第六十四話 カラスとミミズク
どこを目指して走っているのか、自分でも分からなかった。
ただひたすら走って走って、走り疲れた頃にしゃがみ込んで、荒い呼吸を整える。だけどいくら休んでも、ルルの小さな胸は激しく上下するばかりで、少しも楽にならなかった。それは行き場のない感情が体の内側で暴れているせいだ。
真っ暗な空に中くらいの月がぽつんとかかった冬の夜。ルルは虫の声も聞こえない闇の中で、声を殺して泣きじゃくった。地面を向いた瞳からぽろぽろと零れる大粒の涙が、夏の青さを忘れてしまった枯れ草を濡らしていく。
本当は大声を上げて泣きたかったけど、薄桃色の唇を一生懸命噛み締めて耐えた。だってグニドは耳がいいから、大声で泣いたりしたらきっとすぐに見つかってしまう。いや、どんなに頑張って泣き声を我慢したって、グニドの鋭敏な嗅覚にかかれば、隠れたルルを見つけるなんて造作もないことかもしれないけれど。
けれどルルは今、どうしてもグニドと会いたくなかった。心の中がぐちゃぐちゃで、息苦しくて、グニドの顔を見たらもっと苦しくなるような気がする。何よりグニドに捕まって、さっきの話の続きを聞かされるのが恐ろしい。
『ソウカ。ルルヲ、列侯国ニ置イテイク、カ……』
普段はカルロスが〝おしごと〟をするために使っている石の部屋。ルルはそこで交わされていたグニドたちの話を聞いてしまった。猫人のエクターたちが空飛ぶ獣──エクターは翼獣と呼んでいた──の背中に乗せて遊んでくれて、それがとっても楽しかったから、グニドにもお話を聞いてほしかったのだ。
ところがグニドのいる部屋の前まで来てみたら、ほんの少しだけ開いた扉の向こうから話し声が聞こえた。こっそり覗き込んでみると、部屋にはグニドとラッティ、そしてヒーゼルがいて、みんなで楽しそうに笑い合っていた。
だから何の話をしているのか気になって、ルルは耳を澄ましてみたのだ。すると次の瞬間、グニドの口から思いがけない言葉が飛び出した。
曰く、ルルをヒーゼルの家に預け、この国に置いていく、と。
『なんで……』
涙と一緒に、ぐるぐると脳裏を巡る言葉が小さく零れる。身を切るように冷たい冬の夜風が、ルルの気持ちを代弁するみたいに耳元でびゅうっと唸った。
ルルはサン・カリニョにやってきてからたくさんナムの言葉を覚えたから、さっきのは決して聞き間違いではなかったと自信を持って言える。
ナムの大人たちが話す言葉の中には、まだむつかしくて意味が分からないものもいっぱいあるけど、グニドが話す人語はエリクたちの言葉と同じくらいやさしい。だからルルでも簡単に意味を理解することができた。
無論、ルルだってあれが聞き間違いだったならどんなにいいかと思っている。グニドが自分を置いていこうとしているなんて、信じたくない。
だけどいつかこうなるかもしれない、と思っていた自分がいるのだ。ルルはサン・カリニョに来て、自分が竜人ではないことを知った。ルルはナムだった。グニドとも、ラッティともヴォルクとも違う。ポリーやヨヘンとも違う。ルルにはウロコも尻尾もなくて、耳だって毛皮に包まれていない。誰もが獣人の血を引く獣人隊商で、ルルだけが仲間はずれだ。
だからずっと心のどこかで、こんな日が来るのではないかと恐れていた。ラッティたちはみんな優しいし、ルルにもよくしてくれるけど、ナムの中には彼らを指さして笑ったり、ひそひそ陰口を言ったりする者がいるから。
そのせいで自分までラッティたちに嫌われたらどうしようと、ルルはいつしかそんな風に思うようになっていた。
特にグニドは、以前ほどナムたちに怖い目で見られることはなくなったけど、一部の者にはまだ避けられたり怖がられたりしている。新しくできたルルの友だちも、グニドが傍にいると絶対に話しかけてこない。グニドがいてもいなくても変わらず接してくれるのは、エリクとウォルドとユシィだけだ。
そういう空気に気がついたのだろうか。グニドはいつからか、ルルがナムの友だちといるときはあまり傍に来なくなった。一緒に遊ぼうと誘っても、グニドの知らない子が近くにいると『カルロスの手伝いがあるから』とか『ヒーゼルに用があるから』とか理由をつけて、そっとルルから離れていった。
だけどそれでもルルは、グニドが自分を置いていなくなるわけがないと信じていたのだ。ずっとずっとそう信じていたかった。
なのにグニドはルルを置いていくと言った。やっぱり自分は嫌われてしまったのだろうか。ナムの子だから。竜人じゃないから……。
『なんで……なんでルルは、竜人じゃないの……?』
誰もいない闇に向かってそう尋ねたら、ますます涙が溢れてきた。ルルは北風に吹かれながら、小さな膝に顔をうずめて啜り泣く。
ルルは、竜人に生まれたかった。グニドの子になりたかった。
でも自分はナムだと知ってしまったから、だったらせめてグニドみたいな、強くて立派なナムになろうと思った。グニドがいつだってルルを守ろうとしてくれるみたいに、ルルもグニドを守りたかった。
けれどその願いはもう叶わないかもしれない。グニドはとても頑固だから、一度こうと決めたら自分の考えを変えたりしない。ならルルがこれからも一緒にいたいと伝えても、首を縦には振ってくれないのではないか。そう思うと、グニドのところにはもう戻りたくなかった。突き放されるのが怖かった。
そんなつらい目に遭うくらいなら、このまま小さく、小さくなって消えてしまいたい。そうして風の精霊の一部になって、いつまでもグニドの傍にいたい。
もう二度とグニドと話せなくても、触れられなくても、離れ離れになるよりはそっちの方がずっといい。ルルは赤くなった鼻の頭を上げて、風精たちに自分の願いを聞いてもらおうとした。けれど、
「──ラポルトゥ・ラ・シトゥ・アシオ」
(……え?)
どこからともなく聞こえた声に、ルルは目を丸くした。太陽と同じ色の瞳を驚きに瞬かせれば、最後の涙がするりと頬を滑って落ちていく。
顔を上げるとそこは今からふた月ほど前、焼け落ちて瓦礫の山になってしまった砦のすぐ傍だった。ルルはその瓦礫の陰に隠れるような形でしゃがみ込んでいたらしく、目の前には崩れた石材と、斜めに倒れた真っ黒な丸太がある。
すん、と鼻を鳴らせば今も木や石が焦げた匂いが鼻腔を突いて、ルルはあの夜の熱さと怖さをまざまざと思い出すことができた。グニドに抱かれて飛び込んだ獰猛な炎の赤は、今も瞼の裏に焼きついている。
でも大人たちはみんなあれから忙しそうにしていて、砦は結局誰にも直されないまま無惨な姿を晒していた。ルルにはそれが巨大な石の獣の骸に見えて空恐ろしく、ここにはあまり近寄らないようにしていたのだけれど、がむしゃらに走っているうちに、いつの間にかこんなところまで来てしまっていたみたいだ。
「ネニウ・リマラカス・ニヌ。ニ・ファル・プラノン」
「ヴォーネ、ニ・アリグ・アル・イリィ」
『……?』
しかしルルは恐ろしいところへ来てしまったという恐怖よりも、瓦礫の向こうから聞こえる話し声に興味を引かれた。聞こえてくる声は二人分。どちらもオスの声と思しいけれど、ナムの言葉でも竜人の言葉でも、ついでに言えば精霊の言葉でもないもので話している。一体誰の話し声だろう?
ルルは物音を立てないように気をつけながら、そーっと立ち上がった。直前まで悲しみに暮れていたことも忘れて、抜き足差し足で瓦礫の山に近づいてみる。
そうして月下にそそり立つ丸太の陰から顔を出すと、少し離れたところに二人のオスのナムが見えた。どちらもサン・カリニョではあまり見ないような、ぴったりとした衣服に真っ黒な外套を巻きつけている。おかげで彼らはナムというより、二羽の大きなカラスみたいだ。
だが何よりルルの目を引いたのは、彼らの口元から鼻の頭までを覆う黒い布だった。あんなものを口と鼻に巻いていて、苦しくはないのだろうか。ルルはポリーが毛糸で編んでくれた襟巻きでさえ、首に巻くとちょっと苦しいと感じる。確かに鼻まで覆ってしまえばあったかいのだろうけど、その分呼吸が大変そうだ。
布のせいで声もくぐもって聞こえるし、口を開くときの妨げにもなって、全然いいことがなさそうだった。ルルは変なの、と思いながらさらに首を伸ばし──そしてズリッと、突然爪先が滑るのを感じる。
『……っ!?』
前のめりに倒れそうになって、とっさに丸太に抱きついた。どうやら知らぬ間に小さな瓦礫を踏んでいたらしく、そこから爪先が滑り落ちたようだ。
おかげでルルは盛大な物音を立ててしまった。抱きついた拍子に傾いだ丸太が、根元の瓦礫と擦れて痛そうな悲鳴を上げる。
「──誰だ……!?」
物陰で話し込んでいた二人がその音に反応した。こちらを振り向いたとき、彼らが発した言葉はナムの言葉だった。瞬間、ルルの背中をぞわりと恐怖が舐める。何故ならルルを見つけた二人組が、迷わず腰の武器へ手をかけたからだ。
「あ……あの……!」
こんなところで隠れて話を聞いていたから、怒ったのだろうか。とっさにあとずさりながら、ルルは慌てて釈明しようとした。
確かに二人の会話は聞こえたけれど、何を話していたのかは知らない。だって彼らの話す言葉は、ルルも聞いたことのない未知の言語だったから。
そう説明したいのに、何かが喉につかえて上手く喋れない。竜人の言葉ならすぐにすらすら出てくるけれど、それをナムの言葉に置き換えようとすると、たちまち思考がこんがらがってしまう。
ルルがそうこうしている間に、二人は無言で顔を見合わせた。
かと思えば片方が頷き、もう片方もすっと顎を引く。
次の瞬間、顎を引いた方のナムが、ルルの目の前にいた。何が起きたのかは分からない。ただルルが瞬きをした一刹那のうちに、黒いナムはルルの眼前まで距離を詰め、まったく迷いを感じさせない動きで──剣を、抜いた。
《避けて!!》
頭の中で精霊の声が弾ける。
直後、ザンッと黒い疾風が吹き、半歩下がったところでルルは尻餅をついた。
……何だか胸が冷たい。どうして、と見下ろせば、胸下までしか丈のない、薄紅色の外套が裂けている。いや、外套どころか、その下に着ていた白い貫頭衣や下着まで真っ二つだ。ルルは恐る恐る顔を上げた。見たこともない真っ黒な刃を握ったナムが、真っ黒な口布の上から、真っ黒な眼でルルを見下ろしている。
『い……いや……!』
そこでルルはようやく気がついた。このナムは義勇軍のナムじゃない。だって、サン・カリニョで暮らしているナムたちとは比べものにならないほど禍々しい気を放っている。彼らは自分を殺す気だ。
そう悟った瞬間立ち上がり、逃げ出そうとした。されどすぐさま後ろから腕を掴まれ、引き戻される。ルルは竜語でめちゃくちゃに叫びながら暴れた。しかしすぐに力では敵わないことを知り、精霊に助けを求めようとしたところで、
「……! おい、見ろ」
ルルの腕を掴んだナムが、もう一人に何か呼びかけた。呼ばれた方がそれを聞いてやってくると、黒いナムは破れたルルの衣服を掴み、その場でいきなり捲り上げる。北風が月にかかった雲を払い、あらわとなったルルの胸に冷たい吐息を吹きかけた。寒さと恐怖で身震いすれば、あとからやってきたナムが月明かりの下で目を見開く。
「これは……万霊刻……!?」
二人が何に驚いているのか、ルルにはちっとも分からなかった。ただ、ルルの服の下を覗き込んだ彼らはまたも顔を見合わせて、さっきまで滲ませていた殺意をすっと収める。
「……ようやく見つけた」
「だが何故このようなところに?」
「これはあのとき攫われた娘か?」
「分からん。アツェル殿ならご存知かもしれないが」
「連れていくか」
「ああ、そうだな──エシュア様もきっとお喜びになる」
まったく意味の分からないやりとりが、ルルの頭上で交わされた。かと思えば二人は同時に振り返り、淀んだ闇が宿る眼で、怯えたルルの姿をとらえる。
『や……やだ……グニド──!』
助けを求めるルルの声は、北風に掻き消えた。
吹き散らされた枯れ草が宙を舞い、彼女の残り香を運んでいく。
×
寒風に鼻先を突っ込んで、グニドはすん、と鼻孔を開いた。
風に乗って飛んできた枯れ草の中に、わずかだがルルの匂いがする。たぶん、そう遠くない。方角はこちらで合っているはずだ。
グニドはさらにその場で屈み込み、フン、フン、と、あちこち地面の匂いを嗅いだ。そうしながらルルの匂いの濃い方へ、濃い方へと歩を進める。すぐ後ろではカンテラの明かりを掲げたラッティやヒーゼルが、口々にルルの名を呼んでいた。ポリーはヴォルクとヨヘンを呼びに走っていて、たぶんもう間もなく合流する。
だが今のグニドに彼らを待っている余裕はなかった。ヴォルクならきっと自分たちの匂いを正確に追ってくるだろうとそう信じて、止まることなくルルの痕跡を追いかける。そうするうちに、ルルは本砦のあった方角へ逃げたのではないかという推測が立った。少なくともルルの匂いは、そちらの方へ続いている。
「コッチダ」
ルルの居場所にだいたいの当たりをつけたグニドは顔を上げ、続くラッティとヒーゼルを導いた。月明かりの下を全速で駆け、ふた月前まで身を寄せていた本砦跡地へ辿り着く。けれどもそこにルルの姿はなかった。折り重なるようにして崩れた砦の石材や焼け焦げた梁の間を、ラッティたちがカンテラで念入りに照らしたものの、小柄なルルが息を潜めて隠れている気配もない。
「ダメだ、いないよ。アタシらが追ってきたのを察知して、どこか別のところへ逃げたのかな?」
「だとしても子供の足でそう遠くへは行けないと思うが……グニド、ルルの匂いはこのあたりで途切れてるのか?」
「ムウ……ココ、トテモ焦ゲクサイ。ニオイ、混ザッテ、ワカラナイ……ダガ、ルル、ココニイタハ、確カダ」
「砦と居住区は逆方向……なら、向こうへ逃げた可能性は低い。かと言ってここから先にあるものと言えば、アビエス連合国軍の船溜まりとアルハン傭兵旅団の野営地だけだ。あの子があんなところへ逃げ込むか……?」
現在のサン・カリニョの地図を脳裏に描いているのだろう、ヒーゼルが顎に手を当てながら考え込んだ様子で呟いた。確かにルルは、エクターら猫人とは比較的すぐに打ち解けたが、その他の大人たちとはあまり面識がない。
むしろ人間の中でも大柄で強面のヴェンやウォンのことは怖がっていた節があり、自分から彼らのもとへ駆け込むとは思えなかった。かと言ってグニドたちが来た方角──聖堂や居住区がある方向──へ引き返した痕跡もなく、彼女の消息はここでぱったりと途絶えてしまっている。
……完全に見失った。
その事実を前にして、グニドは焦燥を隠しきれなかった。限界まで首を伸ばし、吼えるようにルルの名を呼んでみるも、返ってくる答えはない。ただグニドの咆吼の余韻だけがむなしく暗い虚空を漂い、やがて北風に吹き散らされた。こんなに寒くて星もない夜に、ルルはたったひとり、どんな想いで凍えているのだろう。
そう思うと胸が張り裂けそうで、グニドは深くうなだれながら己の迂闊さを呪った。どうしてあのとき部屋の外にルルがいることを察知できなかったのか。
竜人の嗅覚をもってすれば、ルルがすぐ傍まで来ていることは容易に知ることができたはずだった。だのに自分はラッティたちとの会話に気を取られすぎて、それ以外の感覚をすべて閉ざしてしまっていたのだ。
そしてよりにもよって最悪のタイミングで、ルルの誤解を招くような発言をしてしまった。いや、確かに半分は誤解かもしれないが、そもそもグニドが彼女を列侯国に残していく算段をつけようとしていたことはまぎれもない事実だ。ルルにとってそんなグニドの行動は、手痛い裏切り以外の何ものでもなかっただろう。自分の軽率さが、果たしてどれほど深く彼女の心を傷つけたことか……。
そうなるのを避けたかったから、熟慮して最善の道を選ぼうとしたのに。こうもままならないのはもしかしたら、ルルに真実を隠し続けた十年間の罰なのだろうか。こんなことになるのなら、もっと早くにすべてを打ち明けていれば良かった。自分の願望よりも彼女の幸せを優先するべきだった。でも、今更気がついたところでもう遅い。もしもこのまま、ルルが二度と戻ってこなかったら……。
「グニド、ごめん……こうなったのは、アタシがあんな話をしたせいだ。せめてもっと慎重にときと場所を選んでいれば……」
「……チガウ。ラッティ、悪クナイ。悪イノハ、オレダ。オレ、ルルノコト、裏切ッタ。ズットズット、裏切ッテイタ……ルル、悲シムハ、当然ダ。オレガ、ルル、傷ツケタ」
「グニド……」
「ヤハリ、真実、話スベキダッタ。ダガ、オレ、デキナカッタ。オレ、トテモ弱カッタ。ソノセイデ、ルルハ──」
「──見つけた! グニド……!」
──ああ、これじゃ戦士の名折れだな。
グニドがうなだれたまま己をそう戒めたとき、俄然、呼び声と馬蹄の音が響き渡った。何事かと顔を上げれば、焼け落ちた砦の向こう、アルハン傭兵旅団の野営地がある方角から一頭の馬が馳せてくる。
背に乗っているのはマナだった。何だかとても久しぶりに彼女の姿を見たような気がする。いや、しかしここでマナが現れるということは、もしやルルは彼女のところへ行っていたのだろうか? グニドは一抹の淡い期待と共にマナを見た。
すると次の瞬間、マナは華麗に鞍から飛び降り、グニドに向かって一直線に駆けてくる。そうして助走の勢いを味方につけるや、思い切り左手を振りかぶり──何の前触れも断りもなく、いきなりグニドの横面に平手を張った。
先に言っておくと、グニドは人間にぶたれるなんてこれが生まれて初めてのことだ。おかげで心底度肝を抜かれ、ひっくり返りそうになった。硬い鱗のおかげでさほど痛みはなく、どうにかこうにか両脚を踏ん張って転倒は免れたが。
『……!?!? ま、マナ、いきなり何を──』
『──このバカっ! バカ、バカ、穴トカゲ! なんで人の忠告を聞かないのよ! あれほどルルちゃんを守ってあげてって言ったのに!』
『穴っ……!? マナ、お前いまなんて……い、いや、それよりもお前、ルルがどこへ行ったか知ってるのか……!?』
『知ってるも何も! 攫われたわよ、エシュアの手先に! あんたがあの子をひとりにするから! このままじゃルルちゃん、エレツエル神領国に連れて行かれて、やつらの操り人形にされちゃうわよ!?』
『は……!? 何だって……!?』
視界に火花が散るほど強くぶたれたあとで、グニドの混乱は極致に達しようとしていた。唯一理解できたのは、マナが常にない剣幕で怒り狂っているということだけだ。他の情報はグニドの脳にすんなり収まることを拒み、右の耳孔から左の耳孔へ流れていった。だって突然すぎてわけが分からない。エシュア? エレツエル神領国? 攫われた? やつらとの戦いには、とっくに決着がついたのに?
「お、おいお前らちょっと落ち着け、ていうか俺たちにも分かる言葉で話せ! マナ、お前、ルルの居場所を知ってるのか?」
「だから、ルルちゃんなら攫われたって! 城内に潜入してた《兇王の胤》に!」
「はあ……!? 《兇王の胤》だって……!? なんでやつらがまだここに……」
ヒーゼルが発した驚きと疑問の声は、直後、けたたましい羽音に掻き消された。今度は何だと慌てて頭上へ目をやれば、一羽の見慣れない鳥がいる。
一般的な鳥類とは違い、顔の正面に両眼がついた奇妙な見た目の鳥だった。大きくて丸い眼の上には、角のようにも眉のようにも見える鶏冠が伸びて、茶色い翼に黒の斑が散っている。そいつはグニドたちの真上を旋回しながら、低い声でやかましく鳴き続けた。こんなときにうるさい鳥だ、飛刀で落として食ってやろうか──と思ったら、ときにマナが空を指差し、鬼気迫る顔つきで言う。
「とにかく今すぐやつらを追って! 場所はあのミミズクが教えてくれるから! 傭兵団からもキムが兵を連れて先に出てるわ! たぶん大規模戦闘になるから覚悟して!」
「だ、大規模戦闘って、なんで……」
「悪いけど説明してる時間はないの! 私は助っ人を呼んでくるから! グニド、細かいことは全部後回しにして──ルルちゃんを永遠に失いたくなかったら、今すぐ行きなさい!」
再び馬の背に飛び乗ったマナの叫びが、稲妻のごとくグニドを打った。
このままルルを永遠に失う? そんなこと、あっていいわけがない。
気づいたときには猛然と地を蹴り、走り出していた。マナの言うとおり、細かい事情はさっぱり分からないが、今は全部後回しでいい。駆け出したグニドを見下ろして、ミミズクと呼ばれた奇妙な鳥がにわかに北へと進路を取った。向かい風をものともせずに月下を渡ってゆく影を、グニドもまっすぐ追いかける。
(待ってろ、ルル……!)
もうこれ以上、弱気になってなどいられなかった。むしろどうして今まで忘れていたのだろう。自分は谷を出たとき、確かにこう誓ったはずだ。
たとえ何があろうとも、必ずルルを守り抜くと。