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第五十二話 炎の中で

「――アメル・ニスア・ドゥラフ!」


 グニドにしがみついたままのルルが叫ぶや否や、天井を端から端まで覆うほどの光の膜が現れた。

 皆が唖然と見上げた刹那、その膜は大量の水へと姿を変え、一気に降り注いでくる。

 オアシスの泉に竜人ドラゴニアンが飛び込んだときよりもすさまじい水音がした。部屋を燃やす炎と共にグニドたちも落水に巻き込まれ、頭からずぶ濡れになる。


 だが予想以上の威力だった。グニドがブルルルッと首を振って水気を払い、再び部屋を見渡したときには、あれほど燃え広がっていた炎がほとんど消えていた。

 既に焼け崩れてしまった扉の向こうは未だ火の海だが、少なくともこの部屋は少しの間だけ安全だ。燃えそうなものはすべて水を被っているし、床も水浸し。煙を吸わないよう気をつけさえすれば、脱出の準備を整えるくらいはできるだろう。


『ルル、よくやった。偉いぞ』

『でも砦、まだ燃えてるよ……!?』

『それでも死なずに済んだんだ、何とかなる。ラッティ、お前たちは――』


 と続けざまラッティに話しかけようとして、自分が竜語で喋っていることに思い至った。目が覚めたら炎に囲まれていたのだから無理もないが、どうやら自覚している以上に頭が混乱しているらしい。

 もう一度ぶるぶると首を振って、自分に活を入れ直した。こんなときこそ冷静でいなくてはならないのが用心棒だ。たとえどのような事態に見舞われようとも仲間は守る。それくらいの気概がなくてはならない。


「ラッティ、皆デ逃ゲル準備、スル。コノ砦、キケン。オマエタチ、外ニ出ル」

「あー、その意見にはおおむね賛成だけどサ、外に出るったってどうやって? 出口までルルに消火してってもらうとか?」

オン。ルルノチカラ、トテモ強イ。シカシ神術、タクサンハ、使エナイ」

「つまり出口まで到達する前にルルの力が尽きるかもってこと?」

「ソウダ。ダカラ、ソコカラ出ル」


 言ってグニドが指差したのは、透明な板が嵌められた壁の穴――すなわちマドだった。あの透明板の扉は自由に開閉できるから、外へ出るのは難しくない。

 穴の幅も人間ナムなら簡単に通り抜けられるくらいはあるし、何より砦の中を通らなくていい。先程のラッティたちの話が事実なら、砦内には炎の脅威だけでなく敵と遭遇する危険もあるだろう。


 だがあんな猛火と煙に巻かれながらテンプランサ侯領の騎士たちと戦うのは不可能だ。グニド一人ならまだ何とかなるとしても、仲間を守りながらとなると難易度が跳ね上がる。

 だからグニドは鍵がかかっているのも構わず、力任せに窓の扉をぶち開けた。が、ヴォルクの肩に乗ったヨヘンはその提案が不満なようで、文字どおり濡れ鼠のまま抗議の声を張り上げる。


「おいおいグニド、ちょっと待て! 忘れてるようだから言っとくが、この部屋は三階だぞ!? そんな高さから飛び降りたらオイラたちはペチャンコだ! 生き物がみんなおまえさんみたいに頑丈だと思ったら大間違いだからな!?」

「ムウ、コノマド高イ、ワカッテル。シカシ、ルルノチカラ、使エバイイ」

「ルルの力? どうやるの?」

「落チルトキ、下カラ強イ風、吹カセル。ソウスレバ、カラダ、少シダケ浮ク。スルト安全、違ウカ?」

「なるほど、風の抵抗を使って落下の衝撃を抑えるってワケか。グニド、アンタ冴えてんじゃん」


 かみを下ろしたラッティは、びしょ濡れなのもあって一見別人みたいだったが、ガンッと拳で殴ってくるあたりが彼女であることを証明していた。口では褒めているくせに何故殴るのか問い質したいものの、今はそんな細かいことにかかずらってはいられない。

 ラッティたちは大急ぎで脱出の支度を始めた。と言っても室内にあったものはほとんど燃えてしまったから、持っていけるものはあまりない。

 無事だったのは奇襲に気づいて飛び起きたとき、各々がとっさに抱きかかえたものくらいだ。グニドにとってはそれが大竜刀であり、ルルだった。


『ルル、これからラッティたちがあの窓から飛び降りる。それを風の精霊に助けてもらうんだ。できるか?』

『うん、できるけど……』


 ルルは依然グニドにしがみついたまま怯えている。手に何か持っているが、あれは木でできた……玩具、だろうか?

 そう言えばいつだったか、ルルがエリクにもらったと喜んで見せにきた玩具があった。名前は確か竹蜻蛉ククルとか言ったか。とても大事にしているようだったから寝るときも傍に置いていて、飛び起きたときとっさに持ってきたのだろう。


(そう言えばエリクは――ヒーゼルたちは無事なのか?)


 襲われているのが砦だけとは限らない。ヒーゼルの住処は居住区にある。

 もしもあちらまで襲われていたとしたら一大事だ。居住区には戦える人間が少ない。住んでいる者はほとんどがメスだったり子供だったり、年老いていたりするから。

 おまけに宴が果てたとき、ヒーゼルは泥酔していた。いくら彼が優れた戦士でも、あんな状態でまともに戦えるわけがない。

 グニドは低く喉を鳴らした。助けに行かなければ。しかし――カルロスは?


「グニド、準備できたよ。ルルの方は大丈夫?」


 長い鬣を絞り、いつもとは違うまとめ方にしたラッティが尋ねてきた。後ろではポリーが咳き込んでいてだいぶ苦しそうだ。

 どんどん気温も上がってきている。迷っている時間はあまりない。

 まずはラッティたちを安全な場所まで避難させなければ。苦い焦りは無理矢理横に押しのけて、ルルの背中に手を当てる。


『ルル、やるぞ』

『うん……』

「マズハ、ヴォルクトヨヘン、カラダ。砦ノ下、敵、イルカモシレナイ」

「分かった。先に下りて、大丈夫そうだったら合図する」


 未だに「イヤだ、怖い」と騒ぐヨヘンを物入れに捩じ込んで、ヴォルクが窓枠に足をかけた。グニドはルルを抱えてその脇に立ち、彼の着地地点に危険がないことを確認する。


「ヴォルク」

「何?」

「ラッティタチノコト、頼ム」

「……? ああ、言われなくても」


 改めてそんなことを言われるのは妙だと思ったのか、ヴォルクは黒い耳をちょっとだけ動かした。けれどそれ以上詮索せずに窓枠を蹴ったあたり、彼も焦っていたのかもしれない。


「ビレ・アンセタン・ハイネ・オン・ドゥーネ……!」


 ルルの祈りに応え、ヴォルクの足元から旋風が噴き上げた。彼は予想以上の突風から両腕で顔を庇うと、着地と同時に前転する。

 ポリーがその一部始終を息を飲んで見守っていた。上から下まで真っ黒なヴォルクの姿は闇に溶け込み、一瞬グニドも見失いかけたが、すぐに無事であることが分かった。

 ヴォルクは闇の中で忙しなく耳を動かすと、ほどなく立ち上がって合図を送ってくる。どうやら近くに敵はいないようだ。グニドは窓から顔を出して頷くと、今度はポリーに声をかけた。


「ヨシ。次ハ、ポリーダ。ルルノコト、頼ンデイイカ?」

「え、ええ、もちろんヨ。さあルルちゃん、いらっしゃい」


 黄色い毛皮を濡らしたポリーは、いつもより一回り小さくなったような気がした。けれどルルを呼び寄せ、抱き締める仕草はいつものそれだ。

 グニドは喉を鳴らしてルルを見つめた。この状況でルルと離れるのは正直不安だが、こうするのが最善だと分かっている。

 ポリーは臆病だし戦えないけれど、いざとなれば命懸けでルルを守ってくれるだろう。そう信じて窓枠に立つ彼女を支える。ポリーは下階から噴き出す炎を見て震えていた。しかし大丈夫だ、とグニドが促そうとした、そのときだ。


「――ちょっと待った、グニド」

「……ナンダ?」

「一つ気になることがあるんだけどサ。この窓、アタシらは難なく通れても、アンタが通るには小さすぎない? 明らかに幅が足りないと思うんだけど」


 突如ラッティが投げかけてきた疑問に、グニドは頭を低くした。ヴォルクには気づかれなかったから大丈夫だろうと思ったのに、ラッティの目は誤魔化せなかったようだ。

 そう、彼女の言うとおりこの窓は、人間なら・・・・簡単に・・・通り抜けられる・・・・・・・が、竜人は無理だった。

 何せグニドの体格はラッティたちと比べて二回りも大きい。背丈の方は腰を屈めればどうにかなるものの横幅は無理だ。どう考えても肩がつかえて通れない。だからグニドは仲間たちを先に逃がしたかった。自分が共に脱出できないと知られる前に。


「え……!? そ、それじゃあグニド、アナタはどうするの……!?」

「……オレ、カルロスノコト、心配。ダカラ、砦ノ中、通ッテ逃ゲル」

「カルロスさんのところへ行ってから脱出するってこと? けどあんな火の中をどうやって……!」

「竜人、火ニ強イ。熱イコトモ、耐エラレル。煙ハ、鼻、閉ジレバ平気」

「だけどいくらアンタだって、長時間火の中にいられるってワケじゃないだろ? だったら――」


 と、ラッティが何か言いかけたときだった。

 突然轟音が響き渡り、足元が震動する。

 窓枠に立っていたポリーが悲鳴を上げ、落下しそうになったのをグニドはとっさに抱き留めた。同時に何が起きたのかと慌てて首を巡らせる。

 そして目を疑った。見やった先で、なんと部屋の床が抜けているではないか。

 今のところ被害は一部だけだが、バラバラと音がして瓦礫が降っているのが分かる。この砦の床は木の梁で支えられているから、下の階の梁が燃え、床ごと崩れ落ちたのだろう。


 部屋の真ん中に開いた穴からは炎が顔を覗かせている。チラチラと出たり入ったりする赤い先端が、砂漠の大蛇トネプレスの舌なめずりを彷彿とさせてグニドを余計に焦らせた。

 このままでは部屋全体の床が抜けるのも時間の問題だ。それどころか砦そのものが崩落してしまうかもしれない。そうなる前に――仲間だけでも、逃さなければ。


「ポリー、行ケ。オレ、一人デ、逃ゲラレル。ルルノコト、頼ム」

「だ、だけど、グニド……!」

「聖堂、行ケバ、ロクサーナ、イル。神子イルトコロ、安全。ソコヘ行ケ」

「でもアナタを置いていくなんて――」

「ルルもイヤ! グニドといっしょに行く!」


 瞬間、窓の外から突風が吹き荒れ、ポリーを室内へ押し戻した。バランスを崩した彼女が窓枠から転げ落ちたのを、グニドも受け止めてひっくり返る。

 鎧を身につけていないせいで、なかなかいいダメージを受けた。今のは疑いようもなくルルの仕業だ。グニドは強打した頭を擦り、身を起こした。そこへルルがすっ飛んできて、力一杯抱きついてくる。


『おい、ルル! お前はラッティたちと一緒に……』

『イヤ! ルルはグニドといっしょ! いっしょに行くの!』

『お前があの火の中を通れるわけないだろう? 時間がないんだ、おれなら大丈夫だから、お前は先に安全なところへ――』

『イヤ、イヤ! ルル、グニドとはなれない……! グニドをおいていくのはイヤ!』


 困ったことになった。このところ人語に堪能になったせいで、ルルはグニドがこれからしようとしていることを完璧に理解してしまったようだった。

 しかもちょっとやそっとではグニドから離れようとしない。力づくで引き剥がすこともできるが、そうすると暴れてポリーに預けるのはとても無理だ。

 グニドは戸惑った。ここ数ヶ月でルルは格段に聞き分けが良くなった。グニドが傍にいなくてもぐずらなくなったし、それなら一人で行かせても大丈夫だろうと思っていたのだ。


 いや、むしろ、自分がいなくてもルルはもう平気かもしれない、とさえ思っていた。


 しかし彼女は泣きじゃくっている。

 こんなときに限って、グニドから離れたくないと言って。


「おい、ラッティ、ポリー、グニド!? 何やってんだ、早くしないと砦が崩れるぞ……!」


 外からヨヘンの叫ぶ声がする。床の崩落もどんどん激しくなりつつあった。

 下から吹き上げてくる煙を吸って、ポリーがまた咳き込んでいる。無理だ。こんな中ルルを連れて逃げるだなんて――けれど。


「グニド、どうやらルルはアンタと離れたくないらしい。こうなったらその子を連れていくしかないよ」

「ジャ……!?」

「だってそうだろ? そんな状態のルルを無理矢理連れていったって、アタシらの言うことなんか聞きっこない。それどころかアンタを助けるって言って、一人で砦に飛び込みかねないよ」

「シ、シカシ……」

「うだうだ言ってる時間はない。アタシも行けるモンなら一緒に行きたいが、守るのがアンタ一人だけならルルの神力も持つかもしれないしね。アタシらはアンタの言うとおり、先に逃げてロクサーナさんと合流する。だからアンタも必ず聖堂に来な。もちろんルルと一緒にね。いいか、これは隊長命令だ」


 胸元にずいっと人差し指を突きつけられ、グニドは返答に窮した。できることならルルの身柄はラッティたちに預けたい。しかしこの様子では、ラッティもそれを拒むだろう。

 崩落の音は続いていた。このままでは早晩、部屋から出ることさえ叶わなくなる。

 グニドは極限の状態で究極の選択を迫られた。

 見下ろした先で、ルルが泣きながらきゅっと眉を寄せている。


『グニドは、ルルがまもるの』


 どこかで爆発音がした。ヨヘンが悲鳴を上げている。

 ヴォルクが切羽詰まった声でラッティを呼ぶのが聞こえた。彼女は身を翻すとポリーの手を掴み、共に窓枠へ足をかける。


「グニド、頼む!」


 一拍ののち、グニドはルルを抱いて駆け出した。窓から飛び降りる二人を、風の精霊が手助けする。

 ヴォルクほど華麗な着地とはいかなかったが、二人も無事地面に着いた。特に痛めたところもないようで、全員の安否を確かめたラッティが大きく手を振ってくる。


「こっちは大丈夫だ、グニド! ――聖堂で会おう・・・・・・!」


 グニドは大きく頷いた。

 仲間との再会の約束に――ラッティの信頼に応えようと決意した。

 だってラッティはグニドならやり遂げると信じたからルルを託したのだ。

 そしてグニドも、ルルをこんなところで死なせるつもりは毛頭ない。


『ルル、行くぞ。なるべく煙を吸わないように、なおかつ炎を避けていかなきゃならない。できるか?』

『できる』


 腕の中で頷くと、ルルは何やら祈唱を唱えた。するとたちまちグニドの周囲に風が生まれ、二人を包む球体のような形を取る。

 不思議なことにその風はグニドの目にも見ることができた。透明だがほんのわずか緑がかっていて、薄い水の膜が張っているみたいだ。

 それでいて風は絶えず流れており、二人に近づこうとする煙を蹴散らした。これならば炎の中も進むことができるはずだ。グニドは正直感嘆した。ルルが精霊と対話できることは分かっていたが、まさかこんな芸当までこなすとは思っていなかったから。


『ルル、お前は本当に……』


 ――精霊に愛されているんだな。


 グニドはそんな感慨を言葉にしようとして、しかしすぐに飲み込んだ。

 彼女を守る精霊たちに感謝するのはあとでいい。それより今は一刻も早くこの部屋から脱出しなければ。


『いいな、ルル。何があってもおれから離れるんじゃないぞ』

『うん……!』


 彼女が首元にぎゅっと抱きついてきたのを確かめて、グニドは姿勢を低くした。そのまま大竜刀を手に、一気に駆け出し跳躍する。

 床に開いた巨大な穴はひと思いに飛び越えた。鎧を着ていたらこうはいかないが、幸か不幸かグニドの鎧は炎で革帯の部分が焼かれ、着脱不能になってしまった。

 まあどのみちこの炎の中、すぐに熱を持つ鎧なんて着ていけないからちょうどいい。グニドは風の精霊に守られながら部屋を出ると、ぐるりとあたりを見回した。


 廊下に人の気配はない。ただ床に油が撒かれたようで、思っていたより火勢が強い。

 踊り狂う炎のせいで、一アナフ(五メートル)先も見えない状態だ。内臓を掻き回されるようなこの臭気は生き物の焼ける臭いだろうか。その臭いも耐え難いが一番の障害はこの熱さだ。こればかりはいくら風の鎧をまとっていても避けようがない。


『くそ、とんでもない熱気だ……ルル、大丈夫か?』

『うん……ルルは、平気』


 と言いつつも、ルルは荒い息をしている。恐怖のせいもあるだろうが何よりも暑いのだ。あまりこの場に長居すると、また砂漠越えのときのように脱水症状を起こすかもしれない。


『カルロスが無事かどうか確かめたら、すぐに砦を出る。それまでこらえてくれ』


 そう言ってルルを抱く腕に力を込めるや、グニドは力強く駆け出した。途中、何度も床の崩落に巻き込まれそうになりながら炎の中を疾駆する。

 火の海と化した義勇軍の砦は、グニドが知るそれとはまったく別の場所のようだった。炎に照らされてこんなにも明るいのに、気を抜くと自分が今どこにいるのか分からなくなる。


「カルロス! ドコダ!?」


 ようやく見知った場所に出たところで、声の限りに叫んだ。が、どこからも返事はない。

 炎が勢いを増してきたせいか、砦の中には火を放っていったはずの敵の姿すら見えなかった。あちこちで轟音が鳴り、足元が揺れている。これではいつ足場を失うか分かったものではない。


(くそ! 煙のせいで鼻がきかない……!)


 どんなに首を長く伸ばしても、グニドの嗅覚はカルロスの匂いを感知することができなかった。しかしいくら不死なる神子といっても、これだけの炎に巻かれては無事ではいられないはずだ。

 眠る前に彼と交わした杯のことを思い出した。

 グニドとカルロスは血のつながりより確かな絆を結んだ。兄弟になった。

 その矢先にこんな事態になるなんてあんまりだ。これじゃまるでカルロスが死を予感していて、別れの前の戯れに杯を掲げたみたいじゃないか――


『グニド、カルロスさん、いない?』

『ああ……少なくとも返事はない。カルロスのむろに続く階段も崩れてる……!』

『なら、ルルが、きく』

『何だって?』

『風に、きいてみる。ルルならできる……!』


 言うが早いか、ルルはグニドにしがみついたままサッと右手で空を切った。すると一筋の風が二人を覆う球体から離れ、崩れた階段の上へ吸い込まれていく。

 その光景を前にして、グニドは一瞬呆気に取られた。ルルが遠くで起きた出来事を目にしたように感知できる理由はこれか。

 だが彼女は既に汗だくで弱りきっている。これ以上力を使うのは危険なはずだ。そもそもグニドはルルにあまりこの力を使わせたくなかった。強力すぎる力は持ち主を狂わせると、マナもそう言っていたから。


『ルル、いいんだ、無理をするな。お前が犠牲になったってカルロスは喜ばない。こうなったら、一度お前だけでも外へ逃して――』

『ダメ! カルロスさんは、グニドに、やさしいもん! ルルだって、カルロスさんが死んじゃうの、イヤだもん……!』


 息も絶え絶えになりながら、甲高い声でルルは叫んだ。――彼女も感じていたのだろうか。人間たちからグニドへ注がれる忌避の眼差し。憎悪、蔑み、恐怖と悪意……。

 だからルルは助けようとしている。サン・カリニョで真っ先にグニドを受け入れてくれたカルロスを。

 グニドが彼の側仕えになったときには、あんなに寂しいと駄々をこねたのに。

 小さな体で、本当は分かっていたのだ。

 彼がこの義勇軍に――世界に必要な人間だということを。


『ルル、お前は……』


 いや、それとも精霊が彼女にそうさせるのだろうか?

 ルルもカルロスも、精霊たちの大いなる意思に選ばれた存在だから。

 この子は預言者。神の声を聴く者だ。

 だからカルロスと引かれ合っている?

 世界を導く者として……


「――おい、上! 崩れるぞ!」


 そのときだった。

 滾る炎を貫いて、グニドの耳に刺さった声があった。

 瞬間、グニドは渾身の力で床を蹴る。比較的火の勢いが弱い方向へ飛び退くと、直前までいた場所に巨大な岩が降ってきた。

 上階が崩れたのだ。間一髪のところで危機を回避したグニドはどっと心臓が縮むのを感じながら、声のした方を顧みた。


「……ジャック?」


 そう、確かあの男はジャックとか呼ばれていたやつだ。ラッティたちと共にアフェクト侯領へ潜入し、侯主イサークをまんまと騙しおおせた男。

 どうにも彼は竜人が嫌いなようで、あのとき以来ほとんど接点を持たなかったが、たった今危険を知らせてくれたのは紛れもなく彼だった。ジャックは見るからに頑丈そうな柱の陰で咳き込むと、顔の前で煙を払うように腕を振る。


「ゲホッ……おい、竜人! お前、こんなところで何してる……!? 子供を連れてるんだろ、早く逃げろ!」


 と言われても、正直グニドは戸惑った。それは思わぬ人物に助けられたからでもあるし、「何をしてる」はこっちの台詞だと思ったからでもある。


「オ、オマエ、ドウシタ? 逃ゲ遅レタカ?」

「はあ!? 俺がそんな間抜けに見えるか!? 外で鉢合わせたラッティに無理矢理押しつけられたんだよ! お前らの救助役をな……!」


 苛立たしげに怒鳴り散らしてから、ジャックは身を屈めて激しく咳き込む。この猛火の中で怒鳴ったりしたら嫌でもああなるだろうに、こいつは存外馬鹿なのか?とグニドは思わず首を傾げた。

 しかしラッティに言われてやってきたというなら納得だ。嫌々ながらも自分を助けに来てくれた者をこのまま見捨てるわけにはいかない。

 だからグニドは炎を掻き分け、すぐさまジャックへ駆け寄った。精霊はこちらから頼まずとも、ある程度近づいた時点でジャックも風に包んでくれる。


「はあ、くそ……なんて日だよ今日は……テンプランサ侯領から不眠不休で戻ったら、今度はディアマンテ忠勇騎士団の裏切りだ? 熱烈な歓迎をどうも、有り難すぎて涙が出るぜ」

「オマエ、テンプランサ侯領ヘ行ッテタカ? 何故?」

「人使いの荒いどっかの神子殿に言われたからだよ、今回の同盟話はどうもうますぎるから真相を探ってこいってな。カルロス殿は初めからこうなる・・・・ことを予想してたんだ。だがこっちが尻尾を掴むより、やつらが動き出す方が早かった。向こうも警戒してたってわけさ、面従腹背を見破られることをな」


 ――だからサン・カリニョに着いた当日にこのような暴挙に出たのか。

 谷を出て七ヶ月、人語の聞き取りに関してはだいぶ上達したと自負するグニドは、ジャックの言葉の九割を正しく理解することができた。

 彼の話を信じるならば、カルロスは手放しであの者たちを受け入れたわけではなかったのだ。裏では万一の事態に備え、皆を守る手立てを講じていた。結果として今回は間に合わなかったが。


「おかげで俺の命懸けの調査も水の泡だ。まったくマジで泣けてくるっつーの、この三ヶ月の苦労がすべて無駄になったあげく、城に到着するや否やなんでか知らんが憎き竜人の救出なんぞさせられてるんだからな」

「ム、ムウ……スマン……」

「謝ってる暇があったらとっととずらかるぞ。俺もヤバいがその子も相当ヤバそうだからな。……ていうかコレ、何の魔法だ?」


 そこでようやく風の鎧に気づいたらしく、ジャックがひどく訝しげな顔をした。が、彼の言葉でルルの異変を察知したグニドは、慌てて腕の中の彼女を覗き込む。


『おい、ルル? ルル、大丈夫か!?』


 ルルは依然ククルを大事そうに握り締めたまま、浅い息を繰り返していた。発汗は異常なほどで、見るからにぐったりしている。けれど彼女は薄目を開けて、グニドの呼び声に応えた。


『グニド……カルロスさん……いないよ……』

『何だって?』

『ここには……いない……こわい人たちが、くる前に……ひとりで――』


 囁くようにそこまで告げて、ルルは眠るように気を失った。グニドにしがみついていた腕からも力が抜けて、四肢も首も投げ出したような状態になる。

 この熱さのせいもあるが、やはり力の使いすぎだった。そのくせグニドたちを包む風の鎧はまだ生きている。精霊たちがルルの願いを聞き届けているのだ――彼女の生命力を糧にして。


『ルル、ルル! くそっ、やはりおれが止めていれば……!』

「おい竜人、何言ってるか分かんねえがとにかくついてこい! その子のことはロクサーナのところへ連れていけば何とかなる! 行くぞ!」


 ――ロクサーナ。そうだ。光の神子は特異な癒やしの力を持っていると聞いた。どんな怪我もたちどころに癒やし、心の傷をも塞ぐ力を。

 彼女のところへ行けば何とかなるというジャックの言葉を、グニドは信じることにした。彼はこの炎の中でも正確に道が分かるようで、迷わず炎を掻い潜っていく。

 途中、何度か道が崩れていたり火勢が強すぎて回り道をする羽目になったが、二階から一階へ飛び降りたところでついに見慣れた扉の前に出た。

 見上げるほど大きなその扉は、この砦の正門だ。鉄製の桟のおかげかまだ崩れずに残っていて、ちょうどグニドでも通れそうなほどの隙間が外に向かって開いている。


「よし、ここを抜ければ外だ。先に行け!」


 頭上で梁が軋んでいた。崩落からグニドを守るためか、ジャックが後ろに回って背中を叩いてくる。

 扉を潜ると、ほんのわずか肩がつかえた。そこから無理矢理抜け出そうとして、渾身の力で床を蹴る。

 その衝撃を受け、左の扉がガコンとずれた。突然つかえが外れたせいで勢いあまり、グニドはルルを抱いたまま一回転する。

 そうして地面に腰をつき、ブルルッと首を振ったところで音がした。


 鎧が擦れ、武器が構えられる音が、だ。


「おい竜人、無事か――」


 と続いてジャックも出てきたところで、ぴたりとその動きを止めた。

 かと思えば口の端を引き攣らせ、ゆっくりと半歩あとずさる。


「これはこれは、誰かと思えば忌まわしき竜人のお出ましか。どういうわけか子連れのようだが――構わん。殺せ」


 座り込んだグニドの眼前には、ずらりと並ぶ矛の切っ先があった。

 構えているのは牙の生えたゴーフ――イノシシの紋章を掲げた戦士たち。

 その中心には傲然と腕を組み、こちらを見下ろす人間ナムがいた。


 サンダリオ・アーチャ・バッベロ・セルド。


 今夜の裏切りを画策した、ディアマンテ忠勇騎士団の団長だ。



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