第五十九話 箱庭の人形たち
目の前に置かれた二枚の紙に、ラッティがサラサラと鳥の羽を滑らせた。
〝サイン〟と呼ばれる行為を終えたラッティは、先端の白い狐耳をピンと立て、満足顔でその紙を向かいの席へと滑らせる。
そこで紙を受け取ったカルロスが、ラッティの書いた文字へ目を落としたのち、自らも同じ場所へ〝サイン〟した。
で、二人が書いた〝サイン〟を確認し、にっこり笑ったトビアスが〝教印〟なるものを並べた紙へ押しつければ、これにて〝再契約〟は完了だ。
「では確かに、光神真教会特命宣教師トビアスの名をもって、トゥルエノ義勇軍と獣人隊商の契約延長を承認します。獣人隊商の皆さんは契約に基づき、本日よりさらに二ヶ月間、サン・カリニョにて義勇軍の活動に協力して下さい。そして義勇軍からは、彼らに相応の対価を支払うこと。我が神オールの名の下に交わされた契約が、正しく履行されることを願います」
「ハイハーイ。というわけで、アタシら獣人隊商からはもうしばらくグニドとヴォルクを貸し出しますよ。当面の報酬はサン・カリニョに滞在する間の衣食住の保障で結構。お金の話は、侯王軍との戦いに決着がついてからにしましょ?」
「そうだな、そうしてくれると有り難い。砦は焼けてしまったが、寝床については兵舎の一角を割り当てよう。現在、ヒーゼルをやって空き部屋を確認させている。砦の客間と比べるとどうしても見劣りするだろうが、なるべく広い部屋を見繕うよう言ってあるので、どうかそれで容赦してくれ」
カルロスが苦笑と共にそう言えば、ラッティも「そりゃもちろん」と笑ってふくよかな尻尾を揺らした。無事に〝再契約〟が決まって、ヴォルクやヨヘン、ポリーも嬉しそうに顔を見合わせている。
サンダリオ率いるディアマンテ忠勇騎士団の裏切りから三日。テンプランサ侯領から送り込まれた敵軍を追い払い、平穏を取り戻したサン・カリニョでは、着々と拠点の復旧が始まっていた。
これまでグニドたちが寝泊まりしていた本砦や、物資を収めるための倉は焼けてしまったが、今回の被害はかつて魔物の大群に襲われたときほどひどくない。死傷者の数も、あのときに比べればいくらかマシだ。動ける者は既にあちこちで、新しい倉の建造や避難させていた物資の移送に従事している。
そうした復旧作業を手伝うべく、義勇軍と再契約を結んだグニドたちは現在、虹神聖堂の一室にいた。聖堂は魔物の襲撃を受けた際、半分以上破壊されてしまったものの、辛うじて難を逃れた部屋もいくつかある。
カルロスはそこを臨時の執務室としていた。近くにはロクサーナやトビアスが寝泊まりしている部屋もあって、同じようにカルロスもここに住むことにしたようだ。
一方グニドらはこの三日間、隊商の馬車で寝泊まりしていたのだが、また新しい部屋をもらえると知って少しだけホッとした。グニドは別に野宿でも構わないとは言え、幼いルルはそうもいかない。
現にサン・カリニョへ来てからというもの、枯れ草を布いた寝台で眠ることに慣れてしまったルルは、今も眠たそうにふわあとあくびを零していた。カルロスの傍らに佇むグニドの右手を、しっかりと掴んだまま。
「にしてもほんと、一時はどうなることかと思ったよなあ。まさかテンプランサ侯領との同盟がこっちを油断させるための罠で、砦まで焼けちまうとはさ。今回は何とか撃退できたから良かったものの、こんなことが何度も続くんじゃ、命がいくらあっても足りないぜ」
「確かにね。ウォン隊長がいなかったら、今頃アタシらもどうなってたことか……あの人、前々からおっかないとは思ってたけど、まさか一人で騎士団を追い払っちまうとはね。とんでもない強さだよ、アルハン傭兵旅団。まるで一国の正規軍だ」
「……」
あんなに強い傭兵団が未だ無名とはねえ、と感心しているラッティたちを余所に、グニドはカルロスへ目配せする。するとカルロスもグニドの視線に気がついて、ほんの微かに首を振った。
……やはりカルロスは、皆に真実を話す必要はないと考えているようだ。グニドは仲間が自分とまったく違う記憶を植えつけられていることに、居心地の悪さを禁じ得ない。が、カルロスがそう言うのなら、従わないわけにもいかないだろう。
ほどなくヒーゼルが執務室に現れて、新しい部屋の用意ができたと告げられた。ラッティたちは早速部屋を見に行くと言い、グニドも誘われたが、カルロスの手伝いがあるからあとで行く、と断っておく。
ルルのことはポリーに預け、仲間が出ていくのを見届けた。彼らの案内に立つヒーゼルもまたいつもどおりだ。三日前の晩、満身創痍で死にかけていたのが嘘みたいにピンピンしていて、マルティナやエリクも元気にしているらしい。
「では、私も失礼します」と彼らに続いて部屋を辞したトビアスだけは、真っ青な鬣に真っ青な瞳という、別人のような風貌だったが。
「……ふむ。やはり皆、記憶が戻る徴候もない、か。どうやらあの晩の出来事を正確に覚えているのは我々だけのようだな、グニドナトス」
と、やがて皆の笑い声が遠ざかった頃、粗末な椅子に腰かけたカルロスが感慨深げに口を開いた。彼がそうして喋り、息をしていることが今でも信じられなくて、グニドはついまじまじとカルロスを観察してしまう。
あれから三日も経ったというのに、グニドの脳裏には未だ、自らの胸に剣を突き立てたカルロスの姿が焼きついているのだった。するとそんなグニドの心中を知ってか知らずか、カルロスが小首を傾げ、不敵とも取れる笑みを刻む。
「何だ? 私が実はツェデクなのではないかと疑っているのか?」
「ムウ……ソレモ、アル。オマエ、生キテイルコト、トテモ不思議」
「そうだろうとも。私とて不思議でたまらないのだからな」
机の上で手を組みながら、そう言ってカルロスは笑った。何もかも自分の身に起きたことだというのに、まるで他人事のように話す男だ。
三日前の晩、ツェデクを止めるために自害したはずのカルロスは生きていた。いや、正確には一度死んだのだが、マナが魔導石を使って引き起こした奇跡によって生き返ったのだ。
無論、助かったのはカルロスだけではない。あのとき死にかけていたヒーゼルも気づいたときには全快し、ルルも息を吹き返した。ツェデクによって斬り落とされたはずのグニドの右腕も、このとおり元に戻っている。
〝アビエス連合国の魔女〟。
マナをそう呼んだウォンの話によれば、あれは巻き戻しの力らしかった。死者をも甦らせる秘術というよりは、グニドたちの体の時間を巻き戻し、傷を負う前の状態に戻したということらしい。
「カルロス殿まで助かったのは偶然だ。命を落として間もなかったから魂を呼び戻せただけで、何日も前に死んだ人間を甦らせるような力はさすがのマナにもない。死にたてだからと言って、誰でも救えるわけではないしな。カルロス殿には神の御霊が宿っている。助かったのは、恐らくそのためだろう」
──つまり神が、私を生かしたということか。
ウォンからすべての事情を聞いたあと、カルロスはぽつりとそう零していた。
彼の右腕には未だ、ツェデクの神子の証である《蛇巻きの剣》が焼きついている。まるで罪人に押される烙印のように。
──神々にとって私はまだ、利用価値があるということだな。
カルロスはそう呟いて、自嘲していた。
神子としての運命からは、死してなお逃れられないのかと。
「まあ、ともあれ事態を丸く収めてくれたマナとウォンには感謝しなければなるまい。二人のおかげで、私が一度ツェデクに乗っ取られたことを皆は忘れてくれている。どうやらマナは、あの場にいた全員の〝記憶〟も巻き戻したようだ。皆にまったくのデタラメを信じさせたウォンの力も気にはなるがな」
「ウム。オレモ、ソレハ、気ニナッテイル。ウォンハ、普通ノ、ニンゲント違ウ。ヴォルクタチモ、前カラ気ヅイテイル。アイツモ〝魔女〟カ?」
「いや、〝魔女〟という呼び方は語弊があるが……とにかく彼もまたマナと同じ、人ならざる力を持っていることは確かだ。あれが魔術の類であるのか、はたまた何らかの神刻の力であるのかは私にも分からん。先程見舞いついでにマナに尋ねてみたところ、〝詮索するな〟ときっぱり拒絶されてしまったしな」
「ム?」
と、ときにグニドは聞き捨てならない言葉を聞いた気がして首を傾げた。そうしながら頭の中で、今のカルロスの話を順に竜語へ訳していく。
「……待テ。オマエ、マナノトコロ、行ッタカ?」
「ああ、皆が朝食を食べている頃にな」
「マナ、目、覚マシタカ?」
「皆にはまだ知らせていないが、一応意識は回復した。ただし首から下がまったく動かないそうだ」
予想外のカルロスの答えに、グニドはグゥと思わず唸った。首から下が動かないということは、つまり寝たきりということか。
マナは時を戻す力で皆を救ったあと、再び昏倒して目覚めなかった。ウォンは「数日で目を覚ますか、二度と目覚めないかのどちらかだろう」と言っていて、彼女がいわゆる危篤の状態にあることはグニドにも分かっていた。
だからグニドも昨日、一昨日と、毎日欠かさずマナのところへ通っていたのだ。アルハン傭兵旅団の野営地、そこにある天幕で昏々と眠り続けるマナは、造り物みたいに真っ白な顔をして、肌も死体のように冷たかった。
しかし目を覚ましたということは、一命は取り留めたのか。それとも一時的に意識が回復しただけで、危険な状態は続いているのか。
首から下が動かないというのも今だけなのか、はたまた永遠にそのままなのか。あらゆる疑問と不安がグニドの脳内で交錯した。するとグニドの困惑を見透かしたのだろう、カルロスが微かに笑って見上げてくる。
「今も起きているかどうかは分からんが、お前も見舞いに行ってくるといい。右腕の礼を言わねばならんだろう?」
「ム、ムウ……ソウダガ……」
「私のことは案ずるな。マナのおかげでツェデクの狂気もしばらくは抑えられそうだ。何よりマナも、きっとお前に会いたがっているだろう。何しろお前の記憶だけは、わざわざ巻き戻さずに残したのだからな」
カルロスの正論に、今度はグゥの音も出なかった。グニドは促されるがまま、マナの見舞いへ行くことになった。
復旧作業が進む聖堂を出て、サン・カリニョの北の外れにある傭兵隊の野営地を目指す。途中、人のいるところを通りかかると、「よう、竜人!」と声をかけられたり、手を振られたり、ぺこりと頭を下げられたりした。
どうやら先の夜襲において、グニドがサンダリオの左腕を斬り落とした事実が人間たちの間に広まっているらしい。その噂に尾鰭がついて、サンダリオを討ったのはグニドだと勘違いしている者もいた。
それがまたグニドの居心地を悪くしている一因なのだが、誤解を解いてくれと頼んでも、カルロスはいっかな了承しない。「お前が義勇軍を救ってくれたことは事実なのだから構わないだろう」などとのたまって。
おかげでグニドはアルハン傭兵旅団の野営地まで、こそこそしながら移動する羽目になった。唯一すれ違うなりそっぽを向いたアントニオには、親愛の情を覚えたほどだ。まさか人間に冷たくされて喜ぶ日が来るなんて、グニドは夢にも思わなかった。
「……マナか? あいつならまた寝ていると思うが。見舞いたいのなら好きにしろ。俺は俺でやることがある。もしもマナが目を覚ましたら、縁神の刻(十八時)には戻ると伝えておけ」
そして事情を知りながら態度の変わらない人間が、もう一人いる。
ウォン・ウーラン。黄金の髪と瞳を持つアルハン傭兵旅団の長。
グニドが野営地へ赴くと、彼はちょうど出かけるところだったようで、逞しい鹿毛の上からグニドを見下ろしてきた。平時だというのに相変わらず眼光鋭く、彼の双眸に見据えられると、グニドは身が竦む思いがする。
おまけに彼が従えている傭兵たちも異様だ。戦がないときも常に鎧兜を身に着けているし、グニドを見たところで怯えもしない。皆、表情にあまり変化がなく、感情をどこかに置いてきたみたいだ。もっとも野営地の外れなど、部外者の目がないところでは、仲間内で談笑したり戯れたりしているのをしばしば見かけるけれど。
とりあえずウォンには「好きにしろ」と言われたので、マナがいる天幕へ一人で向かった。野営地にいる傭兵たちはグニドを見ても騒がない。変にチヤホヤされるよりは数段マシだが、それはそれで不気味だと感じてしまうのは身勝手だろうか。
天幕の入り口をくぐると、簡素に組まれた寝台の上で、マナは寝息を立てていた。依然顔色は白竜酒のように白いものの、昨日見たときよりもほんの少しだけ、頬に赤みが差している……ような気がする。
目覚めていたのは朝の数刻だけか。グニドは少しばかり落胆しながら、寝台の脇に置かれた丸椅子に腰掛けた。人間用に作られた小さな椅子なので、グニドが座るとギィと軋む。長時間じっと座っていたら、そのうち潰れてしまいそうだ。
(しかし体が弱いとは聞いていたが、本当によく寝るな、こいつは……)
と、仰向けで眠るマナを見つめながら、そんなことを考えた。グニドがサン・カリニョに来てから、彼女は一体何度倒れただろうか。
ロクサーナはそれを〝魔女の力の代償〟だと言っていた。マナは万能の力を使う度に命を削っているのだと。
だから体つきもこんなに細いのだろうか。グニドが力を込めて握ったら、手首など簡単に折れてしまいそうだ。ひょっとしたら今ではルルの方が、マナより健康的な体つきをしているかもしれない。サン・カリニョへ来る前はルルもあんなに痩せっぽちで、体も強くはなかったのに。
(寝ている間は当然、何も食ってないんだろうしな……マナの看病はいつもウォンがしていると言ってたが、あのオスは本当にこいつの面倒を見てるのか?)
今だってマナを置いてどこかへ行ってしまったし、そもそもウォンが甲斐甲斐しく他人を介抱する姿なんて想像できない。グニドの見立てが確かなら、ウォン・ウーランという人間は人の生死にあまり頓着しない男だ。ということはやはりマナのことも、さほど大事に思ってはいないのでは……?
(いや、待てよ)
そう言えば三日前の晩、ウォンはマナのことを知らない名前で呼んでいた。確かマナ……マナキ……マナキなんとかと呼んでいたはずだ。
あのときはグニドも意識が朦朧としていたから、記憶が曖昧で思い出せない。ただ〝マナという呼び名はもしや愛称だったのか?〟という驚きだけが鮮烈に頭に残った。もしもあれが彼女の本名で、「マナ」というのが愛称だとしたら、ウォンと彼女は愛称で呼び合うような仲だということだ。
「マナ……マナキタ……マナキタン……?」
どうせマナが目覚めるまでやることもないので、グニドは何とか彼女の名を思い出そうと首を拈った。相当近いところまで思い出せている気がするが、いまいちしっくりこないというか、確証がない。「ムウ……?」と唸りながら顎へ手をやって、もう一度、あの晩のことを鮮明に回想しようとした。すると不意に、
「──マナキタンガ・モアナ=フェヌア」
「……ジャ?」
「もっと正確には、マナキタンガ・モアナ=フェヌア・ラー・ア・マリンガヌイ・ナ・コティロ・ハウオラ・ティカムリ・フマリエ・マハラ・メメネ・ウェトゥマタ・ウェロナ・ピリニヒ」
「ジャ……!?」
「馬鹿みたいに長いでしょー。だから〝マナ〟なの。昔は〝マナキ王子〟って呼ばれてたんだけどねー。今の私は、ただのマナ」
頭が事態についてゆかず、グニドは目を白黒させた。驚愕して見下ろした先では、寝台に横になったままのマナが場違いに笑っている。
「マナ……!?」
「うふふ、おはよー、グニド。なんかぶつぶつ名前を呼ばれてるのが聞こえたから目が覚めちゃったわー。あ、あなたには竜語で話した方がいいんだっけ」
『い、いや、待て。お前、竜語で話すのにも魔女の力を使うなら……』
『平気よ。私が竜語を話せるのは魔法じゃないもの。ほらー、最初にポジート村であなたと会ったとき、私たち握手したでしょ? あのときあなたの記憶をもらったの。だから竜語が話せるだけ』
『〝記憶をもらった〟……?』
『ええ。これぞ渡り星の役得ねー』
と、相変わらず流暢な竜語でわけの分からないことをのたまって、マナはにこにこ笑っていた。かと思えば『ねえ、喉が渇いたー』などと甘えた声を上げ、近くの棚に置かれた水差しに視線を向けている。
……どうやら〝水を飲ませろ〟ということらしい。首から下が動かないという話は本当のようだ。グニドは仕方なく水差しの水を、注ぎ口からちょっとずつマナの口へと運んだ。喉を潤したマナは『ありがとー』と礼を言って、すぐに『キムは?』と尋ねてくる。
『キム……ああ、ウォンのことか。あいつなら何か用があるとか言って、仲間とどこかへ行ったぞ。カルロスの手伝いというわけでもなさそうだったが……』
『んー、そっか。何かあったのかなー。ていうか今日、何の日? 私、どれくらい寝てた?』
『人間の使う暦はよく分からん。ただ、カルロスと今朝話しただろう? あれから数刻しか経ってない。今は昼過ぎだ。ウォンは、エンシンの刻には戻ると言っていた』
『縁神の刻かー。ってことは、キムが帰ってくるのは日が暮れてからね。それまで起きていられる自信ないなー。あはは』
『……カルロスから、首から下が動かないと聞いたぞ』
『うん、ちょっと派手にやりすぎちゃってねー。まあ、でも一時的なものだからだいじょぶよ。たぶん。きっと。恐らく』
『……』
こんな状況だというのに、このメスは何をふざけているのだろう。下手をしたら一生からだが動かないままかもしれないのに、全然危機感を感じない。
あるいは初めから、こうなることは織り込み済みだったとでも言うのだろうか。グニドは何とも言えない気持ちで、むっつりとマナを見やった。今、口を開いたら、彼女を責める言葉を発してしまいそうだったからだ。
『あら? グニドさん、もしかして怒ってるー?』
『……別に怒ってはいない。呆れてるだけだ』
『まあ、おかしいわねー。私、呆れられるようなことをした覚えはないのにー』
──こいつは噛みつかれたいのか。
内心悪態をつきながら、グニドは深々と嘆息した。
まったく、マナと話していると調子が狂う。どういうわけだか、気づくといつも彼女のペースに乗せられているのだ。
とは言え病人の悪ふざけに、いちいち腹を立てても仕方がない。グニドは自分にそう言い聞かせるや、今度は真面目にマナを見据えて口を開いた。
『……まあ、お前には感謝している。お前のおかげで俺もカルロスも無事だった。ついでに言うと、ルルもな。お前が巻き戻しの力を使わなければ、俺たちはみんな死んでいた……と思う』
『そうねー、少なくともカルロスさんは助からなかったでしょうね。でも、私に感謝するならキムにも感謝してあげてよー? 私がみんなを救えたのは、キムが力を貸してくれたおかげなんだから』
『ウォンのおかげ……? あいつはただ偉そうに、お前に命令しただけだろう』
『分かってないわねー。その〝命令〟が大事だったのよ。なんたってあの日は新月だったからねー』
意味が分かるような、分からないような。そんなあやふやな話をされている気がして、グニドは思わず眉をひそめた。ところがマナは「あはは~」と気の抜けた笑いを零すばかりで、核心に触れようとしない。ほどなく彼女は枝の骨組みに支えられた天井を見やると、不意にひとつため息をついた。
『あーあ。だけど結局また生き残っちゃったー。今度こそは死ねる! って、そう思ったんだけどなー』
『……どういう意味だ?』
『どうもこうも、言ったまんまの意味だけど?』
『お前……まさか、死にたいのか?』
『うん。私、ずっとそのために旅してるのよー。だけどこれがなかなか死ねなくってね。自殺しようとすると必ず邪魔が入るし、かと言って戦場に飛び込んでも生き残っちゃうし。なのにキムったら〝死ねなくて残念だったな〟なんて笑うのよ? ひどくなーい? まあキムがひどいのはいつものことだけどー』
……あのオスが笑う姿なんて、まったく想像できないのだが。
胸中でそう吐き出してから、いやいや違う、気にするのはそこではないとグニドはぶるぶる首を振った。問題は〝果たしてウォンは笑うのか?〟ではなく、マナのとんでもない発言だ。彼女との会話は竜語で交わされているから、聞き間違えようがない。マナは確かに言った。自分は死ぬために旅をしているのだと。
『……じゃあ、お前が俺の記憶を戻さなかったのは』
『うん?』
『お前が俺の記憶を戻さなかったのは、死ぬつもりでいたからか。お前が死んだら、カルロスとウォンの他に真実を知る者がいなくなるからか』
『あら、ご名答。だってさすがにカルロスさんとキムの組み合わせは、ねえ? キムって人のこと慰めたり励ましたりするの、病的に苦手だし。だったら最初からカルロスさんと信頼関係を結んでるあなたを残した方がいいかなって思ったの。私が死んだなんていったらほら、カルロスさん、気に病むんじゃないかなーと思って』
『お前は何故死を望む?』
マナの話を半ば遮る形で、グニドは尋ねた。彼女の好きに喋らせれば、また話を逸らされる。そう直感したからだ。
『……私ね、呪われてるの』
するとマナも観念したように、長い長い沈黙のあと、再び天井を見つめてそう言った。
『呪われてる?』
『うん。生きてるだけでじわじわ進行して、苦しみながら死ぬ呪い。今まで何年も……何年も何年も、この呪いを解く方法を探してきた。でも全然見つからなくて。だったらせめて、あの魔女に呪い殺される前に死んでやろうって……』
自分で尋ねておきながら、グニドはにわかには信じられなかった。呪い、という概念を知らないわけではない。竜人の間にも、恨みから誰かを呪ったり呪われたりする、いわゆる〝呪術〟の文化はある。
けれどグニドが知る〝呪い〟というのはあくまで気休め、迷信の類だ。竜人が行う呪術には何の力も信憑性もない。ただ呪いたい相手への恨み辛みを晴らすためだけに存在する儀式だ──と、少なくともグニドはそう思っている。
だのに自分は呪われている、だなんて。まやかしや思い込みではないのか。そういう疑念を隠さずにいると、視線をこちらへ戻したマナが、ふ、と、まるで存在ごと消えてしまいそうな顔で、笑った。
『私の服の釦、外して』
『何?』
『上衣の留め具。外して』
マナが現在着ている襟つき服は、確かに小さな留め具で前が閉じられていた。その留め具さえ外してしまえば、簡単に着脱できるつくりのものだ。
どうして急にそんなことを言い出すのかと不思議に思いながら、グニドはひとまず、言われたとおりに留め具を外した。
均等に何個も並んでいるのを、上から順にゆっくりと外して──やがてマナの胸元があらわになったところで、思わずぞっと凍りつく。
驚愕のあまり、声も出なかった。
服の下から覗いたマナの胸には、異物があった。
そう、〝異物〟としか形容できない何かだ。それは小さな卵型をしていて、黒ずみ、得も言われぬ気味の悪さを湛えながらマナの胸に張りついている。
いや、もっと正確に表現するならば、そいつはマナの体に根を張っていた。
異物の周囲にはまるで浮き上がった血管のごとく、蜘蛛の巣状の根が張り巡らされている。根の周辺は見るもおぞましいほどに爛れ、肉が腐っているかのようだ。
ドクン、ドクン、と。
マナの衣服に手をかけたまま硬直するグニドの心臓と同じく、異物は小さく脈打っていた。その光景がただただ不気味で禍々しく、グニドは何も言えない。異物の下には、皮膚に合わせて引き攣れた何かの紋様──もしやあれは神刻か?──が見えていたが、そちらに意識が向かないほどに。
『信じる気になった?』
と、笑いながらマナは言う。
『醜いでしょ? 〝呪いの種子〟っていうの。この呪いは新月が来る度に力を増して、やがては全身を侵蝕する』
新月の、夜。
そうか。そういうことだったのか。
マナが新月の度に倒れていたのは。
魔女の力を使い、体が弱るほどに倒れる回数を増していたのは──
『呪いの根が心臓まで達したらそこで終わり。最後は想像を絶する苦しみに泣き叫びながら死ぬんですって。そんな死に方をするくらいなら……死に場所は、せめて自分で見つけたいの』
『……ウォンは、これを知ってるのか』
我ながら見当違いの質問をしていることは分かっていた。
いま尋ねるべきはもっと他にある。
けれどマナは、微笑んでいた。
何もかも諦め、諦めることで満たされたような、透明な眼差しで。
『知ってる。だから傍にいてくれるの。私がひとりで苦しまないように』
『……』
『でも、私が苦しいとキムも苦しいから。だから彼に甘えるのは、時々にしてる。こんな呪われ者のために、キムに苦しんでほしくないもの』
『マナ』
『ねえ、グニド』
何と言葉をかければいいのか分からない。
己の無様さに腹が立つほど、何の言葉も浮かんでこない。
それでも呼ばずにはいられなくて、彼女の名前を呼んだとき。
マナはそっとグニドの想いを遮り、そして言った。
『私のことは気にしないで。どのみち助からない命だから。もうこの世に未練もないの。ただルルちゃんのことだけは、守ってあげて』
『ルルを──?』
『ええ。あの夜、ツェデクの剣がどうしてあなたを斬れなかったのか分かった。いいえ、あれは斬れなかったんじゃない。斬らなかったの。あなたがルルちゃんの──預言者の守護者だから。あなたがいなきゃ、ルルちゃんはきっと生きていけない。だからツェデクはあなたを生かした。ルルちゃんの天授刻を、守らせるために』
思いきり、脳を揺さぶられたような衝撃だった。
ルルの天授刻。自分はアレを守るために生かされていた──?
そんなことがありえるのか。そう自問して、すぐに気づく。
ありえるだろう。何せ神々は一度死んだカルロスさえも、利用せんとして呼び戻したのだから。
『詳しいことは、話せないけど。ルルちゃんが持って生まれた天授刻は、たぶん……私やキムの神刻と同じ……』
『……神刻? お前やウォンも、ルルのような神刻を持っているのか?』
『ええ。世界に一つしか存在しない……大神刻と大神刻を、かけ合わせた……』
『大神刻?』
『〝強大な力には、強大な運命がつきまとう〟……私の生まれた国の諺よ。放っておいたら、きっとルルちゃんも……私やキムみたいな運命を背負い込む。だから……グニド、守ってあげて。神々の意思なんかじゃなくて……グニドの……あなた自身の意志で──』
衰弱した体で、さすがに喋り疲れたのだろうか。マナはそう言うとゆっくり目を閉じ、そのまま返事をしなくなった。
薄桃色の唇からは、すう、すう、と微かな寝息が零れている。グニドは彼女の寝顔をしばし見つめると、やがて静かに服の留め具を閉め直した。
そうしてマナの衣服を整えてから、上掛けを肩まで引き上げてやる。寝返りも打てない彼女にしてやれることは、それくらいしかなかった。
小さな丸椅子に腰かけたまま、降り積もる静寂の下で首を垂れる。
こんな無力感に苛まれるのは、生まれて初めてだった。
自分には何も守れないのかもしれない、と。