第五十七話 万事休す
一体何が起きているのか、グニドはすぐに理解することができなかった。
やっとの思いで辿り着いたサン・カリニョの虹神聖堂は、濃厚な血の匂いで満ちている。
ずらりと並ぶ長椅子の上には、倒れたまま動かない義勇軍の戦士たち。一応、みな生きてはいるようだが反応がない。眠っている……と言うよりは、気を失っているのだろうか。衣服や鬣が焼け落ちているところを見ると、本砦の火災に巻き込まれた者たちかもしれない。
「グニド」
そのとき自分の名を呼ぶ声が聞こえて、グニドは首を巡らせた。たくさんの灯火具に照らされた通路の先――建物の最奥にある、一段高くなった場所。
そこに置かれた祭壇のようなものの向こうから、不意に狐の耳が生えた。ラッティだ。物陰に隠れて見えなかったが、ヴォルクやポリーもいる。ヨヘンは……いた。ヴォルクの頭の上だ。
「ぐ、グニド! 無事だったのネ……!」
本砦から駆けつけたグニドたちの到着を知るや、聖堂内で起きて活動していた者たちがわっと歓呼の声を上げた。とりわけ獣人隊商の面々は心底安堵した様子で、ポリーなどは喜びのあまり咽び泣いている。
だが、まともに身動きしている者の数があまりに少ない。グニドは仲間の無事を知ってホッとする反面、嫌に静かな聖堂内の様子に不安を覚えた。
そもそもロクサーナはどこにいるのか、姿が見えない。こちらは衰弱したルルやマナ、それに複数の怪我人を抱えているのだ。ロクサーナの力で彼らを何とかしてもらわなければ。
いや、癒やしの力が使えるのなら、この際トビアスでも構わない。グニドはそう思って彼らの姿を探したが、血や焦げの匂いに邪魔されてついに見つけ出すことができなかった。仕方なくルルを抱えたまま、仲間のもとへ走り出す。ラッティたちも同じように駆け寄ってきた。聖堂内の異様な空気を察したのか、アントニオたちも入り口でどよめいている。
「グニド、そっちはどうだった……!? アンタは無事みたいだけど、ルルは――」
「ルル、神術、使イスギタ。砦ノ中ニモ、長ク居タ。ソノセイデ、弱ッテイル」
「疲労と脱水症状か……まずいね、とにかく休ませないと……いや、けど、カルロスさんは? 見つかった?」
「否。カルロス、砦ニ、イナカッタ。皆、カルロス、探シテイル」
「まだ行方知れずってことかよ? かーっ、ラッティ、こりゃマズいぜ! だからオイラは逃げようぜって言ったんだ! こうなると分かってたら最初から――むぎゅうっ!?」
「過ぎたことを話しても仕方ない。それより今は、この状況を何とかしないと」
「ナニカ、アッタカ?」
異変を察して、グニドは尋ねた。仲間たちの顔色はあからさまに曇っている。
ポリーは大きな体を縮こまらせて泣いているし、ラッティの耳もしょげたままだ。唯一冷静なヴォルクは……いや、たぶん、彼も冷静ではない。
その証拠に右手で掴んだヨヘンを放すのを忘れているし、股の間から覗く尻尾も変だ。黒い毛皮が極細のトゲみたいに逆立って膨らんでいる。ヴォルクの尻尾がああなるのは、大抵ひどく緊張しているときだ。
「……ジャックさんはいる?」
「ここにいるが?」
他方、耳も尻尾も垂れたままのラッティが声を上げれば、すぐにジャックがやってきた。そう言えばジャックは、ラッティたちに頼まれてグニドとルルを助けに来たと言っていたっけ。彼らは共にアフェクト侯領へ潜入して以来、そこそこの信頼関係で結ばれているようだった――ただ力なくうなだれて、上目遣いにジャックを見る今のラッティの様子は明らかにおかしかったが。
「グニド、アンタもだ。……来てほしい」
そう言われてついていった先で、グニドは絶句した。先程ラッティたちが現れた祭壇の裏。そこにロクサーナとトビアスが、並んで横たわっていたからだ。
いや、違う。グニドは限界まで見開いた眼を凝らした。
そもそも、あれは本当にトビアスか?
だって、着ている服がいつもと違う。しかも全身血まみれで、元はどんな色だったのか、それも分からぬほどに汚れた衣服は派手に破れている。あの破れ方はどう見ても斬られた痕だ。出血の量から見ても、まず間違いないだろう。
だが、何よりもグニドの知るトビアスと違うのは――青い。
鬣も、眉も、睫毛も。すべてが青い。
グニドの記憶が確かなら――正直、トビアスの容姿はぼんやりしていたからぼんやりとしか覚えていないのだが――確か彼の鬣は、眉は、睫毛は、すべて混じり気のない黒だったはずだ。陽に当たるとほんのり青みを帯びるルルの黒鬣とは違う、どちらかと言えばヴォルク寄りの、漆黒の鬣。
それが今、深い深い海底の水で染め上げたように青い。
だからグニドは一瞬自分の記憶を疑った。人違いではないかと思った。けれど、
「……血を、飲んだのか」
隣に佇んだジャックが、呻くようにそう言った。
「トビアスは、血を飲んだのか。神子の血を」
「……ああ。ロクサーナさんが、自分で与えた。さっきここに、エレツエル神領国の刺客が攻めてきたんだ。トビアスさんはそこでやつらに斬られて……」
ジャックが小さく舌打ちを漏らした。が、グニドにはさっぱり話が見えない。
血を飲んだ? トビアスが、ロクサーナの?
ラッティはそれを、ロクサーナが自ら与えたと言った。グニドが彼女の話す人語を聞き間違えていなければ、の話だが。
「血飲み子っていうんだよ」
と、グニドが混乱していることを察したのかヴォルクが言った。
「神子の血を飲んだ人間は、神子と生死を共にする下僕になる。神子と同じ不老の力を得て、一生を神子の傍で過ごすんだ。つまり、人間じゃなくなる。神子と同じく神の側へ行ってしまって、二度と人には戻れない。髪が真っ青なのがその証拠――エマニュエルでは、〝青〟は神の象徴だ」
ポリーの啜り泣く声が聞こえた。ラッティやヨヘンは、何も言わない。
話が聞こえたのか、こちらへ来ようとしていたアントニオと数人の義勇兵が、中途半端なところで立ち止まっているのが見えた。と、ときにジャックが口を開く。
「要するにこういうことか? お前らはここで刺客の襲撃を受けて、トビーがやられた。ロクサーナは瀕死のトビーを救うために自分の血を分け与えた。神子の血は、一度だけなら死にかけの人間を救える。代償として血を飲んだ人間に、一生神子から離れられない呪いをかけるがな」
「ム、ムウ……ダガ、ロクサーナ、癒ヤシノチカラ、アル。ナノニ何故、血、飲マセタカ?」
「ロクサーナさんは、ここに収容された怪我人をまとめて救って、力を使い果たしてた。そこに刺客が攻めてきたんだ。トビアスさんの傷まで癒やす力は、ロクサーナさんには残されてなかった……」
「チッ……冗談じゃねえぞ。ロクサーナは、これだけは二度とごめんだと言ってたのに――」
乱暴に頭を掻いて、吐き捨てるようにジャックが言った。そう言えば彼はトビアスのことを〝トビー〟と愛称で呼んでいる。
グニドがスエンルフやエヴィティスのことを、〝スエン〟や〝エヴィ〟と呼んでいたのと一緒だ。愛称は親しみの表れだ。
つまりジャックは目の前で倒れている二人と、グニドが思う以上に親しかったということか。そう思い至ってジャックを顧みた、そのときだった。
「ロクサーナ様!」
突然聖堂の入り口が騒がしくなる。何事かと振り向けば、割れた人垣の向こうから、長い鬣を振り乱して駆けてくるメスの人間が見えた。
あれは――あの豊かに波打つ赤茶色の鬣は、マルティナだ。ヒーゼルのつがいで、グニドがカルロスの側仕えをしている間、度々ルルの面倒を見てくれていたからよく覚えている。さらに腕にはルルよりも小さな仔人――エリクを抱きかかえているから間違いなかった。彼女は息急き切らせて通路の真ん中までやってくると、立ち止まっていたアントニオらに掴みかからんばかりの勢いで声をかける。
「アントニオさん、ロクサーナ様は……!? ロクサーナ様をお呼び下さい、お願いします! でないと、主人が……!」
「しゅ、主人って、ヒーゼルさんか……? そうだ、オレたちもあの人を探してたんだよ! あんたら、今の今までどこに……!」
「ディアマンテ忠勇騎士団の騎士たちに襲われて、あちこち逃げ回っていたのです! ですが主人がわたくしたちを守るために負傷して……いいえ、それだけではありません、宴で出されたお酒に毒が入れられていたのです! 主人はそのせいで満足に戦えず……!」
「はあ!? 毒……!?」
何やらとんでもない事態になってきた。息を弾ませ、取り乱しているマルティナの背後では、義勇兵たちのどよめきがさらに膨れ上がっている。
彼らの間を縫うようにして現れたのは、軽そうな鎧を着て、腕に青い布を巻いた屈強なオスたちだった。あの青い布は、ウォンに率いられている傭兵の証だ。
彼らは一人の人間を左右から挟み込み、引きずるようにして連れてきた。うなだれていて顔はよく見えないが、あの鮮やかに赤い鬣は――ヒーゼルだ。体中から血を流し、完全に意識を失っている。
「ヒーゼルさん……!?」
聖堂のあちこちから悲鳴が上がった。ヒーゼルはカルロスに次ぐ義勇軍の要だ。
そのヒーゼルが満身創痍で運ばれてくる。皆がわっと彼へ駆け寄るのが見えた。
しかし、グニドは動けない。
「ヒーゼル殿、ヒーゼル殿! しっかりして下さい……!」
「くそっ……何だよこれ……!? カルロス様は行方不明で、ヒーゼルさんまでこんなことに……一体どうなっちまってるんだ、義勇軍は!?」
「ですから、お願いします、ロクサーナ様をと……! このままでは主人は助かりません……! あの方は、ロクサーナ様は今どちらに――」
「無理だ。ロクサーナも力を使い果たした。まともに動ける状態じゃねえ。ついでに言うと、マナもトビーも絶賛昏睡中で、癒やしの術を使える人間が一人もいない。――万事休すだ」
騒ぎの中心に歩み寄ったジャックが、非情とも言える宣告をした。途端に聖堂内はしんと静まり返り、マルティナなどはエリクを抱えたまま放心している。いや、あるいは耳を疑っているのかもしれない。
だが、ジャックの言葉は真実だ。動かしがたい現実だ。たった一晩で、世界がひっくり返ったようだった。だからグニドは動けなかった。
しっかり地面を踏み締めているはずが、どこか現実味がなくふわふわしている。この感覚は、そうだ、一度に大量の血を失ったときのアレに似ている。
しかし、これは確かに現実なのだ。そして今、聖堂内にいる誰もがその現実に打ちのめされている。グニドは嫌でも考えた。ヒーゼルまであんな状態になっているということは、もしかしたら今頃、カルロスも、どこかで――
「三連火箭!」
グニドの頭の中で膨らんだ最悪の想像が、刹那、爆音に吹き飛ばされた。
聖堂の入り口付近で赤い閃光がほとばしり、次々と爆発が巻き起こる。
悲鳴が轟音に掻き消され、地面が揺れた。傍にいたラッティたちがよろめいて、慌ててグニドに掴まってくる。
「取り押さえろ!」
聞き覚えのある声がした。低く、野太くて、ほんの少しザラついた声だ。
聖堂の最奥から、グニドは確かに見た。
――サンダリオ。
左の肩から先がないが、間違いない。今夜の裏切りの首謀者であるあの男が、大勢の騎士たちを引き連れて、噴き上がる爆煙の向こうから現れた。走るでもなくよろめくでもなく、一歩一歩、大地を蹂躙するように。
入り口付近に溜まっていた義勇兵たちは、たちまち薙ぎ倒された。最初の爆発に巻き込まれて体に火がつき、叫びながら転げ回っている者たちもいる。
グニドはその絶叫で我に返った。――何だ。何が起きた?
分からない。分からないが、味方が襲われ逃げ惑っている。ディアマンテ忠勇騎士団の逆襲だ。逃げたと思った連中がまた戻ってきた。
こちらを見据えるサンダリオの双眸は、燃えている。
「お……おいおい、これってマジでやばいんじゃないの――って、うわっ……!?」
瞬間、隣であとずさりかけていたラッティが悲鳴を上げた。グニドが何の前触れもなくルルの身柄を押しつけたからだ。
彼女は反射的にルルを抱き留め、そしてハッとしたようにグニドを見た。
けれどグニドは振り向かない。振り向いている時間も惜しい。サンダリオが来る。あいつを仕留め損ねたのは自分だ。――やつを、止めなければ。
「動くな、竜人」
だが大竜刀を構え、踏み出そうとしたグニドを、怒気に満ちたサンダリオの声が押し留めた。グニドにはそんな制止の言葉を聞いてやる義理はないのだが、思わず全身を硬直させる。
それ以上、一歩も動けなかった。理由は単純だ。グニドは牙を剥き、低く唸りながら、しかし敗北を確信する。
「武器を捨てろ。――さもなくばやつらが死ぬぞ」
そう言って足を止めたサンダリオの背後で、床に寝かされたヒーゼルの周りに騎士たちが群がっていた。彼の傍にはマルティナとエリクもいて、突きつけられた刃からヒーゼルを守るように抱き竦めている。
同じく椅子に寝かされたマナも、その他大勢の負傷者たちも、皆が反抗を押え込むための人質だった。……万事休す。ジャックの言ったとおりだ。
グニドは大竜刀をゆっくり手放した。重々しい音を立て、分厚い刃が床に転がる。同じようにヴォルクが武器を捨てた。ヴォルクだけじゃない。ジャックもアントニオも、これ以上の抵抗は不可能だと悟った者たちが、次々と得物を手放していく。
「貴様らの負けだ、反乱軍」
やがて抵抗の意思を見せる者が一人としていなくなると、サンダリオが聖堂中に響き渡る大声で叫んだ。
どこからか啜り泣く声がする。泣いているのはポリーか、マルティナか、エリクか。――すまない。グニドは泣いている誰かのところへ歩み寄って謝りたかった。
すまない。務めを果たせなかった。守り切れなかった。
自分は義勇軍に雇われた、用心棒だったのに。
「……カルロスはここにもいないようだな。やつがどこにいるか知っている者はすぐに答えろ。あるいはあの男も敗北を悟って、一人で先に逃げ延びたか」
「カルロス様はそんな人じゃねえ……!」
数人の義勇兵たちと一塊になったアントニオが、憎悪を剥き出しにして呻いた。サンダリオもそれが聞こえたのか、声のした方へ一瞥を向ける。
だがやつは特に取り合うでもなく、フン、と短く鼻で笑った。片腕がないくせにずいぶんと余裕だ。グニドが斬り落とした腕の付け根には布が巻かれているが、血の滲みがない。サンダリオの使う水の神刻は癒やしの力を持つから、自分で傷を塞いだのだろう。
「どうだかな。そもそもカルロスはトゥルエノ夫人の不貞から生まれた男だ。それを夫人が夫の子だと言い張り、ついには爵位を継がせたともっぱらの噂だろう。つまるところ、カルロス・トゥルエノという男は存在からして欺瞞の塊──とすれば、案外お前たちも欺かれていたのかもしれんぞ。やつの甘言に騙され、うっかり《義神刻》を譲り渡してしまった旧主夫人のようにな」
「違う。お前らは神に刃向かう口実が欲しいから、そうやってカルロス様を貶めてるだけだろう。少なくともあの人は、自分の爵位も人生も擲って民のために立ち上がった。保身のために神領国なんざと手を結んだ、てめえらクズとは比べるのも失礼なくらい立派な人だ! さっさと魔界に堕ちやがれ、恥知らずどもが……!」
「魔界に堕ちるのは貴様らの方だ。神を味方につけておきながら敗北を喫するなどと、そんな間抜けな話は古今東西聞いたことがない。すなわち、貴様ら反乱軍には神々の加護がなかったということ──その事実こそが、カルロスが神をも欺き神子を詐称した何よりの証左だ」
「へえ、なるほど。あんたらルエダ貴族さん方は、神々が人間ごときに欺かれる低能な存在だと思ってるわけだ? そりゃ、同盟国さんが聞いたら激昂しそうな話だねえ」
と、緊張感のない声で返したのはジャックだった。既に敗北を悟って諦めているのか何なのか、長椅子の背凭れに腰を預けて佇んでいるジャックには、あまり切迫したものを感じない。
だが反対に、それまで余裕綽々といった様子だったサンダリオの眉がぴくりと跳ねた。彼の双眸が射るようにジャックを見、睨まれたジャックは「おお、こわ」と嗤いながらそっぽを向く。
「正義の神子が魔道に堕ちたと喧伝しているのは、他ならぬエレツエル神領国だ。我々はかの国の──秩序の神子エシュアの言葉を信じて手を結んだのだ。カルロスはもはや神子ではない。畏れるに値せん」
「ハ、ものは言いようだな。まあ俺はルエダ人じゃねえから、神をも恐れぬこの国が、どんな末路を辿ろうが知ったこっちゃねえが」
「ならば口を閉じていろ。我らの目的はただ一つ、カルロスの首だ。もう一度だけ訊こう、カルロス・トゥルエノの居場所を知る者がいれば名乗り出ろ。これ以上やつを庇い立てする気なら、貴様らの仲間を一人ずつ殺していくぞ」
サンダリオは言いながら、ついに腰の剣を抜き放った。その切っ先は丸腰と化したアントニオたちへ向けられる。
まずいことになった。元々やつらに義勇兵を生かしておくつもりなどないのだろうが、このままでは時間を稼ぐこともできない。
何しろ──グニドの知る限り、だが──カルロスの居場所はここにいる誰も知らないのだ。彼は宴のあとに忽然と姿を消してしまった。
だがまさかサンダリオの言うように、義勇軍の敗北を悟って逃げ出した……などということはあるまい。アントニオの言うとおり、カルロスはそんな人間ではない。盃を交わしたグニドには分かる。カルロスは、きっと──
「私ならここにいるぞ、サンダリオ」
──きっと、来る。
グニドがそう確信したのと、聖堂の外から淀みない声が響いたのが同時だった。途端に敵も味方も一斉にざわめき、皆の視線が一体となって外を向く。
そこには確かに、カルロスがいた。
供は誰も連れていない。身一つで、軽装だ。
鎧すらも帯びていないが、どこか手傷を負っている風でもない。
ただ、月明かりもない夜の下に佇んでいるせい……だろうか? どうも顔色が優れないような気がする。青いというよりは土気色、のような。
「ようやく現れたか、カルロス……!」
刹那、彼の姿を認めたサンダリオが狂喜に顔を歪めた。かと思えば武装した騎士たちが走り出し、瞬く間にカルロスを取り囲む。
その間も、カルロスは微動だにしなかった。ただ秋の夜風に吹かれながら、茜色の瞳でじっとどこか一点を見つめている。……様子がおかしい。
「騎士の風上にも置けぬ臆病者め。今までどこに隠れていた? 虐殺される仲間を助けもせず、勝敗が決してから姿を現すとは、とんだ神子殿がいたものだな!」
「……」
「まあ、いい。カルロス・トゥルエノ、貴様の負けだ。いかな貴様が神子だとて、たった一人でこの状況を覆すことはできまい。今すぐ武器を捨てて、投降せよ。さすれば犠牲者は最小限に留めてやる」
「……」
「おい、どうした。何とか言え。それとも部下を一人ずつ、目の前で殺されたいか?」
無反応のカルロスに業を煮やしたのか、サンダリオが鎧を鳴らして入り口へ歩み寄った。かと思えば彼は味方を跳ね除け、さらに戦う術を持たないマルティナやエリクまで押し退けると、にわかにヒーゼルの赤い髪を掴み、意識のない彼を引きずり起こす。
「……! おやめください……!」
マルティナがすぐさまサンダリオへ飛びついたが、容赦なく蹴りのけられた。悲鳴を上げて倒れ込んだマルティナに、エリクが泣きながら縋りつく。
聖堂内がまたも騒然とした。貴様、それでも騎士か、と誰かが叫んだ。しかしサンダリオは取り合わず、角張った顎をしゃくると、手下の一人にヒーゼルへと刃を向けさせる。
「いいか、カルロス。我々は主君を騙し、旧主夫人を騙し、果ては神まで騙し通した貴様に散々苦杯を舐めさせられた。これ以上貴様の痴態に付き合っている暇はない。この男を殺されたくなければ、十かぞえるうちに武器を捨てて跪け。十、九──」
サンダリオはカルロスに考える時間も与えずに、大声で数をかぞえ始めた。聖堂の中には依然罵声と怒声が飛び交っているが、あの男の巨躯は揺らがない。
なんてやつだ。グニドは喉の奥で唸った。サンダリオはカルロスに正々堂々勝負を挑むこともしない。それどころかカルロスの最も大切なものを奪い、脅そうとしている。カルロスとヒーゼルが、堅い絆で結ばれた師弟であることを知っていて人質に取ったのだ。ヒーゼルはただでさえ重傷を負い、虫の息だと言うのに──
「八、七、六、五……」
罵声がますます激しくなった。そのとき、グニドは遠いが確かに見た。
カルロスの手が、腰の剣へ伸びる。だが、やはり様子がおかしい。
カルロスは顔を伏せ、きつく己の右腕を押さえているように見えた。柄を掴んだ手が震えている。グニドの背筋を、ぞっと冷たいものが駆け上がった。
「……皆、すまない──」
聞こえた。
飛び交う怒号の狭間に、グニドは確かに聞いた。
ゆえに瞬間、身を翻す。ぎょっとしているラッティとポリーを押し倒した。ヨヘンを連れたヴォルクには手が届かなくて、叫ぶ。
「伏セロ!!」
ヴォルクの耳がピンと立った。少し離れたところにいるジャックたちも、驚いたようにこちらを見ている。
カルロスの剣の鍔が、鞘から離れた。グニドはもう一度伏せろと叫ぶ。ヴォルクが言われるがまま、仲間を庇うように覆い被さってきて、
「三、二、一──」
勝ち誇った笑みを浮かべて、サンダリオが数をかぞえ終えた。
直後、世界が真っ赤に染まり、すべての音が消し飛んでいく。
突風が吹いた。
すべてを斬り払う、赤い可視の風だった。
その風が放つ強烈な光に、グニドは思わず目を閉じる。
悲鳴も聞こえなかった。
赤く巨大な三日月が頭上を通りすぎたあと、グニドは恐る恐る目を開けた。
長椅子と長椅子の間にある通路で、ジャックやアントニオたちが折り重なるようにして伏せている。あちこちにいた義勇軍の仲間たちも、大半は伏せて無事だったようだ。
だが、ディアマンテ忠勇騎士団は違った。
聖堂内だけでも百人はいたはずの騎士たちは、跡形もなく消え去った。
ああ、とグニドは声を漏らす。なんてことだ。床に倒れたヒーゼルの隣では、右腕まで失ったサンダリオが、茫然と立ち尽くしている。
「……は?」
彼はそう声を発するや否や、どさりと膝から崩れ落ちた。跪いただけで倒れはしなかったが、失われた右腕の断面からは、勢いよく血が噴き出している。
低い笑い声が聞こえた。
その声はだんだん大きくなっていき、最後はおぞましい哄笑へと変わった。
笑っているのはカルロスであって、カルロスではない何かだ。
「──吹けば飛ぶ塵芥風情が。身の程を弁えよ」
開け放たれた扉の向こうで、赤い眼がギラリと光った。
裂けるように口角を吊り上げて、神が、嘲笑っている。