第四話 ルルアムス
竜祖の祠へ向かいながら、グニドは深いため息をついた。
人間の赤子がドラウグ族の巣穴へやってきてから三日。
外では日も傾き始めたという頃、狩りを終えたグニドは休む間もなく赤子のもとへと向かっている。
ちなみに本日の収穫はゼロ。
もう少し砂漠を北へ行ってみても良かったのだが、仔人の世話があるからと早めに狩りを切り上げてきたら、収穫がなかったことを知ったメスたちから散々に罵られた。
それだけでもかなり堪えているというのに、その上これからあんな得体の知れない生き物の世話をしなければならないなんて。
グニドはぐったりと肩を落としながら、重い足取りで岩窟の中を進んでいく。
『あーあ、しかし腹減ったなー。もう三日も何も食ってねーしよー。メスどもはオレらを何だと思ってるんだ? そんなに新鮮な肉が食いたかったら、まずはオレらに肉を食わせろってんだ』
隣でぐちぐちとそんな悪態をついているのは、無論スエンだ。
グニドは力なく頭を垂れたまま、しかし横目で疫病神の悪友を睨む。
そもそもこんなことになったのは、三日前、薄情者のスエンが面白半分で長老の肩を持ったせいだとグニドは思った。
あのときスエンが悪友の誼で『こいつに人間の世話なんて無理です』とでも口添えしてくれていれば、グニドも今頃はこんな心労を抱えずに済んだかもしれない。
だいたい本当は今日だって、上手くすれば狩りに成功していたかもしれないのだ。
グニドたちはちょうど昼頃、砂漠で西を目指して歩いてゆく人間の群を見つけた。
けれどもそのうちの一頭も狩れなかったのは、目の前の新鮮な肉に逸ったスエンが策もなく飛び出して、まんまと獲物に逃げられたせいだ。
おかげでまたしても食事の機会を逃したばかりか、自分までメスたちから罵声を浴びせられる羽目になった。
そう思うとグニドは次第にイライラしてきて、いきなり尻尾でスエンの足を掬った。
不意討ちを喰ったスエンは背中からひっくり返り、『ぐえっ!?』と蛙人が潰れたような声を上げている。
それからすぐに抗議の声が飛んできたが、グニドは無視して先へ進んだ。
前方には内側に傾いた二本の柱と、その間に渡された一本の貫。
いずれも灰色一色の岩によって造られたそれが、竜祖の祠の入り口だ。
『……ん?』
と、ときにその祠の入り口をくぐったところで、グニドはふと足を止めた。
ひんやりとした石の床の感触を確かめつつ、空気を嗅ぐように首をもたげる。
耳を澄ますと祠の奥の方から、それこそ蛙人が騒ぐようなひどい声が微かに聞こえた。
これは仔人の泣き声だ。
それを知ったグニドは「またか」という心境になり、げんなりと眉を寄せる。
『ああ、こりゃまた盛大に泣いてるな』
と、少し遅れて祠に入ってきたスエンが、呆れたような、それでいて面白がるような口調で言った。
人間の赤ん坊について、この三日で分かったことが三つある。
一つ、竜人の赤子のように肉は食べない。
二つ、よく寝る。
三つ、よく泣く。これがまた、信じられないほどにうるさい。
上の二つはまだいいとして、最後の一つだけがグニドにはどうしても耐え難かった。
人間の聴覚は、十分に成長した個体のものでも竜人のそれより遥かに劣るという。
グニドはその理由の一つが、赤ん坊の発するあの大声から身を守るためではないかと考えるようになっていた。
それくらい、人間の赤子の泣き声はうるさい。何故あそこまで大きな声で泣く必要があるのかと、事情を知る人間を捕まえて納得がいくまで問い質したいほどだ。
『ほら、グニド。きっと今頃イダルが困り果ててるぜ。早く行ってやらねーと』
『分かってる』
憂鬱すぎて逃げ出したい気持ちを堪え、グニドは一歩踏み出した。
それにしても、隣でスエンが終始ニヤニヤしているのが気に食わない。何ならもう一発、エヴィ直伝の尻尾打ちをお見舞いしてやりたいくらいだ。
『ああ、グニド。待ってたよ』
やがて二人が地下へと続く階段を下っていくと、そこには案の定弱り果てたイダルがいた。
グニドを見てほっとしたように声を上げた彼女の腕の中には、裸にされた仔人がいる。仔人はグニドが砂漠で見つけたときと同じく全身を引き攣らせ、まるでこの祠を打ち壊さんとしているかのような大声で泣いている。
『イダル。今度はどうしたんだ?』
『それがね、ちょっと体を拭いてやろうと思ったんだけど、どうにも水が冷たかったらしくて。それがよっぽど嫌だったのか、このとおり泣き止まなくなっちまったんだよ』
そう話すイダルの声は疲れきっていて、よほど長い間この騒音に耐えていたのだろうとグニドは彼女に同情した。
そのイダルがいるのは、祠の地下にある大きな檻の中だ。これもまた大昔の先祖によって造られたもののようで、箱型に仕切られたいくつもの室は頑丈な鉄格子によって塞がれている。
普段は掟を破った一族の者を放り込んだりするのに使う場所なのだが、今はそのうちの一つが仔人の飼育室になっていた。
壁には常時光を灯している篝火があるので、暗くはない。
竜人の目は暗闇でもよく見えるから、むしろ少し薄暗いくらいがちょうどいいのだ。
『そういうわけだから、すまないね。あとは頼むよ』
そう言ったイダルから仔人を差し出され、グニドは嫌々ながらもそれを受け取った。
竜人の子供も腹が空くとよく騒ぐが、ここまでうるさくはない。せいぜい地面にひっくり返り、手足をばたつかせて駄々をこねるくらいだ。
まったく人間という生き物は理解に苦しむ。そう思いながら、グニドは受け取った仔人を腕に抱え、とりあえずあやすように軽く揺らした。
するとどうしたことだろう。
あれほど喧しかった泣き声は徐々に静まり、やがて仔人はグニドの腕の中で静まり返ったのだ。
『ああ、良かった。やっぱりこの子はあんたじゃなきゃダメなんだねえ、グニド』
イダルから感心したようにそう言われたが、それは喜ぶべきことなのかどうか、グニドには判断しかねた。
しかしイダルの言うとおりだ。この仔人には、どうやらグニドが分かるらしい。
と言うのもこの三日間、イダルの腕の中では決して泣き止まなかった仔人が、グニドの腕に渡った途端ぴたりと泣き止むということが既に四、五回確認されていた。
もちろん、グニドが抱いても泣き止まないことは多々あるが――特に寝ていたと思ったら夜中に突然泣き出すあれはひどい――、それでもグニドがあやすと泣き止みやすい、という傾向があることは確かなようだ。
『けっ、つまんねーの。けどこいつ、何でそんなにグニドを気に入ってるんだろうな? 単純にメスよりオスの方が好きとか、そういうことじゃねーのかな』
『そう思うなら、スエン、あんたも試しに抱いてみたらどうだい』
イダルに促され、スエンも檻の中へ入ってきた。
そうしてスエンが手を出してきたので、グニドはその手に仔人を託す。
次の瞬間、再び耳を劈くような泣き声が祠中に響き渡った。
これにはさすがのスエンも堪らず仔人を投げ返してくる。グニドは仔人がそのまま床に叩きつけられそうになったのを、すんでのところで受け止めた。
『だーっ、うるせえ! 何だよ、オレの何が気に食わねえってんだよ!』
『だから、この子はグニドじゃなきゃダメなんだよ。でも良かったねえ、グニド。初めからそれだけ懐かれていれば、今後の世話が楽になるじゃないか』
『そうだといいけどな……』
既にこれだけ手がかかるというのに、果たしてそんな明るい未来が望めるのだろうか。
グニドは自分の先行きに不安を覚えながら、泣き止んだ仔人を見下ろした。
仔人はまだぐずっているのか、グニドの腕の中で「うー」とか「あー」とか意味のない声を発している。
しかし一際目を引くのは、その仔人の胸に刻まれた見慣れぬ模様。
細長い菱形が四つ、×印のような形を組み、それが円で囲まれた印――。
それは人間が精霊の力を行使するときに使う、『神刻』と呼ばれるものだ。
この〝神刻〟を刻んだ人間は、森羅万象に宿るとされる精霊たちの力を借りて、意のままに炎を操ったり、雷を起こしたりすることができると言われていた。
残念なことに、グニドら竜人はそうした神刻の力を引き出すことができない。
それは脆弱な人間が精霊の力を利用し身を守るために編み出した技術だと言われていて、竜人を脅かす数少ない存在の一つとも言えた。
だが人間なら誰もが神刻を扱えるというわけでもないらしい。
現に人間との戦に出かけたりすると、神術――神刻の力が起こす奇跡のことだ――を使ってくる人間はごくわずかだから、人間の中でも神刻の恩恵にあずかれる者は限られているようだ。
『なあ、イダル。そう言えば、このチビの胸にある神刻について、何か詳しいことは分かったか?』
『いいえ、まだ何も。それについては長老様が調べて下さっているようだけど、見慣れない神刻ってことは確かだねえ。それに、人間がそんな赤ん坊のうちから神刻を刻むっていうのは、かなり珍しいみたいだよ』
『ふうん。こいつが精霊の力を使えるなら、それはそれで役に立ちそうなんだけどな』
さすがにまだ言葉も話せぬ赤子ではそれも無理か、と、グニドは改めて仔人の胸にある神刻を眺めた。
×印を作っている四つの菱形は、よく見るとそれぞれ色が違う。
青、緑、赤、橙。
いずれも淡い色調だが、確かにそのように塗り分けられている。
それが一体どんな意味を持っているのか、グニドにはまったく分からなかった。
普通、神刻というのは使える力の形をしていることが多いのだが、この仔人の神刻は見た目からどんな力を持っているのか想像できない。
その未知の力が、将来一族に害を為したりしなければ良いのだが――とグニドが難しい顔をしていると、ときにイダルが仔人に着せる布を差し出しながら言う。
『それはそうと、グニド。そろそろこの子につける名前は決まったかい?』
『ああ……それ、本当につけなきゃダメか?』
『ダメってことはないけど、やっぱりないと不便じゃないか。何ならアタシが考えてやってもいいけどね――』
『――はいはい! それならオレがのろまなグニドに代わって考えてきてやったぜ!』
待ってましたとでも言うように、そのとき目を輝かせて言ったのはスエンだった。
仔人に何か名前をつけようという話になったのは、つい二日ほど前のことだ。
スエンはたまたまその場に居合わせていて、以来誰にも頼まれていないのに、勝手に仔人の名前を考えてきたらしい。
『あら、そうかい。で、どんな名前?』
『候補は色々考えたんだけどよ。ここはやっぱり分かりやすく〝家畜一号〟なんてのはどうだ?』
『却下』
『何でだよ!?』
グニドとイダル、二人から同時に拒絶され、傷ついたようにスエンが叫んだ。
しかしイダルは渋い顔をして、窘めるような口調で言う。
『あんたね、この子は一応メスなんだよ。それならもう少しかわいげのある名前をつけてやらなきゃ、いくら何でもかわいそうじゃないか』
『かわいそうって、そもそもこいつは未来の食糧だろ? なのに変に凝った名前なんかつけて情が湧いちまったら面倒じゃねーか』
『だとしてもクォト=セヴィルだなんて呼びにくいよ。グニド、あんたは何か考えてないのかい?』
『まあ、一応考えてきたけど……』
――名前をつければ情が湧く。
それはグニドも内心危惧していることだった。
スエンの言うとおり、この仔人は人間を食糧として繁殖させるための家畜であり、ゆくゆくはグニドらの腹に収まるだろう存在だ。
だから下手に名前などつけない方がいいのではないか、とグニドは思うのだが、イダルはどうにも譲らなかった。
そこでグニドは一つ息をつき、腕の中の仔人を見下ろしながら、言う。
『〝チビ助〟』
なるべく呼びやすく、それでいて家畜にふさわしい名前。
その条件でグニドが考えられた、唯一の名前がそれだった。
しかしその名前は、思いの外イダルの意に叶ったようだ。
彼女は眉を上げて頷くと、口元を綻ばせながら言う。
『ルルアムスか。いいねえ。分かりやすいし、クォト=セヴィルよりずっと呼びやすい。その名前でいいんじゃないかい?』
『いや、でもよ、クォト=セヴィルの方が響き的にはかっこいいし――』
『長老様にその子の世話係を任されたのはあんただしね。あんたがそれでいいと思ったならアタシは反対しないよ。せっかくだ、早速呼んでおやり』
未練がましいスエンの主張を華麗に無視し、イダルはそう促してきた。
本当にこれでいいのだろうか。グニドは心中疑問に思いながらも、言われるがまま仔人の名を呼んでやる。
『ルルアムス』
じっと見下ろされた仔人は、大きな目をまん丸にしてグニドを見つめ返していた。
それが、突然。
けれど、確かに。
グニドがつけたばかりの名前を呼んでやった途端、仔人は声を上げて笑った。
それがグニドには意外だったのだ。
先程まではあんなに派手な声を上げて泣き喚いていたくせに、今や仔人は両手をぱたぱたとグニドへ伸ばしながら笑っている。
『おやおや。どうやらその子もその名前が気に入ったようだね』
『……。こいつ、本当に竜人を怖がらないんだな』
『そりゃあ、その子はまだほんの赤ん坊だもの。いつかアタシらに喰われるなんて分かっちゃいないんだよ、きっと』
確かに、イダルの言うとおりだ。
この仔人は、竜人という種族がどういうものかまったく知らない。自分がその食糧であることも分かっていない。だからグニドらを恐れない。
――それでも。
この世に竜人を恐れない人間がいるのだということが、グニドには特別新鮮だった。
人間という生き物は、竜人の姿を見ただけで怯え、恐慌し、悲鳴を上げて逃げ惑う。
今まで出会った人間がみんなそうだったので、きっと彼らは生まれたときから竜人を恐れるものなのだろうと、グニドはそう思っていた。
なのにこの人間の赤子は、グニドを恐れるどころか笑っているのだ。
――変なやつ。
そう思いながらも、グニドは仔人を両手で持ち上げて、もう一度確かめるように呼ぶ。
『ルルアムス』
『――ほう。それがその赤子の名前か』
そのとき突然、年老いた声があたりに響いた。
見れば檻のすぐ外に、いつの間にか長老の姿がある。
『長老様! いつからそこに?』
『何、ずっと聞こえていた赤子の泣き声が急にぴたりと止んだのでな。恐らくグニドナトスが来たのじゃろうと様子を見に来てみたら、案の定じゃ』
可笑しそうに笑いながらそう言って、長老はグニドに抱かれている仔人を見やった。
仔人もまた長老の方を見て、丸い目をぱちぱちとさせている。長老の髭が珍しいのだろうか。
『無事に名前も決まったようじゃの。早速、今日からは〝ルル〟と呼んでやるがいい』
『はい、そうします。こいつもその名前が気に入ったみたいなので』
『それは何より。ところで、グニドナトス。一つ、お前に大事な話がある。ルルアムスの世話は一度イダルに任せて、奥へ来てもらえるかの』
――大事な話。
一族の長から突然そんなことを言われて、グニドはスエンと顔を見合わせた。
何か嫌な予感はしたが、長老に命ぜられたことを無視するわけにはいかない。
言われたとおり、グニドは仔人――〝ルル〟をイダルに預け、一人だけ檻を出た。
『では、わしの室まで来てもらおうか』
長老に促されるまま歩き出す。杖をつく長老の足取りはゆっくりで、グニドはそれを追い越してしまわぬよう慎重に歩いた。
長老の室は、この祠の最深部付近にある。
一族の中でも特別な許可を得た者しか踏み込めない領域だ。
竜祖の祠は奥へ進むにつれて篝火の数が減り、薄暗くなっていく。
そこに長老のつく杖の音が、カツーン、カツーンと反響していた。
祠の最深部には、かつてこの地を治めていたという王の眠る聖所がある。
そこは歴代の長老しか立ち入ることの許されぬ神聖な場所。
普段長老が起居する室は、その聖所へ至る巨大な扉のすぐ手前だ。
『入って良いぞ』
若いグニドにとって、そこは生まれて初めて足を踏み入れる場所。
噂にだけは聞いていたその巨大な石の扉を、グニドはしばし茫然と見上げていた。
そんなグニドを見かねたのだろう、再び促してきた長老の声で我に返る。
グニドは一礼し、ちょっと――いや、かなり緊張しながら長老の室の入り口をくぐった。
『失礼します』
祠の一部であるその一室は、当然ながらグニドらが生活している岩を削っただけの室とは違う。
四方の壁、床、天井、そのすべてが灰色一色だった。
壁にはいくつか篝火が焚かれていて、外の通路よりは明るい。
だがグニドが一番に驚いたのは、室の奥にこんもりと盛られた砂の山だった。
それが長老の寝床であることは疑うまでもなかったが、その砂が――白い。明らかにラムルバハル砂漠の砂とは違う。
しかも見るからに肌理細やかでやわらかそうだ。
こんな上質の砂を一体どこで、とグニドが食い入るように見つめていると、長老が低く笑いながら言う。
『その砂は、シャールーズ川の水底からわざわざ浚ってきたものじゃ。特に河口付近のものになると、粒が細かくて大変寝心地が良い』
『シャールーズ川の河口、ですか……。つまり、海の底の砂ってことですよね。そんなものをどうやって?』
『何、歴代長老の特権というやつじゃよ。わしのように老いた身には、砂漠の砂はどうも固くてのう』
石造りの円卓に杯を並べ、長老はなおも低く笑った。
しかしその笑い声に、いくつか咳が混じっている。
砂漠の風のように乾いた、あまり良くない感じの咳だ。
かつては谷で随一と謳われた戦士の体をも、老いは容赦なく蝕んでいた。
長老は今年で三十五歳。いつ寿命を迎えてもおかしくない年齢と言っていい。
そうした事情もあってか、近頃長老はあまり群の前に姿を見せなくなっていた。
最近はこの祠の奥に籠もり、聖所の手入れをしたり、一人で瞑想に耽っていることが多いらしい。あまり体調が優れないようだ、とイダルは言っていた。
『それで、おれに話というのは?』
『うむ。実はお前に、教えておかねばならぬことがあっての』
のんびりとした口調で言いながら、長老は円卓の脇にある柱状の道具へと手を伸ばす。
卓と同じ石材で造られたそれは、柱の上に半球状の器が乗った茶炉だった。
器の中には赤く熱した炭が入れられていて、その上にやや小ぶりな茶瓶が置いてある。
長老はその茶瓶を手に取り、中身を杯の中へと注ぎながら、言った。
「ニンゲン、話ス、コトバ。オマエニモ、教エル時、キタ」
『え?』
ぽかんとしたグニドの耳に、コポポポポ、と茶を注ぐ音が届く。
長老は湯気の立つ石の杯を手に取ると、その一方をグニドへと差し出しながら更に言った。
「ニンゲン、話ス、コトバ。オマエニ、教エル」
『……長老様。今、何と?』
『人間の話す言葉じゃよ。それをお前にも教えるときが来た、と言ったのじゃ』
口を開けたまま呆けているグニドを見て、長老は愉快そうに笑った。
そう言われてみれば確かに今の言葉は、人間が使っているものに似ていた気がする。
実際の人間の言葉はもう少し滑らかだが、長老のそれは竜人の中ではかなり上手い方だ。
『で、ですが、長老様。竜人の中でも人間の言葉を話せるのは、各部族の長とその側近だけじゃないですか。それをどうしておれなんかに……』
『ふむ。理由は二つある。一つはあの赤子――ルルアムスを育てる上で、この先人間の言葉が必要になることがあるやもしれんということ。そしてもう一つは……』
と、そこで一度言葉を区切り、長老はまだ熱い茶を口へ運んだ。
一方のグニドはそんな長老を凝視したまま、鬣の一本一本まで緊張させている。
もったいぶらずに早く話してほしい。そう念じるグニドの目の前で、長老はふう、とうまそうな息をついた。
そんな馬鹿な。見たところ、これはグニドが世界で一番まずい飲み物だと信じて疑わない濁り茶だ。
『もう一つは、グニドナトス。このわしが、お前をいずれ一族の長にと考えておるからじゃ』
脳天から尻尾の先まで、稲妻が駆け抜けたような衝撃がグニドを襲った。
自分を一族の長に。長老は今そう言ったのか。
その言葉を頭の中で繰り返すうち、グニドは気が遠くなり、そのまま失神してしまいそうになった。
だがここでひっくり返る前に、長老の真意を質しておかねばならない。
『長老様、待って下さい。それは』
『もちろん、お前を次期長老にと言っているわけではない。いくら何でも、お前を長老に推すにはまだ若すぎるからの。ただ、わしはお前に、ゆくゆくは一族を負って立つ戦士になってもらいたいと考えておる。ゆえに我が余命のあるうちに、教えておくべきことは教えておこうと思うたのじゃ』
『でも、どうしておれなんです。おれは長となって皆を率いるような器じゃありません』
『いいや、お前には確かに長としての素質がある。喰うことと戦うこと、そればかりに重きを置く戦士たちの中で、お前は己を律する術を知っておるからじゃ。そして何より、お前には天賦の才がある。同じ火の年に生まれた戦士の中で、今やお前より優れた武芸の持ち主などそうはおるまい』
有無を言わせぬ口調で諭され、グニドは思わずうなだれた。
確かに自分の武芸の腕は、年長の戦士たちにも劣らぬという自負がグニドにはある。
竜人にとって強くなることは何よりの誇りだし、実は自分の中に負けず嫌いな一面があることもグニドはよく知っていた。
けれどもそれは、偉くなりたいとか皆に仰がれたいとか、そういうのとは違うのだ。
自分はただ強くなりたい。もっともっと強くなって、立派な戦士として生き、死んでいきたい。
グニドの中にはそんな思いがあるだけで、いきなり一族の長になれなどと言われても、それは自分が思い描く理想とは噛み合わない。
『……それでもやっぱり、おれには長なんて向いてません』
『まあ、今はそのようにしか考えられぬやもしれんの。しかし年を経れば、お前のその考えも変わるやもしれぬ。わしはその可能性に賭け、お前に長として必要な最低限の知識を授けよう。それを生かすか殺すかは、お前次第じゃ』
うなだれたままのグニドに言い聞かせるように、長老は終始落ち着き払った声音で言った。
やはり一族は自分が率いるべきだ。そんな風に思える日が、本当に来ると言うのだろうか。
今のグニドには、そんな日が訪れるとは到底思えなかった。
それでも長老がそこまで言うのなら、ひとまずその教えを受けないわけにはいかないのだろう。
憂鬱に押し潰されそうになっている自分の顔が、杯の中の茶に映り込んでいる。
その茶色く濁った茶を、未来を占うつもりでグニドは飲んだ。
やっぱりまずい。
――そうして、十年の時が流れた。