第六十一話 勝杯を掲げよ
グニドはあんぐり口を開けて、太陽を遮るそれを見ていた。
腕の中ではグニドに抱き上げられたルルが、まったく同じ顔で空を見ている。
サン・カリニョの城壁の中にある、だだっ広い草原。そこに集まった誰もが天を仰ぎ、騒然としていた。ヒュンヒュンと連続して聞こえる風切り音は、あの巨大な盥からまっすぐ伸びた柱の上の、回転板の音だろうか。
一瞬も止まることなく回り続ける長い板は、たった今ルルが握り締めている竹蜻蛉なる玩具によく似ていた。グニドたちの頭上に浮かぶ盥の群は、みな何本ものククルを生やしている。
それがゆっくりと、グニドたちのいる平原目指して降りてくるのだ。風切り音が次第に大きくなり、あたりに風が巻き起こった。盥の上のククルが巻き起こす旋風がグニドたちの鬣を煽る。
やがてズシンと重々しい音を立て、盥の底が地面に着いた。そうして次々と着陸する盥の周りを、エクター率いる『誇り高き鈴の騎士団』が翼獣を駆って飛び回っている。
「アビエス連合国第一空艇団、到着、到着ー!」
平原を覆うどよめきがますます大きくなった。からりと晴れた空の彼方から現れた謎の一団が今、グニドたちの眼前に集結している。
巨大なククルの回転が少しずつ減速し、風も治まっていくのを感じた。木製の盥の上では、青っぽくカッチリとした衣服に身を包んだ人間たちがテキパキと働いている。あちこちで鉦が打たれ、ククルの柱にかかっていた白い布が巻き上げられた。事ここに至っても、グニドには何が起きているのかさっぱり分からない。
「……ラッティ。アレハ、一体、ナンダ?」
「あー、そういやグニド、飛空船を見るのは初めてだっけ? あれは連合国第一空艇団──早い話が空飛ぶ軍隊だ。世界で唯一アビエス連合国だけが保有する、人智を超えた魔法の船サ」
茫然としているグニドを余所に、隣のラッティがニカッと笑った。同じく落ち着き払ったヴォルクの頭の上では、何故か大興奮のヨヘンがピョンピョンと飛び跳ねている。
「ヒャッホウ! 連合国最強の軍隊がお出ましだ! もうエレツエル神領国なんて怖くない! この戦、オイラたちの勝ちだぁ!」
……やっぱりよく分からないが、どうやらあの空飛ぶ盥に乗っている人間たちは皆、アビエス連合国の戦士であるらしかった。
連合国から使者としてやってきた白猫──否、猫人のエクターからは事前に、連合国軍の精鋭五千を援軍として連れてきた、と聞いている。
さらに数日遅れて、もう五千の軍隊がやってくるとかこないとか。何やらとんでもないことになってきた。ここにきてようやく、グニドは事態の由々しさを理解した。ビリビリと鬣が逆立って、いやに舌が乾き始める。
「──アビエス連合国が我々と同盟?」
トゥルエノ義勇軍が初めてその報に接したのは、今から二日前のこと。マナの見舞いに行った帰り道、ひょんなことから猫人のエクターらと邂逅したグニドは、求められるがまま彼らをカルロスと引き合わせた。
何でも猫人たちの国──カリタス騎士王国はアビエス連合国と呼ばれる国々の一つであり、中でもエクターはかなり偉い戦士らしい。だから今回、彼はアビエス連合国の長に見込まれて、義勇軍との同盟の使者としてやってきた。
アビエス連合国の長の名は、ユニウス・アマデウス・レガリアという。彼はカルロスと同じ神子で、今は二十八もの国を従えていると聞いた。
規模はまったく違うものの、立場的には死の谷で七つの部族を一つに束ねていたドラウグ族の長老に近い。ユニウスは同じ神子としてカルロスの苦境に理解を示し、彼を手助けするための軍隊を送って寄越した。潤沢な食糧や武具と一緒に。
侯王軍がエレツエル神領国と手を組んだように、これで義勇軍にもアビエス連合国という後ろ楯がついたわけだ。
ラッティの話によれば、アビエス連合国は世界で唯一エレツエル神領国とも互角に渡り合える大国で、それゆえ両国は一触即発の関係にあるらしかった。
何しろ世界征服を目論むエレツエル神領国にとって、アビエス連合国は目の上のたんこぶのようなもの。連合国は力と恐怖で他者を捩じ伏せようとする神領国のやり方に反発し、度々彼らの戦争を邪魔してきた。
おかげで神領国は連合国を目の敵にしている。神領国の長もまた神子であるはずなのに、彼はユニウスとの話し合いを拒み、連合国は滅ぼすべき存在だと声高に叫んだ。ユニウスはそんな神領国と侯王軍が結託したことを憂慮して、今回、義勇軍を支援する決定を下したのだという。
「ユニウス様は博愛の神エハヴの神子だ。何でも力で押さえつけりゃいいと思ってる神領国の神子エシュアとは違って、対話と平等による平和の実現を目指してる。つまり差別も迫害も隷属も許さない、神領国とは真逆の世界を創ろうとしてるってワケだ。あのお方はほんとすげーんだって! そのためにたった一人で革命を起こして、父親が治めるシャマイム天帝国をひっくり返しちまったんだからな!」
とヨヘンが何やら熱弁を振るっていたし、エクターも全幅の信頼を預けているようだったから、きっとユニウスというのはそれだけ人望の厚い神子なのだろう。少なくとも裏切りの使者を送り込んできたテンプランサ侯領の侯主ゴード・グラーサのような、卑劣で欲深な人間ではなさそうだ。
「いやぁ、しかし、噂には聞いてたものの……マジで飛ぶんですねえ、連合国の船って」
と、ようやくすべての空飛ぶ盥──ラッティ曰く『飛空船』という乗り物らしい──が地面に腹這いになった頃、カルロスと共に見物に来ていたヒーゼルが、驚いたような呆れたような感心したような、複雑極まりない表情で呟いた。対するカルロスは茜色の瞳を細めるばかりで、あまり驚いているようには見えない。一度死んで甦ると、大抵のことには動じなくなるのだろうか?
「あ……あれって一体、どうやって飛んでいるんですか? 空飛ぶ船なんて所詮、名前を売りたい冒険家たちの、デタラメの産物だと思ってたんですけど……」
「そういうデタラメを何でも実現してしまうのが、アビエス連合国という国でおじゃる。あの飛空船というのも、連合国に数多ある面妖なからくりの一つでの。かの国のからくりはすべて『希石』と呼ばれる特殊な水晶によって動いておる。ほれ、そもじらが『魔石』とか『魔導石』とか呼んでるアレのことじゃ」
「ま、魔石が動力源……!? ということは船を飛ばしているのは、魔界の魔術ということですか……!?」
「いんや。希石を使った妖術は『希術』といっての。魔人が魔族と契って手に入れる魔術とはまったくの別物でおじゃる。ただ神の恩寵に頼らぬ力だからと、神領国が勝手に魔術扱いしておるだけで、魔界とは何のつながりもにゃー。マナが使う術も大半が希術じゃき、あやつが魔族と契っているように見えるきゃえ?」
後ろでロクサーナとトビアスがそんな会話をしているのが聞こえて、グニドはつい聞き耳を立てた。マナが使う魔女の力──アレは正確には『希術』というのか。確かにマナは、虚弱体質であることを除けば万能の力を使える。あの力があれば盥が空を飛ぶのも納得というものだ。
どよめきが満ちる野に、飛空船を先導してきたエクターたちが降り立った。彼らは船の上の人間と何事か言葉を交わし、促すようにこちらを示す。
すると二人の人影が、大地に向かって垂らされた縄梯子を下りてきた。一人は長身のオスの人間で、もう一人は白い服を着たメスの人間。
色が違うことを除けば、どちらも波打つような長い鬣を持っていた。オスの方は真っ黒なそれをうなじのあたりでひとつに束ねているものの、メスの方は風に吹かれるがままにしている。砂金をまぶしたようなメスの鬣は同じ金でも、マナの鬣より色が濃かった。切って売ったら、砂王国人あたりは喜んで買いそうだ。
「カルロスどの、紹介しよう。こちらがこの度、列侯国派遣軍の責任者に任命されたヴェン・リベルタス提督と、希術顧問のマドレーン・マギステル教授だ。お二人はユニウスさまと共にアビエス連合国の建国に携わった英雄でね。どちらも大変頼りになる人物だと言っておこう」
「カルロス・トゥルエノだ。遠路遥々のご助勢に感謝する。ようこそ、ルエダ・デラ・ラソ列侯国へ」
「こりゃ、ご丁寧にどうも」
カルロスの挨拶に答えたのはオスの人間の方だった。何やら物々しい紹介を受けていたものの、頭には白い羽根のついたへんてこな帽子を被り、胸元も大きくくつろげていて、あまり偉そうな身なりには見えない。
けれども一応連合国側の代表ではあるようで、にやっと笑いながら差し出されたカルロスの手を取った。しなやかで無駄のない筋肉に覆われたカルロスの腕とは違い、ヴェン・リベルタスというらしい男の腕は逞しい。というか毛が濃くて、そのせいでより太く見える。
よくよく見れば胸元にも黒い毛が生えているし、口の周りも髭だらけだ。ルエダ人は体毛が薄く、髭を生やしている者も少ないから、そちらに慣れたグニドにはヴェンがやたらと毛むくじゃらに見えた。
「アンタが噂の神子さんですかい。ウチの大将から、アンタにはくれぐれもよろしくと言付かってるよ……ヒック」
「……おい、なんか酒臭いんだが。ていうかこいつ酔ってますよ、カルロス殿!」
「ヒーゼル、控えろ。客人の前だぞ」
「いやいや、だっておかしいでしょ!? こんな大事な席に酒飲んで現れるとか、さすがの俺でも自重しますよ!? しかも妙に狎々しいし!」
「いやあ、悪ィ悪ィ。さすがの俺も今回は真面目にやるつもりだったんだけどよ。気づいたら酔っ払ってたっつーか、飲まねえと手が震えて舵が握れなかったっつーか? まあ、そんなわけなんでひとつよろしく頼むわ、ルエダ人の諸君」
「エクター、このオッサンほんとに信用できるんだろうな!?」
「も、もちろんだとも! ヴェンどのはどうしようもない飲んだくれで博奕好きでお世辞にも品行方正とは言い難いが、戦の腕だけは確かだ! たぶん……!」
「……なんか猛烈に不安になってきたぞ、オレは」
と後ろでぼやいたのはアントニオだろうか。平原に集まった群衆はみな同じ不安を抱いたようで、ヒソヒソと何事か囁き合っていた。正直グニドも、人間同士の礼儀や作法というものはよく知らないものの、ヴェンにはあまり近づきたくないなと思う。何せ彼と並ぶと、あのヒーゼルの方がまともに見えるのだ。
つまりヴェン・リベルタスは、ヒーゼル以上の変人であるということ。グニドにとってはそれだけで充分警戒に値する人物だった。もっともそんな理論を主張すればヒーゼルが憤慨するのは目に見えているから、敢えて口には出さないが。
「うふふ、ごめんなさいね、義勇軍の皆さん。ヴェンは生まれるときに理性とか常識とかいうものを、全部お母様のおなかの中に忘れてきちゃったみたいなの。だけどエクターの言うとおり、暴れるのだけは得意だから安心してちょうだい。それ以外はまったく使えないけど、お酒さえ与えておけば害はないから」
と、そこで擁護になっているのかいないのかよく分からない演説を披露したのは、マドレーンと呼ばれたメスの人間の方だった。何か塗っているらしい真っ赤な唇は先程から弧を描き、何やら一人だけ楽しそうだ。
マドレーンは隣のヴェンに比べれば、だいぶまともそうな人間に見えた。ヴェンと同じく衣服の胸元が開いているのは気になるが、あれはたぶん、メスの人間の特徴である胸の膨らみが大きすぎるせいだろう。
しかし肉づきがいいのは胸回りだけで、腰のあたりはかなりしゅっとしている。両脚はすらりと長く、網状の黒い脚衣をはいていた。だらしない印象のヴェンと並ぶと、実に対照的な二人組だ。けれどああいうチグハグな組み合わせの方が、案外相性が良かったりするのかもなと、グニドが納得しかけた直後だった。
「──ところで、ボウヤ。あなた、髪の色はキテレツだけどイイ男ね。実は私、ちょっと困ってるのよ。列侯国って思ってたよりも寒くって。こんなに気温差があるとは思わなかったから、厚手の上着は本国に置いてきちゃったし……ねえ、良かったら私のこと、温めて下さらない?」
マドレーンはやたらと科のある口調でそう言うと、ヒーゼルの顎に指をかけた。そうして獲物を狙う砂漠の大蛇のごとくぺろっと唇を舐めてみせれば、話を振られたヒーゼルがにわかに真剣な顔をする。
「なるほど、それは大変だ。大事な同盟国からの客人が、我が国に来て早々体調を崩されたとあっては一大事。私でよろしければいくらでもお相手に──」
「──話が長い。そもじは引っ込んどれ」
次の瞬間、マドレーンの手をしっかと握ったヒーゼルの尻を、ロクサーナが後ろから蹴り上げた。股の間に奇襲を受けたヒーゼルは崩れ落ちたが、そんな彼を堂々と足蹴にして、ふんぞり返った光の神子が言う。
「久しいの、ヴェン、マドレーン。第一空艇団が来ると聞いてもしやと思っとったけんじょ、やはり引率はそもじらであったか」
「あらぁ、ロクサーナじゃない! 久しぶりねえ!」
周りがまったく話についていけないでいるうちに、今度はロクサーナとマドレーンが盛り上がり始めた。どうやら彼女らは以前からの知り合いらしく、終始眠そうな顔をしていたヴェンも、わずかに目を見開いている。
「おいおい何だよ、ここにゃあ光の神子までいるのか。大将からは正義の神子の話しか聞かされてなかったんだがな」
「貴殿らはロクサーナと知り合いで?」
「ええ、彼女とはアビエス大戦以来の知己ですの。彼女も今から二十年前、天帝国を打倒するために共に戦った仲間ですわ。だけどまさかこんなところで再会するなんて。んもう、ロクサーナったらあの頃から全然変わらないんだから!」
「それはお互い様でおじゃろ。カルロス、マドレーンには重々気をつけんしゃい。こやつはこう見えて二百年以上生きとる不老の魔女じゃからの。今でこそエルビナ大学の希術学教授などという大層な肩書きに収まっとるけんじょ、かつては『狂魔女』とまで呼ばれた末恐ろしいおなごでおじゃる。ひとたび怒らせると神子でも手がつけられんぞえ」
「まあ、イヤだわ、ロクサーナったら。紳士の前で女の年齢を暴くだなんて!」
「こうでも言っておかんと、そもじの毒牙にかかる男子があとを絶たんからの。ちなみに今、わーの足の下にいる阿呆は妻子持ちでおじゃる。既婚者に色仕掛けするのも大概にしんしゃい──さもないとこやつの陰嚢を落とさねばならん事態になるからの」
「あら、そうなの? 残念ねえ、せっかく遊び甲斐のある玩具を見つけたと思ったのに」
「……」
何やら身の毛もよだつような会話を聞かされている気がして、グニドはルルの耳を塞いだ。右耳を覆われ、左耳も肩に押しつけられたルルは、不思議そうな顔できょとんとしている。
「……まあ、とにかく。我らトゥルエノ義勇軍は、貴殿らの支援に衷心からの感謝を申し述べると共に、連合国の同胞を歓迎致します。まずはゆるりと長旅の疲れを癒やしていただければと、ささやかながらもてなしの支度を……」
「へえ、そりゃ涙が出るほど有り難い申し出だがね。おたくら、余所者にたらふく食わせるほど物資に余裕があるんなら、そもそも連合国の支援なんていらねえわけだろ?」
と、そのとき場を仕切り直そうとしたカルロスの言葉を遮って、ヴェンが気怠そうにそう言った。
かと思えばごそごそと懐をあさり、そこから一本の棒きれを取り出す。帯状の茶色い紙を巻きつけた変な棒きれで、彼が火を近づけると、先端が赤く明滅した。次いでふーっとため息をつけば、ヴェンの吐息が真白い煙へ姿を変える。
あれは何だとグニドが目を瞬かせる間にも、ヴェンは再び棒きれを咥え、口の端だけで笑ってみせた。
「神子さん。アンタ、ウチの大将に似て懐が広いようだから、無礼講でいかせてもらうぜ。お互い親睦を深め合うのは、のんびり酒を汲み交わせる状況を作ってからにしましょうや」
「……と言うと?」
「今回、ウチの大将がいきなり空艇団を寄越したのにはワケがあるってことさ。敵さんはまだ、ウチとアンタらが組んだことを知らねえんだろ? だったら今、俺らがやるべきことは一つ──〝兵は神速を尊ぶ〟ってな」
×
結論だけ言うと、アビエス連合国軍の登場で、侯王軍は完全に意気阻喪した。
何しろ彼らの後ろ楯であるエレツエル神領国は、未だ海の向こう側。対して連合国軍の動きは素早かった。彼らは地上の障害をものともしない空飛ぶ船で、一気に領境を飛び越え、侯王のいる主都ウニコルニオへ肉薄したのである。
ヴェン・リベルタス率いる連合国第一空艇団は、列侯国入りを果たした翌々日には、ウニコルニオを完全包囲していた。侯王軍が義勇軍とアビエス連合国の同盟成立を嗅ぎつけ、防衛の準備を整えるよりも早く、敵の喉元に矛を突きつけたのだ。
当然、この包囲戦にはカルロスも同行し、侯王カルヴァンに降伏を迫った。兵力だけ見れば侯王軍は今も義勇軍を圧倒しているものの、どれだけ多くの兵がいようと、彼らは空飛ぶ敵に対抗する手段を持たなかった。
最初は城攻めのときに使われる投石機などを持ち出して、必死に飛空船を撃ち落とそうとしていたようだが、打ち上げられた岩弾はまったく飛空船に届かず。むしろ落下してきた岩が自陣を押し潰したりして、侯王軍はてんやわんやの大騒ぎだった。
かくして現在、義勇軍は侯王軍からの回答を待っている。今頃はカルヴァンが侯王派の諸侯を集め、非難の嵐の真っ只中で決断を迫られていることだろう。
何しろ連合国軍が列侯国への上陸を先に果たしてしまった以上、神領国の支援は望み薄。海を渡ろうとする神領国軍は連合国軍に道を阻まれ、列侯国の土を踏むことは叶わない。
連合国の長たるユニウスの狙いはそこにあった──エレツエル神領国の介入を事前に遮断し、戦わずして侯王軍を降らしめること。
彼はそのために、連合国軍内で最も機動力の高い空艇団を強行軍で寄越したわけだ。博愛の神子はこれ以上、内乱による犠牲者が増えることを望んでいなかった。ゆえに神領国の武力介入を許さず、内乱の早期終結に重きを置いた。
実際、ウニコルニオを包囲した連合国軍も、上空から侯王軍を威嚇しただけで攻撃の手は下していない。飛空船に搭載された脅威的な兵器の威力を見せつけ、侯王軍に勝算がないことを思い知らせただけだ。
未知なる敵と兵器を前に、震え上がる侯王軍へカルロスが突きつけた条件は三つ。一つはシャムシール砂王国との同盟を手切れにすること。もう一つはエレツエル神領国との同盟も解消すること。そして侯王カルヴァンが此度の騒乱の責任を取り、適正な処断を受けること。
カルヴァンは神子に刃向かう愚を犯しても守ろうとした王の座を手放したくはないだろうが、誰がどう見てもそんなことを言っていられる状況ではなくなった。日和見の果てにカルヴァンを担いでしまった諸侯は、もはや自分たちの保身しか見えなくなっていることだろう。
──かくて列侯国の革命は成る。
「いやー、しかし意外とアッサリしたもんだな、ことの幕引きってのは。ディアマンテ忠勇騎士団の裏切りに遭ったときはどうなることかと思ったのによ。これぞ運命の神が言うところの〝不幸は幸運を追いかけ、幸運は不幸を追いかける〟ってやつか。ま、やっぱり最後に勝つのは正義だよな!」
カルロスたちがウニコルニオから戻った翌日。サン・カリニョでは祝いの宴が開かれ、ずらりと卓が並んだ草原で、グニドらは酒や料理に舌鼓を打っていた。
表向きにはアビエス連合国との同盟成立を祝う宴ということになっているものの、集まった人間たちの間には早くも戦勝の空気が流れている。カルロスはあくまでささやかに済ませるつもりだったようだが、勝利を目前にした熱狂のうねりはもはや神子にも止められない。
何艘もの飛空船が碇泊する草原では、義勇軍の老若男女が飲んだり食べたり笑ったり踊ったり、とにかく賑やかに過ごしていた。ヴェンたちが飛空船の内部を自由に見てもいいと言うので、宴よりも船を目当てに集まってきた者もいる。
それらの船が風避けのように周りを囲んでいるおかげで、寒風吹きすさぶ夜だというのに、あまり寒さを感じなかった。会場のあちこちで篝火が焚かれているおかげもあるのだろう。
グニドはやたらと甘い人間の酒を舐めながら、ラッティら獣人隊商の面々と卓を囲んでいた。今夜は傍についていなくても大丈夫だからと、カルロスが仲間と過ごすことを勧めてくれたのだ。
隣ではグニドにぴったり寄り添ったルルが、果実の絞り汁と蜂蜜を混ぜた飲み物を嬉しそうに飲んでいる。ふとカルロスの姿を探せば、グニドたちのいる卓から少し離れたところでヴェンやマドレーン、エクターらと談笑しているのが見えた。
「まあ、さすがに連合国軍が出てきちゃね。田舎貴族どもが縮み上がるのも無理ないサ。それでなくとも列侯国は、群立諸国連合並みの軍事後進国だ。神領国の後ろ楯なしに連合国と戦り合うなんて、不可能なのはサルでも分かる」
と、卓の真ん中を占拠したヨヘンに答えたのは、もう何杯目ともしれない酒を飲み干したラッティだった。今夜、宴に供されている酒はヴェンたちが運んできた手土産だからか、ラッティは遠慮という概念をどこか遠くへ投げ捨てたかのように、代わる代わる色んな酒を飲んでいる。
元々大酒飲みではあったが、義勇軍の状況が苦しい間は、あれでも一応自制していたらしかった。今夜のラッティはとにかく上機嫌で、胃袋も底なしに見える。
もしかしたら彼女の口に注がれた酒は、体のどこかから常時流れ出ているのかもしれない。グニドはラッティが新しい酒瓶をもらってくる度に、彼女の尻尾の付け根やヘソのあたりをまじまじと観察した。
ヴォルクもちびちび飲んではいるものの、ラッティに注がれて仕方なく飲んでいるという感じで、実はあまり酒が好きではないのかもしれない。ポリーに至ってはどんなに勧められても酒は固辞して、ルルと同じものばかり飲んでいた。
「あとは侯王派の侯主たちがどこまでカルロスさんに従うか、問題があるとすればそこだろうな。義勇軍は列侯国の統一を謳ってきたわけだから、当然侯主制は廃止しようって流れになる。だけどそれをあのイサーク・アバリシアやゴード・グラーサが指を咥えて見てるかどうか……面従腹背はルエダ貴族のお家芸だし」
「チュチュチュ、だとしてもカルロスさんの後ろに連合国がいたんじゃ、連中も気軽に逆らえないだろ。ユニウス様はルエダ人に神領国と連合国の代理戦争をさせるほどバカじゃないぜ。そうさせないための手はバンバン打って下さるだろうし、革命後の特権階級の去なし方だって心得てる」
「そうよネ……現にユニウスさまはシャマイム天帝国で革命を成し遂げて、貴族制まで廃止しちゃったんですものネ。同じようにカルロスさんが王さまになってくだされば、列侯国は安泰だワ」
「ムウ……シカシ、連合国ハ、タクサンノ国、集マッタモノト聞イタ。ナラバ、列侯国モ、連合国ノ仲間ニナル。違ウカ?」
「それはないんじゃないかな。カルロスさんが連合国の一員になりたいと望むなら話は別だけど……連合国の目的はあくまで戦争のない世界の構築で、領土の拡大には興味ないみたいだから。実際、今回の協力の見返りも別にいらないって、ヴェン提督たちが言い切ったみたいだし……列侯国と連合国の友好的な国交を今後も約束してもらえれば、他には何もいらないってさ」
香辛料がまぶされた干し肉を裂きながら、答えたのはヴォルクだった。これだけの物資を無償で提供し、停戦の協力までしておいて、見返りに何も要求しないというのはグニドでさえもたまげる話だ。
列侯国に来てからというもの、グニドは人間という生き物が、誇りや信念よりも損得勘定を重視することを思い知った。
実際カルロスと敵対していた人間たちは誰もがそうで、だからこそグニドは正義のために戦う義勇軍をまぶしいと思ったし、助けたいと願った。
しかし世の中には、カルロスたちのような奇特な人間が他にもいるのだ。博愛の国アビエス連合国──その名を初めて聞いたときにはいまいち実感が湧かなかったが、今なら分かる。かつてラッティがかの国を「行けば世の中の見方が変わる」と評していた理由が。
「ムウ、ソウカ……アビエス連合国。オレ、連合国ヘ行ク、楽シミダ」
そこには一体どんな人間たちがいて、どんな暮らしを送っているのだろう。グニドは俄然興味が湧いた。ヴェンやマドレーンの第一印象はなんというかちょっとアレだったが、彼らだって来て早々義勇軍を助けてくれたし、きっと悪い人間ではない。今はもっと親しく話をしてみたい、とさえ思う。
「そういやずいぶん長々と寄り道しちまったけど、アタシらの目的地はアビエス連合国だったね。年が明ける頃には海を渡れてるといいな。けどそうなると、カルロスさんたちともいよいよお別れか……」
杯を片手に頬杖をついたラッティがぼんやり呟いたのを聞いて、グニドははたと我に返った。いや、現実を思い出したと言った方がいいかもしれない。
そうだ。状況が二転三転したおかげですっかり失念していたが、戦いが終わるということは、グニドたちがこの国に留まる理由がなくなるということ──
ならば自分も、そろそろ決断しなければならないのではなかろうか。たった今、隣でポリーに口を拭かれて、楽しそうにはしゃいでいるルルの未来について。
「──将軍!」
浮き足立っていた思考が音もなく漂白されていく。
そうして訪れた薄ら寒い静寂の中で、グニドは夜を引き裂く声を聞いた。
「カルロス将軍! 注進です……!」
人々の喝采や楽器の音色、その他諸々に押し潰されながら、誰かが必死に叫んでいる。人間より遥かに耳がいい獣人隊商の面々が、まず真っ先にそれに気づいた。皆で顔を見合わせ、声のした方を振り向くと、踊り狂う群衆の間をどうにかこうにか擦り抜けて馳せていく人影がある。
「何事だ」
異変を察知したらしいカルロスが立ち上がった。闇の向こうから息も絶え絶えになって駆けてきたのは、兵士の身なりをした若い人間だ。
「将軍、ウニコルニオのディストレーサ栄光騎士団から早馬です! 至急我らに援軍を乞うとのこと……! ラムルバハル砂漠で黄皇国軍と交戦中と思われていた砂王国軍が、にわかに国境へ姿を現し──我が国へ、攻め入って参りました……!」