第四十八話 がむしゃらに
月明かりの下を、一心不乱に駆けていた。
今夜は空が明るい。雲一つない星空――とまではいかないが、蒼い月はあと二、三日で満月を迎える。
おかげで松明なんかなくたって、夜目のきくラッティはへっちゃらだ。だけど今は敵の目を引くために、敢えて火を掲げ、走る。
サン・カリニョから借りてきた軍馬は、ラッティが知るどの馬よりも力強く駆けた。こういうときのために乗馬の練習をしておいて良かったな、と思う。
背後には続く七頭の馬たち。彼らは先程まで馬車につながれていた輓馬だった。鍛え抜かれた軍馬ほど速く駆けることはできないが、手綱をつないでいるおかげではぐれずについてくる。あの重い荷馬車から解放され、なおかつ背に誰も乗せていない彼らの駆け足は、思いのほか軽快だ。
(この分なら、あと二十幹(十キロ)は稼げそうだな)
野営地を出発してからおよそ半刻(三十分)。ラッティは現在、枝分かれした街道を北へ向かって馳せていた。
共にいるのは物言わぬ八頭の馬たちだけ。彼らのうち七頭は、馬銜と手綱以外馬具らしい馬具はつけていない。
けれど傍目には、七人の騎士を乗せて走る軍馬のごとく見えているはずだ。そうでなくてはならない。こういうときのために、自分は必死で酒を我慢してきたのだから。
「――二手に分かれる、だって?」
怪訝そうな顔をしたジャックがそう尋ねてきたのは、ラッティたちが野営地を離れる直前のことだった。
本物のフィデル・ドラードが折悪しくアフェクト侯領を訪れ、目下自分たちを追ってきている。それを知った仲間が出立の準備に追われている間に、ラッティはある提案を持ちかけたのだ。
「ああ。この地図を見て。この先八幹(四キロ)くらい行ったところで、街道は二手に別れてる。一つは西のパシエンシア侯領へ続く道。そしてもう一つはこの森を迂回しつつ、北――トレランシア侯領まで伸びる道だ」
説明のために集めたのは、ヴォルク、ヨヘン、ジャックの三人。ラッティは彼らと共に焚き火の傍へしゃがみ込むと、地面に列侯国の地図を広げ、蛇行しながら北へ伸びる一本の道を指差した。
今晩ラッティたちが野営を張ったのはアフェクト侯領の中部、やや西寄りのあたりだ。そこから街道は枝分かれし、一本は義勇軍の本拠地であるパシエンシア侯領へ、もう一本は侯王カルヴァンのいるトレランシア侯領へと伸びている。
ラッティはそれを見てある作戦を思いついた。今もラッティたちの見張りについているであろうイサークの手先と追っ手であるフィデル、その双方を出し抜く策を。
「アタシらはこれから、森に飛び込んでまずイサークの手下を撒く。撒くと言っても一瞬だけだ。その間にアタシはアンタらにかけた術を解く。ディストレーサ栄光騎士団の幻を、別のものに移し替えるために」
「幻を移し替えるって?」
「ああ。この先はアンタらじゃなく、空馬を騎士に見せかける。幸い今はアタシらが乗ってきた馬の他に輓馬がいるからな。これを人数分連れていく」
「そいつを騎士に見せかけて、どうするんだ?」
「囮にするんだよ。これまでちんたら西を目指してたはずのディストレーサ栄光騎士団が、夜闇にまぎれていきなり北へ走り出したら連中も焦るだろ? するとヤツらの視線は空馬に釘づけになる。こっちはその隙に森を出て、西へトンズラってワケだ」
ラッティが地図の上をなぞりながらそう言えば、周りから「ほう」とか「なるほど」とかいう声が上がった。非常にシンプルな作戦だから、必要最低限の説明だけで彼らも概要を理解してくれたようだ。
「だけど、ラッティ。ラッティの化かしの術が届くのは、せいぜい半径十枝(五〇メートル)ってところだろ。それじゃあたとえ空馬を騎士団に見立てても、すぐに術が解けて露見する。だとするとやつらの目を掻い潜って逃げる時間を稼ぐのは難しいんじゃないかな」
そこに唯一異議を唱えてきたのはヴォルクだった。確かにラッティの化かしの術は万能じゃない。効果範囲には限りがあるし、時間も精度もすべては使い手の技量に依存する。
人生の半分を共に生きてきたヴォルクのことだ。さすがにそんなことはお見通しで、「だったら……」と何か代案を唱えようとした。
けれどラッティはそれを制す。お見通しなのはこちらだって同じだ。ヴォルクが次にどんな提案をするのかは、聞かなくても分かる。だから代わりに、自分が言った。
「だったら自分が狼たちを率いて監視役を襲う――とか言うんだろ、アンタは。だけどそれじゃあ少なからず群から犠牲が出る。それに狼たちだって、余所者のアンタのためにそこまで戦ってくれるとは限らない」
「でも、ラッティの策よりは長く時間が稼げるよ」
「そうやってすぐ死にたがるんじゃないよ。だいたいアタシの話はまだ終わってない。この作戦には続きがある」
「続き?」
「ああ。アンタが今言ったとおり、充分な時間を稼ぐにはそれだけ長く術を継続させなきゃならない。だから――アタシも行くよ、北へ。騎士役の馬を率いて」
ラッティがきっぱりそう告げると、途端にあたりの空気が変わった。ジャックは目を丸くし、ヨヘンは息を飲み、ヴォルクは血相を変えて立ち上がる。
「ダメだ。だったら俺の策でいい。狼たちのことは、俺が何とか説得してみせる」
「そんな悠長にしてる時間はないだろ。フィデルはもうそこまで迫ってる。今すぐここから逃げ出さなきゃ、全員がヤツらにやられるんだ」
「だからってラッティを一人で行かせられるわけないだろ。それなら俺も一緒に行く」
「いいや、アンタたちが無事に領境を越えるには、この先も狼たちの協力が必要だ。だからアンタは連れていけない。アタシのことはアタシが自分で何とかする」
「何とかするって、たった一人でどうやって? ラッティは戦えないし、魔導石だって二つしか持ってない。化かしの術にも限界がある」
「そのときは狐のフリでもしてやり過ごすサ。獣化しちまえばいくらでも身の隠しようはあるし、敵の目も欺ける」
「だけどフィデルが、イサークを化かしたのは狐人だと勘づいてたら? そうなったらやつら、森を焼くぞ」
「まさか。ここはトレランシア侯領じゃない、イサーク・アバリシアが治めるアフェクト侯領だ。つまり森はイサークの所有物、それを勝手に燃やすなんてヤツらにはできやしない。侯王とイサークの関係が危うい均衡の上にあると分かってるなら、なおさら」
「本当にそう言い切れる? イサークが許可を出してたら? 義勇軍が狐人を味方につけたとなれば、それは侯王やイサークにとってかなりの脅威だ。正義の神子を敵に回してるってだけでも厄介なのに、これ以上面倒な相手が増えたと分かれば、やつらは――」
「ヴォルク」
彼の口から淀みなく流れ出る反論を遮って、ラッティも立ち上がった。だけどそれだけじゃヴォルクが怯まないのは分かっていたから、右手を伸ばし、彼の肩を掴んで言う。
「なあ、アンタなら分かってるだろ。アタシがあの日以来余所見をしなくなったことも、その理由も」
「ラッティ」
「アタシだって分かってるよ。昔のアタシはもう少し慎重で賢かった」
「ラッティ、」
「だけど、アタシはさ。イヤになったんだよ。だってそうだろ? あのとき考えて考えて考え抜いた末に、正しいと思って出した答えは間違ってた。そのせいでアタシらは大切なものを失った。だから思ったんだ。余計なことをぐちゃぐちゃ考えて間違うくらいなら、最初から何も考えず、がむしゃらに生きた方がいいってね」
ヴォルクの黒い耳が横を向いた。わずかばかり伏せられたそれは、彼の悲しみを表していた。
足元ではヨヘンがわけも分からず、自分とヴォルクとを見比べているのが分かる。……そうだろう。彼には分からないはずだ。すべては彼と出会う前に起きたことだから。
「だから頼むよ。行ってくれ。これでまた間違えたら、アタシは今度こそダメになっちまう」
「……」
「決めたんだ。もう誰も、アタシのミスで死なせやしないって――」
「ラッティ」
ヴォルクの手が、己の肩に乗ったラッティのそれを掴んだ。
黒い耳は未だ伏せられたまま、しかし声色はいつもの彼に戻っている。
「キーリャのことは、間違いなんかじゃない。だって俺たちが最後に見た彼女は、あんなに幸せそうだったじゃないか」
胸が、抉られる思いがした。
大好きだったキーリャ。
無口で無愛想なくせに、変なところで優しかったキーリャ。
一人になると、いつも悲しそうな顔でどこか遠くを見つめていた、キーリャ。
『ラッティ』
共に暮らした二年間、ヴォルク以上に寡黙で何を考えているか分からなかった彼女は、別れ際にこう言った。
『ありがとう。あたし、あんたたちのおかげでね。自分も幸せになってもいいんだって、初めてそう思えたんだよ』
だから、あんたたちも元気でやりな。
そう言って笑った彼女を見たのが最後だった。
確かにあのときのキーリャは、とても幸せそうに見えた。
(でも、アタシはやっぱり間違えたんだよ、ヴォルク)
幾重にも重なる馬蹄の音を聞きながら、ラッティはもうここにはいない彼に語りかけた。
あのあとジャックがラッティの策を支持してくれたおかげで、皆は今頃西へ逃げているはずだ。最後まで別れを嫌がったヨヘンは、ジャックが無理矢理物入れに押し込んで連れていった。
ヴォルクが途中から何も言わなくなったのは、ラッティの言い分を受け入れたから――というより、諦めたのだろう。これ以上は何を言っても届かない、と。
(問題はアタシにもしものことがあったとき、ヴォルクが獣人隊商を継いでくれるかってことだけど……)
自分で言うのも何だが、ヴォルクは相当なラッティ狂だ。俺が生きてる意味なんてラッティを守る以外にないよ、と面と向かって言われたこともある。
彼にとってラッティは仲間であり、半身であり、神だった。物心ついたときからひとりで、人間の言葉すら知らなかったヴォルクは、自分の傷を癒やし、食べ物を与え、言葉を教えてくれたラッティをこの世で唯一絶対の存在だと思い込んだ。
だからヴォルクと別れたのが不安でないと言えば嘘になる。あまり考えたくはないが、自分の身に万一のことがあったとき、彼は生きる力を失ってしまわないだろうか。
(アイツはいつもアタシより先に死にたがるから……)
彼が自分を失うことを何より恐れているのは分かる。だがもしものときはヴォルクにしっかりしてもらわないと、獣人隊商はおしまいだ。残されるのは気弱なポリーと小柄すぎるヨヘン、そして人語もおぼつかないグニドとルルだけになってしまうのだから。
(だから、ヴォルク――)
と、ラッティが祈るように彼のことを想った、そのときだった。
突然前方から怒鳴り声が聞こえてくる。まだ遠い。でも、確かに。
はっとして顔を上げたラッティは、父が遺してくれた獣の聴覚を信じて目を凝らした。すると闇の中、街道の先にポツポツと浮かんだ火明かりが見える。
――こんな時間の、あんなところに人が?
それも一人や二人じゃない。
松明と思しい明かりは街道を塞ぐように広がっている。
まさか。
ぞっとしたラッティは、急いで乗騎の手綱を引いた。
先頭を走っていた馬が止まると、残りの輓馬もつられたように立ち止まる。
「――い――ろ! ――にあ――えるぞ……!」
やはり人の声だ。ラッティの夜目をもってしても遠すぎて姿は見えないが、がなり声がこちらに向かって放たれているのは辛うじて分かる。
……〝おい見ろ、向こうに明かりが見えるぞ〟か?
断片的に聞こえた言葉をつなぎ合わせて推測し、ラッティは己の左手を見やった。そこには追っ手の目を引くために持ってきた松明がある。
――くそ。笑えてくるな。これすら仇になるなんて。
「いよいよ今までのツケが回ってきたかな」
自嘲気味にそう言って、ラッティは松明を投げ捨てた。次いで唯一護身用に持ってきた短剣を引き抜き、鞍とつないでいた馬たちの手綱を切ってやる。
「行きな。アンタたちはもう自由だ」
きょとんとしている馬たちにそう叫んでから、ラッティは馬首を返した。もと来た道を引き返すでもなく、街道を逸れ、西へ向かって駆け始める。
(確か、ここから西は)
身を隠す場所もない平原のはずだった。地図を思い出す限り、しばらく走ればまた森に行き当たるはずだが、だいぶ距離があったと思う。ラッティの馬はもう一刻近く駆け通しで、あとわずかしか走れない。
(馬を休ませてたら追いつかれる)
結い上げた髪を夜風に嬲られながら、ラッティは必死に思考を巡らせた。さっき街道の先にいたのがディストレーサ栄光騎士団とは思えない――それだと彼らがこちらの動きを完璧に予測して、先回りしていたことになる――が、少なくとも味方ではないことだけは確かだ。
街道を占拠していたということは、このあたりを治める騎士団勢力だろうか。だとしたらイサークが早馬や鳩を使って手を回していたことになる。
追っ手を撒くことに必死でそこまで考えが及ばなかった。ヴォルクたちは無事だろうか。
いや、西へ逃げると言ったって、彼らも愚直に街道上を進んだりはしないだろう。大丈夫だ。向こうには自分なんかよりよっぽど知恵の回るヨヘンやジャックだっているのだから。
(問題はアタシの方だ)
馬の息が荒い。だいぶ疲れてきている。このままでは早晩潰れるだろう。できることなら限界まで距離を稼ぎたいが、長い馬車暮らしで馬と馴れ親しんだラッティには無理だ。情が移って殺せない。
「もういい、止まれ」
ラッティはついに手綱を引いた。
馬が嘶きながら立ち止まったところで、背中を下りる。
それから急いで彼の馬具を外した。身軽になった馬はぶるりと一度身震いしてから、ラッティを振り向いてくる。
「お行き。アンタも自由だよ」
言葉が通じないのは分かっていた。けれど馬は何か問いかけるように、じっとラッティを見つめてきた。
だからもう一度「いいんだ」と言って、彼の尻をぺしぺし叩いてやる。馬はようやく歩き出した。それを見届けてからラッティも駆け出した。荷物を担ぎ、今度は自分自身の足で。
あたりは既に草生い茂る草原だ。
ぽつぽつと喬木が佇んでいたり岩が転がっていたりもするが、見晴らしはよく、こんなところを人の姿で駆けていたらすぐに見つかる。
だからラッティは四〇枝(二〇〇メートル)くらい先に見えた木に駆け寄ると、まずその上に登った。木登りはキーリャに教えられたおかげでだいぶ得意だ。彼女は木の上や岩場の天辺など、とにかく高いところが好きだったから。
そうして樹上で一息つくと、持ってきた荷物の中から水筒を取り出す。カラカラの喉に二口ほど水を流し込み、次いで器用に服を脱いだ。
素っ裸になったところで、革帯に括りつけていた物入れだけを手に枝から飛び降りる。すぐに狐の姿になり、物入れを咥えてまた駆け出した。腰帯と同じ革製の物入れからは、ほのかにヨヘンの匂いがした。
(脱ぎ捨てた服が見つかると、獣化したってすぐにバレるからな)
砂色の毛皮を風に靡かせながら、ラッティは走る。そう言えばこうして獣の姿を取るのは、ずいぶん久しぶりのことに感じられた。
ヴォルクは狼として生きていた期間が長かったからか、今でもよく獣化する。本当は人の姿でいるよりも、狼の姿でいた方が過ごしやすいらしい。
でもラッティは逆だ。母が人間だったおかげで、ラッティも人として育てられた。だから人の姿の方が性に合っている。いつもは二本足の生活を謳歌しているせいで、たまに獣化すると四本もの足を動かさなければならないのがもどかしい。
(あの頃に戻ったみたいだ)
駆けながら思い出す。
故郷を追われ、たったひとりで世界に放り出されたあの頃のこと。
人間が自分を歓迎してくれないと分かってからは、半獣人だとバレることを恐れ、夜はいつも狐の姿で眠ったっけ。
寒い夜は木の洞なんかに潜り込み、震えながら自分の尻尾で暖を取った。
ひとりだったのだ。
あの頃は喜びも悲しみも、全部自分だけのものだった。
分かち合える仲間なんていなかった。
(でも、今は)
白い脚で大地を蹴り、馳せる。
体力の限界まで。
そうしてどれほどの間走り続けただろうか。
ついに疲れ果てたラッティは、立ち止まって咥えていた物入れを取り落とした。しばらくぜえぜえと喘ぎ、来た道を振り向いてみる。
追っ手らしき影はない。松明の明かりも見えない。
ピンと耳を澄ませても、聞こえるのは風の音と虫の声だけ。
(……撒いたかな?)
決して油断はできないが、火急の事態ではなさそうだった。それを確かめてほっとしたら、急に疲れが押し寄せてくる。
空にはまだ星が瞬いているものの、月はだいぶ西へ傾きつつあった。恐らくあと二刻(二時間)もすれば夜が明ける。
それくらいなら休んでも構わないだろうと思い、少し先に見つけた岩の陰へと潜り込んだ。すっかり唾液にまみれてしまったが、まだ微かにヨヘンの匂いがする物入れを鼻先に置いて体を丸める。途端に睡魔が覆いかぶさってきた。
(ヴォルクたちは上手くやってるかな……)
そんなことを思いながら眠りに落ちた。夢も見ないほどの深い眠りだった。
その眠りが醒めたのは、月がいよいよ西の山の端へ沈もうか、という頃だ。
「アオォーーーオォォ……」
遠吠えが聞こえる。また狼たちか。
今度は何と言っているのだろう。
ヴォルクは起きているだろうか?
ヨヘンやジャックは……
(――いや、違う)
寝起きで茫洋としていた意識が、一気に覚醒した。
慌てて顔を上げ立ち上がる。そこは草原のど真ん中。
自分は狐の姿で、あたりには誰もいない。当然ながら馬車もない。
あるのは足元に転がった、小さな革の物入れだけ。
(今のは?)
ラッティは岩陰から飛び出し、伸び上がって耳を澄ませた。だって確かに聞こえたのだ。まだ暗い空に響き渡る遠吠えが。
初めはヴォルクかと思った。あるいは彼が遣わせた狼たちかもしれない、と。
でも違う。次第に吸い込まれそうな青へと変わっていく空の下、草原の向こうに目を凝らしてラッティは戦慄した。
影。
黒くて小さな影が三つ、四つ、五つ。
どんどん数が増えている。さっきの遠吠えを聞いて集まってきたのだ。
狼?
否。ラッティは風下にいるから分かる。人間の匂いをまとった獣。
あれは――猟犬だ。
「おいおい、冗談だろ……」
狐の姿のまま、ラッティは口の端を引き攣らせた。なんてこった。猟犬まで出てくるなんて聞いてない。これもイサークが手配したのだろうか。
だとしたら、腹が立つほど合理的なやり方だった。向こうもこちらが獣化して野生にまぎれる可能性を考慮しないわけがない。だから猟犬を放った。日頃から狐や兎、穴熊などの追跡を得意とするものたちを。
(ダメだ、逃げないと――)
狼のように群で狩りをする彼らには、どうやったって敵わない。そう判じたラッティは身を翻し、再び物入れを咥えて駆け出した。
猟犬たちの吠え声はどんどん近くなっている。彼らはああして仲間と意志疎通しながら獲物を追い込み、更には人間を呼び寄せるのだ。
(まずい、まずいまずいまずい)
跳ねるように大地を蹴る。全身の毛が焦りと緊張でビリビリする。
だけどどうしろって言うんだ。ラッティの体は地面に着地する度に匂いを残す。やつらはそれを追ってくる。逃げ切れない。川でもあれば話は別だが、ここはただだだっ広いだけの草原だ。
(ヴォルク)
必死に逃げながら、ラッティは胸の中で仲間の名前を叫んだ。
(ポリー、ヨヘン、ルル)
会いたい。
会いたいんだ、今すぐ。
(グニド――)
なあ、教えてくれ。
アンタはルルをどうするつもり?
いずれ人間の世界に返す? それともずっと一緒にいる?
アタシはさ。
アンタたちにはこれからも一緒にいてほしいよ。
言えなかったんだ。
大好きだったキーリャに〝行かないで〟って言えなかった。
今、それをすごく後悔してる。だからアンタには伝えたい。
どうかルルと一緒にいて。
あの子を幸せにしてあげて。
人間の世界が悪だって言うつもりはないけどサ。
だけどアタシは、アンタたちが本物の親子みたいに一緒にいる姿が、たまらなく好きなんだ――。
「ガアァッ!!」
真後ろから吠え声がした。
そう思った瞬間、ラッティは激しく地面を転がっていた。
後ろから猟犬に飛びかかられ、もつれ合って倒れ込む。
そんな馬鹿な。もう追いつかれた。
必死に走っていたつもりで、実は全然進めてなかったのかな。
「ガウガウガウ……!!」
けたたましい鳴き声が聞こえる。よろよろと立ち上がった先には、今のラッティより一回りも大きな黒い犬。
毛は短く、見るからに凶暴そうで、唾を飛ばしながらラッティを威嚇していた。言葉は通じないけれど、鼻の上に寄ったシワはこれ以上ない意思表示だ。
〝逃げれば殺す〟。彼はそう言っている。
「グルルルル……!」
後ろからも唸り声が聞こえた。振り向くと、いつの間にやらラッティは猟犬たちに囲まれていた。
彼らは皆一様に牙を剥き、頭を下げて、いつでもお前に飛びかかれるぞ、と言っている。不用意に逃げ出そうものならよってたかって襲いかかられ、八つ裂きにされてしまうだろう。
(でも、すぐに飛びかかってこないのは)
彼らが猟犬たる所以だ。彼らの本来の役目は獲物を追い詰め、主人である人間の前へ突き出すことにある。
つまり狩りをするのは彼ら自身ではなく、あくまで人間なのだ。
ラッティはそれを知っていた。だから彼らを刺激しないようにそっと頭を垂れ、咥えていた物入れを足元に置く。
(まだとっておきたかったんだけどな……)
だけどもう、化かしの術を使うほどの体力もない。
ここが潮時だと判断して、ラッティは物入れの口を引っ掻いた。
するとほどなく釦が外れ、中からころんと転がり出てきたものがある。
それは夕日を閉じ込めたように赤く透明な――魔導石。
「其よ、我を助け給え」
祈りの言葉は、聞き届けられた。
直後、石が内側から閃いたかと思うと、野に静寂が訪れる。
虫の声が止んだ。
そう思った瞬間、ラッティの体を囲むように、地面から炎が噴き出した。
猟犬たちの悲鳴が聞こえる。彼らはあっという間に火だるまになる。
炎の毛皮をまとった彼らは、助けを求めてあちこちを転げ回った。
おかげで炎はみるみるうちに野原にも広がっていく。
(イケる)
これが最後の賭けだった。
炎と煙に紛れて逃げおおせたら自分の勝ち。
それでも追いつかれたら負け。
今度こそ本当に、自分の命を賭する。
一度だけ目を閉じ、深呼吸して、覚悟を決める。
ラッティは可能な限りの助走をつけて、跳んだ。
のたうつ炎を飛び越え、まだ火に巻かれていない大地へ着地しようとする。
けれど、そのとき。
ヒュンッと鋭く風を裂き、迫り来る矢があった。
それは銀色に閃きながら、炎の壁をも突き破り、やがてラッティの横腹へと命中する。
「あ――」
衝撃で吹き飛ばされ、ラッティの体は地に落ちた。
赤く熱された夜の風が、射手である男の長い髪を撫ぜてゆく。