第四十九話 はぐれ者にも朝は来る
「……私がここへ来た?」
ディストレーサ栄光騎士団の若き団長フィデル・ドラードがそう尋ねたのは、今から十五日ほど前のことだった。
そこはアフェクト侯領の主都ソーロ。胸焼けがするほど黄色味の強い煉瓦造りの城館で、フィデルはまずアフェクト侯主のイサーク・アバリシアから妙な質問をされたのだ。
曰く、「何故戻ってきたのだ?」と。
意味が分からず尋ね返せば、「お前は十日前にここを発ったばかりではないか」と言う。十日前と言えばフィデルはこのソーロを目指してウニコルニオを発った頃で、ここへ来たのは二年前の妹の婚礼以来だ。
なのにイサークは「つい十日前までお前は確かにここにいた」という。数人の部下を従えて、反乱軍を陥れるための策を献じに来た、と。
その策とは何ぞやと尋ねれば、目下物資不足に喘ぐ反乱軍を誘き寄せるため、イサークの名を借りてテンプランサ侯領まで大量の物資を運びたい――と、自分はそう言ったそうだ。
だがそこでフィデルはピンと来た。これは恐らく反乱軍側の計略であろう、と。
彼らが先日の戦闘で、魔物の大群に拠点を蹂躙されたことは知っている。深刻な物資不足だというのも本当だ。
だからやつらは中立の立場を主張しているイサークを騙し、彼の懐から物資を掻っ払っていった。その手並みは敵ながらあっぱれと、思わず拍手を贈りたいほどだった。
何しろイサークは本物のフィデルがやってくるまで、反乱軍の手先をこのドラード紅爵と信じて疑っていなかったのだ。これほど猜疑心が強く用心深い男を完璧に騙しおおせるなんて、並大抵のことではない。
加えて今回フィデルがソーロを訪ねたのは、妹から届いた便りの真偽を確かめるためだった。セリシャの寄越した手紙によれば、昨年ウニコルニオ事変に乗じて侯王の妻子を攫った不届き者どもの背後にはこの男がいたという。
それを知ったカルヴァンは怒り狂い、今すぐ真相を確かめてこいと腹心のフィデルに命じた。もしもセリシャからの知らせが事実であったならば、今度こそアフェクト侯領を攻め滅ぼす、と。
まあ、内乱の鎮圧が最優先事項である現在、本当に攻め滅ぼすのは無理としても、そのネタをチラつかせてイサークを強請ることはできる。身の潔白を証明したければ、侯王軍に参加し其の方の忠義を示せと言って。
そんな交渉のためにソーロを訪れたフィデルとしては、痛快だったのだ。主君の妻子を辱め、更には妹を玩具のごとく弄ぶこの男が、反乱軍ごときにまんまと騙され赤っ恥をかいたことが。
しかしだからと言って、今回だけは反乱軍を見逃してやろう――とはならない。何しろやつらはイサークの下から奪った物資を拠点へ輸送中なのだ。
それを逃がせば反乱軍は再び態勢を立て直す。大量の魔物を集め、サン・カリニョへ向かわせた苦労も水の泡となるだろう。
だからフィデルは提案した。王子誘拐事件の真相を質す前にまずはイサークと協力し、共に反乱軍の間者を討とう、と。
ここで物資を取り戻してやれば、フィデルはイサークに恩を売れる。飢饉のさなかに大量の物資を盗まれたわけだから、イサークもこの恩は無視できない。
そうなればしめたものだ。自分たちは今度こそ玉座の前に跪かせることができる。狐人のように欲深で狡猾なあの男を。
(そう、その狐人だ)
と、フィデルは事情を知った時点でほとんど確信していた。反乱軍の一味が一体どうやってイサークから物資を掠めたのか、その手口をだ。
あの疑り深いイサークの性格を思えば、ただの変装ということはないだろう。そんな子供騙しの策略をあの男が見破れなかったとは考えにくい。
とすると考えられる答えは一つ。
狐人族だ。
フィデルも実物を拝んだことはないが、彼らは総じて妖しげな力を使い、人間にありもしない幻を見せるという。
元は獣ではなく魔族だったのではないかという説が有力で、そうだとすれば実に卑しく穢らわしい種族だ。
だから普通の人間はまず彼らに近づかないが、反乱軍の連中ならどうか。やつらは兵力が不足している上に、カルロスやヒーゼルといった変人どもに率いられている。
あの非常識で野放図極まりない手合いのことだ。たとえ魔族の末裔であったとしても、己が目的のためならばきっと平気で手を結ぶだろう。
現にカルロスどもは、アビエス連合国の魔女をも味方につけているという話ではないか。かくも卑しき連中が主の手から玉座を奪い取ろうなどとは、片腹痛い。
(出自も定かならぬ売女の息子どもめ)
カルロスもヒーゼルも元を正せば、母親が夫でもない男と姦通して作った子供。つまりやつらの存在は生まれた瞬間から穢れているのだ。
そのような人間を、神が神子に選ぶはずがない。カルロスのアレは触れがたき旧主夫人を唆して成し得たことだ。
ならばやつらを討つ理由は充分。こちらには正統な神子である神領国元首エシュアの後ろ盾もある。
今度という今度こそやつらの鼻を明かしてやろうではないか。一味を追って白馬を飛ばしながら、フィデルは不敵な笑みを刻んだ。
そして今、フィデルの足元には一匹の狐が倒れている。
その狐はミミシロギツネと呼ばれるそれに似ていた。尻尾の先だけでなく耳の先や手足の先も白く、大きさは一般的な狐より一回り小さい。
体毛の色はやや薄く、忌々しいラムルバハル砂漠の砂にまみれたようでみすぼらしかった。とは言え今は篦深に矢が刺さった横腹のあたりから、じわじわと赤く染まりつつあったが。
「貴様、ただの狐ではないな。狐人だろう」
力なく横たわったまま、狐に抵抗する気配がないのを確かめると、フィデルはゆっくり馬を進めた。
何なら蹄にかけても良かったが、この狐にはまだ聞きたいことがある。弓を下ろし、代わりに顎をしゃくると、すぐに部下が駆け出した。
誇り高き一角獣の紋章を胸に掲げたその騎士は、馬上槍の先を狐の喉元へと突きつける。狐は舌を出して浅い呼吸を繰り返しているが、まだ意識はあるはずだ。だから言う。
「答えろ。反乱軍に与している狐人は貴様一人か? それともまだ予備がいるのか」
正直に答えれば、命だけは助けてやる。フィデルはそう付け加えた。無論そんな口約束を守るつもりは毛頭ないが、コレの他にもまだ狐人がいるとしたら厄介だ。
こいつらの使う魔術は侮れない。あのイサークですら騙された事実がそれを如実に物語っている。
そもそもこんな連中に介入されたら、味方すら信用できなくなりそうだ。今、話をしているこの男は、本当に自分の知る者なのかと。
だが狐は答えなかった。〝答えない〟と言うよりは〝答えられない〟と言った方が正確かもしれない。
彼――いや、〝彼女〟か?――は大地に身を横たえたまま、キュウ、キュウ、と苦しげに鳴いて前脚を掻いた。どうやら死期が近いようだ。
「……急所は外したつもりだったが、当たりどころが悪かったようだな」
武芸に秀ですぎているというのも考えものだ。しばらくは生かさず殺さず、聞き出せるだけの情報を搾り取ろうと思ったのだが、これではもう使えない。
「もういい。殺せ」
噴き上がる熱風にアイスグリーンの髪を煽られながら、フィデルは命じた。燎原の火という言葉のとおり、あの狐が巻き起こしたものと思しい炎はどんどんあたりを呑み込んでいる。
このままでは早晩手がつけられなくなるだろう。狐の後始末は部下に任せて、フィデルは連れてきた神術兵を呼び集めようとした。
ところが刹那、
「――ジャアアァァァァッ!!」
怖気の走る声がした。本能的な恐怖を呼び起こさせる吼え声だった。
はっとして振り向いた瞬間、炎の壁を突き破り、飛び出してきた大きな影がある。あれはまさか、
「ど……竜人……!?」
部下たちが色めき立ち、フィデルも目を疑った。
だがあれはどう見てもルエダ人の天敵、竜人だ。
炎光を弾く黒緑色の鱗。
緋色の鬣。
鋭い爪の生えた後肢に大竜刀――。
どうして列侯国の真ん中に竜人が。
愕然と立ち竦んでいる間に、竜人は地を蹴って眼前の獲物へ飛びかかった。
真っ先にやつの凶牙にかかったのは、狐を殺そうとしていた騎士だ。彼は馬ごと押し倒され、喉笛に喰いつかれ、炎の中へとぶん投げられる。
狐人の見せる幻覚かと思ったが、違った。現に部下は目の前で殺された。
狐人の幻は実体を伴わない。つまり手で触れられないのだ。
ということは今、フィデルたちの目の前にいるコレは、
「――雷槍!」
閃光が走った。
赤かった視界が突如として白に染まり、轟音がはたたく。
後ろで列を成していた部下たちが吹き飛ばされた。
雷。青い。この不快な神気の流れは、
「ヒーゼルか……!」
フィデルの唸りを掻き消すように、喊声が上がった。
炎を破り、武器を振り上げ、怒濤のように押し寄せる騎馬隊が見える。
彼らが高々と掲げるあの旗の紋章は《蛇巻きの剣》。
他でもない、正義神ツェデクの神璽だ。
「正義神の名の下に!」
猛り狂った兵士たちが殺到してきた。フィデルは素早く剣を抜き、動揺している部下たちを叱咤する。
「来るぞ! 態勢を立て直せ……!」
衝突までは一瞬だった。神術で奇襲され、隊列が乱れていた部下たちはあっという間に鯨波に呑み込まれる。
それを見たフィデルは激しく切歯しながら、勢い良く剣を振り抜いた。その刃が、今にもフィデルへ迫ろうとしていたもう一つの剣を受け止める。
「ようフィデル、久しぶりだな」
交差する剣の向こうでニヤリとしたのは、フィデルの妻を奪い去ったあの赤髪の男だった。
×
すべてはマナの予言のとおりだった。
沈みかけの月。
燃え盛る炎。
薄緑色の髪の騎士と、彼が率いる馬の群。
この光景を、マナは遠く離れたサン・カリニョで既に見ていたというのか。
そう考えると空恐ろしい。だが今は、そんなことよりもっと大事なことがある。
「ラッティ!」
炎と血で赤く染まった原野。そこには狐の姿をしたラッティが倒れ込んでいて、動かなかった。
グニドは彼女の獣化した姿を初めて見たが、それでも分かる。あれはラッティだ。間違いない。だってにおいが同じだから。
「ラッティ、助ケニキタ! 声、聞コエルカ?」
大竜刀を投げ捨て、急いで駆け寄り、グニドはラッティを抱き上げようとした。しかし直前で思い留まる。ラッティの腹には矢が刺さったままだ。下手に動かすとまずい。抜いてもいいが、それだと傷から血が溢れてしまう。
「ラッティ」
まさか死んでいるのか。どうしようもない焦燥に駆られ、グニドは鼻の頭を何度もラッティの毛皮に擦りつけた。手で掴んで揺さぶり起こすには、今のラッティは小さすぎる。
「……グニ、ド」
やがて竜人の聴覚が、今にも消え入りそうな彼女の声を捉えた。
「グニド……来て……くれたの……?」
「当然ダ。竜人ハ、ナカマ、見捨テナイ」
弱ったり困ったりしている仲間がいたら、必ず助ける。それが竜人の戦士だ。
そういう意味を込めてグニドが言うと、ラッティは微かに笑ったようだった。けれど彼女はもう口をきかず、眠るように目を閉じる。
「ラッティ……!」
「はいはいどいたどいたー!」
思わずラッティに手を伸ばしそうになった刹那、いきなり横からどつかれた。不意を衝かれてよろめくと、それまでグニドがいた場所にサッと膝をついた人物がいる。――マナだ。
『おいマナ、何を……!』
『ラッティさんのことは私に任せて。あなたはヒーゼルたちを手伝いに行ってちょうだい』
ふわふわした金の鬣を熱風に煽られながら、マナは言った。このメスは相変わらず竜人の言葉をペラペラ話す。
そして口元には、凄絶な光景にそぐわぬゆるい笑み。こいつは本当に何を考えているのか分からない。いや、それとも分からせないようにしているのだろうか? 確証はないけれど、そんな気がしなくもない。
『あー、何よその顔? さては信用してないわね、私のこと』
『……そういうわけじゃない。確かに怪しいヤツだとは思ってるが、お前はこの未来を言い当てた。谷の祈祷師たちより正確に』
『まーそりゃーね、だってマナさんは〝魔女〟ですし?』
『〝魔女〟は生き物の傷も癒やせるか?』
『とーぜん。魔女はルルちゃんと一緒で、竜人が言うところの四大精霊すべての力を借りることができるのでーす。だからこのくらいの傷なら癒やしの術でちょちょいのちょいよ』
『だがお前、病み上がりだろう?』
『ああ、それならもうだいじょーぶ。だってもうすぐ満月だから』
またわけの分からないことを言って、マナは妖しく微笑んだ。言われてとっさに見やった沈みかけの月は、確かにほとんど満月に近い。
だがそれとこれと何の関係があるというのだろう。魔女の力は月の満ち欠けに左右されるとでもいうのだろうか?
……考えても仕方ない。今はマナをゆっくり問い詰めている時間などないのだ。
グニドは尻尾を返した。喊声が上がっている後方を顧み、最後にマナを一瞥する。
『なら頼んだ。ただしラッティを死なせたら、俺はお前を喰うからな』
『わー、こわーい。そうならないように善処しまーす』
まったく怖がっている様子もなく、マナはにこにこ笑って手を振った。そんな彼女に調子を狂わされるのを感じつつ、グニドは大竜刀を拾い上げる。
(――とにかく今はあいつらだ)
侯王の腹心だという戦士たち。
名前は確かディストレーサ栄光騎士団とかいったか。
やつらがラッティを傷つけた。殺そうとした。
同じ国の同胞を裏切り、死者を利用して魔物を呼び寄せただけでは飽き足らず、グニドたちからラッティまで奪おうとした。
そう考えると自然と喉が鳴り、グニドは牙を剥いて頭を低くした。間を置かずダッと駆け出すと、騎兵同士の乱戦へ飛び込んでいく。
グニドが吼えながら乱入するや、敵味方の馬たちが怯えて棹立ちになった。その中から敵の馬だけを見極め、腹に得意の体当たりを決める。
後ろ脚だけで立ち上がっていた馬は衝撃でたちまち体勢を崩し、鞍上の騎士を押し潰して倒れた。更に大竜刀を振りかぶり、横にいた別の騎士を馬ごと叩き斬る。
人間どもの打った鉄の鎧など、竜人の膂力の前では〝紙〟に等しかった。騎士の体は鎧と共に両断され、血飛沫を上げて倒れ込む。
その血を浴びながら咆吼すれば、明らかに敵が怯むのが分かった。砂漠にしかいないはずの捕食者を前にして、騎士団の馬たちは恐慌をきたしている。
今だ。グニドは馬の制御で手一杯になっている騎士たちへ飛びかかった。喰らいついて鞍から叩き落とし、容赦なく頭を噛み砕く。
そこへヒーゼルたちも突っ込んだ。戦況はどう見てもこちらの優勢だ。騎士たちは逃げこそしないが、完全に及び腰になっている。あれではグニドたちの攻撃を支えきれない。
「押し切れ!」
馬上で剣を振るいながら、ヒーゼルが叫んだ。味方がどっと勢いづく。
グニドもその波に乗り、次々と敵を斬り倒した。目の前の騎士の腕を飛ばし、後ろの馬を尾で薙ぎ倒し、義勇兵に迫る敵の頭には飛刀をぶち込む。命中した。蟀谷に刃を受けた騎士は、悲鳴も上げず落馬する。
だがグニドがしかとそれを確かめた、そのときだった。
「――吼雷蛇!」
突如として視界が白く染まる。
黎明の空の下、開いていたグニドの瞳孔がきゅうっと急激に狭まった。
その眼が捉えたのは、赤い蛇。
否、あれは地面をのたうち、三方からグニドへと迫る雷だ。
喰われる。
瞬間、グニドはそう思った。
三匹の光の蛇が、グニドには懐かしき砂漠の大蛇に見えた。
そのうちの一匹が鎌首をもたげ、顎を開き、グニドを呑み込もうとする。
しかし直前、グニドの眼前に滑り込んだ騎影があった。
「雷霆瀑!」
ヒーゼルの声。脳がそう判別すると同時に、更なる光の奔流が巻き起こった。
譬えるならば、それは滝だ。
幾本もの青い稲妻が垂直に、グニドを守る壁のごとく降り注ぐ。
大蛇に似た赤い雷蛇は、三匹ともその壁に当たって砕け散った。爆風と爆煙が暴れまくり、これにはさしものグニドも吹き飛ばされそうになる。
(神術が――)
相殺し合ったのか。グニドは鼻先に腕を翳しながら眼を細めた。
轟音の連続で耳鳴りがする。
キーンという細く高い音以外、すべての音が遠のいた。視界は煙に覆われている。草や土の焼ける匂いで、鼻がきかない。
グニドは大竜刀を構えたまま、鬣を逆立てた。
全神経を張り詰めて、いつどこから敵が襲ってきてもいいように備える。
だがやがて煙が晴れると、そこには意外な光景が広がっていた。
グニドの周囲には、いつの間にか集結した義勇兵たち。
そしてそんな彼らと向き合うように隊列を組んだディストレーサ栄光騎士団との間には、燃え上がる炎の壁ができている。
「ここまでだな、フィデル」
先程の神術のせいもあるのだろう。原野を包む炎はますます燃え広がり、勢いを増していた。
これ以上この場に留まれば炎に巻かれ、脱出が困難になる。ヒーゼルはそう判断したのかもしれない。
対する薄緑色の長鬣の男――フィデルは熱火から生まれる陽炎にゆらゆらと揺られながら、忌々しげに顔を歪めた。
長剣を握る彼の右手には、今も赤い蛇がバチバチと巻きついている。どうやら先刻の神術はあの男のものだったようだ。
「気安く我が名を呼ぶな、下賤の徒が。元々愚劣な輩だとは思っていたが、ここに来てますます堕ちたな、ヒーゼル」
「そう見えるか? 少なくともカルヴァンの下にいた頃よりは、身も心も清らかになったけどな、俺は」
「戯れ言を。ならば今貴様が守ったそれは何だ? 魔の眷族たる狐人や魔女だけでは飽き足らず、ついに仇敵たる竜人とまで手を組んだか、蛮人め」
「砂王国や神領国なんかと同盟したお前らにだけは言われたくないな。それともお前らお偉い騎士様方の理屈では、竜人と手を結ぶのは〝野蛮〟でも、魔物を操って人里を襲わせるのはアリなのか? だとしたら、騎士の称号なんかドブに捨てて正解だった」
依然グニドを庇うように馬を佇ませたまま、ヒーゼルはニヤリと笑った。そう言えばサン・カリニョからの道中、あのフィデルという男とヒーゼルは古い馴染みだと聞かされた気がする。
しかし長い鬣を生き物のように蠢かせたまま、憎悪や憤怒といった感情を隠そうともしないフィデルの様子を見るに、どうやら馴染みと言っても知己の間柄――というわけではなさそうだった。いつものごとく根拠のない余裕を湛えているヒーゼルとは裏腹に、フィデルの方は今すぐにでも彼を斬り殺したくてたまらない、といった風に見える。
「自惚れるな、下郎。元はと言えば出自も定かならぬ余所者の貴様が、騎士の称号を授かったこと自体が誤りだったのだ。カルロスも同じ売女の子だからという理由で貴様に同情したのだろうが、穢れた血を好んで騎士団に招くなど、正気の沙汰とは思えなんだ」
「その〝売女の子〟に嫁さんを掻っ攫われた男に言われても全然説得力がないんだが? ああ、そう言えばマルティナからサン・カリニョを出る前に伝言を預かってきたんだった。もしもお前と遭遇することがあったら〝アブリル嬢とのご結婚おめでとう〟と伝えてくれとさ」
炎が巻き起こす風のせいか。とてもそれだけとは思えないほど、フィデルの鬣が更に逆立った。
原野を焦がす熱気と共に、尋常でない殺気が吹きつけてくる。が、ヒーゼルは相変わらずニヤニヤしたままで……心なしか、とても楽しそうだ。
「ま、それについては俺からもお祝いさせていただくよ。〝出自も定かならぬ穢れた血〟の持ち主に、決闘で惨敗して許嫁を奪われるような騎士団長様のところでも嫁いでいいって奇特なご令嬢と巡り会えたんだもんなあ。おめでとう、ドラード紅爵。末永くお幸せに!」
「……なるほど。言いたいことはそれだけか、ヒーゼル?」
「そんな長々と世間話するような仲でもないだろ、俺たちは」
「そうだな。確かにそのとおりだ。ならば最後に、これだけは伝えておこう――貴様らはいずれ必ず、私がこの手で葬り去ってやるとな!」
フィデルの怒号と同時に、閃光が炸裂した。一拍遅れて雷鳴が轟き渡り、赤い雷の矢がこちらへ向かって飛んでくる。
同時にヒーゼルも神術を放った。彼の雷は青かった。
二つの神の力がぶつかり、噛み合い、再び爆発を引き起こす。
燃え盛る平原での戦いは、その一撃で幕が下りた。
次に煙が晴れたとき、炎の壁の向こうからディストレーサ栄光騎士団の姿は消えている。
どうやら煙幕に紛れて身を翻し、元来た道を駆け戻っていったようだった。残された義勇兵たちは武器を振り上げ、勝ち鬨を上げている。
「スマン、ヒーゼル。助カッタ」
「気にするな。フィデルが神術で反撃してくることは、当初から想定済みだったからな。お前ら竜人に有効な手段はそれしかないだろ?」
「ウム……シカシ、オマエ、オレ、庇ッタ。ダカラ、オマエ〝蛮人〟言ワレタ」
「俺がけなされたって言いたいのか? はははっ、それこそ気にするなよ。フィデルの譫言は今に始まったことじゃないからな。それより、ラッティは?」
フィデルから散々侮辱されている様子だったにもかかわらず、ヒーゼルはまるで気にした素振りもなかった。そんなことなどもう忘れたとでも言うように残りの兵に消火を指示し、自身はラッティの方へと馬を向ける。
グニドもそれに従って、彼と共にラッティのもとへ急いだ。依然狐の姿でいる彼女の傍らには、マナがいる。
グニドたちが駆け寄ると、マナも気づいて立ち上がった。ラッティはマナの腕に抱きかかえられて、動かない。
『マナ、ラッティは?』
隣にヒーゼルがいることも忘れ、思わず竜語で問いかけてしまった。しかしそんなグニドの緊迫とは裏腹に、マナは微笑みを崩さない。
『私に任せなさいって言ったでしょ。はい』
言って、マナは無造作にも思える所作でラッティを差し出してきた。グニドは一瞬戸惑いつつも、恐る恐る両手を伸ばし、代わりにラッティを抱き上げる。
こうして見ると、狐の姿のラッティは本当に小さかった。
それでいて、温かかった。
目を凝らせば彼女の砂色の毛皮は、腹のあたりがわずか上下している。
ゆっくりと、確かに。
あんなに毛皮を汚していた血の痕ももうない。そもそも傷はどこにあったのか、この狐臭い毛皮を掻き分けなければ分かりそうもない。
それを確かめたグニドは心底ほっとして、ルルを抱くようにラッティを抱いた。
思えばルル以外の生き物――しかも大嫌いな狐を――こんな風に抱くなんて生まれて初めてのような気がするが、掌に感じる温もりが、今はただただ心地良い。
『良かった、ラッティ……』
安堵のため息と共にそう呟けば、ラッティの尾がはたりと動いた。一瞬だけ目が覚めたのか、はたまた寝言か、彼女は小さく「キュウ」と鳴く。
それが何だか可笑しくて、グニドもぶんぶん尻尾を振った。鼻が曲がりそうな狐の臭いなんて、もう気にならなかった。
「よし、ラッティの無事も確認できたな。あとは物資とヴォルクたちを回収に行った仲間と合流するだけだ。アバリシア侯が重い腰を上げる前にトンズラするぞ」
ヒーゼルの号令に、グニドもマナも頷いた。振り向いた先では義勇兵たちの神術により、あんなに燃え広がっていた炎が収まりつつある。
グニドはその光景を眺めて佇んだまま、決してラッティを放さなかった。
見上げた空はいつの間にか白い。
長かった夜が、明けようとしていた。