第四十七話 忘れたフリ
狼の群が、森の中を駆けていた。
色づき始めた木々を縫い、落ち葉を蹴散らし、灰色の風のように疾駆する。
その先頭、群のリーダーに当たるオスが、地面から斜めに突き出した巨大な岩へ駆け上った。
天辺まで行ったところで立ち止まり、天を仰いで吠え立てる。
「アオォーーーオォォ……」
遠吠えが聞こえた。焚き火の前に座したヴォルクの耳が、ピンと森の方を向く。
ソーロを発ってから十日目の夜。
ラッティたちは街道を少しばかり逸れた森の入り口で野営していた。周囲を八台の馬車で車座に囲み、中の様子は外から見えないように工夫している。
そうしないとラッティが化かしの術を解除することができないためだった。さすがに夜眠る間は、ラッティも術が使えない。
かと言って夜も寝ずに術を使えと言われたら、それは無理な相談だった。人を化かすのにも体力がいる。適度に休憩を挟まないと、力が切れて正体がバレる。
「なんて言ってる?」
昨夜ぶりに元の姿へ戻ってくつろいでいたヴォルクへ、ラッティはそう声をかけた。狼の遠吠えはまだ続いていて、ヴォルクは真剣な顔のままじっと耳を傾けている。
「……監視役はここから東、森の中に野営を張ったって。うち二人が馬を置いて、こちらに接近中らしい」
「どうせまた一晩中その辺で張り込むつもりだろ。まったくご苦労なこって」
呆れたように吐き捨てたのは、果実酒入りの杯を傾けたジャックだった。杯の中の酒はイサークから預かった馬車に積まれていたものだ。
それらの物資はサン・カリニョへ届けなくてはならないものなのに、ジャックは「お駄賃だお駄賃」と適当なことを言って、上物の酒瓶を一本くすねた。彼の足元に転がっているその瓶を、ラッティはキッと睨めつける。
――そういやサン・カリニョに入ってからこっち、全然酒を飲んでないな。
とラッティが気づいてしまったのは、ソーロを出て間もなくのことだった。馬車に積まれた荷物を確認しているときに酒瓶入りの箱を見つけ、うっかり酒というものの存在を思い出してしまったのだ。
それまでは極力、酒のことは考えないようにしていた。努力して記憶から抹消していた。
何しろラッティは酒が好きだ。大好きだ。命の水と言っていい。酒がなかったら生きていけない。禁酒しろなんて言われた日には、砂漠で置き去りにされたみたいに干からびる自信がある。
だけどサン・カリニョに入って義勇軍の現状を目の当たりにしてからは、自分だけ浴びるように酒を飲むのがためらわれ、ぐっとこらえる日々を送っていた。
カルロスには隊商の仲間を人間と同等に扱えと言っておきながら、人間を蔑ろにするような真似をしてはいけない。反感を煽ってはならない。そう思ったからだ。
なのにこのジャックとかいう男ときたらどうだ。そんなラッティの心中など知る由もなく、まるで見せつけるように目の前で酒を飲みやがる。ふざけやがって。羨ましいぞチクショウ。アタシにもくれ、という言葉がもう喉まで出かかっている。
だけどラッティはぶんぶんと首を振り、煩悩をどうにか嚥下した。何しろここで酔っ払ったら、いざというとき化かしの術を使えない。
そうなのだ。狐人というのは何故だか総じて酒に弱い。酔っていい気分になると、いつも化かしの術をしくじるのだ。
生粋の狐人である父もそうだったし、人間たちもよく〝狐人と疑わしき者には酒を飲ませよ〟なんて言う。なのに狐人には酒好きが多い。
これはきっと試練なのだ。神々が狐人という種族に課した試練。
《神々の目覚め》ののち訪れると予言された、新世界へ至るための……とか何とかとりとめのことを考えて気を紛らわしていないと、正直キツい。耳も尻尾も垂れて元気が出ない。酒飲みたい……。
「しかし便利だな、獣人ってのは。お前らが獣の言葉を聞き取ってくれるおかげで、やつらに警戒されることなく偵察ができる。向こうもまさか野生の狼が自分たちを見張ってるなんて、夢にも思わねえだろうよ」
「……聞き取れると言っても、自分と近しい動物の言葉だけだけどね。俺にはあの遠吠えの意味が分かるけど、ラッティには分からない。逆にラッティが狐と話していても、俺には何を言ってるのかさっぱりだし……」
「ふーん。てことはあのポリーとかいう犬人には犬の言葉が分かって、そこのネズ公にはネズミの言葉が分かるってわけだ。不思議なもんだな」
「おいそこ、人をネズ公呼ばわりすんなって言ってんだろ! 名誉毀損で訴えるぞ! チューッ!」
いい遊び道具だと判断したのか、このところジャックはヨヘンをよくからかった。ヨヘンはそれが腹立たしいようで、今も全身の毛を逆立てながらジャックを威嚇している。
だがこれ以上騒がれて、見張りに勘づかれても面倒だ。ラッティは自身の気晴らしも兼ね、適当なところでチーズの切れ端を差し出した。
するとヨヘンはピン!と立ち上がり、「ヒャッフウゥゥゥ!」とチーズに飛びついてくる。彼の機嫌を取るにはこれが一番だ。その単純さこそが、ジャックの玩具にされる原因なのだけど。
そうしてチーズを抱き締めたヨヘンが幸せそうにゴロゴロしている間に、やおらヴォルクが腰を上げた。彼は一台の馬車へ歩み寄ると木箱を下ろし、中から一掴みの肉塊を取り上げる。
あれはたぶん、豚の塩漬け肉だろう。ヴォルクはそれを水で丁寧に洗うや否や、森へ向かって放り投げた。あれが偵察を頼んでいる狼たちへの報酬だ。ヴォルクはソーロを発った日に近隣で暮らす狼の群を探し出し、彼らと交渉した。しばらく食糧を提供する代わりに追っ手を見張ってほしい、と。
エマニュエルの獣たちは、人間が思っているよりずっと賢い。何しろ彼らは天界から身を投げた母神イマ、その肉片から生まれたのだ。
つまり彼らもまた、かつては神の一部だったもの。
だのに「言葉を解さないから」という理由で、人間たちが勝手に愚かな生き物だと思い込んでいるだけだ。彼らにも彼らの言葉があるし、文化がある。ラッティたち獣人はそれを知っている。知らないのは人間だけ。
「それにしても、どこまで追ってくるんだろうね、あの人たち……」
と、肉を投げ終えて戻ったヴォルクが、ぽつりとそんな呟きを漏らした。彼は普段、滅多なことでは感情を表に出さないのだが、今回ばかりはさすがにうんざりしているらしいのが声色から窺える。
「そりゃもちろん、俺たちがパシエンシア侯領に入るまでだろ。それを見届けなきゃ死んでも帰らねえよ、あいつらは」
「……とは言え本来なら一日八十幹(四十キロ)がせいぜいなところを、アタシらは百幹(五十キロ)のペースで来てるだろ。この分ならあともう十日踏ん張れば、無事に領境を越えられる。そうなりゃこの勝負はアタシらの勝ちだ」
「そう上手く事が運べばいいけどな。だいたい俺たちが無事に戻れたって、後始末の問題があるだろ。まんまと顔に泥を塗られたと知ったら怒り狂うぜ、イサークは。それをカルロス殿が上手く丸め込めるかどうか」
「丸め込むのはカルロスさんじゃなくて聖マレノテ虹神教会の仕事だろ。アタシらにこんだけ物資を恵んでくださったあとだ、教会の支援がなきゃアフェクト侯領の財政はかなり逼迫するはず。となればさすがのイサークも、教会の言葉に耳を貸すしかなくなるさ」
「だといいんだがなぁ。ま、あんまり期待しないでおくとするよ」
ジャックはそう言うが早いか、あとはごろんと横になった。両腕を枕代わりに、そのまま寝入るつもりらしい。……間者のくせに気ままなやつだ。そういうところはトラモント人らしいけど。
翌日もラッティたちは早朝から起き出し、狼の群を引き連れ出発した。
化かしの術でフィデルとその一行の皮を被り、ひたすら西へ。
大量の荷を積んだ馬車の進みは歩いた方が早いんじゃないかとイラつくほどのろいが、耐えるしかなかった。イサークが放ったと思しい監視役の騎士たちは、つかず離れずの距離を保ってついてくる。
こちらが追跡に気づいていることは向こうも承知の上だろうが、それでも懲りずに追ってくるのはフィデルへの牽制としか考えられなかった。まあ、本当はディストレーサ栄光騎士団でも何でもないラッティたちにとって、そんなものは意味をなさないのだけど。
「アオォーーーオォォ……」
今日も狼たちの遠吠えが聞こえる。
それに耳を傾けながら、ラッティは眠りに就く。
彼らが何を言っているのかはやっぱり分からないけれど、狼の声を聞いても怯える必要がないのはいいな、とぼんやり思った。
どこかの森でボロボロになって倒れていたヴォルクを拾うまでは、ラッティも人間たちと同じようにあの声を怖がったものだ。当時のラッティにとって狼は魔物に次ぐ脅威だった。群に囲まれ襲われそうになったことも一度や二度じゃない。
だけどヴォルクと出会ってからは、狼を恐れる必要はなくなった。狼たちはヴォルクの友人で――群によっては〝混ざりもの〟の彼に牙を剥くものもいるけど――いつしかラッティたちを守ってくれる存在になった。
人生って何が起こるか分からないよな、と思う。まさか自分が世界を股にかける行商人になるなんてあの頃は思いもしなかったし、竜人を仲間に迎える日が来るなんてことも想像だにしなかった。
それが今や孤独とは縁遠く、気心知れた仲間がいて、危なっかしいながらもまっとうな日々を送れている。
人間の友人もできたし、かつて別れた仲間だって――
「――……」
ヨヘンの寝息が聞こえる馬車の中で、ラッティは寝返りを打った。
――ダメだ。忘れろ。
ついこの間まで、酒のことなんて忘れたフリをしていたみたいに。
(なんで今思い出すんだよ)
昔の仲間のことは、思い出さないようにしていた。
頭の中にある記憶の箱に、何重にも鍵をかけて。
『それでもあの子の本当の幸せは、人間の世界にあるんじゃないかって』
ちょっと前にあんな話をしたからだろうか。
あのときヴォルクは、どんな想いでああ言ったのだろうか。
ルルの幸せが人間の世界にある?
それなら〝彼女〟は幸せだったと言うのだろうか?
(キーリャ……)
自分を守るように体を抱いて、ラッティは小さく丸まった。
彼女のことは考えたくない。思い出したくない。――酒が飲みたい。
「ガウガウッ、ガウ!」
外から異様な吠え声が聞こえてきたのは、そんなときだった。
ラッティははっと覚醒し、飛び起きる。
――近い。狼の声だ。馬たちが怯え、嘶く声もする。
最後に彼らの遠吠えを聞いてから何刻経っただろうか。うとうとしていたからはっきりとは分からない。でもそれなりに長い時間が経った気がする。ラッティは状況を確認するために、急いで馬車から這い出した。そうして幌をのけたところで、目の前を黒い影が横切っていく。
「ガウガウガウガウッ、ガウッ!」
吠えているのはその影の主だった。ヴォルクが獣化したときのそれより一回り大きい狼だ。
彼が吠える先には、焚き火の傍で眠っていたヴォルクがいる。ジャックもだ。二人はとっくに起き出していて、何事かと身構えている。
「お、おいヴォルク、何だこいつは!? なんて言ってる!?」
さすがに野生の狼には慣れないのだろう、とっさに距離を取ったジャックが喚いた。別の馬車で休んでいた義勇兵たちも飛び出してくる。背後ではヨヘンが目覚めたようだ。
「何だ!? 何だよ!?」と慌てふためいている声が聞こえたので、ラッティはそちらを見もせずに彼の体を引っ掴んだ。すぐさま馬車を飛び降りて、焚き火の方へ走り出す。
「ヴォルク、どうした!?」
ラッティが駆けつけた頃には、ヴォルクは狼を森へ返していた。
しかし彼を見送るヴォルクの尻尾は、限界まで逆立っている。
「……ラッティ。今すぐ輓馬の綱を切って」
「え?」
「このまま物資を取り返されるよりはいい。それに、馬を逃がせば時間を稼げるかも」
「どういうこと?」
「狼たちは、俺たちと違って人間の顔や色を見分けることはできないけど」
何の脈絡もなくヴォルクが言い、ラッティは緊張した。
もう長い付き合いだから、分かる。彼がこういう持って回った言い方をするのは、重要な話をするときの合図だ。
「だけど男で腰まで届く長い髪の人間なんて、そうそういないよね」
「……おいヴォルク、それって」
「そいつは白い馬に跨って、たくさんの馬を率いて、胸にも角の生えた白馬を飼ってるって。それってたぶん――一角獣のことだよね」
サアッと、何かが音を立てて逃げ出していくような感じがした。
それはラッティの体温かもしれないし、血の気かもしれない。あるいは風が吹いただけかもしれないが、一つだけ確かなことは、
「フィデル・ドラードか」
硬い声をどうにか絞り出すと、ヴォルクが無言で頷いた。
――ああ。
もしかして急に彼女のことを思い出したのはこのせいだったのかな。
きっと彼女はこう言いたかったんだ。
ラッティ。
お前はまた間違えた、って。