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第四十六話 運くらべ

 その男の前に立つと、ラッティは全身の毛が逆立つような感じがした。

 自分が純血の狐人フォクシーだったなら、たぶん毛皮が膨らみすぎて狸人リーレンみたいになっていたに違いない。

 実際、騎士に化けたラッティの腰のあたりでは、例によって物入れに収まったヨヘンがハリネズミと化していた。

 イサーク・アバリシア・ カルメン・ソーロ。

 柑露石かんろせきで装飾された宝座に頬杖をつき、彼は今日も得体の知れない笑みを刻んでいる。


「おはよう、ドラード卿。昨晩はゆるりと休めたかな?」


 ――アンタみたいなタヌキの根城でゆっくり休めるはずがないだろ。ラッティはそう言い返したい衝動をぐっとこらえた。

 トゥルエノ義勇軍一行が、ディストレーサ栄光騎士団に化けてソーロ入りした翌日の朝。昨夜宿泊した宿で身支度を整えたラッティたちは、侯主イサークの居館で再び彼に謁していた。

 先頭に立っているのは今日もフィデルに化けた間者のジャック。ラッティたちは昨日と同じく彼の警護の騎士として、そのすぐ後ろに控えている。


 爽やかな晴天に恵まれた一日の始まり。けれどラッティは、現在自分たちのいるだだっ広い空間が淀んだ空気に満たされている気がした。

 まるで凶暴な毒蛇がシュルシュルと音を立て、そこら中を這い回っているかのような――そんな不気味さと緊張感が、夏の湿気のごとく肌にまとわりついている。宿を出るとき、気を紛らわそうと水をガブ飲みしたはずなのにもう喉が渇いた。その上嫌な汗が体中を濡らしていていて、ひどく不快だ。


「おはようございます、アバリシア侯。おかげさまを持ちまして、我ら一同、昨夜は存分に長旅の疲れを癒やすことができました。侯の細やかなお心遣いに、衷心より感謝申し上げます」

「それは何より。心きいた者のいる宿を宛てたつもりではいるが、やはり民営の宿では不便を感ずることもあろうと心配していた。だがその言葉を聞いて、私も一安心というものだ」


 そう言って笑うイサークを前に、ラッティは内心苦り切った。

 無論それが表に出ないよう自制はしたが、セリシャからすべての真相を聞いた今、この男に対しては深い疑念と嫌悪しかない。


 昨年の秋、ウニコルニオ事変の混乱に乗じて侯王カルヴァン・ラビアの妻レアンドラと王子ヴィンスを攫うよう命じた事件の黒幕。それこそがこのイサークだ、とセリシャは言った。

 彼女はこのソーロにヴィンス生存の報せが飛び込む一月前、偶然にも義父イサークと夫セレドニオが事件について話し込んでいるのを立ち聞きしたというのだ。

 その際イサークはこう言っていた。「ラビア侯に恨みを募らせた者たちを煽動するところまでは上手くいった。だがせっかく攫った人質を竜人ドラゴニアンの餌にされたのは誤算であったな」と。


 曰く、イサークの狙いは王妃レアンドラと幼王子ヴィンスを怒れる民衆の手から救い出し、侯王カルヴァンに恩を売ること、だったらしい。

 そのために彼はカルヴァンの退位を望む民を唆した。王が民に強いた苦痛と絶望を王自身にも味わわせてやれ、と。


 そうして民にかどわかされた王妃と王子を、イサーク率いるアフェクト桂冠騎士団が華麗に救い出す。それがイサークの描いた絵図だった。

 つまり彼は王妃たちの誘拐を自作自演することで、権威が失墜しつつあるカルヴァンの上位に立とうとしたのだ。この内乱が終結したのち、すべての責任をカルヴァンに覆い被せて玉座から蹴落とし、自らが王となるために。


 セリシャはその計画のすべてを立ち聞きし、真っ青になって兄のフィデルへ報せをやった。以上が昨日、セリシャが人目を忍んでラッティたちのもとへ現れた事の顛末だった。

 結局彼女の手紙が本物のフィデル・ドラードに届いたのかどうか、それはラッティたちの知るところではない。

 だが一つだけはっきりとしたことは、ここに長居するのは得策ではない、ということだ。このイサーク・アバリシアという男は腹の底が知れない。そんな男のところに、カルヴァンの腹心であるフィデルに化けてやってきたのは失策だった。


 何しろラッティの化かしの術とジャックの演技、どちらも完璧すぎてイサークはおろかフィデルの実妹でさえこちらを本物のフィデル・ドラードだと信じ込んでいる。

 おかげでとんでもない陰謀に巻き込まれそうだ。少なくともここに長居したら、まず間違いなく面倒なことになる。

 だってきっとイサークは王子の生存が判明した途端自領を訪ねてきたフィデルを警戒しているだろうし、セリシャはセリシャで兄がイサークの悪事を暴き糾弾してくれることを望んでいるだろう。


 そんなことになる前にさっさとトンズラしよう、という意見で、ラッティたちは満場一致した。幸い昨日の話し合いで、ラッティたちはイサークが用意してくれた物資を受け取り次第この地を発つ手筈になっている。

 その手筈どおりにソーロを発ち、全速で西へ。ジャックの話では、イサークの用心深さはとにかく病的だというので、義勇軍の本拠地であるパシエンシア侯領へ入るまで油断はできないだろう。


 だが一度領境を越えてしまえば、この男も容易に手出しはできないはず――とジャックは言った。はず・・、というのが何とも頼りないが、今はただその言葉を信じ、すぐさまここから逃げ出すしかない。

 他に問題があるとすれば、物資の輸送だ。ラッティたちの任務は食糧難に喘ぐ義勇軍のもとへ救援物資を運ぶこと。だから物資は多ければ多い方がいい。それは確かだ。けれど、


「――穀類三〇〇〇ペリー、芋類一六〇〇果、豆類一四〇〇果、肉類一〇〇〇果……」


 イサークの隣に控えた騎士が読み上げていく物資の量を聞いて、ラッティはおいおいおいおいとついに口元を引き攣らせた。

 穀類三〇〇〇果? 芋類一六〇〇果?

 何だよその数。米と肉を運ぶだけで四頭立て馬車が三台は必要じゃないか!


 そんな量の食糧、行商人のラッティだって取り扱ったことはない。穀類三〇〇〇果と言えば、このルエダ・デラ・ラソ列侯国では五千人分の食事量に匹敵するはずだ。おまけに豆だの肉だの果物だの、積荷は更に増えていく。ついにはラッティにさえ計算できないほどの膨大な量になった。

 冷や汗をダラダラ流しながら、ラッティはトントン、と腰の物入れを叩く。こうなるともう、歩く算盤であるヨヘンの頭に頼るしかない。


(なあ、ヨヘン。今、合計何果?)

(一四四〇〇果)

(それって馬車何台分……?)

(四頭立ておよそ十台分)

(じ……じゃあ、馬車十台の一日の移動距離は……?)

(神のご加護を計算に入れるなら八〇ゲーザ(四〇キロ)。ちなみにオイラたちがここへ来たときの行程を教えてやろうか?)

(聞きたくない)

(平均すると一日約一八〇幹(九〇キロ)だ。つまり帰りは行きの二倍以上の日数がかかるってこと)


 聞きたくないって言ったろ!

 非情な現実を突きつけられて、ラッティはそう怒鳴りたかった。

 でも怒鳴ったところでどうしようもない。何せヨヘンの声はもう悟りきっている。無我の境地というやつだ。


 ――なんてこった。それじゃあイサークの支配下にあるアフェクト侯領を脱出するまで一ヶ月以上かかる。帰りの行程が行きより長引くであろうことは覚悟していたものの、当初の想定を遥かに超えてくるなんて!

 その間、ラッティたちは常にイサークの監視下に置かれるということだ。たぶんこの男ならそれくらいのことはやる。下手をしたら野盗か何かの仕業に見せかけて、ラッティたちを始末することだって……。


(こいつ……わざとアタシらの足を鈍らせて、いざというときのための時間を稼ぐつもりか)


 ラッティはひどく忌々しいものを見るときの目でイサークを睨んだ。当のイサークはゆったりと頬杖をついたまま、薄ら笑いを貼りつけている。

 たぶんイサークは、反乱軍を誘き出すために物資を輸送する――というこちらの言い分を信じていないのだろう。その計画の裏には何か別の意図があると踏んで、こちらの出方を窺おうとしている。

 そしてそれがもし自分の不利益につながるものならば、ラッティたちが自領を出る前に抹殺する。そういう腹積もりなのだろう。


 だが彼の警戒は杞憂だ。何せこちらは本物のディストレーサ栄光騎士団ではない。よってイサークの周囲を詮索するつもりはないし、北のトレランシア侯領から味方を攻め込ませたりもしない。

 問題はそのトレランシア侯領に本物のフィデル・ドラードがいると覚られることだ。ここでもたつけばもたつくほど、ラッティたちがフィデルの偽者であることがバレる可能性は高まってく。万一そういう事態になったとき、イサークはどうするか。


 ……まず間違いなく追っ手を放つだろう。そんなことになれば十台もの荷馬車を引き連れ、ちんたら進むラッティたちは確実に捕まる。

 かと言って荷馬車を放棄して逃げれば作戦は失敗だ。ラッティたちは義勇軍に物資を届けるという使命をまっとうできずに逃げ帰ることになる。

 そうなれば義勇軍は、きっと明日の食糧にも困る羽目になるだろう。


(ちっ……こうなったら、あとはもう腹を括るしかないか)


 一か八か。ラッティたちは元々そういう賭けでここへ来た。グニドには渋い顔をされたし、ポリーにも泣いて止められたが、それでも行くと決めたのは勝算があると思ったからだ。

 その自信に根拠はあるのか、と言われたら、あんまりない。だがラッティは自分の命をべットした。いや、自分の命だけじゃない。仲間の命も、義勇軍の命運もだ。

 賭けたからには泥を啜ってでも勝つ。それがラッティのやり方だ。そうやってこれまでも勝ち続けてきた。生き延びてきた。――だから。


(アタシの強運とアンタの悪運、どっちが強いか勝負しようぜ、イサーク)


 今は誰にも見えないであろう狐耳みみをピンと立て、ラッティは無理矢理笑った。既にアフェクト騎士による長ったらしい報告は終わり、「以上です」の一言が彼の口上を締め括る。


「いかがかな、ドラード卿。これほどの物資があれば、飢えた義勇軍は食指を伸ばさずにはいられないと思うが」

「ご配慮に感謝致します、アバリシア侯。しかし貴領とて飢饉に喘ぐこのときに、これほどの物資をお預かりしてよろしいのでしょうか?」

「確かに多少無理をしていることは認めよう。だがこの内乱が飢饉による貧困をより深刻なものとしていることは、貴君とて承知のはず。つまり民の暮らしを立て直すためには、まず内乱を治めることが急務というわけだ。それが実現する可能性があるのなら、私もできる限りのことをすべきだと思ったのだよ。貴君の昨日の演説を聞いてな」


 依然頬杖をついたままイサークはゆったりと笑ったが、それが皮肉の笑みであることはラッティにも分かった。この男はどこまで胸糞が悪いんだと内心憤慨しつつ、ちらとジャックの方を盗み見る。

 まさかこんな大量の物資を押しつけられるとは思ってもみなかったので、ここから先の打ち合わせはしていなかった。だからジャックがどう出るか――と緊張していると、意外にも彼は胸に手を当て、恭しく一礼してみせる。


「有り難き幸せ。では此度は侯のご厚意に甘えさせていただきます。この借りはいずれ」

「ああ、期待しているぞ、ドラード卿。そして今度はぜひセリシャの顔を見に来てやってくれ」


 それで主立った話は終わり、ラッティたちはほどなくイサークの前を辞すことになった。イサークも早くこちらを泳がせて情報を集めた方が得策だと判断したのだろう、特に引き止める言葉をかけてこない。

 だからラッティたちは一通りの挨拶が済むと、宝座にいる彼に背を向けて歩き出した。扉の前に控えていた見張りの騎士が足を揃え、胸を叩き、敬礼してから道を開けてくれる。


 軋みを上げて、飴色の扉が左右に開いた。

 ラッティたちはアフェクト騎士に目礼し、粛々と立ち去ろうとする。

 だが、そのときだ。


「――ああ、そうだ、ドラード卿」


 と、突然背後からイサークの呼び声がした。途端に物入れの中でヨヘンが飛び跳ねたのが分かる。

 先頭を歩いていたジャックが足を止め、引き返してきた。ラッティは神経を尖らせながら、微かな鎧の音まで正確に再現する。


「何でしょう、侯?」

「実は一つ、気になっていることがあるのだがな。貴君は我がアフェクト桂冠騎士団に所属するバジャルドという者を知っているか?」

「ええ、もちろん存じ上げております。ソロサバル家の現当主であらせられる、バジャルド黄爵こうしゃくのことでお間違いありませんか?」

「そう、そのバジャルドだ。というのもやつから今朝、自分の従騎士が二名ほど行方知れずだという知らせが届いてな。どうも昨夜から姿が見えないらしいのだが、貴君も何か心当たりはないか?」

「その従騎士の名はお分かりですか?」

「ああ、確か――フリオとナコルとかいったかな?」


 え、と零れかけた声を、ラッティは慌てて飲み込んだ。

 フリオとナコル。その名前には聞き覚えがある――確か昨晩セリシャが、護衛として連れてきていた身内の名前。

 それを思い出した瞬間、どっと汗が噴き出した。未だ宝座に座したままのイサークは、笑みを消してじっとこちらを見据えている。


 あの男は、一体何を。

 まさか昨夜、セリシャがこの居館を抜け出したことがバレたのか?

 だからその護衛を務めた者たちの名を?

 こちらに揺さぶりをかけようとしている?

 いや、あるいは彼らは本当に行方が分からなくなったのか?

 ならばセリシャは――?


「――生憎ながら、存じ上げません」


 刹那、ジャックがきっぱりと吐き捨てた一言が、ラッティの頬を叩いた。

 それではっと正気に返り、思わず彼を振り返る。

 ジャックは眉一つ動かさず、至って平然としていた。彼だってセリシャの供の名は覚えているはずだ。なのに、


「そのような者たちとは面識すらありませんが、何故私に?」

「いや……そうか。面識はない、か。セリシャとはずいぶん懇意なようなのだが」

「愚妹の口からも、その者たちの名は一度も。夫以外の名を口にすれば、私に貞操を疑われると思っているのやもしれませんが」

「確かに、それもそうだな。不用意なことを言った。私とてあの娘の不貞を疑っているわけではないのだ。許せ」


 そう言って、イサークは再び薄ら笑いを浮かべた。それが本当に最後の会話となり、ラッティたちは謁見の間をあとにする。

 そのあと一行はイサークから提供された馬車と物資を受け取り、無事にソーロを出ることになった。順調すぎて寒気がするが、裏を返せばこちらを疑っているからこそ彼らも親切にするのだろう。安心させて油断を誘うために。


 城門を出る間際、ラッティは塔に掲げられた狐の旗を仰ぎ見た。狐は化かすもの、という認識はラッティたち狐人が持つ化かしの力から広まったものらしいが、あの旗はまさしくこの侯領くににピッタリだな、と思う。

 強欲で狡猾。長い歴史の中で狐人族に押しつけられたその肩書きを、あのイサークという男にそっくり譲ってやりたい。

 他の者たちも同じことを思ったのかどうか。ついに痺れを切らしたヨヘンが騒ぎ出したのは、ソーロを出て一刻(一時間)が経とうかという頃だった。


「なあ、おい……おいおいおいおい! オイラたちこのままサン・カリニョに戻っちまっていいのか? さっきのイサークの話を聞いただろ、あのお嬢さんが昨日連れてた二人が行方不明だって!」

「それがどうした?」


 答えたのは、先頭馬車の馭者台に腰を下ろしたジャックだ。彼は未だフィデルの皮を被りながらも、頭の後ろで腕を組み、のんびりと背凭れに背中を預けている。

 馬車の扱いはラッティの方が慣れているだろうからと、無理矢理手綱を押しつけられた。ヨヘンはそんなラッティの隣、ヴォルクは一つ後ろの馬車だ。


「どうした、じゃねーだろ! あの口振りからして、イサークはお嬢さんが昨日オイラたちを訪ねてきたことを知ってたぜ! だからオイラたちにカマかけたんだろ、お嬢さんの護衛の名前を出して!」

「そーだなー」

「ってことはそれって、あのお嬢さんが危ないってことじゃねーのか? イサークが言ってた二人だって、お嬢さんの脱走を助けたことが露見して、ほんとに捕まっちまったのかもしれねえ! なのに放っていくのかよ!?」

「ネズ公。お前、意外と義理堅いんだな」

「ネズ公って言うな! 噛みつくぞコノヤロー!」


 ヨヘンはジャックの言動がよほど腹立たしいのか、馭者台の上で地団駄を踏んだ。ラッティは自分を挟んで交わされるそんなやりとりを、じっと黙って聞いている。


「まあ、セリシャが俺たちを訪ねてきたことがバレたってのは事実だろうな。恐らくあの宿には最初からイサークの監視がついてたんだろう。あるいは宿全体があいつとグルだったって可能性もある。俺はどうせそんなこったろうと思ってたがな」

「じゃあ何で昨日そのことをお嬢さんに話してやらなかったんだよ!? あの宿が見張られてるって知ったら、お嬢さんだって……!」

「セリシャが宿に来ちまった時点で、もう手遅れだったんだよ。それから俺たちがあーだこーだ言ったところで、どうせ結果は変わらなかった。だったらあの女の口から少しでも有益な情報を聞き出しておくべきだろ? おかげで俺らはさっきのカマかけにも対処できたわけだしな」


 あくびを噛み殺しながらジャックがそう言うのを聞いて、ヨヘンはまたハリネズミみたいになっていた。だけど今回は緊張のせいじゃない。ジャックの言い草にますます腹を立てたからだ。


「〝対処〟って、あんたなぁ! あのお嬢さんは、母親を殺された王子を想ってあんな危険を冒したんだぞ! オイラたちはそんなお嬢さんを騙して、真心を踏み躙ったんだ! なのに……!」

「じゃあ何だ、このままソーロに引き返して囚われのお姫様を助け出すか? この人数で? ディストレーサ栄光騎士団にも並ぶ兵力のアフェクト桂冠騎士団を相手に? ――馬鹿も休み休み言え」


 それまで戯けた調子だったジャックが、ついに冷たく吐き捨てた。ラッティが目だけでそちらを向けば、彼はいかにも不機嫌そうに街道へ視線を投げている。


「俺たちが命懸けでソーロに乗り込んだ理由は何だ? 物資を調達して、義勇軍を救うためだろうが。この物資を無事にサン・カリニョまで届けなきゃ、義勇軍はドン詰まりだ。早晩侯王軍に潰される。まあ、エレツエル神領国が向こうについた時点で勝利は望み薄だけどな。お前らがそれを見越した上で、フィデルの妹のために義勇軍三万の命を捨てるってんなら俺は止めねえぜ」


 その代わり手伝いもしねえけど。そう言ったきりジャックは黙り込み、背凭れに凭れたまま目を閉じた。それから四半刻(十五分)もしないうちに寝息が聞こえ始める。……もう仕事は終わったとばかりに、昼寝を決め込むつもりらしい。

 一方のヨヘンはまだ何か言いたげな様子で、しかし皮肉と正論に反論できず、「ムキーッ!」と何度も飛び跳ねた。ラッティにも彼の気持ちは痛いほどよく分かったが、やはり口は閉ざしたまま、膝の上に頬杖をつく。


(なるほど。間者は腐っても間者、か)


 ジャックが望んでいるのは義勇軍の勝利。それはラッティだって同じだ。カルロスには腐れ外道のカルヴァンをぜひボコボコにしていただきたい。でも。


(この男がそれを望むのは、ひいてはトラモント黄皇国のため、だろ?)


 義勇軍を裏で支援しているという黄皇国の皇子。ジャックはその皇子に仕える諜報員だ。彼が義勇軍の勝利を望むのは皇子のためで、この国のためじゃない。きっとここでしくじれば皇子の顔に泥を塗るとか、黄皇国内での皇子の地位が危うくなるとか、そういう事情がいくつも絡んでいるのだろう。


(人の世ってのはままならないね、ほんと)


 頬杖をついたまま、ラッティははあ、とため息をつく。そんな男の言いなりになるのは何だか癪だと思いつつ、現状をどうする力も持たない自分に苛立ちながら。


(こんな世界にルルを放り込むことが、あの子の幸せにつながるのかね?)


 なおもヨヘンが何か喚いているのを聞き流し、ラッティはぼんやり考えた。

 無事にサン・カリニョへ戻れたら、やはりグニドに話を訊いてみよう、と。



         ×



 それはフィデル一行――もといラッティたち――がソーロを発ってから、ちょうど十日後のことだった。

 アフェクト侯領の侯主イサーク・アバリシアは、今日も今日とて宝座に深く腰かけながら、部下の報告に耳を傾けている。今朝一番にやってきたのは、フィデル一行を追跡中の騎士たちが送って寄越した伝書鳩の管理人だ。


「ではフィデルは愚直に西を目指しているということか。一度も街道を逸れることなく?」

「はい。先日当地を訪れた八名以外に合流する者もなく、淡々と西進しているとのことです。ただ、馬車十台分の荷を八台で運んでいるわりには進みが速いのが唯一気になる点でしょうか。途中、街道上の町に寄って一部の積み荷を輓馬四頭と交換しています。これを我々がつけた老馬と交代させ、更に足を速めているとのことです」

「ならばやつが領境沿いに潜ませていると言っていたディストレーサ栄光騎士団の兵力は? パシエンシア侯領との領境を越える前に合流する手筈のようだが」

「そちらは領境付近の騎士団に知らせをやって探させていますが、まだ発見の報告は上がってきておりません。何分こちらも秘密裏に動かねばなりませんので、想定より時間がかかっているのかと」

「ふむ……あの男は一体何を考えているのだ? いや、何か絵図を描いたのだとすればフィデルではなく参謀のマルコスか。私はてっきり、カルヴァンの妻子の件で我が領内を探りに来たものとばかり思っていたが……」


 今のところフィデルにそのような動きはない。あるいはこちらの目を彼に釘づけにして、裏でマルコスらが動くつもりかとも疑ったがそれもない。イサークたちが既にドラード家の間者だと特定している者にも動きはないし、捕らえて拷問にかけているフリオとナコルも喋らない。


 十日前の夜、フィデルが宿泊した宿に赴いた疑いのあるセリシャもだんまりを決め込んだままだ。真綿で人の首を絞めるのが得意な次男セレドニオがじわじわと追い詰めている様子はあるが、それでもあの娘は知らぬ存ぜぬの顔を崩さない。殺すのならば殺しなさい、とでも言いたげな昂然たる態度で、食事の席でも正面からイサークを睨みつけてくる始末だ。


 まったくドラード家の長女を人質に取ったのは失敗だったな、と今更ながらイサークは思った。どうせなら大人しくて素直だという次女の方をもらうべきだった。

 病弱だという噂を信じて、人質とするなら長生きする女の方がいいというセレドニオの意見を受け入れたが、どうやらそれも先代当主の策だったようだ。今では次女もピンピンしてウニコルニオの社交界を華やがせているというから、いっそのことセリシャを殺してあちらを娶り直そうか、とも思う。


「まあいい。向こうが動かぬ以上、こちらも手出しするわけにはいかぬ。引き続き追跡班からの報告を待つとしよう。だが領境沿いの索敵は急がせよ。こちらに伝えた策どおり動くと見せかけて、一気に我が領内へ攻め込む計画やもしれんからな」

「はっ、畏まりました。それから念のため、当館内の警備もより厳重に――」

「――い、イサーク様!」


 そのとき報告者の言葉を遮って、広間の外からイサークを呼ぶ声が聞こえた。声の主はやかましく鎧を鳴らしながら、扉をぶち破るようにして転がり込んでくる。


「何事だ、騒がしい! 侯主閣下の御前であるぞ!」

「も、申し訳ございませんっ! ですが……!」


 やってきたのはまだ若い、どこかの家の従騎士のようだった。彼は半分脱げかけた兜を押さえ、ぜえはあと荒い息をつくと、ようよう立ち上がって直立する。


「申し上げます! 只今、北門に――」

「――どけ、小僧」


 やにわに廊下が騒がしくなった。同時に従騎士の体が押しのけられ、再び床を転がった彼の後ろからすらりとした長身が現れる。

 イサークは目を疑った。さすがに頬杖を解いて体を起こし、目の前で靡くアイスグリーンの長髪を凝視する。


「ご機嫌麗しゅう、義父上ちちうえ。突然の無礼をお許し下さい」


 そう言って男は微笑んだ。

 胸には王冠を戴いた一角獣ユニコーンの紋章。

 それは他ならぬディストレーサ栄光騎士団が掲げる象徴。

 たった今イサークの眼前には、その騎士団の若き長がいた。


 彼の名は、フィデル。


 フィデル・ドラード・アルジェン・ウニコルニオ。



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