第五話 星霜人を待たず
「ひいぃぃぃぃぃ!」
うまそうな脂の乗ったオスの人間が、熱い砂の上を四つん這いになって逃げ惑った。
その男の逃げた先には、先刻グニドの大竜刀による一撃で大破した荷車がある。
その荷車の傍らに、怯えきったメスの人間と、竜人に譬えるならもう少しで脱皮が終わりそうな頃合いの若い人間が座り込んでいた。
脂の乗ったオスはその二人の傍まで逃げて、そこでいよいよ腰を抜かす。
すぐ足元には首を切断された驢馬の死骸。
オスの人間はそれに一瞥をくれ、ガタガタと震えながらこちらを見上げてくる。
「い、いやだ……頼む、殺さないでくれ!!」
オスはそう絶叫し、限界まで見開いた瞳から涙を流した。
しかしグニドが近づくと「ひぃっ!」と情けなく飛び上がり、傍にいた二人を抱き寄せる。
体長四十葉(二メートル)を超えるグニドの影が、三人の人間に覆い被さった。
大竜刀を伝う鮮血が、乾いた砂漠の砂を濡らす。
それを見た人間たちは死を覚悟したように、互いに抱き合って目を瞑る。
「――オマエ、〝ショーニン〟カ?」
「……え?」
そのとき、突然自分たちへ降りかかってきたその声を、人間たちは驚いたように仰ぎ見た。
だがそこにいるのはやはり血刀を手にした竜人だ。
竜人は人間の顔色を窺うようにちょっと首を傾げ、同じ問いを繰り返す。
「オマエ、〝ショーニン〟カ?」
「ショ、ショーニン……しょうにん? もしかして、商人、のことか……?」
「食イ物、欲シイ。肉ジャナイ、食イ物。オマエ、持ッテルカ?」
片言の、しかしはっきりとした人語で話しかけられた人間たちは、信じられないといった様子で顔を見合わせた。
しかし三人はグニドを見てまごまごとするばかりで、なかなか答えようとしない。
初めは大人しくしていたグニドも、これにはやがて痺れを切らし、いきなり大竜刀を振り上げた。
そうしてダンッ!と砂の地面を斬りつければ、仰天した人間たちがまたしても飛び上がる。
「ひいぃぃぃっ! ま、待ってくれ、殺さないでくれ! 私たちはあなたの敵じゃない! 分かるか? 敵じゃないんだ!」
「食イ物、アルカ、ナイカ。アルナラ、交換。ナイナラ、オレ、オマエ、喰ウ」
「わ、わわわわ分かった! く、食い物か、食い物があればいいんだな!? それならあっち、あの駱駝の背に積んである!」
オスの人間は必死の体で、グニドの後方、やや離れた場所に倒れている一頭の駱駝を指差した。
当然ながら、その駱駝も既に事切れている。あれはグニドがやったのではなく、久しぶりの獲物に狂喜乱舞したスエンが仕留めたものだ。
グニドは人間がそれを示しているのを見て、何となく事情を理解した。
そうして大竜刀を腰に収めると、大きな足でのしのしと駱駝に近づいていく。
『むう……これは何だ?』
倒れた駱駝の積み荷をあさると、出てきたのは瓶詰めにされた奇妙な物体だった。
瓶の中は、やや黄色がかった透明な液体で満たされている。その液体と共にぎゅうぎゅうに詰め込まれているのは、黒っぽい薄皮をまとった見慣れぬ物体だ。
更に積み荷を検分すると、中身がぱんぱんに詰まった麻袋や、すっぱい匂いのする包みなどが出てきた。
グニドはそれらを砂の上に並べ、しげしげと眺めてから人間に問う。
「コレハ、何ダ?」
「えっ。あ、え、ええと、それは茄子のオイル漬けです……」
「コレハ?」
「その袋は、右がドライフルーツで、左がナッツ。端にあるのは胡桃です」
「コレハ?」
「そ、その包みは、たぶん黒パンですね……」
『〝クロパン〟……あの臭くてまずいやつか。じゃあこれはいらない』
包みの中身を教えられると、グニドは躊躇なく黒パンを候補から外した。
気になったのは、〝ナスノオイルヅケ〟というやつだ。
こういう食べ物は今まで見たことがなかったので――見た目はちょっと不気味ではあるが――グニドはその瓶をひょいと持ち上げる。
「コレ、ウマイカ?」
「え、ええと、竜人様のお口に合うかどうかは分かりませんが……私はおいしいと思いますし、日持ちもしますよ」
「フン……ナラ、コレ、モラウ。コレト、コレモ」
そう言ってグニドが小脇に抱えたのは、〝オイルヅケ〟の瓶とドライフルーツ、胡桃がたっぷり詰まった麻袋だった。
それを巣から持ってきていた背負い袋に入れ、肩に背負う。
次いでグニドは腰の物入れに手を突っ込み、そこから一つ、小さな布の袋を取り出した。
「ヤル」
それを大事に摘まんで差し出せば、オスの人間はびくりと飛び上がる。
しかしすぐにグニドの意図を解したのだろう。彼はグニドと布の袋とを交互に見比べると、おっかなびっくりといった様子で手を出してきた。
袋の中身は砂金だ。オスの人間は恐る恐る開けた袋の中に、黄金色の輝きを見て目を剥いていた。
そんな人間の様子を後目に、グニドは空いた手で倒れていた駱駝の尾を掴む。
そのまま粉砕した荷車に近づき、首のない驢馬の死骸も回収した。
巣に持ち帰る食糧は、これだけあれば十分だろう。
何しろ今は熱砂の月だ。雨の月に孵った子らもこの時期には大きくなって、生まれた直後のようにひもすがら食糧を求めたりはしない。
『おーい、グニドー!』
と、ときに騒々しい呼び声が聞こえ、グニドは長い首をもたげた。
そうして見やった先から、人間の死骸を担いだスエンがやってくる。同じく隣で馬を引きずっているのは、やや細身の大竜刀を引っ提げたエヴィだ。
『スエン、エヴィ。どうだった?』
『大猟大猟! このとおり馬も狩れたし、人間も三体持ってきた。狩りに出て早々隊商に出くわすなんて、今日はついてるな』
左手にメスの人間を担ぎ、更に二体の人間を縄で縛って引いてきたスエンは、久しぶりに暴れられたせいか上機嫌だった。
スエンとエヴィの二人は、グニドが人間用の食糧を求めてそこのオスと交渉している間に、先へ逃げた砂漠の隊商を追っていたのだ。
たった今身を寄せ合ってグニドらの方を窺っている三人の人間たちも、元はその隊商の一員だった。
それが駱駝も荷車も破壊され、逃げ遅れてここにいる、というわけだ。
『おっ。何だ、そっちにもうまそうなのがいるじゃねーか。そいつも狩る? 狩っちゃう?』
『こいつらは狩ったらダメだ。たった今、ルルの分の食糧を分けてもらった』
『じゃあもう用済みってことだろ? 特にそこの太ったの、あれの内臓はきっと絶品だぜ』
『ダメなものはダメだ。長老様も言ってたろう。砂漠で見かけた人間を手当たり次第狩ってたら、また人間が怯えてここを通らなくなるって。それだと、人間用の食糧が手に入らなくなって困る。だからこいつらは生かして放す』
『ちぇっ、つまんねーの。最近は砂王国から山ほど人間が送られてくるから、狩りを楽しむ機会が減ってるってのによぉ――オフッ!?』
そのとき俄然、鞭のようにしなったエヴィの尻尾がスエンの両脚を払った。
あれから十年が経過した今となっても、エヴィの尻尾打ちの威力は健在だ。
おかげでひっくり返ったスエンは、仰向けのままばたばたと手足を暴れさせている。
『おい、エヴィ! 何すんだよ、てめえ!』
『あんたがいつまでも聞き分けのないこと言ってるからでしょ。ほら、グニド。こんな馬鹿はほっといて、さっさと巣に戻りましょ』
『ああ、そうだな』
『こら、待て! お前ら、オレを置いてくな!』
やかましいスエンの抗議を聞き流し、グニドは右手に駱駝を、左手に驢馬を引いて歩き始めた。
巣に戻れば、そこには砂王国から食糧として提供された人間が山を成している。このところ砂王国はやたらと景気が良く、奴隷の数も余るほどらしい。
それなのに何故グニドらが狩りに出る必要があったのかと言えば、目的は肉ではなく人間用の食糧の方にあった。
死の谷では肉に困ることこそないが、それ以外の食糧は皆無と言っていい。
そもそも竜人が肉以外の食い物を必要としないので、あの谷ではそれ以外のものなど手に入らないのだ。
だから人間用の食糧を手に入れるには、こうして砂漠を通る人間と交渉する必要があった。
人間の中には〝ショーニン〟と言って金と引き換えに食い物をくれる者もいるらしいが、そんな者は死の谷まではやってこない。
人間は例外なく竜人を恐れているから、谷に入れば殺されると怖がって近づいてこないのだ。
おまけに砂王国の人間たちもまた肉食で、遥々食い物を求めて訪ねてもろくなものが手に入らなかった。
かと言って東のトラモント黄皇国や西のルエダ・デラ・ラソ列侯国は遠すぎる。
グニドは過去に一度だけトラモント黄皇国の集落まで行ってみたことがあるのだが、皆グニドを見た途端に恐慌し、まったく話にならなかった。
その上巣との往復に一月以上の時を要するとなっては、こちらも得策とは言えないのが現状だ。
『だけど良かったわね、久しぶりに人間以外の肉が手に入って。巣に持って帰ったら、みんなきっと喜ぶわよ』
『そうだな』
『そろそろうちの一族も東の戦に加わることになりそうだって言うし。そうなったらますます人間以外の肉は喰えなくなるものね』
『だよなぁ。戦場にはあれだけ馬がいるのに、生きてるやつはほとんど砂王国の連中が持ってっちまうしなぁ。まあ、オレとしては戦で暴れられるならしばらく人間肉だけでも全然気にならねーんだけどよ!』
『いいわね、頭の作りが単純なやつは。人間肉は馬や駱駝の肉に比べて臭うし、あたしはあんまり好きじゃないわ』
『けっ、ゼータク言いやがって。そんなこと言って、いつもオレらの倍以上に喰うくせに』
『そりゃ、メスは次の産卵に向けて力をつけなきゃいけないからね。あんたらみたいに戦うしか能のないオスとは違うのよ』
『おい、グニド。こいつ、こんなこと言ってやがるぞ。お前から何とか言ってやれ』
『何も言い返せなくなるんなら、最初から勝ち目のない喧嘩を売るなよ』
呆れながらそう言って、しかしグニドの目は東を向いていた。
その先にある緑豊かな大国、トラモント黄皇国。
目下シャムシール砂王国は、その黄皇国と戦争状態にある。
その戦争には砂王国との盟約に基づき、死の谷からもいくつかの部族が参戦していたが、グニドらドラウグ族は今のところ出陣を見合せていた。
何故ならこのところ、長老の体調が思わしくない。
誰も口には出さないが、皆が〝もうそろそろだろう〟という予感を抱いている。
だからグニドたちは戦いには参加せず、じっとそのときを待っているのだった。
これまで群を率いてくれた偉大なる長老を置いて、戦場へ赴くことなどできはしない。
『――ヤーウィ! 馬だ、馬だぁ!』
やがて三人が巣へ帰ると、案の定皆が久しぶりの獲物に歓喜の声を上げ集まってきた。
中でも特に大はしゃぎなのは、今年の夏に孵ったばかりの子供たちだ。
体長は皆既に二十葉を超えているものの、中身はまだまだ幼い者ばかり。それを周囲の大人たちが微笑ましげに眺めたり、軽く窘めたりしている。
『エヴィ、スエン。おれは祠に行ってくる。狩ってきた獲物の解体は任せていいか?』
『ええ、もちろんよ。あんたの分もちゃんと分けておくから安心して』
『うむ。でもってそれをオレがおいしくいただいておくから安心しろ――おぎゃーっ!』
またしてもエヴィの尻尾打ちが炸裂した。その直撃を受けたスエンが華麗に素っ転べば、皆からどっと笑いが起こる。
グニドはそんな仲間たちの様子を眺めながら、一人巣穴の奥へ向かった。
携えているのは腰の大竜刀と、肩に担いだ荷物だけ。
その荷物の重みを何となく確かめながら、グニドは竜祖の祠の門をくぐる。
『グニド、おかえりなさい!』
やがてグニドを迎えたのは、竜人の間では考えられないほど澄んだ声だった。
竜人の声というのは、基本的に銅鑼声だ。それはオスもメスも関係なく、メスの方がやや高いというくらいで、皆一様に声質がざらざらしている。
けれどもグニドが訪れる度祠に響くその声は、まるで小鳥の歌声のようだった。
それを聞いてグニドが足を止めた先。
そこにある呆れるほど頑丈な鉄格子の向こう側に、クリムの木の樹液で染めたように白い肌の少女がいる。
『ただいま、ルル。今日は土産を持ってきたぞ』
『おみあげ? また砂漠に行ってきたの?』
『ああ。そこで会った人間が食い物を分けてくれた。お前の好きなドライフルーツだ』
『ヤーウィ! ルル、ドライフルーツ、すき!』
喜びの声を上げ、冷たい鉄格子の向こうで少女は目を輝かせた。
ゆるやかに波打ちながら少女の体を包むのは、人間にしては珍しい青みがかった黒鬣。
その黒鬣と共に、少女がまとう白い貫頭衣の裾がひらひらと揺れる。
やがて無邪気にグニドを見上げたその瞳は美しい淡黄色。
最近になってようやく竜人の子らと身長が並んだその少女こそ、十年前、グニドが砂漠で拾った仔人、ルルアムスだ。
『ふわあ、ドライフルーツ、たくさん……!』
竜祖の祠の地下にある、大きな石と鉄の檻。
グニドはその檻の前に座り込み、ドライフルーツの入った麻袋の口を乱暴に破り開けた。
途端に中から覗いたのは色とりどりの、宝石にも似た果実の山。
それを見たルルの目は、より一層輝きを増している。
『ほら、喰え。最近の餌は豆ばかりだったしな。今日はたんと喰っていいぞ』
『うん!』
その中から果実をいくつか取り出して、グニドはルルの前へと差し出した。
ルルは鉄格子の間から両手を出して、器のような形を作る。グニドはそこに、握っていた果実の粒をさらさらと流し込んでやる。
そうして受け取ったドライフルーツを、ルルは束の間、宝物でも見るように眺めていた。
が、やがて彼女はそれを口に運び、存分に〝宝物〟を味わい始める。
『むぐ、むぐ……おいしい!』
『そうか』
『このドライフルーツ、いろんな味がするよ。あまかったり、すっぱかったり……でも、この黒いのはちょっとにがい』
『じゃあ、黒いのはよけてやる』
ルルが渋い顔をしているのを見て、グニドは問題の黒い実だけを除いてやろうと手を伸ばした。
ところがその瞬間、ルルが何故か驚いた顔をする。
かと思えば彼女はいきなりドライフルーツを放り投げ、空いた手でグニドの手をしっかと掴まえる。
『グニド! 手、血が出てる!』
『血? ああ、忘れてた』
ルルに言われてようやく思い出し、グニドはちらと自分の右手に目をやった。
竜人の掌は、喉や腹と同じようにやわらかい。手の甲や指先こそ硬い鱗で覆われているものの、内側は白い皮膚が剥き出しになっているのだ。
グニドはそこに、既に乾いて固まった赤黒い血の痕を見た。
無論、大した怪我ではない。ただ先程砂漠で襲った隊商の中に、生意気にも弓を使う人間がいただけだ。
グニドはその人間が逃げながら放ってきた矢を、とっさに右手で掴まえた。
そのとき握り込んだのが鏃の部分だったので、図らずも皮膚を切ってしまった。それだけのことである。
だがルルはグニドが怪我をしていることを知ると、今にも泣き出しそうな顔でそれを見た。
グニドが怪我をして戻ってくることなど滅多にないせいだろうか。
だからと言ってこの程度の傷でそんな顔をしなくても――と、グニドが二、三度目を瞬かせた、そのときだ。
「――アメル・バティアン・ハイネ」
自らの両手でグニドの手を包み込み、ルルは、得体の知れない言葉を唱えた。
祈るように目を伏せた彼女の胸元で、突然何かが光り出す。
×印を作る四つの細い菱形に、それを囲む真円――。
ルルの胸に刻まれた、あの謎の神刻だ。
『ルル』
グニドが思わずそう呼んだのが、彼女に聞こえたのかどうか。
瞬間、ルルの胸から生まれた光は青く輝き、あたりに光の波紋を広げた。
その光がわずかな風を生み、グニドの鬣を揺らしていく。
それは一瞬の出来事だった。
次にグニドが右手を見やったとき、数瞬前までは確かにあったはずの小さな傷は消えている。
『これでもういたくない』
やがてすうっと光が消え去ると、ルルはそう言って微笑んだ。
グニドは傷の消えた右手を、軽く握ったり開いたりしてみる。
未だ血の痕は残っているが、確かに痛くない。元々大した怪我ではなかったが、利き手に傷があると何かと不自由なので、痛みが引いたのは助かった。
しかしグニドはそれを素直に喜べず、わずかに渋い顔で言う。
『ルル。その神刻の力はむやみに使うなって言ってるだろ』
『え? あ……ごめんなさい』
軽く叱るようなグニドの言葉に、ルルはちょっと首を竦めた。
グニドがルルを叱ったのには、理由がある。
ルルがドラウグ族の巣にやってきてから早十年。
その間、グニドたちはあらゆる知恵を絞ってルルの胸に刻まれた神刻の正体を探ってきたが、結局詳しいことは何も分からないままだった。
元々神刻や神術には縁のない竜人では、調査するにも限界があったのだ。
この十年で唯一分かったことはと言えば、やはりルルの神刻はかなり珍しいものらしいということ。
そして、その力はかなり未知数だ、ということだけだった。
神刻を刻んだルル自身、自分が持つ力についていまいちよくわかっていないところがある。
何しろ彼女は、物心ついた頃には自然と神術を操り、今のようにグニドの傷を癒やしたり、何もないところでぱっと火を熾したりしてみせた。
一度だけ、いつどこで神術の使い方を覚えたのかと尋ねてみたことがあるが、返ってきた答えは、
『風がおしえてくれたの』
だ。
そんな風にルルは時折要領を得ない言動をすることがあり、グニドは少々それを危惧していた。
正体不明の神刻と、その力を理解しないままに操れてしまう少女。
その存在が一族に害を為すようなことがあれば、グニドはこの少女を処分しなければならなくなる。
だがこの十年間の苦労を思えば、そんなことでこれまでの苦労が無駄になるのはご免だった。
だからルルにはむやみに神術を使うなと、普段から口をすっぱくして言っているのだが――。
『……』
グニドはたった今目の前にいる少女が、思った以上にしょげているのを見て口ごもった。
何もそこまで落ち込む必要はないだろうと思うのだが、ルルは明日にも世界が滅ぶかのような悲しげな顔で俯いている。
恐らくルルはグニドのためを思い、善意で傷を癒やしてくれたのだろう。
それを叱られれば、きっと竜人の子でも拗ねる。
そう思い至ったグニドは鼻からため息をつき、仕方なく鉄格子の間へ手を伸ばして、ぽんぽんとルルの頭を撫でてやる。
『まあ、でも、おかげで助かった。ありがとうな、ルル』
できる限り優しい口調でグニドが言えば、途端にルルは顔を上げた。
かと思えば、たちまちその表情がぱあああと明るくなっていく。
今度は喜びすぎだろう、とグニドなどは思うのだが、いちいち指摘するのも疲れるので放っておくことにした。
そんなグニドの内心を知ってか知らずか、ルルは珍しく身を乗り出して言う。
『ねえ、グニド。ルル、グニドのやくにたった?』
『あ? ああ、まあ、そうだな……一応、役には立った』
『ヤーウィ! ヤーウィ! よかった!』
今までに聞いたことがないくらい、檻の中で喜ぶルルの声は明るかった。
その白くて丸い顔には満面の笑みがある。グニドの役に立てたことがよほど嬉しかったようだ。
一体何がそんなに嬉しいのか、グニドには分からない。
ただこの人間の少女は、自分がグニドたちに飼われる〝家畜〟であり、いずれその食糧になることを分かっていないのだ、と思った。
まあ、それも当然だ。グニドの役目はこの少女を脱走や自殺を考えない従順な家畜に育て上げることで、そのためにルルには必要最低限の知識しか与えてこなかった。
だからルルは自分が何故ここにいるのかも知らないし、檻の中から出られない生活を疑問に思う素振りもない。
現状だけを見れば、グニドによる人間の飼育は成功していた。
そう、たぶん、成功しているはずだ。
『おやおや、ずいぶん楽しそうな声が聞こえるねえ』
――なのにこの胸のもやもやは何だ。
喜ぶルルの姿を見てグニドがそんなことを考えていると、不意に笑いを含んだ声があたりに響いた。
振り向けば、そこには奥の階段を下りてやってくるイダルの姿がある。
どうやらルルの歓声を聞きつけたようだ。
イダルは元々年がいっていたこともあり、この十年ですっかり老いさらばえてしまっていた。
鱗の色は褪せ、鬣の艶もすっかり失せてしまっている。
それでも鉄格子を挟んで向かい合ったグニドとルルを見つめる眼差しだけは、今も変わらず優しげだった。
イダルはもう若いメスのように大竜刀を振り回すことはできないが、このルルの世話をすることが、今では唯一の楽しみになっているらしい。
『あっ、イダル! あのね、今ね、グニドがルルのことほめてくれたの』
『おや、そうかい。それは良かったね。グニドもすっかり子育てが板について、少しは丸くなったんじゃないのかい』
『板についたかどうかは知らないが、おれももう尖りたがりの若造じゃないからな。ま、スエンはどうだか知らないが』
『そうだねえ。言われてみれば、スエンだけは何年経っても変わらないねえ。あの悪目立ちする鬣型も相変わらずだし……』
呆れたような、困ったような顔でそう言って、イダルは一つため息をついた。
その横顔には、遠い昔に思いを馳せているような、そんな気配がある。
けれどもそれはついに懐古の色を帯びることはなく、代わりに深い愁いを帯びた顔色へと変わった。
『それはそうと、グニド。悪いがちょっと来てもらえるかい』
『ん? ああ、別に構わないが……何かあったのか?』
イダルの様子がおかしいことに気づき、グニドは思わずそう尋ねた。
するとイダルは頭を垂れ、ゆっくりと目を伏せて、告げる。
『長老様が――』