第五十四話 光の奇跡
竜人でも悠々通れるくらい大きな扉をくぐったら、途端に死のにおいが鼻をついた。
獣人の鋭敏な嗅覚が、腐臭と焦げ臭さが混じったような強烈な悪臭を感知する。あまりの臭いにうっと顔を歪め、ラッティは己の鼻を塞いだ。
サン・カリニョの本砦からわずか離れた虹神聖堂。四ヵ月前の魔物の強襲で建物のほとんどが崩れてしまったその聖堂には、天井がない。
外壁と内装はおおよそ再建されたが屋根はまだ修復中で、雨風を凌ぐための大きな布が張られているだけだった。そんな粗末な聖堂内に今、無数の蝋燭が焚かれ、深夜だというのにあたりは真昼のごとく明るい。
が、本来蝋燭というのはそこそこ高価な灯火具であり、こんな数の蝋燭を一挙に燃やすだなんてよほどの金持ちの道楽か非常時以外にありえなかった。
ふと見れば蝋燭はいずれも青く塗られていて、こうした教会での儀式用に用意されたものだとすぐに知れる。
じゃあこれはちょっと気の早い黎明祭かと問われたら、そうかもね、とラッティは皮肉な笑みを浮かべたことだろう。何せ気の利かないジョークでも言いたくなる程度には凄惨な光景が、そこには広がっていたから。
「う、うぇ……マジかよ……」
と、ヴォルクの物入れに収まったヨヘンが口を押さえて呻き、ポリーも全身を震わせていた。かと思えば彼女は弾かれたように聖堂を飛び出して、外で激しく嘔吐している。
「……アタシらが無傷でいるのが嘘みたいだな」
ラッティたちが立ち尽くして見つめる先には、大勢の焼け焦げた人々がいた。彼らは皆、本砦から逃れてきた義勇兵たちだろう。礼拝客のための長椅子は今や臨時の寝台と化し、腰かける場所もないくらい多くの負傷者で埋まっている。
しかもその大半は、重度の火傷を負った者たちだ。おかげで聖堂には嗅いだことがないほどの悪臭が立ち込め、爛れた皮膚の醜悪さと相俟って、ラッティすら吐き気を覚えた。
痛みに苦しみ、呻きを上げる彼らの姿はさながら屍霊使いが生み出す屍人のよう。中には顔も頭皮も焼け爛れ、とても人間とは思えない面貌になってしまった者もいる。眠るように目を閉じたまま既に呼吸をしていない者も、虚空を見つめてずっと譫言を呟いている者も。
「ラッティさん、ヴォルクさん! ご無事でしたか……!」
そんな悪夢のような光景を呆然と眺めていると、不意に聖堂の奥から声がした。はっとして目をやれば、規則正しく並んだ長椅子の間を小柄な青年が駆けてくる。
宣教師トビアス。まだ十八歳と若いのに、光神真教会の厳命で神子ロクサーナの付き人を務め、獣人隊商とトゥルエノ義勇軍の契約の公証人にもなってくれた青年だった。
彼はいつもの祭服ではなく、踝まで届く真っ白な長衣に身を包んでいる。恐らくは寝間着だろうが、今は血と煤で汚れていた。
思わず持ってきたという感じで、手にはびっしょりと濡れた布を握っている。火傷の応急処置をしていたのだろう、手套が外された彼の手には見慣れない放射線状の神刻があった――あれはたぶん、光神オールの加護を受けた光刻だ。
「トビアスさん、この状況は……」
「はい……本砦の方で何があったかは聞きました。外は何やらとんでもないことになっているみたいですね。皆さん、お怪我はありませんか? グニドさんとルルさんのお姿が見えないようですが……」
「あの二人はあとから来るよ。グニドがカルロスさんの無事を確認するって言って、砦に残ったんだ。トビアスさんは何か聞いてる?」
「いいえ、我々はここで負傷者の救護に追われていたものですから、カルロスさんの安否も分からず……確かめに行きたいのは山々なのですが、まずは彼らを手当てしなければなりません。すみませんが動けるようなら手伝っていただけますか?」
「もちろん。ヨヘン、アンタはポリーの傍についててやんな」
そう言ってヨヘンを物入れから下ろすや、ラッティはヴォルクと二人、負傷者の手当てに回った。エレツエル神領国との小競り合いが続く群立諸国連合出身のトビアスは、かつて最前線の救護院にいたことがあるそうで、テキパキと指示を出してくれる。
普段はおどおどしていて冴えない印象なのに、いざ緊急事態となると、意外にも彼は頼もしかった。さすがは修道士と言うべきか、人を救うことに関しては並々ならぬ使命感を発揮するようだ。
聖堂内には他にも数名の聖職者と思しき者たちがいる。彼らは光神真教会の関係者ではなく、義勇軍の理念に共鳴して集まった虹神系教会の者たちだろう。
だが彼らは現在ロクサーナの傘下に入り、宗派の違いを超えて義勇軍のために働いている。中には癒やしの力を持つ水刻を刻んだ者もいるようで、聖堂の片隅からは蒼白い光が上がっていた。
他方、彼らをまとめる立場のロクサーナは、何故か正面の説教台にいる。トビアスたちと共に負傷者の治療に当たる――という感じでもなく、彼女は一段高いその場所から聖堂を睥睨していた。
ロクサーナが持つ《光神刻》の力は、並の神刻の比ではない。彼女がひとたび癒やしの力を解放すれば、多くの命を救えるだろう。
だのにロクサーナは動かない。一体何をやってるんだ、とラッティは思わず手を止めて彼女を見やった。
説教台に手をつき、聖堂を見渡すロクサーナの髪が、蝋燭の明かりを受けてキラキラと輝いている。こんなときでなければ素直に美しいと思っただろうが、今はそんなことより早く説教台を下りてきて、負傷者の救護を手伝ってほしかった。
「おい、ロクサーナさ――」
が、そう呼びかけようとしたところでふと気づく。
……違う。髪だけじゃない。光を帯びて瞬いているのは。
周りが明るくて気づかなかったが、ロクサーナの全身が淡い光に包まれているのだ。かと思えば彼女は俄然、すう、と可憐な唇を開いて息を吸った。
「――私は祈る、母なるイマよ。どうかか弱きあなたの子らに、愛と祝福を与えたまえ」
直後、ロクサーナの白い喉から透き通るような歌声が紡がれる。隣にいたヴォルクの狼耳がピンとそばだち、負傷者にかかりきりだった聖職者たちも手を止めた。
いつものあの強烈な訛りからは想像もつかない、心震わせる歌声だ。彼女を神子に選んだ光神オールは、希望の神であると同時に音楽の神――まさにそのオールの化身にふさわしき、どこまでも伸びる透明な声。
彼女の口ずさむ言語はラッティの知らないものだったが、まるで子守唄みたいだ、と思った。のびやかでやさしく、聴く者を包み込むような旋律……。
いや、それはただの錯覚なんかじゃない。だってあまりにも美しい歌声にラッティが聞き惚れた刹那、
「悪夢は去りぬ」
その一節を合図としたかのように、突如負傷者たちの体が淡い光に包まれた。
かと思えば、彼らの皮膚に広がった火傷がみるみるうちに塞がっていく。
――これが、神子の力。
ロクサーナが歌えば歌うほど、負傷者たちの傷は次々癒えていった。苦痛に顔を歪め、呻いていた者たちも自然と安らかな表情になっていく。
まさに人智を超えた力だった。あの乱暴で口の悪い少女がこれほどの力を持っていると、一体誰が想像しただろうか。
ラッティはつい笑ってしまった。この現象を〝奇跡〟と呼ばずして、他に何と呼べばいい?
(カルロスさんといいロクサーナさんといい、神子ってのはとんでもないな)
その身に宿る神によって特性こそ違えど、彼らはほとんど神と同等の力を操っている。世の中には自ら神子になりたがり、未だ発見されていない大神刻を求めてさすらう者が大勢いるが、彼らの気持ちも理解できるというものだ。
人の身でありながら、神に等しき奇跡を起こす者。それが神子。
だが大きすぎる神の力は、持ち主に破滅をもたらすこともあるという。在位六百年にもなる光の神子ならば、そんなことは重々承知しているだろうが、しかし――
「ロクサーナ!」
突然手拭いをかなぐり捨てたトビアスが、打たれたように駆け出した。
ほぼ同時にロクサーナが祈りの歌を歌い終え、余韻がすうっと静寂に吸い込まれていく。
直後、彼女の体がぐらりと揺れた。ロクサーナは眠るように目を閉じながら、説教台の向こうへゆっくりと倒れ込んでいく。
「あ……!」
皆がどよめき、立ち上がった。ロクサーナの体が冷たい床に叩きつけられる寸前、何とかトビアスが走り寄り、彼女の体を受け止める。
トビアスは分かっていたのだろう。今の歌が、ロクサーナの命を削る歌であることを。
ほとんどの負傷者の傷が癒えていることを確かめて、ラッティも二人に駆け寄った。ロクサーナはトビアスの腕の中で浅い息を繰り返し、わずかながら苦しそうな顔をしている。
「ロクサーナ、しっかりして下さい……! ロクサーナ!」
「……案ずるでない。少し疲れただけでおじゃる……次に備えて、わーは少し休む。その間に新たな負傷者が来たら、そもじに任すぞえ、トビー」
「はい、あとのことは私が引き受けます。ですから今はどうか眠って下さい」
非常に切迫した様子で、祈るようにトビアスが告げた。するとロクサーナも笑って頷き、再び静かに瞼を閉じる。
今度は本当に眠ったようだった。微かな寝息が聞こえ始めると、トビアスはほっとした様子で胸を撫で下ろす。
ロクサーナは彼ら光神真教会の信徒にとって、主神の御魂を宿す絶対的な存在だ。その彼女にもしものことがあったらと、内心気が気ではなかったのだろう――とは言えラッティには、彼の個人的感情も大いに影響しているように思えたが。
「トビアスさん、ロクサーナさんはほんとに大丈夫?」
「ええ……彼女がこんなに大きな力を使うことは滅多にありませんから、その反動が大きかったのだと思います。ですが少し休めばすぐに回復するはずです。ヴォルクさん、申し訳ないのですが、私では彼女を抱き上げることができないので、代わりにあそこの椅子まで運んで下さいませんか?」
「ええ、それはもちろん――」
と、答えたヴォルクが一歩踏み出しかけたときだった。
唐突に彼が足を止め、はっとしたように耳を立てる。ラッティの狐耳も異音を捉えた。これは……聖堂の裏手から高速で近づいてくる、足音?
「トビアスさん、伏せて!」
そう叫ぶが早いか、ヴォルクはラッティを押し倒すようにして床に伏せた。ほぼ同時に、説教台の後ろにあった硝子窓が盛大に割れる音がする。
細かい破片がラッティたちに降り注いだ。何だと思いながら耳を伏せ、顔を上げる。
そこには見慣れない衣装に身を包んだ男がいた。風に吹かれたような髪は黒く、余計な布のないぴったりとした服を着て、鼻から下を覆面で覆っている。
「――光の神子、もらい受ける」
刹那、くぐもった声を上げ、男が腰から剣を抜いた。
刀身まで黒く艶消しされた、刃渡りの短い異様な剣だ。それを見たラッティは目を見開く。だって、男の剣には見覚えがある。
「ヴォルク! こいつ、《兇王の胤》の刺客だ!」
その声に弾かれたようにヴォルクが立ち上がった。彼がとっさに抜いた剣と、刺客が振り抜いた黒の剣が激突する。
《兇王の胤》。間違いなかった。四ヶ月前のあの日、本砦でカルロスを襲ったエレツエル神領国の刺客……。
(グラーサ侯を唆したのはこいつらか……!)
ラッティはギリと切歯して、茫然としているトビアスとロクサーナを引っ張った。あの男の狙いは神子であるロクサーナだ。いや、もっと正確には、彼女が刻む《光神刻》。
やつらの仲間がここに現れたところを見ると、テンプランサ侯領の領主ゴード・グラーサは侯王軍と手を組んだのだろう。
彼が治める領地は、海を挟んでエレツエル神領国と隣り合っている。侯王軍が神領国と同盟したとなれば、真っ先に攻められるのはテンプランサ侯領なのだ。
だからグラーサ侯は保身に走った。今回の騙し討ちは今日まで内乱に参加せず、日和見していた事実を挽回するためのものだろう。
彼らは恐らく、カルロスの首を侯王への手土産にしようとしている。そうすることで、これまで傍観を決め込んでいた罪を許されようと。
「トビアスさん、やつの狙いは神子だ! このままじゃロクサーナさんが連れていかれる……!」
「で、ですが、ロクサーナは一度こうなるとしばらく目覚めません……! 何とかここから連れ出さなければ……!」
刺客と激しく斬り結ぶヴォルクを見て、無理だ、とラッティは歯噛みした。仮にロクサーナを抱えて逃げたところで、やつらは必ず追ってくる。意識のない彼女を守りながら逃げおおせるのは不可能に近い。
だって今この場には、まともに戦える者がヴォルクしかいないではないか。負傷者たちは傷が癒えたばかりで動けずにいるし、他には隊商の面々と怯える聖職者たちがいるばかり……。
(魔導石はポリーが持ってる、あそこからじゃ間に合わない……!)
刺客の出現に縮み上がったポリーがいるのは、聖堂の入り口付近だった。ラッティたちのいる説教台とは位置的に正反対で、あんなに離れていては神術を使っても届かない。
(だったら、アタシが化かしの術で……!)
どうにかできるはず。どうにかできるはずだ。
考えろ。このままじゃヴォルクも長くは持たない。
ロクサーナを守りつつ、あの刺客を追い払うにはどんな幻を生み出せば――
「――ヴォルク、後ろヨ!!」
そのとき不意に、ポリーが叫んだ。
後ろ、と言われてそちらへ目をやり、ラッティはぞっと立ち尽くす。
だって、いつの間にか。
そこにはもう一人の、黒剣を携えた刺客が――
(どこから入ってきたんだ)
なんて、考えている場合じゃなかった。
「ヴォルク……!!」
とっさに護身用の短剣を抜き、ラッティは床を蹴った。しかし、遠い。
挟み撃ちを受けたヴォルクに逃げ場はなかった。前方から攻めてきた男の剣を受け止めたところへ、背後から別の刺客が迫る。黒剣が振り上げられた。
「やめろ――!!」
ラッティがそう叫んだ、瞬間だった。
カッとあたりに閃光が走り、刃が何か硬いものに弾かれる音がする。
誰もが意表を衝かれた。
ヴォルクの背中を狙った剣は、薄く発光する不可視の壁に防がれていた。
まさか、と振り向いた先で、トビアスの右手の神刻が輝いている。
「ヴォルクさん、今です……!」
光の盾。光神オールの力が生み出す術壁か。それに守られたヴォルクは瞬時に身を翻し、すぐ後ろにいた刺客を華麗に蹴り飛ばす。
そうして反動を上手く使い、さらに高く跳び上がった。頭上に剣を振りかぶり、高みからもう一人の刺客へ叩きつける。
決まった。虚を衝いたヴォルクの一撃は刺客の肩に食い込み、そのまま上体を斬り下ろした。
彼が尻尾を揺らして着地した頃には、刺客は血の海に沈んでいる。しかし念には念をと思ったのか、ヴォルクはすぐさま立ち上がり、刺客の剣を蹴り飛ばした。
「やった……! 助かったよ、トビアスさん――」
とラッティは思わず耳を立て、トビアスを顧みる。彼の援護がなければヴォルクはきっとやられていたし、そうなれば刺客を撃退することは不可能だっただろう。
けれど直後、ラッティは続けるはずだった言葉を忘れ、草色の目を見開いた。
何故って、愁眉を開いたトビアスの後ろに人影が、
「――トビアスさん、逃げろ!」
「え?」
ヴォルクが叫び、トビアスが面食らうと同時に、どこからともなく現れた影が彼の後ろへ降り立った。
その着地音を聞いたのだろう、トビアスが驚いたように振り返る。
やはり鼻から下を覆面で覆い隠した男は、氷みたいな目をしていた。
彼の手に握られた黒い剣が、まったくの無感情に振り上げられる。
「あ――」
駆け寄る暇もなかった。
下段から振り上げられた刃は、真っ白な長衣ごとトビアスを斬り裂いた。
ポリーの悲鳴が響き渡る。
ビシャビシャと鳴る血飛沫の中で、彼が、ゆっくりと崩れ落ちた。