第六十三話 やさしくない世界で
「あ~~~、もうダメ、疲れた……」
と、背後で聞こえる気の抜けた声に、グニドは思わず眉間を寄せた。
同じ台詞を、自分はつい四半刻(十五分)前にも聞いた気がする。いや、四半刻前と言わずこの二刻(二時間)ほど、もうずっと似たような台詞を聞かされている。つまるところ彼の作業は、二刻前からほとんど進んでいないのではないか。
……やっぱりカルロスの予言は正しかったな。
そう思いながらグニドが呆れて振り向いた先には、いつもカルロスが座っている席で突っ伏したヒーゼルがいた。しかもその突っ伏し方が、なんというかもう堂に入っている。当人のやる気のなさを極限まで体現したかのような、あられもない姿だ。カルロスが調印式に出席するため、サン・カリニョを発ってから早三日。しかし彼がヒーゼルに託していった仕事は、まだ半分も進んでいない。
「……ヒーゼル。オナジコト、サッキモ聞イタ」
「え~? そうだっけ……?」
「ソウダ。オマエ、ズット、疲レテル。休ンデモ休ンデモ、疲レタト言ウ」
「だって事実だし? 俺、苦手なんだよ、こういう机仕事……なんでカルロス殿はこんなつまらない書類の山を、日がな一日じっと眺めてられるわけ? 信じらんない……」
「カルロス、オマエガソウ言ウ、ワカッテタ。ダカラ、オレニ、ヒーゼル見張レト言ッタ。デナイト、オマエ、逃ゲルカ寝ル、ト」
「ハハハ、さすがはカルロス殿、弟子のことをよく分かっていらっしゃる~。だったら俺も調印式に連れてって下さればいいのに~」
「オマエノ頭、囓ッテ良イカ?」
「ああ、はいはい分かりました、やります、やりますよ、やればいいんだろ! ったくあの人は、厄介な見張りを残してくれやがって……」
なんてことをグチグチ言いながら、ヒーゼルはようやく机に預けていた上体を起こした。地面に向かってだらしなく垂れていた両腕は再び紙とペンを握り、難しい顔で蟻の行列みたいな文字の羅列を睨んでいる。
が、四半刻もすればきっとまた疲れたもう嫌だと嘆き出すのだろう。手伝えることなら手伝ってやりたいが、生憎グニドは字が読めないし書けない。このところ人語もだいぶ上達したとは言え、あの細々とした暗号の解読だけはどうあっても無理だ。似たような形のものや組み合わせが無数にあって、覚えられる気がしない。
窓の外では早くも日が沈み始めていた。列侯国の冬は昼が短い。太陽が地平線に沈むラムルバハル砂漠と違って、遠くの山々が早々に夕日を遮ってしまうせいだ。そして砂漠よりもゆっくり朝が来る。
カルロスはそろそろ調印式の式場である旧主領に到着した頃だろうか。後ろで呻吟しているヒーゼルの声を聞きながら、グニドは夕景に思いを馳せた。
聖堂の傍の広場では、ルルたちのはしゃぎ声が聞こえている。白猫のエクターが義勇軍の子供たちを集めて、猫人の乗騎である黒い獣──あれはどうやら翼獣という生き物らしい──の背に乗せてやっているのだ。
あまり大きな子供は乗せられないが、ルルくらいの体格の子供なら、翼獣は軽々と背に乗せて飛んでみせる。手綱は猫人が操り、子供は鞍にしがみついて、地面から一枝(五メートル)ほどの高さをぐるぐると旋回していた。
地上からそれを見守る親はみな心配そうだが、子供たちはいずれも大はしゃぎだ。冬の風の冷たさなんてものともせずに、一生に一度体験できるか否かの空の旅を満喫している。
「ルルちゃん、危ないから手を放しちゃだめヨ……!」
「うん! ヘーキ!」
遠くからそんなやりとりが聞こえて、グニドはすうっと瞳孔を絞った。視界を遮るほど眩しい夕焼けの向こうに、翼獣に乗って飛び回るルルと、心配でおろおろしているポリーの姿が見える。彼女の傍にはラッティやヴォルクもいて、飛び回る子供たちを見上げながら笑っていた。ヨヘンの姿は小さすぎて見えないが、もしかしたらルルと一緒に翼獣に乗っているのかもしれない。
ルルが跨がる翼獣のすぐ後ろには、エリクを乗せた翼獣もいた。彼らに向かって地上から手を振っているのはユシィだろうか。おさげを揺らしてぴょんぴょん跳ねるユシィの隣で、ウォルドが枯れ木の枝を振り回しながら、上空に向かって何か叫んでいる。
(……楽しそうだな)
と、グニドは駆け回る子供たちを眺めて眼を細めた。侯王軍との講和が決まってからというもの、大人たちの間には落胆と安堵が入り混じった複雑な空気が漂っているが、子供たちはいつだって無邪気だ。
初めはエリク以外の子らと折り合いが悪かったというルルも、いつの間にかすっかり子供の群に馴染んでいる。グニドが傍にいると怯えて近づいてこない子も、こうして離れていればルルに話しかけたり、遊びに誘ったりするそうだ。
『……』
束の間の空の旅を終え、ルルとエリクが上空から降りてくる。迎えたユシィが駆け寄って、二人と笑い合うのが見えた。
最近、ルルはああして友だちと戯れるのが楽しくて仕方ないようだ。人間の世界で育った人間の子らは、ルルの知らない玩具や遊びをたくさん知っている。
「あ~~~、無理。もうマジで無理。そもそも収支計算の確認とかさ。俺に頼む方が間違ってるって。だって算術できねえもん、俺。数字は三桁までしか読めないから。それ以上の数字を出されたところでね? 理解不能ですよ。もう足りない金なんか全部カルヴァンからぶん取ればいいじゃん。もしくはマルコスかフィデルから。だってあいつら、金なら腐るほど持ってるし? でもって講和が成ったら俺たちはまた、お互い頼れる味方としてやってくわけだし? だったらちょっとくらい恵んでくれたっていいよな? そしたら俺の腹の虫も治まって一石二鳥なんだけどなーハハハハハ」
ついに精神が限界を迎えたのか、今度は虚空に向かってヒーゼルが何やら喋り始めた。窓辺で言葉どおり黄昏れていたグニドは、そのうるさいひとりごとに再び眉間を寄せ、やれやれと首を振る。
こんな調子では、今日も仲間のもとへ戻れるのは日がとっぷりと暮れてからだろう。グニドは呆れながら部屋の隅までのしのしと歩いた。
気づけば部屋の中はゆっくりと夕闇に浸されつつある。夜目の効くグニドは突っ伏したヒーゼルの鬣の寝癖までしっかり見えるが、人間であるヒーゼルはそろそろ自分の手元も見えなくなってくる頃だ。
だから部屋の隅の小さな棚から火打ち石を取り出して、人間たちがよく『カンテラ』と呼んでいる灯具の中に灯を入れた。やり方は以前カルロスに教わり、今ではもうお手のものだ。
火打ち石に押しつけた火口に火がついたら、次は付け木へ火を移してカンテラへ。ほどなく橙色の光を放ち始めた人間の灯具を、グニドは無言でヒーゼルの鼻先へ置いた。数えきれないほどの紙が山をなしている机に倒れ込んだヒーゼルは、それを見て恨めしげな視線を注いでくる。
「……グニド。お前さ、今やすっかりカルロス殿の言いなりだよな」
「悪イカ?」
「ああ、悪いね。お前が来る前はカルロス殿以外に、俺をどうこうできるやつなんかいなかったのに」
「安心シロ。カルロスガ戻ッタラ、オレ、イナクナル」
「あー、あの話、マジなのか。お前ら、列侯国を出たら今度はアビエス連合国へ行くんだって?」
「ソウダ。オレタチ、最初カラ、連合国目指シテ、ココヘ来タ」
「懐かしいな。そんなお前らをカルヴァンの手先と勘違いして、俺、とびきりの神術を見舞ってやったっけ。あれからもう六ヶ月も経つんだなあ……最初は竜人と握手するなんて信じられねえって思ってたのに、気づけばいつの間にか、お前がカルロス殿の傍にいるのが当たり前になってたな」
なんて言いながら、ヒーゼルは男のくせにやたらと長い睫毛を下ろした。人間のオスはメスに比べて鬣も睫毛も短い者が多いが、ヒーゼルは鬣もそこそこ長いせいで、顔だけならオスとメスの中間みたいに見える。
グニドもここで過ごした日々の中で、人間たちのそうした些細な顔の違いを見分けられるようになっていた。今ならトビアスがいつものゴテゴテした服を脱ぎ、鬣を黒にして人混みに紛れても、視覚だけで彼を見つけることができるだろう。
「寂しくなるよ。これからはこの部屋に来ても、カルロス殿の後ろでデカい石像みたいに突っ立ってるお前はもういないのかと思うとさ。ま、どうせ講和が成ったら俺たちもサン・カリニョを離れて、ウニコルニオへ戻ることになるんだろうけど」
「……」
「せっかく仲良くなったエクターたちも本国に帰っちまうし、ウォンも三日後にはここを発つって言ってるし……あ、そういやマナも結局、ウォンと一緒に行くらしいぞ。一応体調も、自分で歩ける程度には回復したらしいしな」
「ジャ? ソウナノカ?」
それは初耳だ。言われてみれば連合国からエクターたちがやってきたあたりから、グニドはマナとぱったり顔を会わせていなかった。アビエス連合国と言えばマナの故郷でもあるから、同郷の仲間が来たぞと知らせに行ったのに、ウォンに阻まれて会うことができなかったのだ。
あのときはそんなに体調が悪いのかと引き下がったが、自分で歩けるほどに回復したのなら、何故顔を見せにこないのかとグニドは片眉を上げた。おまけに三日後には彼女までいなくなるなんて、グニドには寝耳に水だ。
だったら別れの前に話しておきたいことが山ほどあるのに、知らせにも来ないとは。まさか何も言わずに出ていくつもりだったのか? とグニドが渋い顔をしていると、机に寝そべったままのヒーゼルが、意味もなく鳥の羽根──いや、あれはただの羽根ではなく『ハネペン』というやつだ──を弄びながら口を開いた。
「あー、そういやお前には言ってなかったっけ。何でもマナのやつ、ヴェンやマドレーンとは顔見知りらしくてな。だがどうもわけありで、自分が義勇軍にいることを二人に知られたくないらしい。だからしばらく野営地から出てこないんだよ。俺もカルロス殿も、連合国一行の前ではあいつの名前を出すなと釘を刺されたしな」
「ムウ……ソレモ、初耳ダ。マナハ、ヴェンタチト、仲ガ悪イカ?」
「さあ、詳しいことは俺も知らん。あれこれ訊いてはみたものの、どれもはぐらかされたしな。ま、本人が隠したがってることを無理に聞き出すつもりはないし、ヴェンたちに密告するつもりもないが……あいつも何となく寂しそうだったなあ」
「寂シソウ?」
「ああ。自分はもう故郷には帰れない、ユニウスには会えないとか何とか言って──」
「──邪魔するよ」
刹那、話し込んでいたグニドとヒーゼルの間に、扉を叩く音が割り込んできた。あの音は人間たちが部屋へ入るとき、どういうわけだか必ず送る合図みたいなものだ。かと思えばすぐに扉が開いて、部屋の外からひょっこりと見慣れたものが滑り込んできた。全体的に茶色っぽいのに、先の方だけ白くてぴくぴく動いているあれは──狐耳だ。
「ラッティ?」
突然の来訪者はラッティだった。さっきまで獣人隊商の仲間と外にいたはずなのに、今は一人だ。いつも一緒のヴォルクさえ連れていない。彼女は扉から顔を出すなりきょろきょろすると、部屋の中にグニドとヒーゼルしかいないことを確かめて、ほんの少しほっとしたような顔をした。
「いやあ、お取り込み中悪いんだけどさ。グニド、今、ちょっと時間ない?」
「ムウ……? オレニ、何カ用カ?」
「ああ。少し、今のうちに話しておきたいことがあってね。忙しいならまたあとで声かけるけど」
「いやいや、そういうことならぜひ彼を連れていきたまえ、ラッティ君! 俺なら大丈夫だ、心配せずともバッチリ一人で作業の続きを──」
「ダメダ。オレ、イナイト、オマエ、逃ゲル。オレ、オマエ、見張ル。ラッティ、話、ココデ、デキナイカ?」
「へ? あー、いや、まあ、アタシは別に構わないけど……ヒーゼルさんのお邪魔にならないなら」
「オレタチガイテモ、イナクテモ、ヒーゼル、仕事シナイ。ダカラ、問題ナイ」
「いや、それって問題大ありなんじゃないの?」
「俺としては、今にもグニドさんにかぶりつかれそうなこの状況の方が問題ですけどね?」
真っ赤な髪をグニドにがっしり掴まれたヒーゼルは、何やら文句を並べていたが構わなかった。グニドは出立前のカルロスと、一切の油断なくヒーゼルを見張っておくと約束したのだ。そして竜人の戦士は、決して約束を破らない。兄弟と交わした約束ならばなおのこと。
「んじゃ、お言葉に甘えてお邪魔するけど……なんか、昨日から書類が全然減ってないように見えるのは気のせいかな? ヒーゼルさん、ここにある書類、カルロスさんが戻るまでに全部処理しておけって言われたんだよね?」
「ああ、そうだぜ? で、一体グニドに何の話があって来たんだ、ラッティ?」
「いっそ清々しいまでに開き直ったな、この人」
さしものラッティもヒーゼルのていたらくには呆れたようだが、言うだけ無駄だと早々に察したのか、部屋の隅から空いていた椅子を引っ張り出してきた。グニドも座るかと尋ねられたものの、人間の椅子は小さすぎて、あれに座るくらいなら立っていた方がまだ楽だ。
だから必要ない旨を伝えたら、ラッティは「そっか」と短く言って、ぼすっと椅子に腰を下ろした。けれど背凭れと座面の隙間から垂れた彼女の尻尾が、やけに忙しなく揺れているのは何故だろう?
「あー、えっと、話ってのはサ……前にもグニドには訊いたことなんだけど……」
「前ニモ?」
「ああ。テンプランサ侯領のグラーサ侯が、ウソの同盟を持ちかけてくる前のことサ。アタシ、アンタに一度だけ訊いたことがあったろ。──アンタ、ルルをどうするつもり? って」
柄にもなく、ドッと心臓が縮み上がるような感じがした。
覚えている。あれはラッティがジャックらと共にアフェクト侯領へ潜入し、命辛々ながらも無事サン・カリニョへ戻ってきた直後のことだ。
あの日グニドはカルロスから休暇を与えられ、さっきまでのように友人たちと遊ぶルルの姿を眺めていた。そこへラッティがやってきて同じ質問をされたのだ。
曰く、グニドはこれからもルルと共に過ごすつもりなのか、はたまたいずれは彼女を人間の世界へ帰すつもりなのか、どちらが正解だと思っているのか、と。
カンテラの中の火が瞬いて、三人の影がぐわんと揺れた。気づけば灯明かりの外は真っ暗で、グニドは知らぬ間に日が沈みきっていたことを知る。
「……いきなりで悪いとは思ってるよ。けど、いつまでも答えを先延ばしにはしておけないと思ってね。列侯国を出る前に、はっきりさせとこうと思ったんだ。さっきまですぐそこで、友だちと楽しそうにはしゃぐルルを見てたもんだからさ」
暗闇の向こうからは、未だ子供たちのはしゃぎ声が聞こえた。誰かが明かりを持ってきていたのだろう、窓の外でもぽつぽつと灯がともり、淡い光の中で子供らがじゃれ合っている気配がする。
あそこにルルもいるのだろうか。頭の片隅でそう思いながら、しかしグニドはそちらへ目をやることができなかった。
ただ答えられずにうなだれていると、カルロスの席に座ったままのヒーゼルがラッティとグニドを見比べて、興味深げに口を開く。
「おい。お前ら、何の話をしてるんだ? ルルをどうするって? 当然、連合国にはあの子も連れてくんだろ?」
「この国へ来る前は、アタシもそう思ってたんですけどね。ちょっと事情が変わったんですよ。見てのとおり、ルルはアタシらの予想よりも遥かに早く人間の社会に馴染んだ。それはヒーゼルさん、アンタのお子さんがルルの友だちになってくれたおかげサ。ルルはエリクのことが大好きみたいでね。砦が焼ける前にエリクからもらったオモチャを、今も大事に傍に置いてる」
ラッティが少し離れたところから回り込むような言い回しでそう告げれば、ヒーゼルは夏の空に似た色の瞳を瞬かせた。
しかしそれで、彼もおおよそのことは察したようだ。「なるほど」と呟きつつ息を吐くと、珍しく考え込んだ様子で皮張りの椅子へ沈み込む。
「……まさかお前らがそんなことを考えてたとはな。俺はてっきり、あの子もお前らも納得した上で一緒にいるもんだと思ってたよ。違うのか?」
「アタシは納得してますよ。グニドはルルの育ての親で、だから二人が一緒にいるのはごく自然なことだってね。でも、仲間の中にはそうじゃないかもって思ってるやつもいる。ルルの本当の幸せは、人間の世界にあるんじゃないかって」
「……ルルハ、ニンゲンデ、オレタチハ、獣人ダカラカ?」
今後もルルと共に生きることを、疑問視している仲間とは誰なのか。いや、問題はそこではなかった。いま考えなければいけないのは、ルルとグニドたちとの間にはいつだって〝種族〟という名の暗くて深い溝が横たわっていることだ。
ついにこの問題と向き合わなければならないときがきたか。グニドは力なく首を垂れながらそう思った。
否、本当は分かっていたのだ。分かっていながら目を背けてきた。考える時間はまだいくらでもある。ならば結論を急ぐ必要はない。今は他に考えなければならないことがたくさんあるのだから──と、都合のいい言い訳をして。
「……アタシはね、グニド。正直どっちが正解なのか、考えても分からない。だってどっちも正しいように思えるんだ。ルルはアンタを親だと思ってて、アンタと一緒にいることに幸せを感じてる。だけど世の中ってのは、そう簡単にはいかなくて……問題は、アンタとルルが一緒に暮らすことを許してくれる人間が、世界にどの程度いるのかってことサ」
「……」
「アンタは、初めて触れ合った人間がここにいるヒーゼルさんみたいな人たちだから、まだ分からないかもしれないね。普通、人間ってのは同族以外のものをひどく嫌悪するイキモノで、この人たちみたいにすんなり受け入れてくれたりはしない。もしかしたら今後立ち寄る土地では、竜人や半獣人のアタシらと一緒にいるルルを、悪魔の子だとか何とか言って迫害する人間と出会うかも。そんな目に遭わせるくらいなら、最初から人間の世界に帰してやった方がいいんじゃないかって……そう、思うこともあるよ」
「……」
「もちろん、これから向かうアビエス連合国は話が別。あの国でなら、確かにアンタもルルも幸せに暮らせるかもしれない。アンタたちがそうしたいってんなら、アタシはそれを祝福するよ。今回の一件で、連合国のお偉いサンにもコネができたことだしね。ただ……」
「ただ?」
と、続きを促したのはグニドではなくヒーゼルだった。彼はいきなりこんな話に巻き込まれて、興味本位で首を突っ込んでいる──というわけではなさそうだ。先刻、紙の束を相手にしていたときは顔も態度もだらけきっていたのに、今の彼の横顔は真剣で引き締まっている。たぶん、彼もまた子を持つ親だから……なのだろう。
「……ただ、アタシはその前にひとつ、グニドに確認しなきゃならないことがあるんです」
「このままはぐれ竜人として、本当に人間の社会で生きていく覚悟があるのか、とか?」
「いいえ。一度そうと決めたら、グニドがもう迷わないだろうことは知ってます。こいつは途中で気が変わって、無責任に何かを放り出したりするようなヤツじゃない。だから、そこに関しては特に心配してません。だけど──それなら、ルルはどうなんだろうって」
「というと?」
「グニド。アンタが砂漠でルルを拾ったときのこと、もう一度詳しく話してくれないかな」
「……」
「いや、もう単刀直入に訊くよ。アンタ──ルルの本当の親を喰ったのか?」
建物の外で、風が唸る音がした。子供たちの声はいつの間にか遠ざかっている。
カンテラの透明な火屋の中、油に浸された灯芯がジリジリと燃えていた。その微かな悲鳴が心を乱す。
グニドは目を閉じ、やがて言った。
「……喰ッタ。ト、思ウ。少ナクトモ、ルルト一緒ニ、イタニンゲンハ、皆、喰ッタ」
「グニド」
「オレ、今ナラバ、ワカル。ソレハ、ヒーゼル、オマエヲ喰ッテ、エリクヲ育テルノト、オナジコトダ」
口を開きかけたヒーゼルが、言葉を失ったのが分かった。彼は何か言いたげに、されど何もかける言葉が見つからないといった様子で、曖昧な呼気を吐いている。
「エリクハ、オレヲ、恨ムダロウ。エリクハ、オマエノコト、トテモ好キダ。ダカラキット、オレヲ恨ム。ルルガ違ウノハ、知ラナイカラダ。自分ノ、本当ノ親ノコト。オレタチガ、ニンゲン、喰ラウコト……」
グニドは観念した。そうだ。ルルは知らない。竜人という種族の本当の姿。自分にもヒーゼルやマルティナのような〝両親〟がいたのだということ。あの日グニドと出会わなければ、今頃は人間の世界で何不自由なく幸せに暮らしていたであろうこと。そのすべてを、ルルは知らない。
それはただ単に、彼女の無知が理由ではなかった。敢えて真実を話さず、都合の悪いことはすべて隠して、純真無垢な存在に育て上げたやつがいたのだ。
そう、他でもない自分がそうした。
初めは教える必要がないと思っていた。十年前、砂漠で拾ったルルを巣へ連れ帰ったとき、グニドにとって彼女はただの非常食でしかなかった。
小さすぎて満足に喰えるところがなかったから、大きくなるまで飼っておこう。そう思って、余計なことは何一つ教えずに育てた。下手に知識を与えれば、竜人に敵意を抱いて暴れたり、怯えたり、脱走を企てたりするおそれがあったから。
そうして十年の歳月が過ぎ、今に至る。グニドは気づくのが遅すぎた。その過程でルルがいつの間にか、かけがえのない存在になっていたことを。
だから言い出せなかった。十年も何食わぬ顔で共に過ごしておいて、今更『お前がここにいるのは、おれがお前の親を喰ったからだ』なんて。
そんなことを告げれば、ルルは果たしてどうしただろう。結局、自分の境遇を正しく理解するのは難しかっただろうか。はたまたグニドの十年の嘘に怒り、絶望し、憎悪の炎を燃やしただろうか。
答えを知ろうと思ったら、今からでも遅くはない。いや、むしろ、ルルが多少なりとも人間という種族や、彼らが形成する〝家族〟という名の小さな群について理解した今の方が、より正確な答えを知れる可能性がある。
そう思うのに、グニドはやはり言い出せない。恐ろしいのだ。
真実を知られてルルに憎まれるのが。その結果、彼女を失うことが。
だがラッティの言いたいことも分かる。いつまでも真実を隠したままにはしておけない。グニドがどんなに知られることを拒んでも、共に人間の世界を旅する以上、ルルはいずれ自分の特殊な生い立ちに気がついてしまうだろう。
ならば今のうちに別れておくべきか。はたまた恐怖を克服し、真実を打ち明けて自分の意思を伝えるべきか。結果、それでもルルが共に生きたいと言ってくれたなら、グニドは彼女の想いに応える用意がある。死ぬまで彼女の傍にいて、この世のあらゆる危険から守ってやりたいと思っている。
けれど脳裏に響くのは、砦が燃え落ちた夜、カルロスの姿を借りて嗤った神の言葉。
『あの娘──万霊刻の器は私がもらい受ける。もう運ばなくて良いぞ、まざりもの』
分からない。共に生きる道を選んだところで、自分は本当にルルを守り切れるのだろうか? 必ず守ると、心ではそう思っていても、想いだけではどうにもならないことが世の中にはたくさんある。
たとえばこうしている今も、マナが不気味な呪いに命を蝕まれているように……そしてカルロスが死してなお神子としての運命から逃れられずにいるように、決して救えないものや変えられないものが、世界には確かにある。
そんなことを考え始めると、グニドはもうどうすればいいのか、まったく見当がつかなかった。まるでたったひとり、知らない入り口から大地の肚へ迷い込んでしまったみたいだ。右へ行っても左へ行っても、待っているのは行き止まり。ゆえにグニドは踏み出せない。できるのは先の見えない暗闇の中で、途方に暮れて立ち尽くすことだけ……。
「少し、離れてみてもいいかもな」
されど刹那、視界を遮る闇の片隅に、ポッと小さな灯がともった。
「お前の考えてることは、何となく分かるよ。要するに怖いんだろ? このままルルに本当のことを話さずにいるのも、打ち明けるのも」
悟りきった口調でそう尋ねてきたのはヒーゼルだ。ルルを置いていくか否かという話題に、彼はもっと難しい顔をするかと思ったら、存外澄ました様子でこちらを見ている。グニドを責めるでもなく、なじるでもなく。まるで決まりきった当たり前のことを話すみたいに、ヒーゼルは言う。
「どんなに上手く真実を隠し続けても、いずれはルルに知られてしまうかもしれない。かと言って何もかも打ち明ければ、ルルに恨まれて最悪の別れを迎えるかもしれない。どっちに転んでも、待ってるのは望まぬ未来だ。だからどちらも選べない──なら、必要なのは発想の転換だな」
「……ドウイウコトダ?」
「どっちも怖くて選べないなら、比較対象をもっと別の怖いものに変えてみりゃいいんだよ。グニド、お前は本音を言えば、これからもルルと一緒にいたいんだよな?」
「ソウダ」
「んじゃ、仮にルルも真実を知った上で、お前と一緒に生きることを選んでくれたものとする。だけどさっきラッティが言ってたとおり、世の中の獣人に対する風当たりってのは、たぶんお前の想像以上に過酷だ。お前とルルがどんなに一緒にいたいと願っても、周りがそれを許さない。人間どもはあらゆる手を駆使して、ルルをお前から取り上げようとする。そんなことがいつまでも続いたんじゃ、お前はもちろんルルだって参っちまうだろう。そうなったとき、果たしてお前と一緒に生きることが、ルルの本当の幸せだと言えるか?」
「ソレハ……」
「真実を打ち明けてルルに恨まれることと、共に生きることで彼女を不幸にしてしまうこと。お前が比べるべき恐怖はそっちだ、グニド。そして選べ。自分はどっちの恐怖なら耐えられるかをな」
……どっちの恐怖なら耐えられる?
分かりそうで分からないヒーゼルの言い分に、グニドは眉をひそめた。するとヒーゼルは目を上げて、ニヤッと意味深に笑ってみせる。
「ちなみに俺は後者を取ったよ」
「ジャ?」
「マルティナに求婚すべきか否か、迷ってた頃の話さ。なんたって相手は由緒正しきビルト紅爵家のお嬢様。対する俺は父親の顔も出自も分からない、ド田舎からきた不逞の輩だからな。俺たちが一緒になれば、当然周りからは非難囂々、マルティナの名誉も踏みにじられて、彼女を不幸にしてしまうことは火を見るよりも明らかだった。かと言って放っておけば、マルティナはイケ好かない長髪野郎のところに嫁いじまう状況だったわけで」
「アタシの基準で言わせてもらえば、ヒーゼルさんの今の髪型も、男性としては〝長髪〟の部類に入ると思うけど?」
「そこ、それを言われるとぐうの音も出ないから黙ってなさい」
言いながら、ヒーゼルはうなじのあたりで結われた、短い尻尾みたいな鬣をピンと弾いた。確かにあれは、オスの人間にしては鬣が長い方だと思う。アフェクト侯領からラッティを救出する際に遭遇した、あのフィデルというオスほどではないけれど。
「とにかくそういう事情があって、結婚前は俺も結構悩んだわけ。マルティナを不幸にしてまで自分の願望を通すのは、果たして本当に愛なのかってな。で、取った手段が〝マルティナに会わない作戦〟」
「会ワナイ作戦……?」
「そうとも。しばらくマルティナと距離を置いて、自分を試してみたんだよ。俺はこのままマルティナを諦めて生きていけるのか、彼女を忘れれば次の相手を見つけられるのか、自分にとって彼女の存在はその程度のものなのかってな。結果──」
俺は耐えられなかった、とヒーゼルは言った。彼はマルティナのいない人生なんて考えられなかった。だからフィデルのもとから彼女を攫った。それが彼女を不幸にする選択だと分かっていても、二人で決めたことなら乗り越えられる。そして不幸が彼女を襲うなら、同じ数だけ自分が幸福を与えればいいのだと、そう信じて。
「あのときそうして決めたことを、俺は今でも後悔してない。マルティナには時々つらい想いをさせちまうけど、彼女も俺と一緒にいられるのなら、これくらいなんてことないと言ってくれる。俺がマルティナの前から消えたときのつらさに比べたら、口さがない貴族どもの非難や噂なんて取るに足らないってな。ま、俺は彼女のそういうとこに惚れたわけだが……」
「……マルティナモ、オマエト一緒ニ、イタカッタ。ダカラ、ツライコト、アッテモ、ツガイニナッタ、トイウコトカ?」
「ああ、要はそういうことだ。同じように悩んでて、もしもやってみる価値があると思うなら、お前も試してみるといい。次の行き先が連合国だっていうんなら、いい機会かもしれないぜ? まずはお前が一人で行って確かめてくるんだよ。連合国は本当に人間と獣人が共に暮らせる国なのか、竜人も受け入れてもらえるのか、仮にルルを手放したとして、そのあと自分はどうなるのか……」
「なるほどね。で、どうしてもルルがいなきゃダメだと思ったら、自然と真実を打ち明けて、ルルと向き合う勇気が湧いてくるはずだ、と」
「ご名答。ついでに言えばルルにとっても、お前と離れて暮らすってのがどういうことか考えるきっかけになる。あの年頃の子にはちょっと酷な話かもしれないが、いずれ真実を伝えるとしたら必要なことだろう。お前がもしこの方法を試すってんなら、彼女のことはしばらくうちで面倒を見てやるよ。マルティナもルルをかわいがってるし、エリクも弟みたいになついてるしな」
「ヒーゼル……」
まさかヒーゼルの口からそんな言葉が出てくるとは思わず、グニドはつい彼に見入ってしまった。するとヒーゼルはまた悪戯っぽく笑って、手にしたハネペンをくるくる回す。
「ま、その結果うちの息子がルルを取っちまったとしても、そこはご愛嬌ってことで。もしそうなったら、息子にはちゃんと〝娘さんを僕に下さい〟って頭を下げさせるからさ」
「ヒーゼルさん、さすがにそれは飛躍しすぎ」
「何だよ、先に思わせぶりなことを言い出したのはそっちだろ?」
ヒーゼルが戯けてそう言えば、ラッティも可笑しそうに笑った。エリクがルルを取るというのがどういう意味なのか、グニドには分かりかねたものの、そこは一旦脇に置いて、爪の先で顎を掻く。
「ソウカ。ルルヲ、列侯国ニ置イテイク、カ……」
見極められるかもしれない、と思った。ヒーゼルがそうしたように、自分もルルとしばらく距離を置けば、己の心も、ルルの心も──何よりあの晩のツェデクの言葉の意味も、はっきりと形をなして目の前に現れるかもしれない。
マナはツェデクの剣がグニドを斬らなかった理由を、ルルを生かすためだと言った。ルルの存在は神々にとって何か重要な意味を持ち、だからこそツェデクはグニドを生かすことで、ルルを守らせようとしたのだと。
ならば自分がルルのもとを離れたら、神々は何を思い、何をしかけてくるのだろう? その結果如何によっては、やつらの狙いを炙り出せるかもしれない。
幸いなことに自分には、ヒーゼルという協力者がいる。一時的にルルを置いていくとしても、彼のところなら安心だ。何せルルもマルティナやエリクにはよくなついているし、ヒーゼルなら何があってもあの子を守ってくれる。今を逃せばこんな機会は、今後二度と訪れないかもしれない。
「ヒーゼル。ルルノコト、本当ニ、預ケテ良イカ? 迷惑、ナラナイカ?」
「まあ、うちも今回のゴタゴタが落ち着いたら、そろそろ二人目がほしいと話してたとこだ。マルティナも次に産むなら娘がいいと言ってたし、事情を話せば、喜んで引き受けてくれるだろう」
「ソウカ……助カル。ナラバ、オレハ──」
少し考える時間をくれ、と言おうと思った。このことはひと晩かふた晩くらい、じっくり考えて結論を出したい。仮にヒーゼルの案を採用するとしても、それをルルにどう伝えるか、彼女を納得させられるかという問題もある。だから数日の猶予が欲しかった。ルルと自分にとって最善の判断を下したかった。しかし、
「──ルルちゃん? ルルちゃん、どこ行っちゃったの?」
「……え?」
刹那、グニドたちは一様に、扉の向こうから響く呼び声を聞いた。しきりにルルを呼ぶ声の主は、たぶんポリーだ。彼女の声は聖堂の暗い廊下に反響し、あちこち跳ね返りながら、グニドたちのいる部屋へと滑り込んでくる。
ずいぶんよく聞こえるなと思ったら、振り向いた先で、扉が少し開いていることに気がついた。グニドの位置からは目を凝らさなければ分からないほどのわずかな隙間。そこからポリーの声がはっきりと聞こえる。
「あっ、ルルちゃん! いつの間にそんなところに──」
木でできた両開きの扉が、小さく軋みを上げて開いた。
風の悪戯か、はたまた彼女がそうしたのか。
開いた扉の向こうには、青い顔で立ち尽くしたルルがいる。
「ルル……!?」
ラッティの腰が椅子から浮き上がり、ヒーゼルも目を丸くした。
対するルルは、震えている。秋の終わりにポリーが作ってくれた、薄紅色の外套をぎゅううと、力いっぱい握り締めながら。
「ちょ……る、ルル、アンタ一体いつからそこに──」
『……なんで……?』
慌てたラッティの問いを遮り、ルルの唇から零れ落ちたのは、人語ではなく竜人たちの言葉だった。
『なんで、ルルをおいていくの……? グニドは、ひとりでいっちゃうの?』
『ルル』
ポリーの足音が近づいてくる。しかし彼女が暗闇から現れるより、ルルの太陽みたいな瞳がみるみる涙で滲む方が、ずっと早かった。
『ねえ……グニドはもう、ルルのこと、いらないの? だからおいていくの? ルルは、エリクのうちの子になるの?』
『ルル、待て。お前、何か勘違いを……』
『かんちがいじゃないもん。だって、聞こえたもん……ルルをおいていくって、聞こえたもん……! ねえ、ルルはグニドといっしょにいちゃダメなの? ルルはいっしょにいけないの?』
『ルル』
『グニドは、もう、ルルのこと──』
上擦った声で言いながら、ルルは小さな顔をくしゃくしゃにした。寒さで赤くなった鼻や頬が、悲しみでさらに紅潮していく。
かと思えば突然身を翻し、ルルは弾かれたように駆け出した。途中、追いかけてきていたポリーとぶつかったのか、喫驚した彼女の悲鳴が聞こえる。
『おい、待て、ルル!』
まずいことになった。今の口振りからして、ルルはグニドたちの話を立ち聞きしていたようだ。しかも初めから聞いていたのではなく、よりにもよってルルを置いていくか否かの話をしていたところから。
おかげでとんでもない誤解が生じてしまった。ルルは自分がわけもなくグニドに捨てられると、そう思い込んだらしい。
そうじゃないんだ、と言おうとして、部屋を飛び出したが遅かった。扉の先にルルの姿は既になく、ただ困惑した様子のポリーだけが立ち尽くしている。
『ルル!』
明かりのない廊下に向かって、グニドは叫んだ。
されど返る言葉はなく、ルルの小さな足音は、暗闇の先へ吸い込まれてゆくばかり。