第五十六話 遠き星影
胃の腑から何かが迫り上がってきて、グニドはゴブッと血を吐いた。
獲物の血で口内を満たしたことはあっても、自分の血の味を噛み締めるというのは、これが生まれて初めてかもしれない。
己の腹に刺さった氷の棘を、ひと思いに引き抜いた。白い皮膚に開いた穴から音を立てて血が噴き出し、足元の血溜まりを広げていく。
「今だ、殺れ……!」
仲間に助け起こされたサンダリオが、グニドを指差して何事か喚いていた。標的をジャックからグニドへ切り変えた騎士たちが、雄叫びを上げて殺到する。
グニドは、吼えた。体中に開いた、穴という穴から血が噴き出すのも構わずに、迫り来る騎士どもを薙ぎ払った。
しかしすぐに足が縺れ、よろめく。背中からひっくり返りそうになるのを、両脚を踏ん張って何とか耐えた。視界が明滅を始めて、景色が霞む。自分の血の臭いが邪魔をして、鼻もきかない。
『くそ……』
完全に見誤った。サンダリオが神術使いである可能性を考慮しなかった、自分の落ち度だった。人間にこんな深手を負わされたのはいつ以来か。ヒーゼルとのアレを除けば、これも初めてかもしれない。
悔しいが、見事だった。さすがは神子を罠にかけ、まんまと奇襲を成功させた男だ。もっともこの策を練ったのはサンダリオではなく彼の副官なのだが、そんなことを知らないグニドはぜえぜえと荒い息をつき、やがて、決断する。
「――ジャック! ルルヲ、連レテ、逃ゲロ……!」
「はあ……!?」
騎士の一人と斬り結んでいたジャックが、向こうで頓狂な声を上げた。彼は鍔迫り合いのさなか、背後を取って斬りかかってきた別の騎士の攻撃をするりと躱し、敵との間合いを計りをながら言う。
「いや、逃げろったって、この状況でどうやって……!」
「道、オレガ、作ル。聖堂、行ケバ、ロクサーナ、居ル……!」
「そりゃそうだが、お前、その体で……!」
「オレ、マダ、戦エル。道、作ル……!」
それはジャックに意思を伝えると言うよりも、自分自身を鼓舞する言葉に近かった。グニドは視界を覆い尽くさんとする闇を振り払うように吼え猛り、取り囲む騎士たちを怯ませる。
時間がなかった。ここで自分が倒れたら、他に血路を開ける者はいなくなる。ならば自分が、倒れる前に。グニドは騎士たちの守りが薄い一点目がけて、大竜刀をぶん回した。鋼の鎧に刃がめり込み、避け切れなかった騎士が他の騎士を巻き込んであらぬ方向へ吹っ飛んでいく。
「氷霜の枷!」
ところが新手を吹き飛ばそうとしたところで、またもサンダリオの神術が来た。冷気がグニドの両脚を這い上がり、瞬く間に絡め取る。
引き剥がそうとしたものの、思うように力が入らなかった。暴れれば暴れるほど血が失われる。グニドの脚は地面に縫いつけられた。動けない。
「グニド……!」
ジャックが援護に入ろうとしたようだったが、行く手を騎士の壁に遮られた。残りの騎士たちが鎧をガシャガシャ鳴らしながら、矛を突き出して迫ってくる。
(――ラッティ)
すまない、とグニドは胸中で唱えた。ルルを連れて必ず合流すると言ったのに、仲間との約束を違えるなんて戦士の名折れだ。
何よりグニドは、兄弟のことが気がかりで仕方なかった。もしも自分がここで死んだら、あの男はどうなるのだろう。義勇軍はどうなるのだろう。世界を知らない谷の同族たちは、
(ルルは――)
長い首を巡らせて、グニドは最期にルルの姿を焼きつけようとした。体中を煤まみれにしたルルは、炎に照らされた地面にうつ伏せになって倒れている。
けれどもそのとき、彼女の睫毛が微か震えた。
かと思えばルルは薄く瞼を上げて、ほんのわずか頭をもたげる。
『……グニド』
掠れた声がグニドを呼んだ。
『グニド――』
潤んだ彼女の唇が、何を紡ごうとしたのか、グニドは知らない。
「死ねえっ!」
ルルの姿が、声が、得物を構えた騎士の巨体に遮られた。が、次の瞬間、騎士はグニドの胸元に矛を突き立てようとして果たせず、血を噴いて倒れ込む。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。血を流しすぎたせいだろうか。グニドの視界で起こる出来事は束の間、すべてが水の中のもののようにゆっくりと流れた。倒れた騎士の首、兜と鎧のわずかな隙間に、槍の穂先が捩じ込まれるのが見える。
そこから大量の血を噴き出し、騎士は倒れた。ふと視線を転じれば、グニドを包囲していた騎士の大半が地面に組み伏せられている。
グニドは金色の眼を見張った。
騎士たちを打ち倒したのは、義勇軍の戦士たちだった。
その中でもいち早くグニドに駆け寄り、敵兵を威嚇するように吼えたのは、左足の膝から下が丸太の男だ。
「薙ぎ倒せ……!」
丸太の男が叫ぶや否や、岩崩れに似た怒号が轟き渡った。振り向いた先にはいつの間にか大勢の義勇兵がいて、騎士たちを呑み込むように突撃していく。
「アントニオ」
その義勇兵を率いて現れた男の名を、グニドは唖然と口にした。
槍を構えたアントニオはグニドに一瞥をくれるや、忌々しげに舌打ちする。
「これで借りは返したからな」
片足が丸太とは思えぬ体捌きで、アントニオもまた敵兵に殺到する人波の一部となった。テンプランサ侯領の騎士たちは義勇兵の奇襲に泡を食っているようで、もはやグニドには見向きもしない。
「自壊せよ」
刹那、聞いたことのない言語が聞こえた。かと思えば両脚を凍らせた氷塊に亀裂が走り、儚げな音を立てて砕け散る。
「巻き戻せ」
次いでグニドの足元に、見たこともない紋様が展開された。不可解な線や図柄をいくつも内包したその紋様は、淡く青い光を放ち、グニドを円形に包み込む。
途端に何か、強烈な光の渦に呑み込まれるような感覚がグニドを襲った。あまりのまばゆさに怯んで目を閉じれば、たちまち力が漲ってくる。
――何だこれは。
そう思いながら恐る恐る瞼を開くと、まず血の拭われた己の白い腹が見えた。
あちこちに開いていたはずの傷穴が、気づけばすべて塞がっている。それどころか血の流れた痕跡もないというのはどういうことか。
「間に合った――」
瞬間、背中にどっとのしかかってくる重みを感じて、グニドは弾かれたように振り向いた。いつからそこにいたのだろう、すぐ後ろにはマナがいて、グニドの緋色の鬣にすっかり顔を埋めている。
『マナ? ひょっとして今のはお前の仕業か?』
「アハ・ティア・カーレ……」
『は? 今、なんて言った?』
「ティアキ・カルロス――」
聞いたこともない言葉で一方的に喋ったかと思えば、マナは力なくグニドの背中を滑り落ちた。グニドは慌ててそんなマナを抱き留めたが、そのときにはもう完全に気を失っている。
赤い炎に照らされながら、しかしマナの顔面は蒼白で、体が異様に冷たかった。そう言えば宴の席でカルロスが、マナは月が欠けると体を壊すと言っていなかったか。
とっさに見上げた空には月がなく、グニドはすぐに今夜が新月であることを思い出した。つまりマナは、これほど弱りきった体で自分を――
グニドは低く喉を鳴らした。彼女が意識を手放す間際、何を言っていたのかは分からないが、譫言のようにカルロスの名を呼んでいたのは分かる。
その事実から推察するに、マナは恐らく、グニドにカルロスを託しに来たのだろう。彼女がどんな未来を視てここへ来たのかは知らない。けれど。
『グニド……!』
激しい鯨波の狭間から、透明な声がグニドを呼んだ。サンダリオらに吶喊する義勇兵の間を縫って、ルルを抱いたジャックが馳せてくるのが見える。
乱戦を抜けると、ルルは自ら地面へ飛び降り、よろめきながらもグニドへ駆け寄ってきた。グニドはマナを抱いているのとは逆の手で、泣きながらやってきたルルを抱き留めてやる。
『グニド、グニド……!』
ルルは感情が言葉にならないようで、しゃくり上げながらグニドに縋った。服越しに感じる肌は、熱い。あるいは高熱で朦朧としているのかもしれない。
それでもルルは、グニドがそこにいることを確かめるようにぎゅうっと体を密着させた。だからグニドも、ルルの青みがかった黒鬣にぐりぐりと額を押し当てて、ここにいるぞ、と伝えてやる。
「ジャック。ルルト、マナヲ、頼ム」
「ああ」
ジャックは傷だらけで息も弾んでいたが、幸い深手は負っていなかった。グニドは弱り切ったルルとマナを彼に預けると、一度は手放した大竜刀を拾い上げる。
『グニド』
再びジャックに抱き上げられたルルが、不安そうに呼び止めてきた。しかしグニドは顔色を変えず、首だけでルルを振り返る。
『大丈夫だ』
答えると同時に、駆け出した。マナの魔法はグニドの傷を癒やすだけでなく、気力体力、すべてを回復させてくれたようだ。あんなに血を流したあとだというのに、体が軽い。
グニドは咆吼を上げ、乱戦の中を突っ切って、一直線に標的へ肉薄した。狙いは言うまでもない。――騎士団長だ。
「団長……!」
グニドの突撃に気づいた騎士数人が、慌てて前方に立ち塞がった。
サンダリオは形勢不利と見るやさっさと逃げ支度に入ったようで、今にも馬へ跨がろうとしている。
ゆえにグニドは壁となった騎士たちを蹴散らし、斬り伏せ、一気にサンダリオへと躍りかかった。鐙へ足をかけようとしていたサンダリオも、舌打ちと共に身を翻す。
『ジャアアアアアッ!』
絶叫と共に、グニドは大竜刀を振り抜いた。ぶつかり合った鉄と鉄とが、暴力的な音を奏でて火花を散らす。
しかし竜人が全力で放った一撃に、人間が勝てるはずもなかった。衝突の瞬間、黒緑色の鱗の下で筋肉が盛り上がり、分厚い大竜刀が騎士の剣を吹き飛ばす。
「――仕留めろ!」
刹那、剣を失い、体勢を崩したサンダリオが、苦しまぎれに何か叫んだ。
彼の視線の先、グニドの背後、そこに鎧通しを抜いて襲いかかろうとしている騎士がいる。
だがグニドは振り向かなかった。ただ目の前のサンダリオだけを見据え、返す刀を振り下ろした。
サンダリオの肩に、鎧に、刃がめり込む。
それと時を同じくして、背後に迫った騎士の胸から、アントニオの槍が生えた。
「おぁぁぁああああっ!!」
ドサリと重い音を立て、サンダリオの左腕が地面を転がる。巨漢の肩からは飛沫のように血が噴き出し、あっという間に血溜まりを作り出した。――とどめだ。
グニドは左肩を押さえてうずくまったサンダリオの頭上に、容赦なく刀を振り翳した。ところが瞬間、サンダリオは血走った目でグニドを睨み上げ、手甲の継ぎ目から青光を漏らす。
「凍える牙……!」
至近距離からの神術。グニドは再び飛来した氷の刃を、すんでのところで回避した。しかし刃は何もない宙空に次々と生み出され、執拗にグニドを追撃してくる。
鎧のないグニドはその攻撃を躱すため、サンダリオから跳び離れざるを得なかった。すると直後、ほとばしった青い光は濃霧となり、またもグニドの視界を覆い尽くす。
『くそ……!』
先刻の失態が脳裏をよぎり、グニドはとっさに霧から距離を取った。
ところがほどなく、霧の中から馬蹄の音が遠ざかっていくのに気がついて、はっと首を高くもたげる。
やがて霧が晴れる頃には、サンダリオを始め生き残った騎士たちの姿が消えていた。それを知ったアントニオも悪態をつき、槍の石突でガッと地面を殴りつけている。
「ちくしょう、逃がした……! サンダリオの野郎、図体に似合わず姑息な真似しやがって……!」
「ここで負けたらグラーサ侯の面目は丸潰れ――というか、テンプランサ侯領がエレツエル神領国に進呈される可能性もあるからな。そりゃ奴さんも必死になるってもんさ。兵力にもまだまだ余裕がありそうだし、あの様子じゃ、すぐに態勢を立て直して戻ってくるだろう」
呆れたような口調でそう言ったのは、ルルを抱えてやってきたジャックだった。彼はこうなることをある程度予測していたのか、さして取り乱す様子も悔しがる様子もなく佇んでいる。
マナはどうしたのかと首を巡らせると、戦闘を終えた義勇兵が、彼女を守るように取り囲んでいるのが見えた。ルルも再び意識が怪しくなっているようで、ジャックに片腕抱きされたまま、虚ろな視線をさまよわせている。
「ムウ……スマン。サンダリオ逃ガシタハ、オレガ悪イ。トドメ、刺セナカッタ」
「いや、むしろあの数相手にたった二人で持ちこたえたのが奇跡だっての。今回ばかりはさすがの俺も肝が冷えた。助かったぜ、アントニオ」
言いながら、ジャックがさりげなくルルを差し出してきたので、今度はグニドが彼女を抱き上げた。ルルの体温はやはり高く、戦闘が果てたからと言ってあまり悠長にしている暇はなさそうだ。逃げたサンダリオのことは気になるが、今は一刻も早く聖堂を目指さなければならない。
「しかしお前らがなんでここに? もしやカルロス殿の指示か?」
「いや、オレたちはウォン隊長の指示でここへ……カルロス様の消息が掴めねえから、手の空いてるやつはまとまって捜索に動けと言われて来たんだ。そしたらアンタらが敵に囲まれてるのが見えて、とっさに助けに入ったのさ」
「だがお前らの持ち場は兵舎区だろ。あそこには諸々の物資の貯蔵庫もある。それをほっぽり出して来たってのか?」
「まさか。倉の中のものはサンダリオたちが来る前に、全部アルハン傭兵旅団の野営地に移したんだよ。おかげで倉は焼けたが、輜重は無事だ。敵は義勇軍の物資を焼き払えたと思って、喜んでたみたいだけどな」
『アルハン傭兵旅団』というのはウォンが率いる傭兵団の名前だった。彼らはまるで義勇軍と交わることを避けるように、サン・カリニョの外れで野営している。有事の際は義勇軍に協力するが、平時は孤立した野営地に籠もって出てこないというのが常のようだ。
そこに義勇軍の物資が移されていたというのは初耳だが、アントニオ曰く、それもカルロスの事前の指示によるものらしかった。恐らくカルロスは、万一サンダリオたちに裏切られたときのことを考えて、武具や食糧を安全な場所へ隠しておいたのだろう。
しかしそのカルロスがどこにもいない。アントニオの話ではヒーゼルも行方不明で、彼の巣には襲撃を受けた痕跡だけがあったという。
義勇軍の長たるカルロスと、彼の右腕であるヒーゼルが不在。安否も不明。これは由々しき事態だった。他に皆をまとめられるのは同じ神子のロクサーナくらいだ。ウォンも無事だが単独行動をしているらしく、現在の居場所は分からないという。
「となると、どのみち俺たちの逃げ込む先は虹神聖堂しかねえってことか。まさかロクサーナまで行方を晦ませてるってことはねえだろうが……」
「途中、ヤツらがまた襲ってこないとも限らん。聖堂まではオレたちがアンタらを護衛しよう。……竜人と一緒に行動するのは不本意だがな」
と言ってアントニオがぷいとそっぽを向くので、グニドはつい彼の方を顧みた。相変わらずひょろひょろとした印象のアントニオは不服そうだが、同時にちょっとまんざらでもなさそうだ。
「……スマン。恩ニ着ル」
「別に着なくていい。オレはその子――ルルとかいったか、とにかく子供をほっとけないからついてくだけだ。竜人と馴れ合う気はない」
「ウム。恩ニ着ル」
「だから着なくていいって言ってんだろ! ああ、くそ! とにかくそうと決まればさっさと行くぞ、マナさんのことも心配だしな!」
アントニオは丸太の先で苛立たしげに地面を蹴ると、やがて「フン」と鼻を鳴らして歩き出した。彼が号令すれば義勇兵たちがすぐさま立ち上がり、中でも特に屈強そうな戦士がマナを抱き上げている。
「……ま、確かにちょっと絆される程度には懐いてるんだがな。それが吉と出るか凶と出るか……」
「……? ジャック、ナニカ言ッタカ?」
「いいや、何でもねえよ。今はまず生き延びるのが先決だしな」
グニドの腕の中をちらと一瞥して、ほどなくジャックも歩き出した。何か言いたげな彼の背中を、グニドは数瞬首を傾げて眺めたが、やがて自身もあとに続く。
一塊となった義勇兵たちは、聖堂を目指して馳せ始めた。グニドもそこに紛れながら、最後にふと砦を顧みる。
トゥルエノ義勇軍の象徴だった本砦は、炎に包まれて崩壊を始めていた。一番高い塔に掲げられていた蛇と剣の旗が、たちまち崩落に呑み込まれていく。
そのときグニドは、胸騒ぎがした。
旺然と立ち上る黒煙が、闇夜に瞬く星影さえも塗り潰してゆく。