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第六十五話 届かぬ声

 風に乗って、血の臭いがした。

 それもちょっとやそっとじゃない。かなり大量の血の臭いだ。

 瞬間、不安という名の暗雲が、噴き出すような勢いで胸中に立ち込めるのをグニドは感じた。気づけばあたりは森の中。仰ぎ見た黒い(こずえ)の向こうには、月の光を背に負いながら、まっすぐ風上へ向かって飛ぶミミズクの姿が見え隠れしている。つまりあの(グニウ)は血の臭いのする方角へグニドを導いているということだ。


(一体何が起きてるんだ──?)


 右を見ても左を見ても、グニドの視界に映るのは闇の中で黒々と佇む木々の姿だけ。以前は瑞々しい緑の葉を湛えていたはずの樹木は、今や冷たい木枯らしに吹かれ、どれもほとんど丸裸に近い格好をしていた。

 それが立ったまま息絶えた死骸の群のように見えて、グニドの胸中はますます翳る。自然の営みに不気味さを覚えるなんて、生まれて初めてのことかもしれない。


(ルルは無事でいるのか?)


 木立の間を全速力で馳せながら、グニドは乱れつつある己の呼吸を聞いた。サン・カリニョを出てまだ間もないのに、もう息が上がり始めている。竜人(ドラゴニアン)の戦士にはまずありえないことだ。

 それだけ自分が焦っているのだと理解して、努めて平静を保とうとした。しかし思考は千々に乱れ、気持ちばかりが先へ先へ行こうとする。一刻も早くルルの無事を確かめたいし、何が起きているのか把握したいのだ。マナはルルがエレツエル神領国の手下に攫われ、この先、大規模戦闘が起こる可能性もあると言っていた──何故だ? 戦争はもう終わったはずなのに。


「ギャッ、ギャッ、ギャッ、ギャッ……」


 聞いたこともないような獣か何かの鳴き声がして、思考がさらに乱される。グニドの足音に驚いたのか、やかましい鳴き声の主は闇の中を騒ぎながら遠ざかっていった。そちらに気を取られかけた刹那、グニドの聴覚が人声を捉える。まだ遠いが、あれは会話している声ではない──大勢の人間同士が、争いのさなかに上げる喊声というやつだ。


『見えた』


 頭上のミミズクがこれで役目は終わりだというように、一際大きな羽音を立てていずこかへ消えた。つまりあそこへ行けということかと理解して、グニドも地を蹴る後肢(あし)に力を込める。行く手に見えるいくつもの明かりの下で、人間たちが武器を手に暴れ狂っていた。どれが敵でどれが味方か分からぬほどに入り乱れているのと、木の影が邪魔なのとで戦闘の規模は分からない。

 だが少なくとも数百人の人間が怒号を上げて殺し合っているのは事実だ。グニドはそこへ飛び込んだ。が、見渡す限りの乱戦でルルを探すどころの騒ぎではない。


竜人(ドラゴニアン)!」


 直後、地の底から響くような野太いオスの声がして、グニドは首を巡らせた。見れば少し離れたところに、馬上で槍を振り回しているウォンがいる。

 彼の周りには、頭や腕に青色の布を巻いた戦士たち──アルハン傭兵旅団の兵士が集まっていた。そう言えばマナが、ひと足先にウォンが兵を率いて《兇王の胤(マンダウ)》を追ったと言っていたような気がする。

 とすればあの青い布を味方の目印にすればいい。アルハン傭兵旅団の兵士たちはひと目でお互いを識別するために、必ず青い布を身に帯びているのだ。まさかそれがこんなところで役に立つとは思わなかった。グニドは目の前で味方に襲いかかろうとした敵を殴り倒すと、改めてウォンを顧みた。


「ウォン! オレ、マナニ言ワレテ来タ! ルルハドコダ……!?」

「ガキの居処(いどころ)は知らん。だがこいつらを煽動しているのは《兇王の胤》だ。黒い剣を持った兵士を見つけて捕らえろ、生け捕りにすればやつらの計画を聞き出せる」

「黒イ剣、カ──分カッタ(アーク・トグ)!」


 ウォンが振り上げた槍で眼下の敵を串刺しにする様を見届けながら、グニドも素早く刀を抜いた。そうして腹の底から咆吼し、戦場の隅々まで己の存在を知らしめる。グニドの吼声を聞いた敵兵が、明らかに怯むのが分かった。こちらを振り向くや否や途端に青ざめていくあの反応は、間違いなくルエダ人のそれだ。


「ど、竜人……!? なんでこんなところに──」


 悲鳴じみた声があちこちから上がる中、グニドは迷わず戦場の中心へ突っ込んだ。長い首を振り上げ、牙を剥いて突進するだけで、敵兵はわっと蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。サン・カリニョの砦が焼けた晩にグニドは鎧を失ったが、これなら大竜刀のみでも存分に戦えそうだ。

 「竜人まで出てくるなんて聞いてねえぞ!」と喚く人間たちの前へ出て、とにかく大竜刀をぶん回した。逃げ遅れた敵兵の体の一部が次々と、枝切れみたいに飛んでいく。しかしこいつらは()()()()? グニドは戦いながら、敵の正体が不明なことに改めて不気味さを覚えた。


 だってどう考えてもおかしいではないか。マナはルルを攫ったのは《兇王の胤》だと言い、今、グニドの眼前で逃げ惑う彼らを先導しているのも《兇王の胤》だという。しかしこいつらはどこからどう見てもルエダ人で、少なくともエレツエル人ではない、と思う。グニドはエレツエル神領国の人間を見たことがないから確証はないが、ここにいる人間どもの喋り方は、サン・カリニョにいるルエダ人と同じだ。


 グニドはこの六ヶ月の間に、同じ人語でも話し手の生まれの違いによって、微妙な差異があることを学んでいた。たとえばカルロスが話す人語とヒーゼルが話す人語は細かい語句の発音が全然違うし、マナが話す人語とウォンが話す人語も抑揚のつけ方があまりに違う。ロクサーナが話す人語に至っては異界の言葉だ。トゥルエノ義勇軍には色んな国の色んな人間が集まっていたから、分かる。


 ならばこいつらは一体誰だ? 何故侯王軍と義勇軍の戦いに決着がついた今になって現れた? そもそもこんな森の奥で何をしていたのか? 見たところ、彼らの身なりはかつてサン・カリニョに攻めてきた騎士たちとは大きく違う。

 何しろ彼らは騎士特有の鉄の鎧を身に着けていないし、どちらかと言えば軽装だった。装備している防具はいずれも軽そうで、手にしている武器もバラバラだ。まるである程度戦いの知識がある人間を無作為に集めただけのような、そんなまとまりのなさを感じる。グニドが乱入するやあっという間に算を乱し、統率が取れなくなっているところにも集団としての綻びが見えるし。


(だが《兇王の胤》と組んでいるということは、少なくとも侯王側の兵ということだ。侯王は神領国との同盟を破棄したと見せかけて、実は裏でまだつながっていた……? だとしたらこいつらは、カルロスの不在を狙ってサン・カリニョを襲いにやってきた可能性が高い。権謀術策がお得意な人間様なら、大いに有り得そうな話だが──)

『──グニド……!!』


 そのときだった。自棄を起こして突っ込んできた敵兵を一太刀の下に斬り捨てたところで、グニドはこの血腥(ちなまぐさ)い戦場にまったく似つかわしくない、甲高い呼び声を聞いた気がした。ゆえにはっと()を見開き、再び首を巡らせる。

 ルル。どこだ。前にも後ろにも、視界いっぱいに人間が入り乱れていて分からない。匂いも追えない。どこだ。まさか今のは幻聴か?

 否。自分がルルの声を聞き間違えるなんて、有り得ない。


『グニド、たすけて……!!』


 ──見つけた。


 いつの間にやらあちこちに燃え移った松明の火の中で、グニドは急速に瞳孔を絞った。ウォン率いるアルハン傭兵旅団に押しまくられ、ついに撤退を叫び始めた敵兵の中に、ルルの小さな体を担ぎ上げた人間がいる。

 まるで動く荷物みたいに担がれたルルは、泣き叫んでいた。両手には白い手枷のようなものを嵌められている。彼女を担いだ人間は全身真っ黒で、列侯国に来てからよく見かける〝カラス〟を連想させる姿をしていた。さらに顔の半分も口布で覆っているため、人相が分からない。


 されどグニドはその人間の手に、刀身まで黒く染まった異様な剣が握られているのを、見た。


 あれが《兇王の胤》。一度はカルロスの暗殺を試み、ディアマンテ忠勇騎士団の裏切りを手引きし、ルルを連れ去ろうとするエレツエル神領国の手先。

 瞬間、グニドは腹の底から衝き上げてくる激情に任せ、吼えた。

 森の奥に向かって逃げ出した敵兵の波に乗り、自身も《兇王の胤》を追いかける。ところがルルを担いだ《兇王の胤》は、グニドの狙いが彼女だと早々に気がついたのか、すっと溶け込むように敵兵の混乱の中へ消えた。


 森は怒号と悲鳴と炎に包まれ、まるで世界の終わりのようだ。おかげで視界は明るいが、あんなに黒くて目立つはずの《兇王の胤》の姿を見つけられない。

 頼りとなるのは必死に自分を呼ぶルルの声だけだ。グニドは進路の邪魔になる敵兵を容赦なく斬り飛ばし、尾で薙ぎ倒しながら、自らもルルの名を叫んだ。懸命に耳を澄まし、切れ切れに聞こえるルルの呼び声を追いかける。声は近づいたと思えば遠くなり、あちらかと思えば次は全然違う方角から聞こえたりした。


 どうやらルルを運ぶ《兇王の胤》は、逃げる敵兵の数がより多い方向を選んで逃走しているようだ。その方が人混みにまぎれて姿を隠しやすいためだろう。

 ゆえにグニドも途中から、ルルの声を聞きつつ人間の匂いがより濃い方へ、濃い方へと進路を取った。森の焼ける臭いがグニドの鼻を完全に塞いでしまう前に、何とか追いつかなければならない。ここでやつを見失えば、ルルを永遠に失うかもしれないのだ。そんなことはあってはならない──あってたまるか。


「くそっ、いい加減しつけえぞ、トカゲ野郎……!」


 ところが刹那、どこまでも追跡してくるグニドに辟易したのか、数人の敵兵ががなり声を上げながらグニドの前に立ち塞がった。

 グニドの目的はあくまでルルの奪還であり、他の連中のことなど正直眼中にないのだが、人間どもは延々竜人に追われる恐怖に耐えかねたらしい。

 無視して通り過ぎようかとも考えたものの、敵兵の一人が武器をがむしゃらに振り回しながら突撃してきたせいで、グニドも応戦せざるを得なくなった。あんな攻撃、鎧があれば気にせず跳ね返すのだが、今のグニドは生憎防寒着しかまとっていない。鱗で受ければいいとは言え、向こうも竜人の弱点は知っているはずだ。取るに足らない連中であっても、油断はできない。


『邪魔だ、どけ!』


 グニドは苛立ちながら向かってきた一人を斬り伏せ、さらに横から突き出された槍を引っ掴んだ。そうして力任せに引っ張り、槍手を間合いまで引き寄せると、間髪入れず大竜刀で相手の首を刎ね飛ばす。

 勢いづいていた残りの人数が、それで怯んだ。ならばこのまま蹴散らしてやる、と姿勢を低くしたところで、またもルルの声がする。


『グニド……!!』


 はっとして声のした方角を顧みた。

 炎に煽られた木々の間を、ルルを担いで走り去ろうとしている人影が見える。

 ようやくはっきりと姿を捉えた。《兇王の胤》だ。いま追いかければきっと追いつくことができる。グニドは完全に萎縮している人間どもを無視して踵を返した。大竜刀を両手で握り締め、長い首と尾を水平にしながら、馳せる。

 ところがそんな一瞬の判断が誤りだった。グニドがルルの呼び声に応えて身を翻したのを、人間たちは確かに見ていた。

 彼らはそこでようやく気がついたのだ。

 竜人が自分たちを執拗に追ってくるのは、()()()()がいるせいだ、と。


「おい、ガキだ! 誰かそのガキを何とかしろ! そいつが竜人を呼んでやがる! ヤツを止めろ……!」


 《兇王の胤》へ追い縋ろうとするグニドの背中を、人間どもの喚き声が追ってきた。怒声はグニドの脚よりも速く宙を駆け、行く手で逃げ惑っていた複数の敵兵の耳に届く。彼らは一斉にルルを──否、彼女をいずこかへ運び去ろうとする《兇王の胤》を顧みた。ほんの一刹那、狂騒に包まれていた森の空気が静止する。


「……おい、エレツエル人。お前らの杜撰な依頼のおかげで、こっちは大損だ。これ以上てめえらには従えねえ──そのガキをこっちに寄越せ……!」


 《兇王の胤》は一瞬怯み、すぐさま形勢が一転したことを覚って逃げ出そうとしたように見えた。ところが次の瞬間、背後の木陰から飛び出してきた敵兵の一人が、喚きながら大剣を振り下ろす。

 にぶい刃が肉を断つ音がして、背中から血を噴いた《兇王の胤》が膝を折った。彼に担がれていたルルは地面へ投げ出され、横ざまに転がっていく。

 グニドはそちらへ進路を取った。まさか敵兵が裏切りに走るとは思わなかったが、おかげで《兇王の胤》を追いかけ回す手間が省けた。これでようやくルルを救出できる──そう思ったのも、束の間。

 一体何を思ったのか、ときに怒れる敵兵の一人が、倒れたルルの腕を掴んだ。全身に血を浴びたすさまじい形相で、引きずり起こしたルルを見下ろしている。

 怯えたルルの唇が動いた。恐怖のあまり壊れんばかりに震えながら、やめて、と竜語で呟いたのが見える。


 直後、男が振り上げた短槍が、ルルの腹を貫いた。


 ぱっとあたりに鮮血が散り、ルルを包んでいた震えが止まる。


『──』


 金色の眼を見開き、グニドは何か叫んだつもりだった。しかし何を叫んだのか──あるいは本当に()()()()()()()()、自分でも分からない。

 槍はすぐに引き抜かれ、ルルの小さすぎる体に開いた大きな傷から血が溢れた。白い貫頭衣が瞬く間に赤く染まり、足元に血溜まりを作っていく。

 ルルを刺した男は彼女が動かなくなったことを確かめると、まるでゴミでも放るように、無造作にルルの体を投げた。そうしてグニドを顧みるや、恐怖と狂気で歪んだ笑みを湛え、身を翻して逃げ去っていく。


『ルル』


 数瞬遅れてグニドが駆け寄ったとき、ルルはもう返事をしなかった。竜人なんかが掴んだら簡単に折れてしまいそうな華奢な体が、四肢を投げ出して地面に転がっている。グニドはそれを抱き起こすこともできなかった。ただ傍らに佇み、茫然と見下ろすばかりで、何も考えられなかった。されどぽつりとルルの名を呟いたとき、漂白された意識の真ん中に浮かんで消えた声がある。



〝──ルル、グニドのこと、好き!〟



 刹那、真っ白だったはずの意識が真っ黒になった。


 グニドは何か考えようとすることを、やめた。



          ×



 ヒーゼルがヴォルクの案内で森の奥まで辿り着いたとき、そこには地獄が広がっていた。

 そう、地獄だ。他にどんな形容をすれば良いのか、学のないヒーゼルには分からない。ただ、もしかしたら本物の地獄へ出向いても、ここまでおぞましく酸鼻極まる光景を拝むことはできないかもしれない。阿鼻叫喚の地獄絵図とは、まさに()()のことだ。


「おいおい……冗談だろ」


 たったいま自分の瞳が映している光景を否定しようと、無理矢理吊り上げた口角が歪んだ。グニドの匂いを追尾するため、獣の姿でここまでの道を先導してくれたヴォルクも、全身の毛を逆立てて完全に怯んでいるようだ。

 何故なら燃え盛る炎の真ん中で、一頭の竜人が暴れ狂っている。

 とんでもない吼声があたりに轟き、森が震え、逃げ惑う敵兵の悲鳴と断末魔の叫びが世界を塗り潰そうとしていた。間断なくあちこちで肉片と血飛沫が飛び、大地はほとんど原型を留めていない死体の山で覆い尽くされようとしている。


 長年戦場に身を置いてきたヒーゼルでさえ、肌が粟立つほどの凄絶な情景だった。竜人が大竜刀と呼ばれる肉切り刀を振り回し、()()に食らいつき、尾の一撃で誰かの肉体(からだ)を破壊する度、森を包む炎が狂喜に身をよじらせる。

 ──なんだこれは。

 あそこで暴れている竜人は本当に、俺たちの知るグニドナトスか?

 まるで別人というより、もはや魔物だ。ヒーゼルが幾度となくラムルバハル砂漠で対峙してきた、トカゲの姿を借りた魔物。そこに理性はなく、良心もない。ただただ人間を殺戮し、食い散らかすために生まれてきた化け物……。


「……一体何がどうなってんだ? なんでグニドがあんなところで暴れてる? 先に行ったはずのウォンはどこに──」

「ヒーゼルさん、あそこ……!」


 と、状況を呑み込むべくあたりを見渡したところで、ヴォルクが叫んだ。かと思えば彼は依然黒い狼の姿のまま、一目散にいずこかへ走り出す。ヒーゼルもそんなヴォルクの動きを目で追いかけ──そしてすべてを理解した。何故なら彼が走り寄った先に、血溜まりに沈む小さな人影があったから。


「……そういうことかよ」


 手綱を握り締めた手に、ギリ、と知らず力が籠もった。憎悪に彩られたグニドの咆吼と踊り狂う炎に、愛馬が怯えているのが伝わってくる。

 動かないルルの傍では鼻鳴きしたヴォルクが、黒い鼻先を彼女の腕の下へくぐらせて、持ち上げるような仕草を繰り返していた。それでもルルが目を覚まさないと知るや、彼はボロボロになった貫頭衣に噛みつき、勢いよく引き千切る。

 そうしてあらわになったルルの傷を、ヴォルクは舐めた。狼が傷ついた仲間を助けようとするように、ヴォルクも必死でルルを救おうとしている。

 ならば自分がやるべきことは一つだけだ。ヒーゼルはすぐさま鞍から滑り下り、掌で愛馬の尻を叩いた。〝行け〟と命じられた栗毛は足踏みしてしばしためらう素振りを見せたのち、元来た道を駆け戻ってゆく。


「やつらがどこの誰かは知らないが……」


 同情はしない。彼らは決して犯してはならない禁忌を犯した。だから今その報いを受けているのであって、自らの手で破滅の運命を(あざな)った者など、どうなろうと知ったことではない。

 だがルルは違う。あの子は何もしていない。ただ健気にグニドに懐き、共に生きたいと願っただけだ。

 そんな彼女をほったらかして、見殺しにするわけにはいかない。


「そうだろ、グニド?」


 まずは怒り狂ったグニドを鎮め、ルルを一刻も早くサン・カリニョへ連れ帰ること。それだけを念頭に置いて、ヒーゼルは走り出した。

 燃え広がる炎を掻い潜り、果敢にも地獄の真ん中へ飛び込む。そこでは逃れようとする敵兵に追い縋り、食らいつき、千切れるまで振り回しているグニドがいた。明らかに我を失っているが、怯んではいられない。ヒーゼルは念のため右手に剣を携えつつ、左手に蓄えた雷刻(かみ)の力を──放った。


「グニド、鎮まれ! 俺だ、分かるだろ!? 今はこんな連中の相手をしてる場合じゃない、正気に戻れ!」


 突如として森に響き渡った雷鳴が、あたりの敵兵を怯ませる。しかしヒーゼルの狙いは彼らに対する威嚇ではなかった。ただグニドの意識を自分に向かせたかっただけだ。

 そして狙いどおり、雷撃の()を聞いたグニドがゆっくりとこちらを振り向いた。彼は依然死体を咥えたままで、限界まで瞳孔が引き絞られた眼は血走っている。


「そうだ、グニド。冷静になれ。今、サン・カリニョでラッティたちが仲間を集めてる。すぐに応援が来るはずだ。だからお前も戻ってこい。お前は人間(おれ)たちの敵じゃない……そうだろ?」


 できる限り彼を刺激しないよう剣は地面へ向けたまま、慎重に言葉を選んだ。グニドの全身を覆う鱗は返り血を浴びて不気味にぬらめき、死体に食い込んだ牙の間からも夥しい量の血が流れている。

 だがグニドはグニドだ。言葉が通じない野生の竜人とは違う。話せば分かり合えるし、彼には理性も知性もある──ヒーゼルはそう信じていた。けれど、


「ジャアアアアアアアアアアアッ!!」

「うおっ……!?」


 瞬間、咥えていた死体を放り投げたグニドが、血まみれの牙を剥いて唐突に襲いかかってきた。ヒーゼルはすんでのところで彼の噛みつきを回避したが、目と鼻の先で噛み合った牙がガチンと音を立てたのを聞いて肝が冷える。


「おい、グニド……!?」


 再度呼びかけたが、グニドにはヒーゼルの言葉など聞こえていないようだった。それどころか敵兵との区別もついていないらしく、今度は大竜刀で斬りかかってくる。とっさに屈んで攻撃を回避すると、空振りした刃が近くの樹木に直撃した。分厚い刃を幹に受けた木はメリメリと音を立て、半ばからへし折れてしまう。


「ひ、ひいぃぃぃ……!!」


 その様子を見ていた敵兵が、情けない悲鳴を上げながら我勝ちに逃げ去った。されどグニドはもはや逃げる者には見向きもせず、ヒーゼルを見据えて吼え猛る。

 ……まずいことになった。灼熱の炎に囲まれているというのに、ヒーゼルは冷たい汗が額から滴り落ちるのを感じた。

 どうやら今のグニドには、人間の姿をしたものはすべて敵に見えているらしい。いや、もう少し楽観的な言い方をすれば()()()()()か。


 何にせよこのままでは、グニドを正気に戻すことは叶わない。人間の言葉では彼の戦闘種族としての本能に届かないのだ。

 だが、だとしたらどうする? 生憎とヒーゼルはルルやマナのように竜語を話すことができない。面白半分にグニドからいくつかの言葉を習ったりはしたがそれだけだ。言語としての活用など無理に決まっている。

 しかしマナはまだ当分追いついてはこないだろうし、ルルもあの状態だ。正直助けは期待できない。頼れるのは自分だけ。ならばどうやってグニドを説得するか──緊迫した睨み合いのさなか、ヒーゼルはありとあらゆる可能性を考慮した。


 そして、決める。


「……またカルロス殿に怒られなきゃいいけど」


 自嘲と共にひとりごちた刹那、再び咆吼したグニドが大竜刀を構えて突撃してきた。ブンッと空恐ろしい音を立てて振り抜かれた刃を(かわ)し、躱した先に飛んできた尻尾の一撃もどうにか避けて着地する。

 グニドはそこを狙ってきた。血と唾液を振り撒きながら上下の顎を大きく開けて、巨体をうねらせながら迫ってくる。ゆえにヒーゼルは──剣を捨てた。


「来い」


 覚悟を決めてそう呼びかけた直後、狙いどおりグニドが食らいついてくる。左肩の筋肉に無数の牙が食い込む感触がして、想像を絶する痛みが全身を駆け巡った。

 ヒーゼルの体はそのまま後方へ押しやられ、一際太い木の幹に背中を打ちつけたところでようやく止まる。グニドの牙は未だ肩に食い込んだままだ。体内で骨の砕ける音がして、ヒーゼルは絶叫しそうになるのをどうにか堪えた。歯を食い縛り、血と脂でベトベトになったグニドの(たてがみ)を掴みながら、激痛という言葉ではとても形容しきれないほどの痛みに耐える。


「ぐ、うっ……グニド、戻れ……いい加減、正気に戻れ!! お前、ルルを失いたくないんだろう!? このままだとあの子が死ぬぞ……!!」


 そうして全身全霊を込めて、グニドの耳元でそう叫んだ。こちらの声が遠くて届かないのなら、ゼロ距離で叫んでやる。それだけだ。

 これで駄目なら、あとは先程の死体のように自分もまた投げ捨てられ、踏み殺されるのだろう。そう思った。

 しかしヒーゼルの目の前で、グニドの瞳孔がゆっくりと開いていく。血走っていた()からも赤みが引いて、静かに自我の光が戻ってくる。


「……………ヒーゼル?」


 やがてグニドが自分の名を呼ぶまでの沈黙が、永遠のように感じられた。彼の牙が左肩からずるりと抜け、万力で締め上げられているような圧迫感がようやくなくなったところで、ヒーゼルは「はは……」と力なく笑いを零す。


「グニド、お前……ずいぶん耳が遠くなったなあ……遅えよ、バカ野郎──」


 どうやら為すべきことは為せたらしい。そう確信した途端、安堵のあまり力が抜けた。左肩の前後に開いた無数の穴から血が溢れ、ずるずるとその場に座り込む。

 それを束の間茫然と見下ろしていたグニドが、ほどなく本当の意味で正気に戻った。彼は目の前のヒーゼルの状態に気がつくや、取り乱した様子で右肩を掴んでくる。そうしながら何か喚いているが、意識が朦朧として聞き取れない。


「ヒーゼル、シッカリシロ! オマエ、何シテルカ……!? 何故避ケナカッタカ!? ヒーゼル……!」


 とりあえず何か答えようと思ったものの、どういうわけだか声が出なかった。代わりに細く掠れた呼気だけが零れて、ああ、これは思ったよりまずいかもな、などと消えゆく意識の狭間に思う。何しろ押さえた左肩から血が止まらない。たぶん動脈をやられている。鎖骨や肩甲骨も粉々になっているし、今日という今日こそは、さすがの俺も死ぬのかもしれない──


「──まったく困ったボウヤたちね」


 そのとき、妙に艶っぽい呆れ声と共に、パチンと指を鳴らす音が聞こえた。するとたちまち巨大な竜巻が巻き起こり、森の木々を薙ぎ倒さんばかりに吹き荒れる。

 冬の森を焦がしていた炎が瞬く間に掻き消えた。さっきまでの狂騒が嘘のような闇と静寂が降りてきて、焼け野原と化した世界に軽快な足音が響く。

 やがて意識が途切れる寸前、ヒーゼルが見たのは弓形を描く真紅の唇だった。


「コレは貸しよ、赤髪くん。あとそこの竜人もね。この狂魔女様がわざわざ出向いてあげたんだから──後日それなりの()()はしなさいよ?」

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