程でヒーゼルがグニドに噛まれ、重傷を負ったこと。

 ルルとヒーゼルの怪我に関しては、マドレーンが魔法の力で既に癒やしてくれたこと。火災を鎮めたのも彼女の魔法だということ。

 そして森に潜んでいた連中が《兇王の胤》に雇われた傭兵団だったということ。


 最後の事実を突き止めたのはマドレーンではなく、義勇軍の中で最も早く現場に到着していたアルハン傭兵旅団のウォンだった。

 彼はルルを攫った《兇王の胤》の片割れを追って森の外れまで兵を進めていて、捕らえた《兇王の胤》を尋問し、彼らの策略をすべて吐かせた。

 それによれば《兇王の胤》の構成員たちは、神領国の聖主エシュアの命令で、義勇軍と侯王軍の間に結ばれようとしている講和条約を潰すべく動いていたらしい。

 エシュアは列侯国の内乱に介入する準備を万端に整えたにもかかわらず、突如同盟が一方的に破棄されたことに怒り、どうにか明日の調印式を台なしにできないかと考えたらしかった。


 そこで《兇王の胤》に命じてルエダ人の傭兵団を雇い、カルロス不在のサン・カリニョを奇襲させようとしたわけだ。

 傭兵団はその襲撃を侯王軍の裏切りと見せかけるため、侯王カルヴァンの御印(みしるし)である一角獣(ユニコーン)の旗や鎧を持ち込み、偽装工作をしようとしていた。

 ところが彼らがサン・カリニョへ攻め込むよりも早く、マナの先見の力で敵襲を予知したアルハン傭兵旅団がこれを強襲。おかげで指揮系統をズタズタにされた傭兵団は為す術もなく散り散りとなり、神領国の陰謀は水泡に帰した。


 それだけなら「めでたしめでたし」で済む話なのだが、そうならなかったのは《兇王の胤》がどさくさに紛れてルルを連れ去ろうとしたせいだ。

 構成員を尋問したウォンの話によれば、彼らはルルが赤ん坊の頃から胸に刻んでいるという謎の神刻(エンブレム)を〝万霊刻(イーサー・エンブレム)〟と呼び、アレは大神刻(グランド・エンブレム)にも匹敵する世界でただ一つの神刻ゆえ、エシュア様に献上しなければならない──と白状したのち息絶えたという。


「〝我々はずっと探していた〟とやつは言った。万霊刻は元々、神領国へ送り届けられる途中で野盗に奪われ、以来行方が分からなくなっていた神刻だと。だからやつらはアレを取り戻すことにこだわった。いや、より正確には、アレに()()()()()()()()()()ルルアムスを、な」

「……ちょっと待って。じゃあ今から十年前、ルルを連れてラムルバハル砂漠を渡ろうとしてた人間ってのは……グニドが襲って食べたのは、」

「任務中の《兇王の胤》を襲って身ぐるみを剥いだ野盗の集団──だったということだろうな。つまりグニドナトスは、天授児(ギフテッド)の赤子を高値で売り捌こうとしていた連中から、意図せずしてルルアムスを救っていたということだ。やつが砂漠で食らったのは、死んだところで誰も困らんクズの集まり。恐らくルルアムスの本当の両親は《兇王の胤》に娘を奪われ、殺されたあとだろう」


 やつらはそういう連中だ。まるで旧知の友の素性でも語るようにそう言って、ウォンはラッティたちの前から姿を消した。

 彼が全身から垂れ流す、世界を丸ごと押し潰さんとするかのような威圧感から解放されたラッティは、茫然自失して座り込むことしかできなかった。

 やがて笑いが込み上げてきたのは、ルルの両親を殺したのがグニドではなかったと知って心底安堵したからだ。

 されど一緒に涙もこみ上げてきたのは、ルルの両親もエレツエル人に殺されたのだと知って、幼い彼女と自分の境遇が重なって見えたから……。


 いや、それ以前に、自分はグニドを疑ってしまった。ルルの両親を奪ったのは彼なのではないかと、もしそうならグニドとルルが共に生きることは果たして正しい選択なのかと、結論を出しきれずに二人を焚きつけた。

 そのせいでルルはあんな大怪我を追い、生死の境をさまよう羽目になっているのだ。そう思ったら悔恨で胸が焼かれて、ラッティは衣服を掻き毟るように握り締めた。肝心なところで仲間を信じてやれないなんて、自分は隊長失格だ、と。


「ラッティノセイ、ジャナイ」


 けれどグニドはそう言った。傷つき、昏睡したルルの体を抱いたまま。


「ルルヲ、傷ツケタノハ、オレダ。オレ、ルル、守レナカッタ……」


 あのとき、グニドの瞳から滴り落ちる雫を見た瞬間の、心の一部が引き千切られたような感覚を、なんと呼べば良かったのだろう。

 血も涙もない残虐な野獣。最も魔物に近いイキモノ。世界中でそう呼ばれている竜人(ドラゴニアン)も、愛する者のために心を痛め、ときに涙を流すのだ。

 自分はそんな当たり前のことすら分かっていなかった。分かったつもりになっていただけで、本当は何も──グニドのことを、何も分かってやれていなかった。


「……ほんとに、とんだ隊長サマがいたモンだよ」


 グニドとルルがいる虹神聖堂までの道すがら、自嘲と共にそう吐き捨てたラッティへ、仲間の視線が集まった。けれど皆、安易な気休めはむしろ傷口に塩を塗り込むようなものだと察してくれているのか、何も言わない。そうした仲間の優しさに甘えてしまう自分にまた腹が立つのだから、我ながら困ったものだ。叶うことならラッティは過去へ遡って、愚かな自分を百回(くび)り殺してやりたいと願う。


「──で、どうなんけ、ヒーゼルの容態は?」


 ところが数ヶ月前の魔物の強襲以来半壊したままの聖堂へ入ると、扉の先から誰かの会話する声が聞こえてきた。この強烈な訛りと風変わりな言葉遣いは、まず間違いなくロクサーナだ。顔を上げてみればそこにはやはり彼女の姿があって、入り口(こちら)に背を向ける形でもう一人の人物と話し込んでいる。

 相手は昨夜、グニドたちの窮地を救ってくれたマドレーンだった。彼女は神と神子の御前だというのにまったく悪びれる様子もなく、(あで)やかな色使いの細い煙管(キセル)を口に咥えて、ふぅっと甘い煙を吐いている。


「あっちのボウヤは問題ないわよ。粉々になってた骨は全部元に戻してあげたし、ひょろそうに見えて案外ちゃんと鍛えてるみたいだから、安静にしてれば大丈夫。今日中には目を覚ますはずだわ。私は魔女であって医者じゃないから、経験則でしか判断できないけど……」

「ふむ。まあ、確かにあやつは殺しても殺しても死なんことに定評があるからの。とすると案ずるべきはルルのみということになるけんじょ……」


 と、そこで細い指を顎に当てたロクサーナが何かに気づいた様子で振り向いた。途端にラッティは彼女らと視線が搗ち合い、「どうも」と苦笑しながら会釈する。


「すみません、朝から大所帯で押しかけちゃって……」

「おお、そもじらであったか。ルルの見舞いに来たのけ?」

「ええ、まあ、一応。あれからルルの様子は……?」

「相変わらずでおじゃる。医者に処方させた薬で熱はいくらか下がったがの。未だ意識は戻らず、グニドナトスがつきっきりで看病しておる。恐らくは今日から明日にかけてが峠であろう」


 峠、というロクサーナのひと言が、ラッティの胸の中で質量を帯びて重く沈んだ。ルルが昨晩負ったひどい怪我は、マドレーンが魔法で癒やしてくれたものの、できたのは傷を塞ぎ血を止めることだけだ。


 見た目にはもうすっかりよくなったように見えるが、ルルは腹を刺されてからそこそこ長い時間放置されてしまった。おかげで体内に血が溜まり、それが発熱を引き起こしている。ラッティも医者ではないので詳しいことは知らないが、アビエス連合国における最新の医学によれば、体内に溜まった血液というのは、ゆっくりとだが再び肉体に吸収されるのだという。


 けれどその過程で体温が上がり、負傷者は高熱に苦しむことになる。ルルは昨夜から意識を失ったまま、小さな体で必死に高熱と闘っていた。しかし彼女は負傷し、(おびただ)しい血を失ったことで、ひどく体力を消耗している。果たしてあんなに弱りきった体で、数日間続く高熱をやりすごすことができるのかどうか。

 答えはまさしく天のみぞ知る、だ。神の力を宿すロクサーナでさえも、こればかりは手の出しようがないらしい。今の自分たちにできるのは、彼女が無事に峠を越えることができるよう、神に祈ることだけ……ラッティは歯痒さからギリ、と切歯して拳を握り締めた。と、そこでヴォルクの肩から身を乗り出したヨヘンが言う。


「なあ、先生。ルルの熱も先生の希術で何とかしてやれないのかよ? 先生ほどの力がありゃ、病人の熱を下げるくらいお手のものだろ? オイラたちにできることなら、お礼は何でもするからさ!」

「そうねえ。ま、確かにできないことはないんだけど……」


 と、もったいつけるような言い方をして、マドレーンはまたふぅっと紫煙を吐いた。ヨヘンが彼女を〝先生〟と呼ぶのは大学時代の名残だ。彼はマドレーンが教授として働くエルビナ大学の卒業生だから、彼女とは学生時代から面識がある。

 さらに言えばヨヘンの親族には、エルビナ大学の運営やアビエス連合国の政治、軍事に関わる仕事をしている者が多い。マドレーンも大学教授を務める傍ら、こうして連合国の公務に携わっているから、ヨヘンらスダトルダ一族とは何かと縁があるらしかった。


「だけど今回のケースに関して言えば、これ以上私があの子の体に手を加える方が危険だと思うわ。素人が希石を用いて使う希術ならともかく、私みたいな『口寄せの民』が使う希術は強すぎて、悪影響を及ぼしちゃうかも」

「悪影響って、たとえばどんな?」

()()()にしちゃうのよ。相手が大人なら大して問題はないんだけど、子供となるとね。特に心身が成熟してない小さな子供の魂は外からの影響を受けやすいから、最悪の場合、私の力に引っ張られて魂が体から抜け落ちちゃう。そうなるともうあの子は目覚めないか、目覚めたとしても自我を持たない廃人になるかのどちらかよ。一旦肉体(うつわ)から零れた魂を元に戻すのは、魔女わたしたちの力をもってしても不可能なの。そこから先は、決して侵してはならない神の領域──ま、時戻しの術でもあれば話は別でしょうけどね」


 と、ときにマドレーンがあからさまな含みを持たせてそう言えば、ロクサーナがぎくりと肩をそびやかした。彼女は見るからに気まずそうな顔色でマドレーンから顔を逸らし、露骨に視線を泳がせている。


「ねえ、ロクサーナ。あなたも知ってるわよねえ、世界で唯一時戻しの力を持つ、海の国の魔女のこと」

「う……うむ……それはもちろん……」

「彼女がいてくれたらとぉっても助かると思うんだけどぉ。残念ながらあの子、二十年近くもどこかをほっつき歩いてて、全然国に帰って来ないのよねぇ。あなた、何か知らない?」

「……」

「その顔は〝知ってる〟って顔ね」

「わーは何も言っとらん」

「知らないなら否定すればいいじゃない? なのに敢えて黙ってるのは〝嘘とは罪である〟って神の掟に従ってるからじゃないの? ねえ、神子様?」

「む、むぅ……わ、わーとてあやつのことは早う国へ帰すべきじゃと思っとるんじゃ! なれど本人が絶対戻らぬと言い張って聞かぬのだから、しょんなかろーもん! 文句があるならあやつに直接言うがよい!」


 一体二人が何の話をしているのか、ラッティにはまったく分からなかった。されどロクサーナは急にぷりぷり怒り出したかと思えば、拗ねた子供みたいにツンと横を向き、聖堂の奥へと立ち去っていく。

 それを見たマドレーンは「あらあら」と頬へ手を当てて、楽しそうにニコニコしていた。神子を怒らせておいて何故平気な顔をしていられるのか疑問だが、そういうところが〝魔女〟と呼ばれる所以なのかもしれない。

 彼女らは神の領域に踏み込む力を持たないだけで、神を畏れてはいないのだ。だから相手が神子であろうとぞんざいに扱うし、敬わない。こういう人間を構わず重用しているところがアビエス連合国のすごいところだな、とラッティは思う。


「やっぱりねえ。昨日の呼び出し、たぶんそうじゃないかと思ったのよ。だけどこのことを知ったら、ユニウスはどんな顔をするかしら……」

「あー、えっと……マドレーンさん?」

「ああ、ごめんなさい。あのルルって子の話だったわね。とにかくそういうわけだから、私には如何ともしがたいっていうのが現状よ。どうしても彼女を助けたいなら、この城にいる()()()()()()()にお願いしてみたら? と言いたいところだけど……彼女の力は彼女の命と引き換えだから、どこまでやれるかは彼女次第ってところね」

「もう一人の魔女、って──」

「ああ、名前は言わないでちょうだい。あの子の名前が耳に入ると色々困るから。あくまで私は()()()()()()()()ことにしないと」

「……? いや、けど……マドレーンさんって口寄せの郷(アルカヌム)の出身なんですよね? ってことはルルに直接魔法……じゃなくて希術を使うのは無理でも、希石を生み出すことはできるんじゃ? アビエス連合国に出回ってる希石は全部、口寄せの郷の魔女たちが創ってるって聞いてます。他には誰にも創れないと……だからもしアレを譲ってもらえるなら、あとはアタシたちが──」

「うーん。名案だけど、残念ながら無理な相談ね。私、希石は創れないから」

「え?」

「一族の掟を破って外の世界に飛び出した罰で、むかし郷の姉さま方に呪われちゃってね。おかげで色々と制約があるのよ。希石が創れないのもその一つ。アレは本来、門外不出の秘法だから……」

「そう、なんですか……」

「悪いわね、これ以上力になってあげられなくて。とにかくあの子たちの顔を見に行ってあげたら? どうするかはそれからお決めなさいな。あなたたち──〝仲間〟なんでしょ?」


 煙管片手にそう言って、マドレーンはにっこり笑った。弓形を描く真っ赤な唇は同性のラッティから見ても蠱惑的で、何だかいけないことに誘われているような気分になる。しかしどうやらマドレーンは、最初の印象ほど掴みどころのない人物ではないようだった。彼女は獣人と半獣人と人間の子供というこの奇妙な取り合わせをまったくの無条件に受け入れて、背中を押してくれている。


 たとえそのうちの一人が、人喰い獣人と恐れられる竜人であろうとも──迷うことなく、仲間であることに胸を張れ、と。


「……ありがとうございます」


 ラッティはそう言ってもう一度会釈すると、グニドとルルのいる聖堂の奥へ向かった。二人が兵舎ではなくここに身を寄せているのは、いざというとき、医術の心得があるロクサーナやトビアスが傍にいてくれた方が安心だからだ。

 二人は普段、自分たちが寝室として使っている部屋をルルのために譲ってくれて、グニドもずっとそこにいた。その小さな部屋のドアを叩き、中へ踏み込めば、寝台に横たわったルルと彼女を見守るグニドの背中が視界へ飛び込んでくる。


「グニド、おはよう」


 ラッティはなけなしの勇気を振り絞って、後ろからそう声をかけた。すると石の床に直接座り込んだグニドが緩慢な動きで首を巡らせ、こちらを振り向いてくる。


「……ラッティ」

「見舞いに来たよ。ルル……まだ、目を覚まさないんだってね」


 グニドは頷いたのか、鱗で覆われた鼻の頭をちょっとだけ下げて、再びルルへと向き直った。寝台に歩み寄ると、ルルの体にかけられた毛布の下から、異様に白い彼女の腕が覗いている。

 その腕の一部──手首のあたりがまだ痛々しく腫れているのを見て取って、ラッティは思わず眉をひそめた。アレは昨夜、ルルが嵌められていた手枷の痕だ。


 それもただの手枷ではなく、乳銀(にゅうぎん)と呼ばれる白い金属で作られた、『封刻環(チャーム)』という名の特殊な手枷だった。封刻環は名前のとおり、神刻の力を封じてしまう対神術使い用の拘束具だ。

 《兇王の胤》はルルが子供でありながら、強力な神術を操ることを先刻承知していたのだろう。だから念には念を入れて、彼女の神刻を封じていた。

 こんな小さな子供からも周到に抵抗の手段を奪って攫おうとするあたりに、エレツエル人の冷酷さがまざまざと表れている。〝アマゾーヌ人には花を、トラモント人には金を、エレツエル人には国を〟──とは、まったくよく言ったものだ。


「ルルゥ! オイラだぞ、見舞いに来たぞ! 聞こえてるか?」


 ほどなくヴォルクの肩から寝台へ飛び降りたヨヘンが、眠ったままのルルの顔に近づき、小さすぎる手で彼女の頬をぺしぺし叩いた。それを見たポリーが「なんてことするのヨ!」と目くじらを立てているが、まあ、ヨヘンの矮躯(からだ)から繰り出される衝撃なんて、ウサギの地鳴らしほどの威力もないはずだ。

 実際、ルルは顔を叩かれたところでぴくりともせず、ただ苦しそうに浅い呼吸を繰り返すだけだった。他の子供たちに比べてずいぶん白い頬には朱が差しており、触れずとも高熱に浮かされているのがひと目で分かる。


「さっきロクサーナさんが、薬で熱はいくらか下がったって言ってたけど……まだだいぶ苦しそうだね。水はちゃんと飲ませてる?」

「ウム……今朝モ、水、飲マセタバカリ、ダ。ソレカラ、蜂蜜モ」

「蜂蜜?」

「トビアスガ、持ッテキタ。蜂蜜、タクサン栄養アルト言ウ。オレモ舐メテミタガ、トテモ甘イ。……ルルモ、起キテイタラ、キット喜ブ」

「……そうだね」


 思えばルルにはまだ、蜂蜜を食べさせてやったことがなかった。砂糖や蜂蜜といった甘味料は高価でなかなか手に入らないから、ここまで機会がなかったのだ。

 けれど今はラッティも、甘い蜂蜜を舐めてはしゃぐルルの姿をありありと脳裏に思い描くことができる。十年も彼女と連れ添ってきたグニドならなおさらだろう。

 ラッティはまた自分の耳が垂れるのを自覚しながら、ルルが横たわる寝台の端にそっと腰を下ろした。神子(ロクサーナ)のために用意されたものだからだろうか。ここの寝台は砦や兵舎のものとは違って、大量の綿が詰められたマットが敷かれていた。敷布も白く清潔で、ほのかに石鹸の香りがするところをみても、かなり金がかけられているのが分かる。


「……あのさ、グニド。昨日、アタシが話したことだけど……」

「ウム」

「やっぱり、ごめん。アンタはアタシのせいじゃないって言ってくれるけど……ルルがこうなった責任は、アタシにもあるよ。アタシがもっとちゃんとアンタたちのことを見ていれば、きっとこんなことには……」

「ラッティ」

「十年前、赤ん坊だったルルを連れて砂漠を渡ってたのがまさか盗賊だったなんて、誰にも想像できなかったことだけどサ。けど、アタシがアンタを疑っちまったことには違いない。だから、ごめん」


 昨日は考えがまとまらなくてちゃんと謝れなかったから、ラッティは正面からグニドと向き合い、そう告げた。グニドはそんなラッティをしばしじっと見つめていたものの、やがて長い首を垂れると、ゆるゆると(かぶり)を振る。


「盗賊ノコト、知ラナカッタハ、オレモ同ジダ。オレ、ラッティ、責メテナイ」

「ああ、分かるよ。だからアンタももう自分を責めないで。今回のことは、ここにいるアタシたちみんなの責任だ。だろ?」


 ラッティがそう言って場を見渡せば、ヴォルクが耳を動かして答え、ポリーも瞳を潤ませながら頷いた。唯一ルルの枕元にいるヨヘンだけが「え? なんで?」みたいな顔をしているが、今は見なかったことにしておく。


「でさ、グニド。こんなときに何なんだけど……昨日ヒーゼルさんが言ってたこと、考えてみた?」

「……ウム。オレ、一晩、考エタ」

「何だよ、ヒーゼルさんが言ってたことって──むぎゅっ!?」


 と、話の腰を折ろうとしたヨヘンはついに、ポリーのフサフサの手に掴まれた。そうして頭を押さえられ、何か喚きながら手足をジタバタさせているが、彼の叫びはポリーの肉球に吸い込まれてゆくばかり。


「ラッティ。オレ、ルルヲ、連レテイク」


 やがてグニドの口が紡いだ短くも力強い言葉に、ラッティの耳がそばだった。


「ヒーゼル、言ッテイタ。オレ、ルルガ、イナクナッタラ、ドウナルカ。ソノコト知ルタメニ、ルルト、別レテミルトイイ、ト。ダガ、連合国行カズトモ、昨日、分カッタ。オレ、ルル、イナイト、ダメ。ルルト、離レタクナイ──離レラレナイ。ソレガ、答エダ」

「うん」


 ラッティはただ、頷いた。

 グニドが考えに考えて出した答えなら、何も言うことはなかった。

 自分はただ、彼の雇い主として──獣人隊商の仲間として、その選択を祝福するだけだ。そしてこれから先、何があってもグニドの決断を疑ったりしない。むしろ全力で守ってやる。人間と竜人。彼と彼女が共に歩む道を、誰が何と言おうとも。


「アンタならできるよ、グニド。たとえこの先何があろうと、絶対にルルを幸せにしてやれる。アタシらも協力は惜しまないからサ。──幸せになろう、みんなで」


 今度こそ、()()()で。


 胸中でひそかに、悲壮と共にそう誓ったラッティを見つめて、グニドが口の端を持ち上げた。そんな彼の反応に救われる。


 ──アタシたちは、仲間だ。


 もう一度、自分の魂にそう刷り込んだ。


 二度と誰も不幸にしない。必ず守る。

 だってアタシは、獣人隊商の隊長なんだから。


 ()()()()()()()()()()()()()


 だから、アタシがもっとしっかりしなきゃ。

 間違えるのは、もうこれきりだ。キーリャのときもそう誓った。でも、自分はまた間違えた。だから。だからこそ。次こそは、絶対に間違えない。


「──……グニ……ド……?」


 そのときだった。獣の耳を持っていなかったら、きっと聞き逃してしまっていただろうと思うくらい小さく、グニドを呼ぶ声がした。

 皆がはっとして振り向けば、寝台の上でルルが薄目を開けている。

 彼女の名を叫ぶように呼んだグニドが、立ち上がって身を乗り出した。竜語で何か話しかけながら、しきりにルルの頬を摩っている。

 ルルも竜語でそれに答えた。意識はまだ朦朧としているように見えるけれども、辛うじて会話は成立しているようだ。


「ルル。お前に大事な(クラト・オトゥ)話があるんだ(・ディーニィ)


 やがてグニドが、ルルの青みがかった髪を何度も撫でながらそう言った。


 寝台の傍に置かれた火鉢の中で、パチン、と薪が弾けた音がする。



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