第五十八話 神を討て
両腕を失くし、膝をついたサンダリオが見上げた先に、緋い二つの目があった。
その目は闇の中で炯々と輝き、冷然たる眼差しを足元の男へ注いでいる。
聖堂内は、静まり返っていた。サンダリオ以外の敵がみな忽然と消えてしまったからというのもあるが、生き残った者たちも言葉を失っている。誰も彼も、何が起きたのか分からない、といった感じだ。
いや、何が起きたのかではなく、何が起きているのか、か──
恐れていたことが起きてしまった。グニドは床に押し倒した仲間の無事を確認すると、すぐさま起き上がって手放した大竜刀のもとへ走った。
今、この場で正しく状況を理解しているのは恐らく自分だけだ。皆はただただ呆けた様子で、サンダリオへ歩み寄るカルロスを見ている。だがグニドには確信があった。
アレは、自分たちの知るカルロスではない。
「──カルロス・トゥルエノは神子ではない、と言ったか?」
「は……?」
「汝は先刻、カルロス・トゥルエノは神子ではない、ゆえに畏れるに値せん、と言ったな」
「そ、それは……」
「ならば問おう。今、汝は何に怯えている?」
金属と金属が、微かに触れ合う音がした。塗り潰したような静寂の中、その音は小刻みに続く。震えるサンダリオの鎧が音を立てているのだ。
彼の右肩からはなおも血が溢れていた。斬り飛ばされたはずの右腕はどこにも存在しない。恐らく赤い斬光に触れて消滅したのだろう。あれはまぎれもない、神の力だ。
「き……貴様は……貴様は、誰だ……?」
「誰、とは?」
「少なくとも、カルロスではない……」
「ほう。知性と共に我を呼ぶ言葉さえ失ったか、愚かなる人の子よ」
カルロスであってカルロスでないものは、笑った。
背筋が凍るような凄絶な笑みだった。
ソレは歪んだ笑みを湛えながら、右手に剣を振りかぶる。サンダリオは悲鳴を上げて、あとずさろうとしたようだった。しかし両腕を失った体では均衡が取れず、ドシャッと盛大に尻餅をつく。
「ならば、最期に慈悲を垂れてやろう。有り難く拝聴し、その矮小な脳髄に刻むがいい。我が名はツェデク──貴様ら愚物を、この地上から淘汰する者なり」
グニドが大竜刀を拾い上げた刹那、再び赤い閃光が聖堂を満たした。突風が吹き抜け、絶叫する間もなくサンダリオの肉体が消滅する。
あんなにも、呆気なく。
グニドは茫然自失した。これでディアマンテ忠勇騎士団の脅威は去ったものの、一部始終を見せられた義勇軍の面々もあちこちで凍りついている。
誰も声ひとつ上げなかった。
何せアレが自ら名乗ったのだ──我こそは正義の神である、と。
「か……カルロス様……?」
床に伏せた体勢から上体だけもたげたアントニオが、青い顔で無理矢理口の端を持ち上げた。敵が全員消え去ったというのに、喜んでいる者は誰もいない。恐らく皆、本能的に察知しているのだ。アレは危険だ、と。
「どうした、皆の者。喜べ。神の再臨であるぞ」
ところがそんな聖堂内の状況などまるで見えていないかのように、先程までカルロスだったものが昂然と両腕を広げた。彼は薄ら笑いを貼りつけたまま群衆を見回し、なおも滔々と言葉を続ける。
「我こそはツェデク、汝ら人の子が二十二大神と崇めるものの一柱なり。今をもってカルロス・トゥルエノという人間は、我を我たらしめるための器となった。すなわち、汝らが望む《神々の目覚め》への第一歩である。この意味が分からぬほど落ちぶれてはおるまい、人間たちよ」
「つ……つまり……」
と、口を開いたのは聖堂の最も奥、例の祭壇近くに立ち尽くしたヨヘンだった。彼は小さすぎるほど小さな体をぶるぶると震わせながら、胸の前で両手を組み、カルロスの姿をした者に目を奪われている。
「つまり、あんたはカルロスさんじゃなくて……ツェデクさま? 二十二大神の第十一位、絶対の正義を司る、あのツェデクさまってことか……? だとしたら、大神刻が眠れる神の魂そのものって話は本当で……カルロスさんが宿してたツェデク神の魂が今、覚醒した……!?」
「正解だ、小さき人の子よ。さすが、鼠人族の者は徒人よりも賢いな。どうやら我らの永き眠りのうちに人類は忘れてしまったようだが、神の復活とは元々そういうものだった。我らは肉体を持たぬ存在ゆえ、人の身を借りることでようやくこの世に顕現するのだ。数百年前までは誰もがそう理解していたはずだが、とある反逆者どもの陰謀で理が曲げられた。何とも嘆かわしいことよ。彼奴らのおかげで、《新世界》がこれほど遠のくとはな」
吐き捨てるや否や、ツェデクを名乗った者は剣を軽く振り下ろした。彼が切っ先を突きつけた先には、床に倒れたまま動かないヒーゼルがいる。
──そうだ、ヒーゼル。彼はサンダリオによってツェデクの前に引きずり出され、今なお意識を失ったまま、かの者の足元に横たわっていた。グニドの位置からはもう、彼が生きているのか死んでいるのかも分からない。
ツェデクはそんなヒーゼルに剣鋒を向け、不意に蔑むような眼差しを湛えた。竜人のグニドにすらはっきりと分かるほどの、侮蔑と嫌悪の眼差しだ。
いや、もっと別の言い方をするならば、明白すぎるほど明白な──〝敵意〟。
「い……いや、あのサ……アンタが神様だってことは、何となく……実感はまったく湧かないけど、分かったよ。けどサ……それじゃあ、その体の元の持ち主だったカルロスさんは、今どこに……?」
と、ときにヨヘンに続いてそう尋ねたのは、壇上でよろよろと立ち上がったラッティだった。彼女の尻尾は、逆立っている。たぶんラッティも感じているのだ。神を自称する者の全身から放たれる、異様な気配を。
「言ったであろう。カルロス・トゥルエノという人間は、我を我たらしめるための器となった、と」
言って、ツェデクは己が胸に手を当てた。そうしてカルロスと同じ顔でありながら、まったく別の生き物としか思えぬ笑みを刻み、告げる。
「カルロスなる男はもう用済みだ。ゆえに肉体を我に譲り渡し、消えてもらった。やつでは世に真の正義を為すことはできぬ。代わりに我こそが、汝ら人の子を導いてやろう」
聖堂内に戦慄が走った。ポリーは息を飲んで口元を押さえ、ヴォルクは黒い眼を見開き、グニドもまた、緋色の鬣が逆立っていくのを感じる。
「か……カルロス様が……消えた──?」
放心したアントニオの独白が聞こえ、グニドは大竜刀を握る手に、柄が折れんばかりの力を込めた。全身を憎しみなのか、怒りなのか分からない感情が駆け巡り、噛み合わせた牙の間から唸りが漏れる。
『……カルロスは、消えたんじゃない』
腹の底から噴き上がる黒い感情を吐き出すように、言った。
『あいつは今、死んだんだ……! 神が、カルロスを殺した──!』
あってたまるか。
こんなことが、あってたまるか。
グニドは大地を打ち砕かんばかりに、咆吼した。確かにあいつが現れなければ、グニドたちはディアマンテ忠勇騎士団に降伏する他なかっただろう。愛弟子であるヒーゼルを人質に取られた状態では、カルロスだって迂闊に手を出せなかったに違いない。
しかしだからと言って、カルロスが用済みとはどういうことだ。
グニドにだってそれくらいの人語は分かる。ツェデクにとってカルロスはもう利用価値がなく、ゆえにこの世から消し去った、ということだ。
だが、同じ肉体に宿っていたなら分かるだろう。カルロスが今日までどんな想いで国のため、仲間のために血を流し続けてきたのか──
(あいつには、ここにいる人間もカルロスもクソにしか見えていない。だからカルロスは、あいつに体を乗っ取られることを恐れてたんだ……!)
神の力の代償としてカルロスが見ていた、歪んだ世界。それこそがツェデクの眼を通して見た世界なのだと、グニドは今、理解した。
そうでなければ、己を押し殺してまで仲間を守ろうとしていたカルロスを用済みだなんて言えるわけがない。そしてその仮説を正とするとき、ツェデクが彼を押し退けてまで現れた理由はただひとつ。
彼が今日までカルロスに〝殺せ〟と命じ続けてきた人間たちを、世界から一掃すること。
このままではカルロスが恐れていたことが、現実になってしまう。
「あっ……!?」
ところが刹那、グニドたちの眼前で剣光が閃いた。
ツェデクの足元から鋭く突き出された刃が、かの者の喉を掻き切ろうとする。
しかしツェデクは、寸前でそれを躱した。体をわずか後ろへ倒すようにしながら、凍てつく眼差しを剣の主へ浴びせかける。
「カルロス殿を返せ、化け物……!」
ヒーゼル。満身創痍の彼が吐き捨てた一言が、皆の目を覚まさせた。
そうだ。人の体を乗っ取り、己の意のままに世界を創り変えようとするもの。
あれはまさしく、化け物ではないか。
「……愚かな」
次の瞬間、赤眼をすっと細めたツェデクが、いきなり右足を振り抜いた。その爪先がヒーゼルの腹部にめり込み、彼の体を軽々と蹴り上げる。
マルティナとエリクの悲鳴が上がった。蹴り飛ばされたヒーゼルは聖堂に並んだ長椅子を巻き込んで倒れ、とんでもない騒音を立てている。
ところが、ツェデクは──笑っていた。
サンダリオを消し去ったときと同じ、背筋が凍るような酷薄な顔で。
「ヒーゼル。魔界に魂を売った、愚かなる赤髪の一族よ。父を知らず、父を憎みながら、されど父と同じ道を歩むか。どこまでも滑稽だな、貴様は」
「な……に、を……」
「だが思い上がるな。エマニュエルの主は貴様らではない──人間など所詮、我らの奴隷よ」
ツェデクの構えた剣が仄赤い光を帯びた。次に彼があの刃を振り抜けば、再び三日月状の斬光が走り、すべてを無に帰すに違いない。
だからグニドは、飛びかかった。
頭上高く大竜刀を振り上げ、渾身の力で跳躍し、神を叩き斬ろうとする。
『ジャアアアアアアアッ!!』
咆吼と共に、分厚い刃が床を打ち砕いた。メリメリと音を立てて石材に亀裂が走り、攻撃を躱したツェデクの足元まで罅割れる。
聖堂内は騒然としていた。「グニド、何やってんだ!」とヨヘンあたりが頭を抱えているのが分かる。
されどツェデクは、ぞっとするほど冷静だった。炎のように赤いくせに、触れたら指先から凍りつきそうなほど冷たい瞳で、立ち塞がったグニドを見据えている。
「不遜だぞ、竜人。トカゲ風情が、我が前に立つな」
『お前は竜人が信じる精霊とは違う。精霊とは目に見えず、触れられず、決して何ものにも干渉しないし干渉されない……だからこそ畏れられ、敬われる存在だ。見えて触れて、人間たちを意のままにしようと干渉するお前は、崇めるに値しない』
「なるほど。さすがは地上最強の生物兵器、反逆者どもに生み出されただけあって我々には従わぬというわけか。ならば貴様ももう用済みだな」
『何?』
「あの娘──万霊刻の器は我がもらい受ける。もう運ばなくて良いぞ、まざりもの」
〝あの娘〟?
〝あの娘〟とはまさか、ルルのことか?
グニドが直感でそう理解した、直後だった。
突如眼前で閃光が弾け、視界が一面真っ赤に染まる。
『な──』
音。
自身の右肩から、勢いよく何かが噴き出す音がした。
目をやれば、肩から先がない。
ゴトリと重い音を立て、大竜刀だけが床に転がっている。
「グニド……!!」
──何故だ?
痛いとか熱いとか苦しいとか感じる以前に、グニドはただ自問した。
何故だ?
カルロスの剣は、確かに自分を斬れなかったはず。
だから彼は自分にすべてを打ち明け、託した。なのに──
「避けたか、面倒だな」
ツェデクの声が遠く聞こえた。やつはすぐそこにいるはずなのに、おかしい。
視界がぐにゃりと歪んで、何もかもが輪郭を失くした。ただ、ツェデクが再度構えた凶刃がまとう、赤い光だけがよく見える。
『剣王国の王マンダウは、私と同じツェデクの神子だった』
こんなときだというのに、カルロスと共に過ごした日の記憶が脳裏をよぎった。
『後世に伝わるかの王の異名は、『兇王』──比類なく残虐で気の狂れた王、という意味だ』
自分を呼ぶ仲間たちの声も遠い。
『だが案ずるな、グニドナトス。私は誰の手も汚させぬ。もしもこの身が内なる獣に乗っ取られ、いずれ私のものではなくなるのだとしたら、そのときは──』
何も見えないのに、あの日、そう言って笑ったカルロスの顔が目の前にあった。
「カルロス」
最後の瞬間、グニドは呼びかける。
すぐそこで刃を振りかぶっているツェデクに、ではない。
兄弟の盃を交わした、カルロスにだ。
彼にただ、これから自分が為すことを、許してほしい。
「死ね」
裂けるように笑ったツェデクが、剣を振り下ろした。振り下ろそうとした。しかし寸前、グニドはずらりと牙が並んだ口を開け、ツェデクの首に食らいつく。
骨が砕ける感触があった。呻いたツェデクの口から、青い血が溢れ出す。
──救えないのなら、せめて道連れに。
グニドは全身を使って、長い首をぶん回した。放り投げられたツェデクの体が、あらぬ方向へ飛んでいく。
「カルロス殿……!!」
ゆるい放物線を描いたツェデクは椅子と椅子の間、グニドから一枝(五メートル)ほど離れたところに落ちた。それを見た満身創痍のヒーゼルが、立ち上がった気配がある。
されどそちらを振り向く前に、グニドもまたドシャリと倒れた。己の右肩から溢れた血が池を作っていくのを眺めながら、ほんの少しだけ鼻先を上げる。
「……カル、ロス」
ぼやけた視界の真ん中で、ツェデクが震える右手を己が剣に伸ばしていた。激しく咳き込み、血を吐いているが、どうやら神というのは本当に心臓を貫くか、首をもぎ取らない限り死なないらしい。
(……骨を砕いたくらいじゃ、駄目だったか)
最後の最後で、役に立てなかった。
これじゃ用心棒失格だな、と、重い瞼を閉じようとしたところで声がする。
「礼を言う、グニドナトス」
死の淵から聞こえた、幻聴だったのだろうか。
グニドにはそれが、カルロスの声のように聞こえた。
そこでぶつりと意識が途切れる。体が泥の沼に沈むような感じがした。
死というのは寒くて暗いが、やわらかい。
「──ぬな──トス──」
そのままグニドがずるずると泥に呑まれようとしたところで、どこかから声がした。
「死ぬな──〝死ぬな、グニドナトス〟」
それはビリビリと脳髄を駆け巡り、突き刺し、揺さぶるような命令だった。
途端にグニドは息を吹き返す。眼を見開くと同時に鼻孔も開いて、大きく息を吸い込んだ。
直後、すさまじい痛みが右肩から尻尾の先まで駆け抜ける。さすがのグニドも悲鳴を上げた。右腕。やはり肩から先が、ない。
「グニド……!」
駆け寄ってくる仲間の足音と呼び声が聞こえた。何が起きているのかはグニドにも分からない。ただ、ラッティたちの姿を探そうとわずか首をもたげたところで、自分を見下ろす黄金色の瞳があることに気がついた。
この威圧的で、見る者の心を無条件にひれ伏させる眼光は──ウォンだ。
アルハン傭兵旅団の長、ウォン。生きていたのか。ということは今の〝命令〟は彼が? 同じだ。初めてカルロスが放つ神の力を目の当たりにした日も、グニドはまるで逆らえなかった。彼の命令にだけは。
「グニド、グニド! ああ、しっかりしてちょうだい……!」
ほどなく集まってきた仲間たちが、あっという間にグニドを取り囲んだ。ポリーが泣きじゃくりながら跪き、何か青く閃くものを手に握る。
──魔導石。そうか、その手があったか。
この激痛が去ってくれるのなら何でもいい。とにかく早くどうにかしてもらいたかった。正直に言って、死んだ方がマシだと思えるくらいの痛みだ。大地の肚で自分が傷を負わせたとき、スエンも同じくらい苦しかったのだろうと思うと、謝罪の言葉しか浮かばない。
「おい、おい、グニド! 死ぬなよ!? 絶対に死ぬなよ!? でないとオイラの冒険記が──あ、いや、ルルはどうなる!? あの子を置いて逝くなよな!?」
「カ……ロス……カルロス……ハ……」
「あの人は……カルロスさんは、アンタが止めたんだ。お手柄だよ、グニド……」
グニドの首を撫で擦るようにして、膝をついたラッティが言った。けれどそこにぱたぱたと透明な雫が落ちてきて、グニドは彼女が泣いているのだと知る。
頭を上げればラッティは、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。いつも気丈な彼女が泣く姿なんて、グニドは想像したこともなかった。
その涙の理由が知りたくて、さらに視線を巡らせる。
そして、見つけた。
自らの胸に刃を突き立て、倒れているカルロスの姿を。
「……カルロス……?」
何がどうしてそうなったのか、考えることもできなかった。グニドの頭は真っ白になり、何の言葉も浮かばない。
カルロス。
止めたのか。自分で、自分を。
横たわった彼の傍では、ヒーゼルが師を揺り起こそうとしていた。傷だらけの体で何事か喚いている彼を、マルティナやアントニオが必死で止めようとしている。
「やめて下さい、ヒーゼルさん! そんな体で暴れたらあんたまで……!」
「放せ、アントニオ! カルロス殿を失うくらいなら、俺は……俺は──!」
「──キム!」
そのときだった。働かない頭で、ようやく何が起きたのか理解しかけた刹那、騒然とする聖堂内を切り裂くような声がした。
この声は、マナか。サンダリオとの戦いでグニドの傷を癒やし、力尽きたはずの彼女が、寝かされていた椅子の上で身を起こしている。顔面蒼白で胸を押さえ、かなり苦しそうにしているが、辛うじて意識が戻ったようだ。
「キム、石を……! その魔石を貸して、早く……!」
「石? ……これか」
と、マナの呼び声に反応したのはウォンだった。そう言えば彼は前にもマナに〝キム〟と呼ばれていたような。
あるいはそちらが彼の本当の名前なのかもしれない。ウォンまたはキムという名の人間は、鋭い眼光で再びグニドを見下ろした。
いや、正確にはグニドではなく、傍らに座り込んだポリーへ目をやったらしい。途端に怯えたポリーが「ひっ」と身を竦ませた。ガタガタ震える彼女の手には、青い魔導石がある。
「おい、犬人。石を寄越せ」
「えっ……で……でもっ……こ、これが最後の魔石なのヨ……! ぐ、グニドを、グニドを助けないと……!」
「マナはアビエス連合国の魔女だ。魔石の使い方はここにいる誰よりもよく知っている。だから──〝寄越せ〟」
彼に命じられたらグニドでさえ逆らえないのだから、ポリーに抗えと言う方が酷だった。彼女は泣きながら魔石を差し出し、ウォンもそれを奪い取るように持ち去っていく。いちいち所作の乱暴な男だ。
「マナ」
ほどなくウォンは青い魔石を、椅子の上のマナへと手渡した。彼女は喘鳴の狭間に掠れた声で「ありがとう……」と囁くと、まるで宝物でも手に入れたかのように、魔石を胸へ押し抱く。
「だがどうするつもりだ。いくら魔石を使ったところで、カルロス殿はもう──」
「まだ間に合う……巻き戻す。私が、全部……!」
「マナ」
「命令して」
「何?」
「私に命令して、キム。お願い……!」
いつも面のように動かないウォンの表情が、その瞬間、初めて歪んだような気がした。彼は口を閉ざし、やがてカルロスを一瞥すると、深い深いため息をつく。
「……どうなっても知らんぞ」
「望むところよ」
マナは、笑っていた。
世界を救うために選ばれた、生け贄みたいに悟りきった顔で。
「ならば、マナキタンガ・モアナ=フェヌアに命じる。──巻き戻せ、全力で」
マナの海色の瞳から、自我の光が消えた。
直後、彼女が胸に押し当てた魔石が瞬き、建物が閃光で満たされる。
視界が真っ白に塗り潰される寸前、グニドは見た。先刻マナに傷を癒されたときと同じ、あの複雑で奇妙な紋様がマナを中心に生まれるのを。
紋様は一瞬で広がった。光と共に、巨大な真円が聖堂を包み込む。
それらすべての情景が白の彼方へ消えると同時に、グニドは意識が遠のいた。
光の中で、時が、巻き戻ってゆく。