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第五十五話 ここで死ね

 それはサン・カリニョが炎に包まれる一刻(一時間)ほど前のこと。


 砦のすぐ西側にある厩舎小屋に、一人の番兵がいた。深夜まで続いた宴で騒ぎ疲れたのだろう、飼葉の箱を椅子代わりにして腰を下ろし、腕に矛を抱いたままこっくり、こっくりと舟を漕いでいる。

 何とも不用心なことだ。彼は間もなく城が戦火に炙られるなどとは露とも知らず、のんきに眠りこけている。

 そしてそんな彼を通りがけに見下ろしたカルロスもまた、このあと待ち受けるディアマンテ忠勇騎士団の裏切りを知らなかった――心の片隅で警戒こそしていたが。


(起こした方がいいか)


 と、一応この城の主として適切な対処を考える。テンプランサ侯領から来た騎士たちが完全に信用できぬ今、警備の者がこんなていたらくなのを見過ごすわけにはいかない……本来ならば。

 けれどカルロスはふっと笑って、結局彼の肩を叩かず傍を離れた。せめて己が人である間は、他者の小さな過ちくらい見逃してやりたいと思ったから。


「モレノ」


 やがて厩舎の軒をくぐった先で、カルロスは一頭の馬に声をかけた。長年の戦友である青鹿毛は起きていて、名を呼ぶと「待っていたぞ」とでも言いたげに両耳をぱたぱた動かしてみせる。


「少し付き合ってくれるか」


 軽く首を叩きながらそう尋ねれば、モレノはゆっくり頭を下げてブルルッと鼻を鳴らした。いつものことだ、付き合うさ、と言われたような気がして、カルロスは小さく笑みを刻む。

 彼の背に鞍を乗せ、ただ一騎うまやの外へ出た。ヒーゼルに知られたらまた小言を言われるだろうが構わない。今夜は少し駆けたい気分なのだ。


(あとで彼が叱責を受けぬよう、計らわねばな)


 と去り際に、居眠り中の馬番を見下ろした。彼を起こさないために戛々かつかつと馬を歩かせてから、離れたところで腹を蹴る。

 艶めく黒毛を風に靡かせ、モレノは走り始めた。行き先は特に決まっていない。自由気ままに、気の済むまで。それがカルロスのスタイルだ。


 とは言え単騎で城を離れるわけにもいかないから、遠駆けはできない。叶うとこならどこか遠く、誰も自分を知らず、また誰にも存在を知られずに生きてゆける土地まで飛んでいきたかったが、そんな自儘が叶うはずもなかった。

 生まれたときから決まっていたのだ、と思う。たとえ神子に選ばれなかったとしても、自分はどこへも行けないさだめだったのだ、と。


(私はただ、何の変哲もない一人の民として生きたかっただけなのだがな)


 橙爵とうしゃくの地位など要らなかった。ただ自分の愛する者と愛する土地で、貧しくとも満ち足りた暮らしができればそれで良かった。

 他に何も望んでいなかったのだ。されどその夢はもう過去のもの。恐らくこの先、二度と叶うことはない。


(アマラは私を恨むだろうか)


 と、戦いが始まる前に遠い地へ逃した妻を想った。妻と言っても内縁だが、彼女との間には娘もいる。

 彼女らを内乱に巻き込まぬため、かつて腹心だった騎士の忘れ形見として親戚に預けたまでは良かった。反対する妻を宥めすかし、この戦いが終わったら今度こそ共に暮らそうと約束した日のことが、つい昨日の出来事のように思い出せる。


 しかし彼女たちにはもう、会えない。会ってはならないのだ。

 心がどれだけ彼女らとの再会を求めても。


(会ってはならぬ。会えばきっと、私は――)



 ――殺せ。



 頭の奥で声がした。


 ――殺せ。殺せ。殺し尽くせ。

 おぞましき人間ども。やつらは生きるに値せぬ。我は反逆を許しはせぬ。

 ゆえに今度こそ掃き清めるのだ。この世のすべて、地の果てまで――


「ブルルルルッ」


 そのとき俄然、激しく首を振ったモレノが嘶き、前脚を蹴り上げた。彼が棹立ちになった衝撃ではっと我に返り、とっさに手綱を引き絞る。

 鐙を踏み締め、両の腿でモレノの腹を締め上げた。すると愛馬はすぐに落ち着きを取り戻し、草原にすとんと蹄を下ろす。


「すまん、モレノ。……助かった」


 わずか呼吸が乱れているのを自覚しながらそう言えば、モレノは首だけでこちらを振り向いた。長い耳はぴくぴく動き、乗り手カルロスの様子を気にかけているようだ。

 賢い馬だった。父が遺してくれたものの中で、唯一カルロスが有り難いと思ったものだ。あとは屋敷も騎士団も要らなかった。要らないのに押しつけられた。父だって本当は、血を分けた息子に跡を継がせたかっただろうに。


「……その結果がこれだ」


 小さくひとりごち、カルロスは天を仰いだ。今日は新月、月明かりがないおかげで満天の星空を独占できる。

 この季節、これだけ晴れていれば空気は乾き風は冷たいのだろうが、カルロスは何も感じなかった。神子の肌は暑さや寒さというものを一切感知しないのだ。


「だいぶ駆けたな。少し休むか」


 そこが城の北西にある草原のどこかだと察したカルロスは、二ゲーザ(一キロ)ほど先に見える木の傍までモレノをゆっくり歩ませた。

 既に葉が落ちて、ずいぶん侘しい姿になった木だが贅沢は言うまい。少し馬に揺られただけで何故だか激しい疲れを覚えて、カルロスは愛馬の鞍を下りた。


(……妙だな。神子の肉体というのは疲れ知らずだと聞いたのだが)


 思えば宴が終わった頃から体が重い。いつになくツェデクの〝声〟が大きく、気が鬱ぐのはそのせいか。

 体は疲れていなくとも、敵か味方か分からぬ輩を招き入れ、知らぬ間に精神が摩耗していた可能性もある。そう言えばヒーゼルも珍しく泥酔していたなと思いながら、カルロスは鞍に吊ってきた小さなたらいに水を入れ、モレノの足元へ差し出した。


 彼が嬉しそうに尻尾を振り、盥へ口をつけるのを見届けてから腰を下ろす。木の幹に背中を預け、自身も水筒の水を一口呷ると、あとはじっと目を閉じた。

 ……神子の夜は長い。

 三十七年生きてきて、こんなにも夜が長いと感じるのは初めてだ。

 先輩神子であるロクサーナは、たとえ眠れずとも夜は寝床へ戻り、目を閉じてじっとしているという。人であった頃の暮らしを忘れ、人でなくなってしまうことを避けるためにそうするのだと彼女は言うが、カルロスには耐えられない。


(……無理だ、私には。眠れもしない体で一晩中寝たふりを続けるなど)


 ――じゃけんそもじは小童こわっぱなのじゃ。


 耳元でロクサーナの呆れ声が聞こえた気がした。まあ、六百年もの月日を生きてきた彼女にかかれば、この世の人間は総じて小童だろうと思いながらカルロスは微かに笑う。

 羨ましかった。小国の王として生まれながら、今は肩書きに縛られず、気ままに生きる光の神子が。


「ブルル……」


 と、ときに水を飲み終えたモレノが、物言いたげに鼻面を寄せてくる。気づいたカルロスも目を開けて、そっと彼の首筋を撫でた。


「案じてくれているのか、モレノ。私も生き続ければ、いずれロクサーナのような生き方ができると?」

「……」

「……残念ながらそれは無理だ。世界にはどれだけ望んでも叶わぬことがある。分かるのだ。――私はもう、長くない」


 モレノが無言で耳を伏せた。こうべを垂れたままの愛馬は、さらに何か言いたげな目で見つめてくる。


「……心配するな。お前のことはヒーゼルに預けていく。と言うより、お前にヒーゼルを頼むと言った方が正しいかな? あの男は放っておくと、戦場で身を磨り減らして死んでしまう。だからお前が傍についていてやってくれ。私の代わりに」

「……」

「そんな目で見るな。もうこうするより他にないのだ。いざとなれば、私は自らの手で幕を引く覚悟を決めているが……もしも失敗に終わったときは〝兄弟〟に託すことにした。あの者ならば私を止めてくれる。人間が竜人ドラゴニアンを信じるなどおかしな話だが――ツェデクの剣が届かず、なおかつ私を止められる者は、グニドナトスの他にない」


 だからやつを恨むなよ、と付け足せば、モレノはぷいっとそっぽを向いた。彼は砂漠で一度竜人に喰われかけて以来、あの種族が嫌いで仕方がないのだ。

 だがさすがにこう言っておけば、彼がグニドナトスを蹴り殺すことはないだろう。カルロスは自身の愛馬を信じ、笑ってもう一度瞼を閉じた。


 そのときだ。


 神の聴覚が、遠くで激しく轟き渡った爆発の音を聞いたのは。



          ×



 右から突き出された矛を、黒緑色の尻尾で弾き飛ばした。

 さらに正面から来た切っ先を、頭突きの要領で退ける。

 続けざま左から迫ってきた騎士は、大竜刀で斬り捌いた。しかしさすがは列侯国の騎士たちだ。彼らは竜人の殺し方・・・を心得ている。


 その証拠に、唯一グニドの視界に映らない真後ろから素早く忍び寄る敵影があった。気づいたときには組みつかれ、グニドの喉元に鋼の両腕が回される。

 すぐさま振りほどこうとしたが、鎧の重さが邪魔して叶わなかった。屈強な人間ナムのオスが鎧を着てのしかかってくると、ルルを三人か四人同時に背負っているくらいの重さになる。

 これを振り払うには背中から倒れ込んで相手を押し潰すしかないが、グニドは今、鎧を身につけていなかった。仰向けに倒れれば弱点である腹を無防備に晒すことになる。かと言って騎士を一人背負ったままでは、満足に動けない――


「今だ! 竜人を殺れ!」


 耳の穴の近くで騎士が叫んだ。それに呼応した彼の仲間が、雄叫びを上げて突っ込んでくる。

 負けじとグニドも吼え返した。こうなったらやるしかない。三方から最も迅速に近づいてくる者を見極め、突撃した。相手の矛をかわし、肉薄して、瞬時に首へと食らいつく。


 兜がメリメリと音を立て、中から血が噴き出すのが分かった。しかしグニドは久々の人間の血を堪能する暇もなく、騎士の肉体を咥えたまま豪快にぶん回す。

 遠心力に引っ張られた騎士の亡骸が、接近していた敵を薙ぎ倒した。そのまま死体を咥えていれば、正面から来る敵への盾にもなる。

 代償としてこちらもかなり動きを制限されることになるが、今はこうするより他になかった。背中の騎士もそんなグニドの考えを見抜いたのだろう、兜の下で舌打ちすると、すぐさま腰へ手を回す。


「この、化け物が……!」


 騎士の腰には変わった形状の短剣があった。スティレット。突き刺す攻撃に優れた錐状の短剣だ。

 〝鎧通し〟とも呼ばれるそれは、竜人の鱗を貫くのにも有効だった。騎士は片腕でグニドにしがみついたまま、短剣を振り上げる。


「――ガッ……!」


 ところが騎士よりも一枚上手の者がいた。ジャックだ。彼はあたりに散らばる騎士の死体から同じスティレットを奪い取るや、グニドの背中に貼りついた騎士の心臓目がけて振り下ろす。

 おかげで体が軽くなった。グニドは己の背中からずり落ちた騎士の鎧を踏みつけて、代わりに咥えた死体を放る。

 宙を飛んだ騎士の死体は、ジャックの死角から迫りつつあった敵をまんまと吹き飛ばした。血で口を真っ赤にしたグニドが咆吼すれば、さすがの騎士たちもわずか怯んだのが分かる。


「なるほど、竜人――敵に回せば厄介だが、味方につければこれほど頼もしいやつもいねえな。餌づけしてまでお前らを飼い馴らしたがるシャムシール人の気持ちがよく分かったぜ」

「ムウ……ジャック、助カッタ。コイツラ、戦ウト面倒」

「ああ、その意見にゃ全面的に同意するが、こいつらを突破しなきゃ逃げ道はねえ。それとも砦に引き返すか? 漏れなく全員黒焦げになるけどな」


 冗談じゃない、と思いながらグニドは大竜刀を構え直した。見渡す先には自分とジャックを取り囲む騎士、騎士、騎士。

 全員が長柄の矛を構え、グニドたちを一歩も逃がさじと、隙のない円陣を組んでいた。背後の砦は未だ燃え続けていて、逃げ戻ることはできない。力尽きたルルは今、グニドとジャックに守られて倒れている状態で、もうあの風の守りも期待できないからだ。


(早くルルを聖堂へ連れていかなきゃならないってのに……!)


 焦りと苛立ちに心が波立ち、グニドは低く喉を鳴らした。

 同盟を持ちかけておきながら、即日に裏切ったテンプランサ侯領の恥知らずども。今はとにかくやつらが邪魔で仕方ない。

 こいつらの妨害さえなければ、グニドたちはとっくに砦を離れ、ロクサーナのいる虹神聖堂へ駆け込むことができていたはずだった。長時間高熱に炙られ、なおかつ精霊の力を使い果たしたルルを救うためには、光の神子の力を借りるしかない。


 だのに目の前の騎士どもが、グニドたちをここから先へ行かせまいとする。理由は簡単だ。やつらはグニドがカルロスの腹心であることを知っているのだ。

 だから今のうちにグニドという戦力を削り取ってしまおうとしている。鎧を着ていない竜人を狩る機会など、今を逃せば他にないと彼らも承知しているのだろう。


「まったくしぶといな、竜人というのは。この地上で魔物の次に邪悪で往生際の悪い生き物だ。果たして神々は何故かような生物の存在を許し給うたのか、さっぱり見当がつかん」


 そのとき野太い声がして、騎士たちの間から一際図体のでかいオスが進み出てきた。ガシャガシャと大袈裟に鎧を鳴らし、味方を押しのけるようにしてグニドの正面に立った赤毛の騎士は、ディアマンテ忠勇騎士団の長サンダリオだ。

 彼から投げかけられる殺意と侮蔑の籠もった眼差しに、グニドはそっくり同じものをお返しした。人間おまえらにだけは言われたくない、という言葉をすんでのところへ飲み下す。


 ただ己の保身と私欲のために、卑劣な策略と裏切りを駆使する不埒者――そんな連中と言葉を交わそうものなら、それだけで魂が穢れるのは目に見えていた。

 やつらには戦士としての矜持など微塵もない。そして竜人は、戦士を自称しながら戦士の誇りを持たない者を最も嫌う。

 グニドはこのオスを見ていると、谷で長老レドルの座を強奪しようとしたイドウォルを思い出して胃がムカついた。無駄に図体がでかくて不遜なところもそっくりだ。叶うことなら今すぐにでも、頭から叩き斬ってやりたい。


「だがそんな貴様にももう一度だけチャンスをやろう。カルロスはどこだ?」

「……」

人間われわれの言葉は通じるのだろう? ならばあの反逆者の居場所を言え。さすればそこの娘だけは助けてやってもいい」

「知ラン。オレタチモ、カルロス、探シテイル。砦ニハ、イナイ。ワカルノハ、ソレダケダ」

「……何とも汚いハノーク語だ。まあ、異形の化け物にしてはむしろ上出来と褒めてやるべきか。しかしその言葉を信じてやるとして、本当にカルロスの居場所を知らんのならもう用はない――ここで死ね、トカゲ野郎」


 顎を反らし、見下すようにそう言ってから、サンダリオが剣を抜いた。あのオスの長身に合わせ、普通の兵士が使うものよりやや長く造られた剣だ。

 どうやらサンダリオはグニドらがなかなか倒れないことに業を煮やし、今度は自ら向かってくるつもりらしかった。途端にグニドはたてがみの生え際がビリビリと痺れ、逆立っていくのを感じる。

 初めてヒーゼルと戦ったときと同じだった。認めるのは癪だが、このオスはできる。だからグニドも大竜刀を構え、迎え撃つ姿勢を見せた。しかしサンダリオとの攻防が始まったら、恐らく他の騎士の動きに注意を払っている余裕はない。


「ジャック。アイツハ、オレガ仕留メル。他ノ敵、任セテイイカ?」

「向こうは重装備、こっちは着の身着のまま、しかも数は一対二十。そいつを俺一人で相手にしろってか? とんでもないことを言いやがるなお前は」

「ナラバ、オマエガ、サンダリオ、倒スカ?」

「いやあ、それも無理だね。俺、ああいう脳筋バカを相手にすんの苦手なんだわ。戦闘は本来専門外なんで」

「デハ、オレ、オマエ、喰ウ」

「分かった分かった、やればいいんだろやれば! だがそんなに長くは持たねえからな! 人間サマに期待すんなよ!」


 わりと本気で喰おうとしたのが伝わったのか、ジャックはすぐさまグニドから跳び離れた。戦闘は専門外と言いつつも、優れた危機察知能力はあるようだ。

 加えてジャックは戦士というより狩りをする砂漠猫アムプみたいな動きをする。重い鎧をつけた騎士たちは簡単には追いつけない。

 グニドは彼のその俊敏さに賭けようと思った。ジャックが素早さを活かして持ちこたえている間に、自分がサンダリオを討つ。


(できるか?)


 と自問してすぐに、グニドはグルルル……と牙を剥いた。

 できるか、ではない。やるのだ。何がなんでもサンダリオを倒して血路を開く。ルルをいつまでもこのままにしておけるものか。グニドは腹の底から咆吼した。ルルを背に庇いながら、闘志を燃やして突撃する。


 振り抜いた大竜刀を、サンダリオの剣が受け止めた。刀の重量も竜人の膂力もものともしない、いい剣だ。こんな人間に持たせておくのはもったいない。

 サンダリオはグニドの刀を止めたまま、すかさず蹴りを繰り出してきた。こちらの剥き出しの腹を狙うつもりだ。グニドはすぐに跳び退いた。あいつの履いている鉄の靴は爪先が尖っていて、あんなもので突かれたらひとたまりもない。


 今度はサンダリオの方から攻めてきた。絶叫しながら大振りに剣を薙ぐ。

 グニドはそれを躱しざま、ぐるりと体を回転させた。長い尻尾に勢いをつけ、どうとサンダリオの鎧を打つ。

 ところがサンダリオは倒れなかった。グニドの尻尾の動きを見切ったのだ。

 彼はぶち当たってきたグニドの尻尾をとっさに抱え、踏み留まった。かと思えばニヤリと笑い、剣を捨てた両手でグニドの尾をしっかと掴む。


氷霜の枷ケラハ・エースール


 サンダリオの分厚い唇が、意味不明の言葉を唱えた。かと思えば突然足元から冷気が立ち上ってきて、グニドは図らずもぎょっとする。

 ――しまった。神術か。

 ここまで神術を使ってくる相手がいなかったので、すっかり警戒を怠っていた。グニドの両脚をみるみる氷が這い登ってくる。

 だがグニドはすんでのところで氷づけを免れた。凍り始めていた両脚を、力任せに地面から引き剥がしたのだ。


 同時にグニドは思い切り尻尾を持ち上げ、先端を抱えたままだったサンダリオを投げ飛ばした。向こうも不意を衝かれたのか対応を誤り、地面に叩きつけられる。

 今だ、と思った。グニドは尾が自由になるや否や、サンダリオへと接近した。やつが立ち上がる前に叩き切る。サンダリオは重い鎧のせいか起きるのに難儀していて、ようやく上半身を持ち上げた頃には、目の前に大竜刀を振り上げた竜人がいる。


水神の息吹マイム・ネシャーマ……!」


 だがサンダリオは冷静だった。彼が迫り来るグニドへ向けて右手を翳した刹那、あたりに青い閃光が走り、にわかに霧が噴き出してくる。

 ギャッと怯んだグニドは攻撃をやめ、即座に背後へと跳んだ。神術が生んだ霧から飛び出し、ブルルルッと首を振る。

 眼前は真っ白だった。霧のせいでサンダリオの姿が見えない。匂いで何となく位置は分かるが、あの中へ突っ込むのは危険だ。

 ならば晴れるのを待つしかない、と、グニドはいつでも飛びかかれるよう身構えた。ところが直後、


凍える牙コオル・ヘッツ!」


 霧を破って何か飛んできた。矢のような速さで飛来したそれは、グニドの脚の爪ほどもある氷の棘だった。しかも一本や二本ではない。複数の氷の棘がまったくの無秩序に、グニド目がけて飛んでくる。

 驚いて瞬きしたときには、鼻の先に先端が迫っていた。

 鱗に当たったものはその硬さを破れず、儚げな音を立てて砕け散ったが、白い皮膚を狙って飛んできたものはそうもいかない。


「グニド……!」


 初めてジャックに名前を呼ばれた気がした。同時に腹に衝撃が走って、グニドは後ろへ吹き飛ばされる。

 背中から倒れ込むことだけは避けた。どうにか地面に両脚をついて、ザザザザザッと反動を殺す。


 あたりに砂塵が立ち込めた。


 爪の痕がついた大地の上に、グニドの血がボタボタと音を立てて落ちていく。


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