第四十五話 笑う男
※微グロ注意。
エマニュエルには、二十二種類の文字がある。
二十二、という数字から分かるとおり、これは天界の二十二大神が持つ紋章から生まれたものだ。
それでいて遠い昔には、一文字一文字が別々の意味を持つ表意文字だったとか。ラッティは考古学者ではないので、そのあたりのことは詳しく知らない。
ただそれらの文字は長い歴史の中で次第に意味を変え、形を変え、ついには一文字一文字が〝音〟を表す表音文字へと進化した。
ときに、時神マハルというのがいる。
二十二大神の神位第十五位。その名のとおり時間を司る神だ。
このマハルの神璽は《三本の矢》という。過去・現在・未来を表す三本の矢が交差した形の紋章で、これが文字になると「s」の発音を表す。
だから彼女は古いルエダ語で《三本の矢》を意味する〝トレス・ランサ〟を名乗ったわけだ。
セリシャ・ドラード・アルジェン・ウニコルニオ。
その名前の頭文字。
絶世の美男子と呼ばれるフィデルを兄に持つ彼女は、その兄にも負けない美貌の娘だった。
歳はまだ二十になったばかりといったところか。まっすぐなアイスグリーンの髪を持つ兄とは対称的に、彼女の髪は赤茶けていて癖が強い。鬢のあたりの髪はくりんくりんの縦ロールで、いかにも良家のお嬢様といった感じだ。
その一方できりりとした目元や眉の形が、見る者に気が強そうな印象を与える。良く言えば気丈、悪く言えば強情。椅子の上でピンと背筋を伸ばし、やや顎を上げている姿が基本姿勢らしいのがなおさらそんな印象を助長している。
ただ、彼女の容姿と服装がどうも釣り合っていないのが気になった。本来はもっと豪奢なドレスを昂然と着こなしそうなのに、今は地味な色合いのティーガウンに身を包んでいる。
よく見ると茶系の生地に細かな花模様が刺繍されているのが分かるが、それでもせいぜい中流階級のお嬢さん、といった体裁だった。
それは恐らく、身分を偽るためなのだろう。部屋に入ってくるまで被り布を目深に被っていたところを見ても、人目を忍んでここまで来たと思しい。
だから宿の者にも名を明かさなかったのか。だが実の兄に会うためにそこまでしなければならない理由が、ラッティには分からない。
「まあ、しかし、何だ……驚いたぞ、セリシャ。まさかお前がここに現れるとはな……」
「驚いたのはわたくしの方ですわ。まさかお兄様が直接乗り込んでいらっしゃるなんて。それならそうと、何故わたくしに一言連絡を下さらなかったの? お兄様がいらっしゃると分かっていたら、もっと上手く館を抜け出してきましたのに」
あまりに急なことでしたから、仮病を使う以外に方法がありませんでしたわ。これではあとで話を誤魔化すのが大変です、と、セリシャは終始ぷりぷりしながらそう言った。
その才気走った喋り方も、ちょっと刺々しい態度も、すべてラッティが受け取った第一印象のとおりだ。こんな分かりやすい人に果たして仮病なんて使えるのかな、と内心疑問を覚えつつ、ラッティは彼女の対面に座るフィデル・ドラード――もといトラモント黄皇国の諜報員ジャックを見やった。
彼女の兄に成りすましたジャックは口元が引き攣りそうになるのをどうにかこらえながら、探り探り言葉を選んでいるといった様子だ。そもそも何故セリシャが突然ここを訪ねてきたのか、まずその理由が分からない。
イサークにはフィデルが来ていることは黙っていてくれと頼んだはずなのに、まさか彼が差し向けたのだろうか? だとしても何故? あるいはこちらの正体が実は疑われていて、妹のセリシャに確かめに来させたとか……?
「知らせをやらなかったのはすまなかった。だがこちらにも事情があってな。念のために訊くが、供は? まさかここまで一人で来たわけではあるまい?」
「ええ、それはもちろん。宿の表口と裏口に、それぞれフリオとナコルを待機させてありますわ」
「ここへ来たことは誰にも知られていない?」
「供の二人と侍女のヌリア、そしてお兄様のご到着を知らせに来たトレンツ以外には誰も」
「……そのトレンツはどうやって私の到着を知った?」
「まあ、気づいていらっしゃいませんでしたの? お兄様が内々にお義父様とお会いしたい、と西門へやってきたとき、トレンツは門衛に立っていたと言っておりましたわよ?」
「あ、ああ……そうだったのか、立て込んでいて気づかなかった。あの者も息災か?」
「敵地に間者として潜り込んでいるんですもの。心身共に健やか……とは言い難いでしょうね。わたくしも立場は似たようなものですから、あの者たちの気持ちはよく分かりますわ」
言って、セリシャは赤い紅の引かれた唇を片方だけ持ち上げた。それは勝ち気に笑ってみせたようにも、浅い自嘲のようにも見える。
そんな彼女の様子が気にかかる一方で、警護の騎士に化けたラッティはまたもジャックの話術に感心していた。彼の尋ね方が巧みなのか、はたまたセリシャが無防備すぎるのか、とにかく彼女はこちらの知りたいことをペラペラと喋ってくれる――そうか、彼女がここへ来たのはドラード家が使う間者のせいか。
彼女がここを〝敵地〟と呼ぶのも、ドラード家がこの地に間者を潜り込ませていることも意外だったが、まあ、列侯国のこれまでを顧みれば別段不思議なことではない。何せこの国を束ねる侯主たちの歴史はすなわち面従腹背の歴史。ならばラビア家の家来であるドラード家が、主家を守るべく情報の網を張り巡らせていたとしても何らおかしくはないだろう。
おかげでセリシャがイサークの差し金として来たわけでないことが知れた。いや、それもセリシャが義父に魂を売っていなければ、の話だが、先程の笑い方を見るにその可能性はないような気がする。
そう言えばここへ来る前、ジャックが〝セリシャはイサークがドラード家から勝ち取った人質だ〟とか言っていたっけ。自由気ままな商人として生きるラッティには、貴族たちの政略とか駆け引きとか、そんなものは分からない。
それでもほんの少しだけ、目の前にいる彼女のことを可哀想な人なんだな、と思った。強気に振る舞ってはいるけれど、本当は寂しいのかもしれない、とも。
「お前はよくやっているさ、セリシャ。もちろんトレンツらもな。父上がご存命だったなら、きっと今のお前を誇りに思って下さったことだろう」
「お兄様は? わたくしを自慢の妹だと言って下さいます?」
「ああ、お前が望むのであれば何度でも」
「わたくしが望まなくともそうおっしゃって下さいまし。父上亡き今、わたくしがこの地で耐えているのは他ならぬお兄様のためなのですから」
ぴしゃりとそう反論され、これにはさすがのジャックも苦笑を浮かべた。まったく歯に衣着せぬ娘だ。
貴族というのはもう少し慎重に言葉を選ぶ人種だと思っていたけれど、そうしないのは兄への信頼と親愛の表れなのだろうか。悲しいかな、彼女が目下向き合っているのはその兄ではなく、兄の仮面をつけた敵国の間者なのだけれど。
「まあ、その話は今はいいですわ。それよりもお兄様、早速本題なのですけれど……」
と、ときにそう切り出したセリシャの目が、俄然こちらに向けられた。ラッティとヴォルクは現在、ディストレーサ栄光騎士団の騎士に化けて部屋の入り口を背に佇んでいる。
それは何者の侵入も許さぬという守りの構え――だが本当は有事の際、セリシャを逃さじという封鎖の構え――なのだが、そんなラッティたちをセリシャは怪訝そうに眺めた。その不審を読み取ったのだろう、わずか表情を強張らせたジャックが声をかける。
「どうかしたのか?」
「いえ……今日は知らない者がお兄様の供をしているようなので、少し気になって。キケやレミヒオは共に来ていないのですか?」
「あ、ああ……あの者たちには現在、別の任を与えている。今回のソーロ訪問は急な決定だったので、人員を整えている時間がなくてな」
「そうでしたの……」
と、言いつつも、セリシャはやはりチラチラとこちらを気にしている。もしや変装に不備があるのか――と、これにはさすがのラッティも緊張した。
が、セリシャの懸念はもっと別のところにあったようだ。彼女はラッティと視線が合うなりはっと目を逸らすと、ちょっと気まずそうな顔をして、向かいのジャックへ耳打ちする。
「あの、お兄様。例のお話をしたいので、人払いをお願いしたいのですが……」
しかし残念。獣の聴覚を持つラッティとヴォルクの耳には、はっきりと彼女の囁きが聞こえた。
「例の話、とは?」
「とぼけないで下さいませ。ヴィンス王子のことですわ」
「王子の……?」
「ええ、そうです。手紙は読んで下さったのでしょう?」
――手紙……?
ラッティと同じ疑問を抱いたのだろう、ジャックも微かに眉をひそめた。手紙、というのは、恐らくセリシャが本物の兄フィデルに宛てたもののことだろう。
だが当然、偽者であるラッティたちはそんなもの知る由もない。〝本題〟と前置きしたからには、セリシャはその話題のためにここへ来たと思しいが――今、彼女は〝ヴィンス王子〟と言ったか? 王子というのはあの、侯王カルヴァンの息子の……?
「セリシャ。その手紙を出したのはいつのことだ?」
「いつって……確か一月ほど前のことですわ」
「ならば入れ違いになったのだろう。私はちょうどお前からの手紙が届く頃にウニコルニオを出た。屋敷には既に届いているだろうが、私はまだそれを受け取っておらん」
「え? で、ですがお兄様がソーロへいらしたのは、あの手紙の真偽を探るためでは……?」
ははあ、なるほど、とラッティは思った。すべての発端はその手紙か。
どうやらセリシャは兄宛の手紙に何か重大なことを書き留め、兄はその内容を質しにソーロへやってきたと思い込んだらしい。しかもこちらは都合上〝密命で〟という体裁を取ったから、それが余計にセリシャの勘違いを確信へ変えたのだろう。
「私がここへ来たのは反乱軍の件だ。エレツエル神領国との同盟に伴い、アバリシア侯の侯王軍参加を再度促すようにと、陛下より内命を賜ってきた。だが、その王子の話というのは?」
「そ、それは……」
「案ずるな。あの者たちはレミヒオらにも並ぶ私の新たな腹心だ。ここで何を聞こうとも、決して話を外へは漏らさぬ」
いやあ、そんな保証はないけどね? と、ラッティは目だけでジャックに言った。だってカルヴァン・ラビアの直臣であるドラード家、そのドラード家の者がもたらす王子の内緒話だなんて、野次馬心がそそられるではないか。
だがジャックも列侯国の内情を探る者として聞く必要がある、と判断したのだろう。同じく目だけで「構わないさ」と言ってきた。
こうなると騙されるセリシャが気の毒だが、元々こちらは義勇軍側の人間。ならば敵性勢力の身内である彼女に義理立てする理由はない……。
「で、では、お話しますけれど……その前に、王子は本当にご無事でいらっしゃいますのよね?」
「ウニコルニオ事変のどさくさに紛れて、ヴィンス王子が拐かされたことを言っているのなら確かにご無事だ。二月前、エスクード家の者によって砂王国の都で保護され、今はアルコイリス虹爵夫人――ミラベル様のご厚意で旧主領にてご静養されている。ウニコルニオにいると誘拐された当時のことが脳裏をよぎり、精神的に不安定になられるご様子なのでな」
そこでラッティたちはまず驚いた。ジャックが平然とセリシャの話についていっていることもそうだが、何よりあの侯王カルヴァンの息子――ヴィンス・ラビアが誘拐されていたって?
そんな話は、耳聡い商人であるはずのラッティさえ初耳だった。きっとジャックはウニコルニオ潜入中にその噂を掴んだのだろうが、恐らくこれは侯王と近臣だけが知る機密事項だ。
でなければとっくに世間が大騒ぎしているはず……。それにカルヴァンの動向を常に探っているであろうカルロスやヒーゼルでさえ、そのような話は一言もしていなかった。
(ヴィンス王子って確か、カルヴァンの末の王子だよな……? 歳はルルと同じくらいだったか。他にも二人成人した兄がいたはずだけど、一人は去年のウニコルニオ事変で落命したって聞いたっけ。だけどまさか、末の王子までそんなことになってたとはね……)
セリシャには見えないであろう尻尾をゆらゆら揺らして、ラッティはしばし思案に暮れた。『ウニコルニオ事変』というのは去年の秋、侯王カルヴァンのいる主都ウニコルニオで起きたある事件のことだ。
人伝に聞いたところによると、その日、ウニコルニオには悪魔が降り立ったらしい。竜のように巨大で、しかし足が何本もあり、目につく者を端から喰らっていったという黒き魔物。赤い一つ目は満月ほどもあり、その下には十人程度ならぺろりと丸呑みしてしまえる大きな口が裂けていたとか……。
ウニコルニオの人々はそれを〝神の怒り〟だと言った。悪逆非道なカルヴァンの所業に神々が怒り、天罰をお与えになったのだと。
何しろその魔物はカルヴァンの館から現れた。突如として闇から生まれ、暴れ狂い、大勢の人間を喰らいながら街の半分を破壊したのだ。
おかげでカルヴァンは真ん中の息子を失い、自らも這々の体で都の外へ逃亡した。フィデル率いるディストレーサ栄光騎士団の奮戦と犠牲がなければ、あの王も恐らく命を落としていたことだろう。
最後はとある聖人が命懸けで魔物を鎮めたというが、とにかくそんなことがあって列侯国内の内乱の機運はますます高まった。事件が起きた日もウニコルニオにはカルヴァンの退位を求める民衆が殺到していたというから、神の怒りはカルヴァンが真の暗君だということを彼らに確信させたのだろう。
そしてジャックの話が事実なら、ヴィンス王子はその騒動のさなか何者かによって攫われたと思しい。それも発見されたのが二月前ということは、王子は一年近くもの間行方不明だったということか。
しかし一体誰が、何のために?
その疑問はラッティを駆り立てた。真相を知りたい一心で狐耳を欹てる。
有り難いことに、ジャックは事情を知らないラッティたちも話が飲み込めるよう、説明を交えて会話を進めてくれていた。それもごく自然に、セリシャに怪しまれないように、だ。
まったく別の人間に成り済ましながらそんな芸当ができるのは、やはりこの男が只者ではない証拠だろう。これで隠居願望さえなければ間者としては完璧なのに、と、ラッティはちょっともったいないものを見る目で彼を見やる。
「ですが野蛮人の都で保護されたとき、王子は記憶を失っておいでだったのでしょう? それなのに誘拐された当時の記憶に怯える、ということは……」
「ああ。すべて完璧に元通り、というわけにはいかないが、ほとんどの記憶は回復されたようだ。それが王子にとって幸運なことであったのかは、私には判断しかねるが」
「ど、どういうことですの……?」
「医者の話では、王子の記憶の欠落は耐え難い恐怖や絶望から己の精神を守るための、いわば自己防衛の措置だったらしい。その記憶の封印が解けたことで、王子はひどくご乱心だ。ミラベル様のご尽力のおかげで、いくらかは落ち着かれたようだが」
「で、ですが、王子の記憶が戻ったということは、共に行方が分からなくなっていたレアンドラ様の消息も掴めたのでは?」
「妃殿下か。……あの方はもう戻らぬ」
「え?」
「レアンドラ妃殿下は、死の谷で竜人の群から王子を庇い、その身代わりとなられた。王子の記憶に鍵をかけたのは、他ならぬ妃殿下だ。あのお方は王子の目の前で――竜人に喰われた。生きたまま腕をもがれ、腸を引きずり出され、それでもなお〝逃げろ〟と叫びながら絶命されたそうだ」
セリシャが目を見開き、細い指を口元へ当てた。そうしてラッティたちにも聞き取れるほどはっきりと息を飲む。
そのまま彼女は震え出し、菫色の瞳から涙を溢れさせた。大粒の雫は白い香粉の上を滑り、やがて形のいい顎を伝って滴り落ちる。
「そ、んな……そんな、むごい話が……レアンドラ様……お優しい方でしたのに……!」
「王子はそのときのショックで記憶を失い、やがて砂漠を彷徨っていたところをシャムシール人に捕まった。その後半年以上もの間、シェイタンにてやつらの奴隷として使われていたらしい」
「なん、て……なんて残酷な仕打ちですの……王子はまだ、たったの八歳でいらっしゃいますのよ……!」
「王子と妃殿下を拐かした犯人は今も分からん。だが王子のお話を聞く限り、どうやら目的は陛下への報復にあったようだ。恐らくは肉親が奴隷として砂王国に売られていたことを知った者たちが、陛下にも同等の報いを受けさせようとしたのだろう。王子と妃殿下は馬車ごと誘拐されたのち、気づくと死の谷に置き去りにされていた……という話だ」
ラッティは自然と眉間に皺が寄りそうになるのを、どうにかこらえた。思っていたより胸糞悪い話に反吐が出そうだ。
確かに侯王カルヴァンが許されざる罪を犯したことは事実。その王に報いを受けさせたいと願う者たちの気持ちも分かる。痛いほど分かる。けれど、
(だからって、非力な女子供を攫って死の谷へ放り込んだのか――)
人間が立ち入れば生きては戻れないと言われている死の岩谷。グニドの故郷でもある、エマニュエルで唯一の竜人の縄張り……。
彼らにとって、人間はただの食糧だ。グニドが特別なので忘れかけていたが、本来竜人とは獰猛で残虐で容赦のない生き物。そんな生き物の棲み処に女子供を置き去りにするということは、明確な殺意があったということ。
ならばその場で取り殺せば良いだけの話なのに、わざわざ死の谷へ連れていくという点に犯人たちの異常な復讐心が垣間見える。
彼らはそうまでしてカルヴァンに報復したかったのか。あの男の罪を〝悪魔の所業〟と断じながら、自らも喜々として同じ罪に手を染めたのか――。
(これだから、人間は)
知らず、ラッティは両手の拳を握り締めていた。そんな所業が許されるなら、ラッティだってこれまで自分を苦しめた人間たちに復讐したい。自分がかつてそうされたように、石をぶつけたり、農具で何度も殴りつけたり、檻に閉じ込めて奴隷として売り飛ばしたり……。
それでもラッティがそうしなかったのは、自分の心まで卑しく汚れることを拒んだからだ。そして何より、石を投げられる痛みや、農具で殴り殺されそうになる恐怖や、檻に閉じ込められる絶望を知っているからだ。
あんな痛みや絶望を、誰かに与えちゃいけない。むしろ自分はそうした苦痛や恐怖から他者を救いたい。そう思った。
けれど人間はそうじゃない。やられたらやり返す。血で血を洗う。たとえ相手が幼い王子や子を持つ母であろうとも。
(確かにこの件はカルヴァンの自業自得だ。けど……)
それならばカルロスのように直接カルヴァンに矛を向け、正々堂々勝負すればいい。怒りや憎悪はカルヴァンと六人の侯主に向けるべきものであって、罪もない母子に犠牲を強いる大義名分には成り得ない。
(そんなことも分からないのか、人間は)
たとえカルヴァンの息子であろうとも、ラッティはヴィンス王子に同情した。目の前で母を喰われ、更に半年以上もの間シャムシール人の暴力と恫喝に晒されて過ごした王子の幼い心を思うと、心臓のあたりがキリキリと痛んだ。
だが直後、その痛みをも吹き飛ばすほどの衝撃がラッティを襲う。
「それなのですけれど、お兄様」
「うん?」
「一月前、お兄様へ宛てた手紙というのは他でもありませんわ。レアンドラ様とヴィンス王子を攫った犯人……いいえ、正確には、その犯人たちを煽動した者がおりますの」
「何?」
「その者の名は――イサーク・アバリシア。我が夫セレドニオの父にして、次期侯王の座を狙う当領の侯主ですわ」
涙を流したまま目を伏せて、セリシャは告げた。
その告白は不可視の巨大な鈍器となってラッティたちを殴りつける。
しばし茫然としたのち、ラッティはゆっくりとセリシャの言葉を反芻した。
イサーク・アバリシア。
つい数刻前まで相対していた男の不気味な笑い顔が、瞼の裏に浮かび上がろうとしている。