第四十四話 トレス・ランサの来訪
「――あー、疲れた……今日ので寿命が十年は縮まった……いくら神子殿の頼みでも、もう二度とこんなことやらねえからな……」
与えられた宿の部屋に入るなり、ジャックは寝台へ倒れ込んだ。
倒れ込んだというか、〝溶けた〟という形容の方がラッティとしてはしっくりくる。ラムルバハル砂漠に入ったときのポリーやヨヘンがいつも「溶ける……」と言って、あんな感じになるからだ。
イサーク・アバリシアが暮らす城館からやや西へ行った先。
そこに佇む二階建てのその宿は、普段のラッティたちならば絶対に近づかないような、結構な上宿だった。
外観は他の建物と同じくカボチャ色の煉瓦で作られているが、室内には高級感漂う白の壁紙が回されている。窓も硝子張りだし、何より寝台が羽毛製だ。
ヨヘンなどは滅多にお目にかかれないふかふかの枕に大はしゃぎで、先程からボスンボスンと真っ白なそれの上で飛び跳ねていた。いつもは荷袋や硬い丸太を枕代わりにしているラッティも、これにはついにんまりとする。
何しろ他人の金でこれほどの宿に泊まれるというのは、なかなかに気分が良かった。これなら明日の朝に出されるという朝食も期待していいだろう。
「お疲れ、ジャックさん。だけどアンタ、アタシらの予想を遥かに上回る名演だったよ。本物のフィデル・ドラードを知るカルロスさんやヒーゼルさんにも見せてやりたかったね」
「だな! 一時はどうなることかと思ったが、あんたの機転、なかなかだったぜ! こりゃーオイラの冒険記がますます面白くなりそうだ! チュチュチュ!」
「誰のせいで寿命が縮んだと思ってんだ……」
枕に片頬を預けてうつぶせたまま、ジャックはこちらへ恨みがましい視線を送ってきた。ヨヘンの不用意な反応のせいで、謁見の席が一瞬凍りついたことを根に持っているのだろう。
まあしかしラッティに言わせれば〝終わり良ければすべて良し〟だ。昼間の謁見でラッティたちは賭けに勝利した。明日の朝にはサン・カリニョへ運ぶための物資が揃い、義勇軍は当面救われる。
ジャックの名演技のおかげでイサークはこちらの言い分を完全に信じているようだったし、あとはよほどのヘマさえしなければ無事ソーロを発てるだろう。問題があるとすれば、今回ソーロを訪ねたフィデル・ドラードが偽者であったとイサークが気づいたあとのことだ。
遅かれ早かれその事実は露見するだろうし、そうなったときイサークが激昂して侯王軍に奔ったのでは義勇軍が不利になる。そうした事態を防ぐために、今頃カルロスがこの国で最も権威ある聖マレノテ虹神教会に根回しをしているはずだが、そちらが上手く運ぶかどうかは神のみぞ知る、といったところだろう。
「だけど……実際、ちょっと危なかったよね」
「危なかった?」
「アバリシア侯は、今回の件を評議会にかける必要があるって言ってただろ。もしあのときジャックさんの機転がなければ、俺たちは評議会の結論が出るまで待たされるところだった。そんなことになってたら、今頃……」
「ああ、そりゃ確かにな。ジャックさん、あんたよくとっさにあんな嘘八百が出てきたな」
「別にあれはとっさに出てきたわけじゃねえよ。病的に用心深いことで知られるあの男なら、トゥルエノ騎士団の不祥事を引き合いに出したところで、その噂の裏づけを取るまで動かねえだろうと予想してただけだ。で、実際そのとおりになったから、事前に用意してた口実を並べ立てたまで」
「不祥事って、だけどアレもアンタの作り話だろ?」
「いいや? あれは事実だよ。カルロス殿は侯王の目を盗んで、旧王家の末裔であるアルコイリス虹爵夫人と遺跡に乗り込んだ。で、まんまと《義神刻》を手に入れ、目の上のたん瘤だった主君を突っ撥ねたってわけだ」
「えっ」
ジャックが並べた予想外の答えに、ラッティたちは毛が逆立った。
あのカルロスがアルコイリス虹爵家の人間を唆した――? そんな馬鹿な。
かつてこの地に君臨したアルコイリス法王国、その王の末裔であるアルコイリス虹爵家は『旧主』と呼ばれ、今では列侯国の象徴として存在しているはずだった。
〝象徴〟というのはすなわち、政治には関与しないがこの国の侵し難い聖域として存在しているということだ。アルコイリス虹爵家は法王国が滅んでからというもの、権力こそ持たないが聖マレノテ虹神教会以上の権威を持ち、内紛の絶えない列侯国の仲裁役として機能している――と聞いていた。
そのためアルコイリス虹爵家は、どの勢力の肩も持たない。常に客観的見地から列侯国を俯瞰し、必要以上の干渉は決してしない。
逆に言えばそれは、いかなる勢力も旧主家に干渉してはならないということだ。アルコイリス虹爵家は今なお王権を神授された家系の葉末として神聖視されている。
それに取り入るということは、旧主を軽んじ列侯国の聖域を侵すということ……。カルロスが本当にそんな真似を? と尋ねると、ジャックは「さあな」と答えながら体を起こした。
「さすがの俺も夫人のいる旧主領には乗り込めなくてな。だから裏づけが取れてない――つまりどれが真実でどれが偽の情報なのか分からん。ただカルロス殿曰く、接触してきたのは夫人の方だったとか。そこで〝見せたいものがある〟と食い下がられて、断りきれずについていったら神子にされたって話らしいぜ」
「神子にされたって……つまりカルロスさんは望んで神子になったわけじゃないってこと?」
「あの人の話を信じるならそういうことだな。まあ、旧主家の人間に命じられたら大抵のルエダ人は逆らえねえだろうし、一応筋は通ってる。だからあの人は義神を受け入れ、神子になった。〝この内乱を治めよ〟って夫人の命令に従ってな」
「け、けどよ……その夫人は何でカルロスさんを神子に選んだんだよ? その話で行くと、あの人が神子になったのは七侯が集まる侯主会議の真っ最中だったってことだろ? だったら普通は、既に権力を持ってて動かしやすい七侯の中から選ぶんじゃねーか?」
「んなもん俺が知るかよ。まあ、可能性として最もありえるのは、当時カルロス殿が既に民衆の支持を集めてたからじゃねえのか。あの人は大飢饉の発生当初から民政に力を入れて、領地の民が飢えねえよう奔走してたらしいからな。おかげであの人の領地からは、侯王の触れを信じて出稼ぎに行く人間が出なかった。つまり誰も人身売買の被害に遭わずに済んだってことだ」
「なるほど……だからカルロスさんは民に好かれてた?」
「ああ。当時多くの領主階級が民の攻撃に晒される中で、あの人だけは名君だと敬われてた。あるいは夫人はそこに目をつけたのかもな」
なるほど……。つまり夫人は下手な相手に神の名を与えるくらいなら、初めから人心を掌握していたカルロスを神子にすべきだと考えたわけか。
だがそんな夫人の思惑と行動が一人歩きして、世間ではカルロスの方が夫人を唆したという噂がまことしやかに流れている。論理的に考えれば、夫人が何故カルロスを神子に選んだのか自ずと知れようというものだが、旧主家を絶対不可触の存在として崇めるルエダ人としては、一介の領主に過ぎないカルロスを夫人が贔屓にするわけがない、という考えの方が受け入れやすいのだろう。
(あの人もつくづく運のない人だな)
とラッティは思う。見るからに無欲そうなカルロスのことだ、きっと本心では神子になることなど望んではいなかっただろうし、それを渋々引き受けたら今度はエレツエル神領国まで出張ってくる始末……。
状況から考えるに、はっきり言ってこれは負け戦だ。神領国軍が到着し、本格的な戦いが始まったら、必要最低限の兵力しか持たない義勇軍は物量で押し潰されるだろう。
望まぬ戦をさせられたあげく、そんな窮地に追い込まれたカルロスは今、何を思っているのだろうか。
そう考えると人語もままならないはずのグニドが〝彼を助けたい〟と言い出した切実な気持ちが、ラッティにも少し分かる。
(やっぱりアイツを仲間にしたのは正解だった)
――グニドナトス。彼らにとって貴重な食糧であるはずの人間を庇い、群から追放されたという変わり者の竜人。
アイツがたどたどしい人語でそんな身の上話をしてくれたとき、ラッティは「ああ、コイツいいな」と思った。直感で「仲間にしたい」と思った。
人間との共存を志す竜人なんて珍しくて面白かったし、何よりラッティにとって大切なのはいつだって理屈より直感だ。
人間であるルルの将来を思ってとか、竜人への理解を深めるためとか、そんなご大層な理由は何もない。ただ面白そうだったから仲間にした。それだけだ。
そしてやっぱり、グニドは面白いヤツだった。何せついこの間まではただの餌でしかなかったはずの人間に同情し、思いやり、〝助けたい〟などと言い出すのだから。
(人間サマももう少しアイツを見習ってくれたらねぇ)
と思う。義勇軍の中でもカルロスやヒーゼルといった変わり者は既にグニドを受け入れてくれているが、その他大勢の認識はまだ〝恐ろしい人喰い獣人〟のままだ。そんなものは、いちいち尋ねて回らなくても分かる。サン・カリニョに住まう人々からグニドに注がれる恐れ、憎しみ、怒りの眼差し……。
当のグニドにそれを気にした素振りがないのが救いだが、本当に何も思ってないなんてことはないだろう。
ラッティもヴォルクと共に獣人隊商を立ち上げるまでは、何度も似たような目に遭ってきたから分かる。種族が違うというだけで疎外される悲しみ。〝狐人は皆こうだから〟という偏見から味わわされる孤独。自分は他の半獣人とは違うのだと――一個の命として認められない屈辱と無力感。
(それでも人間を助けたいってんだから、アイツは偉いよ)
ラッティはちょっと微笑んで、誇らしい気持ちでそう思った。ああいうヤツがたまにいるから、世の中捨てたもんじゃない。生きることを投げ出さずに、見苦しく足掻いてみるものだなと思う。
けれどそのとき、そんなラッティの心を凍らせるようなことをジャックが言った。
「ところで話は変わるが、あのルルとかいう子供――」
「……え?」
「お前らが連れてるあの子供だよ。あいつ、あのグニドナトスとかいう竜人に育てられたんだろ? 確かにずいぶん懐いてるみたいだが……それがどういうことなのか、本人はちゃんと分かってるのか?」
「分かってるって、何を?」
「つまり、自分の親を殺したのはあの竜人で、本当はまっとうな人間として歩むはずだった人生を滅茶苦茶にされたんだってことをだよ」
予想外のジャックの言葉に、ひゅ、と息が細くなった。
……ルルの人生をグニドが滅茶苦茶にした?
違う。彼女はどのみちあの砂漠で竜人に襲われ、喰われるはずだった。それをグニドが救った。確かにまっとうな人間として育てることはできなかったが、それでも今日まで彼女を守り、親子として過ごしてきた……。
「竜人の方は罪滅ぼしのつもりで育ててるのかもしれねえがよ。一歩間違えりゃ、そんなのただの自己満足だろ。都合の悪いことを隠して、自分が憎まれねえように振る舞うなんてのは贖罪でも何でもねえ、ただの保身だ」
「お……おい、あんたいきなり何言い出すんだよ? グニドはそんなつもりでルルを育ててきたわけじゃ――」
「じゃあどういうつもりで育てたんだ? ただの愛玩動物としてか? だとしたら状況はもっと最悪だろ」
「そ、それはそうだけどよ、そもそもルルはまだ理解してねーんだ。人間ってのが本来どういう風に生きる生き物なのかとか、家族っていう概念とか……」
「じゃ、まずそこから教えてやるのが親の務めだろ。すべてを理解した上で、それでもあの竜人と生きていくのかどうか。それを選ぶのは、あの子自身であるべきだ」
ラッティは何も言い返せなかった。
ジャックの言うことは正論だ。確かに正しい、けれども――。
(そんな残酷なことを教えるのが、本当にルルのため?)
お前の本当の親はグニドに殺されたのだと、実はお前もただの食糧に過ぎなかったのだと、あの子にそう教えるのか?
暗い砂漠の地下で育てられ、物心ついた頃からグニドだけがすべてだったあの子に。
(確かにあの子には真実を知る権利がある。だけど――)
世の中には知らない方が幸せなこともある。グニドが親の仇だと知って――自分の人生は彼に踏み躙られたのだと知って、その後ルルは幸せになれるだろうか?
今度こそすべてを失い、グニドが命懸けで与えた第二の人生まで棒に振ってしまうのではないだろうか?
グニドとルルが獣人隊商に加わってから、まだほんの二ヶ月半。
それでもラッティは、あの二人が別れ別れになって暮らすところなど想像もできなかった。グニドとルルは誰がどう見たって〝親子〟で、彼らの間には種族を超えた、血のつながり以上の絆が通っている。
この男はそれを引き裂けと?
たとえ彼らの幸せを壊すことになったとしても、真実を優先すべきだと……?
そんなことはできない、と思ってしまう自分は感傷的すぎるのだろうか。
彼らの関係を美談で終わらせたいと願うのは、間違っているのだろうか――?
「……。ジャックさんのそれは、どういう思惑から出た結論ですか?」
「思惑?」
「あなたは竜人を憎んでる。だから単にグニドに当たりたいだけなのか、それともあなた自身の経験則か」
そのときジャックに尋ねたのは、ラッティの隣、寝台に腰かけたヴォルクだった。刹那ラッティがはっとしたのは、盗み見たヴォルクの横顔にいかなる感情も浮かんでいなかったからだ。
それは感情を押し殺しているのとは違う。彼は至って冷静だ。その証拠に頭の上の真っ黒な耳はピンとしていないし、尻尾も動いていない。
つまりヴォルクは、ジャックの問いに動揺していない――ということは彼も心のどこかでジャックと同じことを考えていたのだろうか?
「……ま、確かにあの竜人が気に食わねえってのも理由の一つではあるがな。どっちかって言えば経験則だ。あの子だって今はまだ子供だからいいにしても、これから歳を取って、人間社会のことをよく知れば自分の出生に疑問を持つだろう。それで本人が真実を知りたがったらどうする? 真実を隠せば隠した分だけ、それを知ったときあの子が受ける傷はデカくなるんじゃねえのか?」
「だけど、ルルはそれでもグニドと一緒にいたいって言う可能性もある」
「そうかな。俺だったら願い下げだ。ガキの頃に教えられてりゃ、また違った感じ方になるかもしれねえが――なんでもっと早くに教えてくれなかったんだって、そう思うだろ、普通は。何もかも手遅れになったあとだとしたら、なおさら」
そう言ったジャックが口元に浮かべたのは、凄惨な自嘲だった。
少なくともラッティにはそう見えた。
もしかすると彼は、過去に似たような経験をしているのだろうか?
だからルルに同情している?
尋ねたところで、素直に答えてくれる相手ではなさそうだけど。
「そう言うお前らは? これまであいつらと一緒に旅してきて、あの子を人間の世に返すべきだと思ったことはねえのか?」
「……俺は、時々考えたよ。このまま俺たちと一緒にいたら、ルルはもう戻れなくなるんじゃないかって」
「ヴォルク」
「ごめん、ラッティ。ラッティやグニドを責めてるわけじゃない。ただたまにふと、本当にこれでいいのかって思うことがあるんだ。今のルルにとっては、グニドと一緒にいることが幸せなんだろうけど――それでもあの子の本当の幸せは、人間の世界にあるんじゃないかって」
だってあの子は人間だろ、とヴォルクは言う。なのにこのまま俺たちと一緒にいたら、きっと人間たちから爪弾きに遭ってしまう、と。
自分たち獣人や半獣人と違って、あの子はその気になれば人間社会で人間として生きていける。誰にも差別されることなく、ごく当たり前に、どこにでもいる普通の少女として。
「俺は、この世界から弾き出されて生きるってことがどれほど大変か、それを知ってるから……だからあの子にはそういう目に遭ってほしくないっていうのが、本音。だけどそれは俺が決めることじゃないし、ルルがそれでもグニドと一緒にいたいって言うなら、守ってあげたいと思うけど」
「……その話、グニドにしたことは?」
「ないよ。だって本気でこの話をしようと思ったら、まずグニドとルルに人間たちのことをもっとよく知ってもらわなきゃならない」
……確かにヴォルクの言うとおりだ。グニドとルルはまだ人間社会の仕組みというものを理解しきれていない。親子とか家族とか、歴史とか法とか差別とか、そういうものを。
だからルルも今の自分の身の上を疑問に思っていないだけで、ジャックの言うとおり、いつか本来の人間の在り方を知ったら妙だと思い始めるかもしれない。どうして自分はあの谷にいて、竜人に育てられたのだろうと。
もしもそう尋ねられたら、グニドはどう答えるつもりでいるのだろうか? いや、あるいは彼も口には出さないだけで、いずれはルルを人間たちのもとへ返さなければならないと思っているとか……?
そういう話をきちんとしてこなかった自分を、ラッティはちょっと恥じた。どういうわけだかあの二人はこれまでもこれからもずっと一緒にいるものだと、信じて疑いもしなかった。
だけどこれは、このままうやむやにしていい問題ではないような気がする。
サン・カリニョへ戻ったら、グニドと一度話をしてみた方がいいだろうか?
あの城になら――何故かは知らないが――竜語を話せるマナがいるし、彼女を介せば多少複雑な話でも通じるはず……。
ラッティは沈黙し、そのまましばし考え込んだ。が、そのときだ。
「――あのぅ……お客様、ごめんください」
俄然部屋の外から声がして、ラッティたちはぎょっとした。聞こえたのはこの宿の従業員のものと思しい、若い女の声だった。
それを聞いたヨヘンが慌てて枕の下に隠れ、ジャックもサッと立ち上がる。彼は足元に立てかけていた剣を取り、素早く腰へ差した。そうしてちらと目配せしてくる。
たぶん〝術をかけろ〟という合図だろう。何せラッティたちはここへ来る際、ディストレーサ栄光騎士団の皮を被ったままだった。
それが部屋に入った途端、まったくの別人に成り代わっていたらまずい。ラッティは頷くと尻尾をピンと立て、即座に意識を集中した――その場に居合わせた全員の姿がたちまち揺らめき、像が混ざり合い、やがてそれぞれ見知らぬ騎士の姿となる。
鏡の前で軽くそれを確認したジャックが、ついに扉を開けた。
その向こうにいたのはやはりエプロンドレスを着た若い娘で、フィデルに化けたジャックを見るなりパッと頬を赤らめている。
「――何か?」
「あっ、あっ、あのっ……お、お休み中のところ申し訳ございません! い、イサーク様の紹介でいらしたアドルフォ様というのは……」
「私のことだが」
と、顔色一つ変えずジャックは答える。アドルフォというのはフィデルの名を隠すために使った偽名だ。偽名の偽名なのでややこしいが、イサークの前で〝この町へ来たことは内密にしたい〟と言った手前、フィデルの名で堂々と宿泊することはできなかった。
「さ、さようでございましたか! あ、あの、実は一階にお客様がお見えでして……こちらでアドルフォ様とお会いする約束になっている、とのことなのですが」
「……私に客? そのような約束は記憶にないが」
「えっ……さ、さようですか? 若い女性のお客様なのですけれど……」
「知らん。名を聞いたか?」
「い、いえ、それが、何度お伺いしてもお名前は教えていただけず……ただ一言、〝三本槍が来た〟と言えば通じるから、と――」
その瞬間、ジャックが目を見張って凍りついたのを、ラッティは見た。
イサークの前でも眉一つ動かさず、涼しい顔でフィデル・ドラードを演じ切ったあのジャックが、だ。
彼はそれからしどろもどろになると、一つ「ゴホン」と咳を払った。そして間を置かず、
「い、いや……そうか、すまない。まさかこんなに早く到着するとは……では、その者にはしばし待つよう伝えてもらえるか。すぐに迎えの者をやる」
「か、畏まりました! ではそのようにお伝えいたしますね」
話が通じてほっとしたのだろう、娘は安堵した様子でそう言うと、ほどなく身を翻して駆け出した。その後ろ姿が廊下の角へ消え、完全に見えなくなったのを確かめてから、ジャックはおもむろにドアを閉める。
ラッティの化かしの術が切れた。すっかり元の姿に戻ったジャックは、ドアノブを握った状態のまま固まっていた。
その横顔が、青い。彼は血の気の引いた顔で、ギ、ギ、ギ、ギ、と壊れかけのからくり人形のようにこちらを向く。
「……おい、お前ら……いつでも逃げられる準備をしとけ……」
「えっ、えっ? 何だよ、誰が来たってんだよ? 〝三本矢〟って……?」
枕の下を這い出してきたヨヘンが、困惑した様子で尋ねた。
するとジャックは口角を引き攣らせ、笑みのようなそうでないような何かを貼りつけながら、言う。
「誰って、そんなの決まってんだろ。――フィデルの妹の、セリシャ・アルジェンが来たってよ」