第五十三話 行方知れず
暗闇に一閃した刃が、騎士の喉元を正確に引き裂いた。
兜と鎧の狭間、半葉(二・五センチ)もない空間を縫う神がかった芸当だ。
けれどその一振りで体勢を崩し、ヒーゼルは地面に剣をついた。
ああ、まずい。足元が波打っている。頭もガンガンして割れそうだ。
さっきから耳鳴りもしているし、吐き気も止まないし、なんというか、そう――倒れたい。
逃げ場のない袋小路で、妻子を庇って戦っているなんて状況でなければ。
「あー、くそ、参ったねどうも……」
ふらつく体を愛剣で支えながら、ヒーゼルは乾いた笑みを浮かべた。半分据わった目で見やった先には、鋼の武器と鎧で完璧に武装した敵、敵、敵。
彼らは見るからに病人の顔色をしているヒーゼルにひとかけらの情けもかけず、次から次へ攻め寄せてきた。幸いなのはやつらの狙いがあくまで自分であって他の住民には目もくれないことと、狭い路地に逃げ込んだおかげで囲まれる心配がないことだ。もちろんヒーゼルはそのためにこの場所を選んだのだが、それにしても。
「さすがにちょっと多すぎやしないか……?」
路地の入り口に列を成したテンプランサ騎士たちが、またも烈声を上げて斬りかかってくる。今度は二人組で左右から攻める算段のようだ。
呪いでもかかったみたいに重い剣を持ち上げながら、ヒーゼルは舌打ちした。ここである程度時間を稼げば誰かしら救援に来てくれるのではないかと期待したのだが、未だ救世主が現れる気配はない。
「でやアァッ!」
勇ましい雄叫びを上げ、まずは左の騎士が来た。助走と共に突き込まれた渾身の一撃を、すんでのところで回避する。
ところが避けたと思ったら、脇腹に鋭い痛みが走った。想定よりもほんの一瞬体の動きが遅れたらしい。そこへすかさず打ち込んでくる、右の騎士。
「ヒーゼル!」
背後から妻の悲鳴が聞こえた。神気が彼女の方へ流れるのを感じる。
けれど駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。
彼女に人殺しなどさせるものか。ヒーゼルは倒れかかった体を意地で支え、敵兵の一撃を剣で去なし、相手の胸に手を当てた。マルティナの手に集まりつつあった神気が、一気にヒーゼルへ引き寄せられる。
「雷槍……!」
青い稲妻が弾けた。ゼロ距離で雷撃を受けた敵兵が、巨人に殴られたような勢いで後方へ吹き飛んでいく。
砲弾と化した騎士に巻き込まれ、後続の敵が倒れた。その隙に左から来ていた敵と打ち合う。一合斬り合った時点で吐きそうだったが何とかこらえ、兜に覆われた側頭部に回し蹴りをぶち込んだ。
「ぐあっ……!?」
蹴り飛ばされた鎧の騎士が鞠みたいに転がっていく。彼が止まることができたのは、あたりに散らばるお仲間の死体のおかげだ。
ヒーゼルは脇腹にできた新たな傷を押さえながら、剣を構えて荒い息をついた。とめどなく流れる汗が目に入りそうで鬱陶しい。いや、これは汗じゃなくて――血か? そうか、額も斬られたのか。だが全身血みどろになってなお倒れないヒーゼルに、敵は恐れをなしたようだ。
「お、おい、一体どうなってる!? あの男には例のものを飲ませたんじゃなかったのか……!?」
「い、いや、確かにそのはずだ……! なのに何故倒れない……!?」
「あー……なるほど? 俺がラッティにあっさり飲み負けたのは、お前らの粋な計らいのおかげだったってわけだ?」
血のせいでついに開かなくなった左目を閉じながら、ヒーゼルは口の端を持ち上げた。テンプランサ侯領の下っ端騎士たちは、それだけでさらに恐れ慄いてくれたようだ。
まったくどうりで妙だと思った。自慢じゃないがヒーゼルはこれでも酒に強い方だ。飲んで飲まれたことなんて指折り数えるほどしかない。だからラッティとの勝負も受けた。ラッティがもし負けたなら、これまで出会った人間の中で最も美しい女に化けてやると豪語したから。
おかげであのときヒーゼルはやる気満々だった。当然ながら負ける気なんかこれっぽっちもしていなかったし、あのくらいの酒なら夜もすがら飲んでいたってかけらも酔わない自信があった。
それがどうだ。三杯飲んだあたりで違和感を感じ、五杯飲んだあたりで意識が朦朧とし始め、八杯目で吐き気を覚えた。
眠るように気を失ったのは十杯目のことだ。そして次に目が覚めたら、マルティナとエリクがテンプランサ侯領の騎士たちに襲われていた。
まったく嫌になるな、と、ヒーゼルは顎から滴る血と汗を拭って自嘲する。
(俺の酒に一服盛られてたってことは、カルロス殿の酒も細工されてた可能性が高い……)
あの人は今無事だろうか。叶うことならすぐにでも飛んでいって確かめたいのに、目の前を塞ぐ騎士どもが邪魔で一歩も先へ進めない。
それどころか一瞬でも気を抜いたら、そっくり返って倒れそうだ。俺は何のためにここにいるんだ、と地面を踏み締めながら自問する。
家族を守るため?
もちろんそうだ。だが本当に家庭が大事なら、一国に喧嘩を吹っ掛けるなんて馬鹿げた話に二つ返事で乗ったりしなかった。
勝算があるかどうかも怪しいその話を、躊躇なく受け入れたのは恩師であるカルロスのためだ。自分は彼の剣となることを誓った。盾となることを誓った。命を捧げると誓った。なのに今はあの人を守るどころか、己の妻子さえ守り切れるかどうか怪しい。
(まったく、カルロス殿の嫌な予感がよく当たるのは知ってたが――)
――まさかこんなに早く当たるなんてな。
諦念と共にそう吐き捨ててから、ヒーゼルは笑って地を蹴った。
もう一刻の猶予もない。これ以上はさすがに持たない。かくなる上は一人で血路を開かなくては。せめて妻と息子だけでも逃がすために。
怯んでいた敵兵たちが、突っ込んでくるヒーゼルを見て算を乱す。だがこういうとき厄介なのが冷静な人間だ。
そういうやつが群衆の中に一人でもいると、慌てていた者たちも正気を取り戻す。ヒーゼルの危惧は現実になった。逃げ出そうとする騎士たちの中でただ一人、体躯に自信ありと見える巨漢が得物を構えてこちらを見ている。
しかも何とも間の悪いことに、彼の得物は剣ではなく、戦斧だ。
「ぬえぃっ!」
乾坤一擲、兜で顔の見えない巨漢は長柄の戦斧を振り抜いてきた。さすがに射程が違いすぎて、ヒーゼルは退くことしかできない。
背後に向かって跳び、仕切り直そうとしたところで右膝が折れた。自分の意思とは無関係に跪いてしまい舌打ちする――俺が頭を垂れる相手はカルロス殿だけだっての!
「ヒーゼル、覚悟!」
それを好機と捉えたのだろう、巨漢は物々しい気合を上げて突っ込んできた。何とも見上げた騎士道だ。こっちが毒さえ盛られていなきゃ、敵ながらあっぱれと拍手を送ってやったのに。
立ち上がるより早く敵の射程に捉えられた。真横から振り抜かれた一撃を転がって躱す。
だが低い姿勢から放たれた攻撃は、容赦なくヒーゼルの背中を抉った。その痛みに息を詰まらせた刹那、勇敢なる猪武者に励まされ、敵兵が押し寄せてくる。
「くそっ……!」
上段から振り下ろされた剣を、再び転がって躱した。背中が地につく度に激痛が走ったが、泣き言は言っていられない。
回転の勢いを使って立ち上がり、ふらつきながら何とか剣を振り抜いた。眼前に迫っていた誰かの刃を弾き飛ばす。右から殺気。体が反応して神術を撃った。しかし神力ももう限界だ。
スカスカの雷撃は騎士の鎧に弾かれ、下段から剣の一撃が来た。仰け反るように躱したところで、今度は別の騎士の突きが来る。
避けきれなかった。いや、辛うじて刃を避けることはできたが、それ以上体が言うことを聞かなかった。
刺突の構えで突っ込んでくる敵から距離を取れず、体当たりをかまされそうになったところで剣を振るう。渾身の一撃は兜に受け止められた。剣を受けた相手は怯んだが、敵は彼一人じゃない。
「やべえ」
自分でも笑ってしまいたくなるほど大きな隙。
それを敵が見逃すはずがなかった。
すかさず飛んできた戦斧の石突きが、鎧も何もないヒーゼルの腹部にめり込む。ギリギリまでこらえていたものが一気に食道を逆流してきた。と同時にヒーゼルの体は路地の奥まで吹き飛ばされる。
「おとうさん……!!」
無惨に背中を打ちつけて、そのまま意識が飛びそうになった。つなぎとめてくれたのは泣きじゃくる息子の呼び声だった。
血の混じった吐瀉物を撒き散らしながら、何とか起き上がろうとする。だが体に力が入らない。耳鳴りがすべての音を遮ってしまう。ただでさえ視界が暗くて使い物にならないのに、これじゃ、敵がどこにいるかも、分からない――
「お願い、もうやめて! 主人はこれ以上戦えないわ! だからお願い、やめて……!」
どこか遠くでマルティナが叫んでいた。暗い視界が輪をかけて狭いのは、彼女に抱き竦められているせいか。
しかし視覚も、聴覚も、触覚も。すべて現実感が薄れている。
右目が辛うじて捉えた星明かりの中で、誰かが剣を振りかぶっているのに、
(ああ、くそ……眠い――)
×
ズドン、というその音が何を意味するのか、マルティナ・バルサミナにはすぐには理解できなかった。
それは自分と夫の死を告げる音か。月が落ちてきた音か。世界が二つに割れる音か。
否。
正解は突如降ってきた一条の槍が、目の前の騎士を鎧ごと串刺しにする音だった。
「なんっ……!?」
仰天した騎士たちが絶句している。兜の眉庇から覗く彼らの瞳に映るのは、槍と共に降ってきた金の鬣を持つ戦士。
「――ヒーゼルを連れて下がっていろ、マルティナ」
「ウォン様……!」
常磐色の瞳から涙を溢れさせ、マルティナは夫を救いにきてくれた彼の大きな背中を見上げた。彼の真実の名はキムというらしいのだが、その名で呼ぶと危険な目に遭うのは夫が刺されそうになるのを見て知っている。
浅黒い肌を鉄の手甲と肩当てだけで覆ったウォンは、マルティナには見向きもせずに死体から槍を引き抜いた。しかし何故だかマルティナには分かる。一連の動作のすべてが、彼の静かな怒りから来ているのだということが。
「誰からだ」
と、槍を構えながらウォンが尋ねる。この男が極端に無口で無愛想なのは周知の事実だが、言葉が足りなすぎて質問の意図が飲み込めない。
「死ぬのは、どこの誰からだ。一人で死ぬのが恐ろしければ束で来い。その方が、こちらとしても手間が省ける」
彼のその一言を、挑発と受け取ってしまったのが相手の運の尽きだった。夫の命を狙って現れた騎士たちは、たかが傭兵一人に戦況を覆せるわけがないと踏んだのか、嵩にかかって攻め寄せてくる。
しかし残念ながら、ウォンは一切冗談を言わない男だった。口を開くときはいつだって本気で、言ったことは必ずやり遂げる。
現にまず、喊声を上げて突っ込んできた敵兵が残らず吹き飛んだ。戦士でも何でもないマルティナには何が起きたのかさっぱり分からなかったが、弾き飛ばされた者たちは全員絶命したらしい。
すべては一瞬の出来事だった。あまりにも呆気ない味方の敗北に、騎士たちは色めき立っている。
ところが動揺する敵勢の中から、重い足音を立てて進み出てくる者があった。
すらりと伸びる長柄の戦斧に、竜人並の巨躯――先程ヒーゼルに痛撃を見舞った、あの騎士だ。
「ウォン様、お気をつけ下さい! その騎士は……!」
傷ついた夫と幼い息子を抱き寄せながら、マルティナは思わず叫んだ。毒に冒されてなお健闘を続けたヒーゼルを、一瞬で追い詰めた強者だ。
本人も武芸には自信があるのか、斧を構えるやニヤリと笑った。鼻から上は兜に隠れて見えないが、きっと覗き穴の向こうでは血走った目を炯々とさせているに違いない。
「貴様、名は?」
頭頂部の青い房を靡かせながら、騎士が尋ねた。
ウォンは槍を腰だめに構えると、心底興味がなさそうに言う。
「死者に名乗る名前はない」
騎士の口がますます裂けた。
直後、彼は奇声を上げてウォンの懐へと突っ込んでいく。
テンプランサ侯領の騎士たちが掲げる野猪の紋章。彼の猪突猛進ぶりはその猪さながらで、さしものウォンも弾き飛ばされるかに見えた。
しかし彼はギリギリのところまで敵を引きつけると、半歩下がって槍を地面に突き立てる。振り抜かれた戦斧が槍の柄に当たった。ガギンッと鉄の噛み合う音がして、重量級の刃が止まる。
ウォンはその隙に地を蹴ると、槍を支点に空中でぐるりと体を拈った。
かと思えば両足で騎士の首を挟み込み、右側に体重をかける。落下の勢いに巻き込まれた騎士の巨体は、頭から地面に突っ込んだ。
兜のひしゃげる音がする。騎士は呻き、しかし戦斧を放さなかった。
横様に倒れた状態から、着地した直後のウォンを狙って刃を振るう。マルティナはとっさにエリクの視界を塞いだ。避けられない、と思ったからだ。
実際、ウォンは反撃を避けられなかった。と言うより避けなかった。
半端な体勢から放たれた攻撃に威力がないことを分かっていたのだ。
だから難なく戦斧を止めた。刃をしっかり右手で掴んで。
「な……!?」
あんぐり口を開けた騎士の目の前で、ウォンが指先に力を込めた。騎士は得物を奪い返そうとしているようだが、力が拮抗しているらしくぴくりとも動かない。
「ぐ……! お、お前たち、何をボサッとしている! 今のうちにこの男を討ち取れ……!」
自分ではこの状況をどうにもできないと判断した戦斧の騎士が味方に叫んだ。そこでようやくはっとした残りの騎士たちが、武器を振り上げウォンに殺到しようとする。
「〝止まれ〟」
ところが次の瞬間、凍てつく風が狭い路地を吹き抜けた。
実際には風など吹いていなかったのだが、少なくともマルティナはそう感じた。その証拠に一瞬にして背筋が凍り、動けない。
「〝斧を放せ〟」
と、今度は目の前の騎士に向けてウォンが告げた。
いや、それは明確すぎるほど明確な命令だった。
本来であれば相手の騎士は、敵である彼の言うことなど聞く必要がない。
ところが彼は、戦斧を手放した。
顔が半分しか見えていなくともはっきりそうと分かるほど、顔面を蒼白にして震えながら。
マルティナは凍りついたまま、驚愕で目を見開く。気づけばウォンに「止まれ」と命じられた騎士たちも、言われたとおり静止していた。
彼らは皆、吹雪の中で立ち尽くす遭難者のごとくガタガタと震え上がっている。鎧が触れ合い、微かな音を立てているのがその証左だ。
「〝この場にいるテンプランサ騎士は全員、自害しろ〟」
次にウォンの口から飛び出したのは、想像もしていなかった残酷な一言だった。
いくら何でもそんな命令、彼らが聞くはずがない。
マルティナは怯える息子を抱き締めながらそう思ったが、予想は外れた。
路地の出口を塞いでいた騎士たちが全員得物を掲げ、自らの首に当てる。
「え――」
月のない夜の下、騎士たちの掲げていた松明があちこちに散らばった。断末魔の声と血の噴き出す音とが錯綜し、騎士たちが次々と倒れていく。
ウォンに戦斧を奪われたあの騎士も、わざわざ腰から短剣を引き抜くと口に飲み込み――絶命した。
最後の一人が血溜まりに倒れ、ビシャリと嫌な音がする。マルティナはこの世のものとは思えぬ光景に、慄然と座り込むことしかできない。
(どうして)
分からない。
テンプランサ侯領から来た騎士たちは、何故ウォンの命令を聞き入れた?
彼には他者を絶対的に服従させる力でもあると言うのか?
そんな話、ヒーゼルは一度もしていなかった。ウォンがあまり人と関わりたがらず、必要なとき以外駐屯地から出てこないとは聞いていたけれど。
「マルティナ」
しん、と静寂が降り積もった裏路地に、ウォンの声が響いてびくりと震えた。
かく言うマルティナも、この男とは指折り数えるほどしか会話をしたことがない。いつもはマナが傍にいて、ほとんど口を開かない彼の代わりに彼女がずっと喋っているという感じだったし。
「お前は賢い女だ。言わずとも分かるな?」
槍を地面から引き抜きながら、こちらを向いてウォンが言う。相変わらず言葉の足りない男だ。しかしマルティナには彼が何を言わんとしているのか分かってしまい、血の気が引く。
つまりウォンは、いま自分がしてみせたことを口外するなと言っているのだった。わざわざ念押しするということは、やはりあれは人外の力であったのか。
マルティナはあれこれ問い質したい衝動を唾と共に飲み下し、白い顎を引いた。頷いたつもりだが、彼は信用してくれただろうか。もしも疑われたなら、そのときは……。
「お……おとうさん……」
刹那、腕の中から聞こえたか細い声でマルティナは我に返った。見れば息子のエリクが震えながら、小さな手を伸ばしてヒーゼルの頬を撫でている。
血と土で汚れたヒーゼルの顔は青白く、意識も回復していなかった。呼吸が荒く、額も汗で濡れている。どう見ても血を流しすぎているし、早く解毒しなければ手遅れになるだろう。
死の淵にいる父親を前にして、幼い顔をくしゃくしゃにしている息子を見たら縮み上がってなどいられなくなった。
一体どんな妖術を使ったにしろ、ウォンのおかげで窮地を脱したことは事実だ。ならば次は一刻も早く夫を救うことを考えなければ。
「ウォン様、お助けいただきありがとうございます。あなた様が駆けつけて下さらなければ、わたくしたちは……」
「無駄話はいい。俺はお前たちを助けに来たわけではないしな」
「と、おっしゃいますと……?」
「用があるのはヒーゼルだ。そいつに訊きたいことがある」
言うが早いかウォンは足早に、かつ大股でずかずかと歩み寄ってきた。ただでさえ筋骨隆々で威圧感のある彼に接近されると畏怖の念が込み上げてくるのに、あんなことがあったあとでは恐ろしくて声も出ない。
ウォンはその隙にマルティナの目の前までやってくると、気絶したままのヒーゼルの胸ぐらをいきなり掴んだ。そうして一度ガクンと揺さぶり、古傷の走った右目を細めながら、言う。
「〝起きろ、ヒーゼル〟」
ウォンの命令が、まさか意識を失っている人間にまで通じるなんて思わなかった。彼に覚醒を促されると、ヒーゼルがわずか眉を寄せた。
次いで小さな呻きを漏らし、彼は世にも珍しい赤色の睫毛を持ち上げる。薄く開かれた空色の瞳が束の間揺れて、すぐ目の前にある傭兵の顔を捉えた。
「……ウォン……? お前……騎士どもは、どうした……?」
「片づいた。それよりお前に訊きたいことがある。カルロス殿はどこだ」
「カルロス……殿……? あの人なら、たぶん……本砦に……」
「その本砦にいないから訊いている。サンダリオたちの裏切りに気づいたマナが幻視を試みたが、すぐに倒れた。分かったのはカルロス殿が一人でどこか別の場所にいるということだけだ」
「何……だと……」
そこで夫は急に息を吹き返した。カルロスが砦にいないと聞くや血相を変え、自らウォンの胸ぐらを掴み返す。
「おい……いないってのは、どういうことだ? 砦はどうなってる? あの人は今、どこに――」
「それが分からんから訊きに来たんだ。お前なら事前に何か聞かされているのではないかと思ってな。ちなみに砦は燃えた。助かった者がどれほどいるかも分からない」
「な……」
「だがお前も知らんのならここにいても時間の無駄だな。マルティナ、じきに俺の部下がやってくる。そいつらと共に虹神聖堂へ行け。ロクサーナに診せれば、ヒーゼルの傷も癒やせる」
「待て、ウォン! そういうことなら俺も行く……! やつらの狙いはカルロス殿だ、だったら早くあの人を見つけないと――」
と、夫が急き込んで身を起こそうとしたところで、突然ドッと重い音が響き渡った。
かと思えばヒーゼルが「うッ……!?」と呻き、再び冷たい地面に転がる。夫は完全に瀕死の形相だった。何故ならウォンが、彼の腹部にいきなり拳を突き入れたからだ。
「お、お、おとうさーん!!」
「ウォ、ウォン様、何を……!? 主人は手負いなのですよ!? もう少しいたわって下さいませんと……!」
「だがこうでもしなければ、こいつはカルロス殿を探すと言って聞かんだろう。俺は足手まといを連れて行動するつもりはない」
「そ、それはそうですが……!」
「カルロス殿が戻らなかった場合、義勇軍の指揮を執るのは副将のヒーゼルだ。最悪の事態に備えて、さっさと傷を癒やしておけ。俺は同じことは二度言わん。もしも万全でないままのこのこ戦場に出てくれば殺すと、ヒーゼルが目覚めたらそう伝えろ」
まったくもって言っていることが支離滅裂だった。カルロスが戻らなければヒーゼルが指揮を執るしかないと言いながら、足手まといになるようなら殺すだって?
この男は義勇軍を勝たせたいのか滅ぼしたいのか。一体どっちなんだと混乱している間にウォンは去った。情報が得られないと分かるや否や、あとはこちらを振り向きもせず。
「い、一体どういうことなの……」
一度に色々なことが起きすぎて、何だか頭が痛くなってきた。マルティナは毒と腹痛に呻いている夫を気遣いつつ、自らの額に手を当てる。
「お、おかあさん……おとうさん、死んじゃうの……?」
「い、いいえ、エリク、大丈夫よ。お父様はカルロス様を見つけるまで死んだりしないわ。絶対に大丈夫……」
大きな瞳いっぱいに涙を浮かべた息子を抱き寄せ、マルティナは空を仰いだ。
夫の無事と、彼が愛してやまないあの人の帰還を祈りながら。