第四十三話 化かし合い
ディストレーサ栄光騎士団団長のフィデル・ドラードは〝白馬に乗った王子様〟という表現がまさにピッタリの優男だった。
まず目を引くのは、何と言っても珍しいアイスグリーンの髪。彼はまるで絹糸のように艶めくその髪を、腰のあたりまでまっすぐに伸ばしている。
それが風に靡くだけで、ウニコルニオの若い娘たちは大騒ぎ。その上彼の琥珀色の瞳と目が合おうものなら、感激のあまり失神してしまう者までいるという話をどこかで聞いた。さすがにそれはちょっと大袈裟だと思うが、まあそれくらいの美男子だということだ。
すっと通った白い鼻筋はいかにも貴公子のそれで、遠くから一目見ただけで高貴な家の出だと分かるような、そんな空気をまとっている。切れ長の瞳は騎士としての気高さとそこはかとない憂いを帯びており、それがまた女心をそそるのだともっぱらの噂だった。
もちろん体格は騎士らしく筋肉質だが、上背があるせいか全体的にすらりとしていて、武骨な印象は微塵もない。貴族としての洗練された所作と、女形と見紛うような顔立ちのおかげで男臭さが中和されているのだろう。
対するアフェクト侯主イサーク・アバリシアは、見るからに油断ならない目をした男だ。ラッティも伊達に行商人などやっていないから、相手の人となりは人相を見た時点である程度分かる。
イサークは齢四十に届こうかという頃の、精悍な顔立ちの男だった。顎は細いがややエラの張った顔立ちで、譬えるなら綺麗な逆三角形の輪郭をしている。
髪や髭と同じ色をしたダークブラウンの瞳は、一見すると聡明な領主のそれに見えた。
しかし彼が微笑みを浮かべると、途端にその印象が変わる。薄い唇は確かに親しみを込めて弧を描いているのに、こちらを見据える瞳だけは決して笑っていないのだ。
そこはアフェクト侯領の主都ソーロにある侯主の城館。
周囲の建物と同じカボチャ色の煉瓦で築かれたその館の一室で、北のトレランシア侯領からやってきたフィデル一行――もといラッティたち扮するトゥルエノ義勇軍の面々は、侯主イサークと対面していた。
その部屋はいわゆる〝謁見の間〟というやつだろうか、床にはこの地方独特の紋様であるケシェット柄――四角や円で描かれる、蛇が蜷局を巻いたような渦巻き模様――の絨毯が敷かれていて、その先に数段高い上座がある。イサークはそこに設けられた宝座に頬杖をつき、先程から黙ってこちらの話を聞いていた。
彼の左右にはいかにも屈強そうな騎士が二人。更に背後の扉と上座の両脇に設けられた扉、そのそれぞれにも見張りの騎士が二人ずつついている。
つまり現在室内には八人のアフェクト騎士がいるというわけだが、当然ながら扉のすぐ外にも見張りの騎士はいるだろう。
とすれば相手の兵力は二倍と仮定して、十六人。対するこちらは約半分の九人。
内、戦力とならないラッティとヨヘンを除けば実質味方は七人だ。武器は化かしの術で誤魔化し、謁見の前に預けたように見せかけたが、それでもこの戦力差は少々心もとない。万一戦闘になることがあれば、こちらは袋のネズミだろう。
そんな状況下ということもあってか、護衛の義勇兵たちは皆不安げだった。彼らも今はフィデル率いるディストレーサ栄光騎士団の騎士に化けていて、表情もラッティが適当に繕っているが、実際は緊張で汗みずくになっている。もしもフィデルに化けたジャックとイサークの交渉が長引けば、そのうち脱水症状で倒れる者が出るかもしれない。
が、一方のラッティはと言えば、
(へえ、あれが伝説の『七英雄』かぁ)
と、感心しながら天井を眺めていた。
天井を、というか、そこに描かれた壮麗な宗教画を、だ。
この国の騎士がよく身に着けている鎖帷子に、一角獣が描かれた赤のサーコート。顔は十七、八歳くらいの従騎士に化けたラッティの視線の先には、天を舞う虹色の蛇――虹神ケシェットと、そのケシェットに見下される七人の騎士がいた。
それぞれ赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の旗を掲げるその七人は、アルコイリス法王国の崩壊後、この地をシャムシール砂王国の侵攻から守ったと言われる英雄たちだ。
彼らは元々法王の忠実なる家臣だったが、王が崩御すると後継者を巡って争いが起こり、最後は七人で王国を分け合った。それがこのルエダ・デラ・ラソ列侯国の始まりだ。
彼らの頭上を虹の神であり調和の神でもあるケシェットが舞っているのは、かの神がこの国の国神だからだろう。翼の生えた虹色の蛇が身をくねらせ、天使と共に大空を泳いでいる様は何とも美しく壮観だった。
ラッティは一応金神系教会の信徒であって虹神系の教会には立ち入ったことがないから、ケシェットが描かれた宗教画というのは初めて見る。さすがは歴史ある侯主の城館と言うべきか、あれはきっと名だたる画家の作であるに違いない。
(おい、ラッティ。騎士の役ならもうちょっとシャキッとした方がいいんじゃないか?)
と、そのとき腰の物入れからヨヘンの小声がしたが、ラッティは無視した。変に反応したらイサークに怪しまれる可能性があるし、そもそも狐人の化かしの術というのは緊張するとかえってボロが出ることが多い。だからこうしてぼーっと突っ立ってるくらいがちょうどいいのだ。
そんなラッティの傍らには、同じく赤のサーコートに鎖帷子を着た金髪の騎士がいる。いかにも男盛りといった感じのきりりとした眉と鋭い眼光からは想像もつかないだろうが、コレはヴォルクだ。
彼はこの謁見の間に入ってからというもの、瞬きもせずに宝座の上のイサークを見ていた。たぶんあの男が只者でないことはヴォルクも初見で感じ取ったのだろう。
だからいざとなればすぐさまこの場を脱出できるように、イサークの一挙手一投足へ目を配っている。こんな状況でもラッティが落ち着き払っていられるのは、そのヴォルクに全幅の信頼を置いているからでもあった。
「――なるほど。つまり貴君らはエレツエル神領国と同盟し、神子エシュアの後ろ盾を得た。そのエシュアが正義の神子は魔道に堕ちたと言っている。ゆえに大義は侯王軍にあり……と言いたいわけか」
「ええ、そうです。これは今日まで再三申し上げてきたことではありますが、カルロス・トゥルエノは神に選ばれた身でありながら、代々忠誠を奉じてきた主家に剣を向けました。本来であれば侯王陛下と共に内乱を治め、改めて民の理解を得られるよう努力してゆくべきところを、秩序よりも混沌を選び取ったのです。聡明なアバリシア侯ならば、この時点であの者の本質にお気づきでしょう。カルロスは神の力を利用してこの地に統一王国を築き、自らその王になろうとしている。つまりあの男を突き動かしているのは民への誠意や正義ではなく、すべての利権を手中に収めようという卑しい野心に過ぎません」
そんなラッティたちの目の前で滔々と侯王軍の正義を主張するこの男は、言うまでもなくジャックだ。ところがこの男のすごいところは、正体を知るラッティたちにまで「こいつ、本物のフィデル・ドラードなんじゃないか」と思わせてしまうところにある。
ここへ来る前はあんなにぶつくさと文句を垂れていたくせに、いざ主都ソーロへ入るとジャックの態度は豹変した。彼はラッティが被せたフィデル・ドラードの皮をまとうや否や、完全にディストレーサ栄光騎士団の団長になりきり、その目の動き、足運び、ちょっとした仕草や髪を掻き上げる指先まで、すべて完璧に本物を真似ている。特にラッティが舌を巻いたのはハノーク語の発音だ。
現在エマニュエルの共通語となっている現代ハノーク語には、地方によって独特の訛りがある。トラモント人のジャックもその例に漏れず、ソーロに入る前は「r」の発音が巻き舌になる独特のトラモント訛りで喋っていた――はずだった。
それが今やどうだ。彼の話すハノーク語は誰が聞いても生粋のルエダ人のそれだ。ルエダ・デラ・ラソ列侯国で暮らす人間は大抵の場合、「g」や「j」の発音が「h」になる。「正義」なら「フスティス」になるというわけだ。
そういった細かい言葉のクセまで、ジャックは見事なまでに再現していた。たぶん一人でウニコルニオに潜入していたときも、こんな風にルエダ人のフリをして市井に紛れていたのだろう。
ラッティはカルロスの人選に感謝した。おかげでこちらも力を節約できる。と同時にこんな人間を間者として擁しているトラモント黄皇国が恐ろしくもあったが、まあしがない行商人であるラッティには縁のない世界の話だ。カルロスがいずれこの地の王になるとしたら、そのときは大変だろうけど。
「しかしな。元はと言えばあの男にそのような野心を抱かせたのは、ラビア侯の落ち度ではないのか? 例の飢饉に際して侯がもっと慎重な策を取っていれば、そもそも内乱など起こり得なかった。そして内乱さえなければあの男も浅慮な行動は慎んだだろう」
「お言葉はごもっともです。ですが砂虹同盟の締結に関しては、貴公もまた侯主会議の席で賛成に一票を投じられたはず。それを侯王陛下お一人の責任だと言い張るのは、いささか虫が良すぎるのではございませんか?」
「ははは、強気に出たな、ドラード卿。しかし忘れてもらっては困る、私はあの同盟には最後まで反対だったのだ。だが貴君の主が、同盟締結の暁には我がアフェクト侯領に優先して食糧を送るというので渋々了承した。私にも民の生活を守る義務があるのでな」
「だとしても賛成した以上は我々と同罪です。少なくとも民はそのように解釈している。もし本当にあの選択を悔いているのなら、貴公もエンビディア侯やアロガンシア侯のようにカルロスを支持するはずでしょう。それが実際にはグラーサ侯と同じく日和見を決め込んでおられる。それでは民の理解は得難いのではありませんか?」
「民衆というのは往々にしてそういうものだ。彼らの前では目に見えぬ過程や事情など存在しないのと同じこと。為政者ならばそれを責めたところで始まるまい。彼らにとっては結果こそがすべて――だからこそ私はこの戦いに加わることを躊躇しているのだ。ただでさえ飢饉で国が疲弊しているこのときに、糧秣や戦費をどこから徴発しろと? 侯王軍と義勇軍、どちらを支持しようが待っているのは破産のみ。私はそれで民の暮らしが立ち行かなくなることを恐れているだけで、怯懦や保身のために剣を収めているわけではない」
「それは矛盾しておりますな。我々侯王軍には今もシャムシール砂王国の後ろ盾がある。戦力こそまだ届かぬとは言え、戦費に関してはかの国からの潤沢な支援があります。それは貴公とて承知のはず」
「ああ、もちろんだ。だが如何な魔道に堕ちたとは言えカルロスは神の子、そのカルロスに矛を向ければ私は神敵として様々な教会の支援を受けられなくなる。そうなれば内乱が終息しても財政は火の車だ。それともまた砂王国に奴隷を売って金を稼げと?」
「だからこそのエレツエル神領国との同盟でございます。砂虹同盟はこの内乱が治まるまでのつなぎのようなもの。反乱軍さえ打倒してしまえば砂王国などもはや用済み、その後は神領国と誼を通じながらかの国の支援を受ければ良い。当然その見返りとして我らも軍事協力を求められるでしょうが、それもこの国が飢饉の痛手から立ち直るまでのことです」
「ほう、つまり神領国の財力を復興に利用するということか? そして用済みになればかの国との同盟も手切れにすると?」
「それは先方の出方次第、としか今は申せません。世間では神領国の悪評ばかり取り沙汰されておりますが、あるいは対等な同盟国として良好な関係を築けるかもしれない。現に遥か北のランドグリーズ聖王国など、神領国との不可侵条約の締結に成功している国家もあります。決して話の通じない相手ではないということです」
「だがそれは聖王が聖神カドシュと平和の神シャロームに選ばれた神子だからであろう。聖王国が今も戦火を免れているのは、聖主エシュアが同じ神子と争うことを嫌ったからであって、同じ理屈が我が国にも通用するとは思えん」
「では、神に選ばれた者が侯王となればいかが?」
「何?」
「我が国にはカルロスの刻む《義神刻》があります。あの大神刻は元々、エスペロ湖の中心に浮かぶアルコイリス遺跡に眠っていたもの。ならばカルロスが死せば《義神刻》は再びアルコイリス遺跡へ還る可能性が高い。現にこれまでも各地で似たような事例が確認されています。トラモント黄皇国の《金神刻》然り、アマゾーヌ女帝国の《美神刻》然り……」
「つまり貴君はカルロスの死後、七侯の中から新たな神子を出せば良いと言っているのか?」
「アバリシア侯、どうか誤解なきよう。これはこのフィデル・ドラードではなく我が聡明なる主、カルヴァン・ラビア陛下のご高慮です」
ラッティたちはぎょっとした。この男は言外に、カルロスを殺して《義神刻》を奪えば良い、と目の前の侯主を唆しているのだ。
これがジャックの化けた偽者だと分かっていても、その言い条にはぞっとした。まるで人間の業の深さをまざまざと見せつけられたような気分だ。
何しろ神子というものは、望んでなれるものではない。ごく普通の神刻と違って、神の魂そのものである大神刻は自ら依り代を選ぶのだ。
それをあたかも人が神を選ぶかのようにジャックは言う。もちろんイサーク・アバリシアをその気にさせるための狂言だと分かってはいるが、それでもラッティはあまりいい気がしなかった。
――人間というのは、どこまでも欲深で傲慢な生き物……。
彼らはかつて人類と神々が共に在った頃のことなど忘れてしまっている。
その証拠に、ジャックの提案を聞いたイサークは口元に笑みを刻んだ。
もはや己の中で燃える黒き野望を隠そうともしない、獰猛な笑みだ。
「なるほど。ラビア侯もずいぶんと面白いことを考える。だが七侯の中から次の神子が出る保証は? 神に選ばれる者がなければ、その策は成就すまい?」
「これは謙虚なおっしゃりよう。あのカルロスでさえ選ばれたというのに、並み居る貴族たちの中からぜひとも侯主にと推されたお歴々が神に唾棄されるとでも? そもそもカルロスが《義神刻》のもとへ辿り着けたのは、あの遺跡の守り人であるアルコイリス虹爵夫人を唆したからだともっぱらの噂です。むしろツェデクは何故そのような男を神子として選ばれたのかと、噂を知る者なら誰もが疑問に思っていることでしょう」
「その噂の信憑性は?」
「高いと思われます。何せトゥルエノ騎士団の副団長であったヒーゼルがそのように申しておりましたので」
「何?」
「ウニコルニオ事変の直後に開催された侯主会議の際、我がディストレーサ栄光騎士団に代わってトゥルエノ騎士団が陛下の護衛を務めていたことは?」
「覚えている」
「カルロスはその会議のさなか、アルコイリス虹爵夫人のもとを訪い、数人の護衛と共に真夜中の遺跡へ潜入したそうです。しかし夫人もカルロスを本心では信用されていなかったのか、そのとき護衛として伴われたのはアルコイリス家直属のフィエルダー近衛騎士団のみ。ヒーゼルは翌朝になってその事実を知り、自分には何の報せもなかったことを憤っておりました。まあ、それでもカルロスを信じてついていくあたりがいかにも短慮なあの男らしいですが」
「その話、信じても良いのだな、フィデルよ」
「もちろんです、義父上。我が騎士団の名に懸けて、嘘偽りはございません」
(うわぁ)
と、そのときフィデル――もといジャック――が不敵な笑みを浮かべながら応じたのを聞いて、さすがのラッティも笑みが乾いた。この男はよくもまあぬけぬけとこんな嘘がつけるものだ。それについてはラッティも似たようなことを何度もしているので、人のことは言えないのだけれど。
だが交渉はそれで決まった。イサークはついに体を起こすと、杏色の天鵞絨で覆われた椅子に深く腰掛け、 ぎらぎらした目で笑ってみせる。
「分かった。そういうことならば我々も今一度検討しよう。寡聞にして虹爵夫人とカルロスの噂については知らなんだ。だがそれが事実だとすれば、あの男のしたことは捨て置けん」
「有り難き幸せ。侯ならばきっとそのように仰せ下さると信じておりました」
「七英雄が没した今も、かの騎士たちが旧主に奉じた忠誠は我らの中で生きている。その旧主家を軽んじ利用するような振る舞いを見過ごすわけにはゆかぬ。だがいよいよ我が領も内乱に参戦するとなれば、これは私の一存だけでは決められぬ。ついては領内の貴族たちを集め、評議会を開かなくては」
「えっ」
刹那、腰のあたりでそう声を上げたヨヘンを、ラッティは素早く押さえつけた。が、とっさのことだったので力の加減をし損ねたのだろう、物入れからは更に「グエッ」と蛙人が潰れたような声が上がり、一同の間に緊張が走る。
案の定ヨヘンの声が聞こえたのか、イサークの両脇に控える騎士たちが怪訝そうにこちらを見た。それを察したジャックがすかさず咳を払い、無理矢理話を続行する。
「それなのですが、侯。実は我々がこの度、人目を忍んで御前を汚しに参ったのには理由がございます」
「その理由とは?」
「先程お話させていただきましたとおり、反乱軍の拠るサン・カリニョが数日前、不運にも魔物の大群に襲われ大変な痛手を被りました。間者からの報告によればその際に兵糧倉のほとんどが焼け、現在反乱軍は貧窮しているとのことです。そこでぜひとも侯の〝御旗〟をお借りしたい」
「というと?」
「侯もご存知のとおり、ここより西のテンプランサ侯領もまた、グラーサ侯の意向により此度の内乱には参加しておりません。しかしそれゆえ陛下のご勘気を被り、飢饉に対する支援を断たれていることは周知の事実。このためテンプランサ侯領の民は飢え、路頭に迷っていると聞きます。そこへ侯から支援物資が送られる、という噂を流したいのです」
金の縁取りがされた背凭れに身を預け、イサークが目を細めた。どうやらこの話にも興味を持ったようで、続きを話せ、という意味らしい。
「侯から出していただくものは、アフェクト侯領の旗といくばくかの糧秣だけで結構。それを我らディストレーサ栄光騎士団が護送します。もちろん、侯直属の騎士団に扮して、ということになりますが」
「その餌で義勇軍を釣るつもりか?」
「ご明察のとおりです。我ら侯王軍がパシエンシア侯領を通過して物資を輸送したのではすぐに罠と見抜かれますが、これが中立国であるアフェクト侯領の旗を掲げた輸送隊ならば反乱軍も怪しみますまい。我々侯王軍はエレツエル神領国との同盟こそ結びましたが、神領国軍が当地へ至るにはまだ時間がかかります。その間に可能な限り反乱軍を叩いておけば、神領国軍に借りを作りすぎずに済む」
「なるほど。だがもし我が領の評議会で侯王軍への参加が否決された場合、貴君らにアフェクトの旗を貸したことが露見すれば私の立場が危うくなるが?」
「その際にはどうぞ気兼ねなく、我らディストレーサ栄光騎士団が勝手に御旗をお借りしたものとお伝え下さい。私も元よりそのつもりで参りました」
――ちゃっかりしてるな、とラッティは思った。
誰がって、ジャックではなくイサークがだ。
あの男はたった今遠回しに、自分の不利益になるようなことには手を貸さない、と宣言した。つまり何か起こる前に、皆が聞いている前で責任の所在を明らかにしたということだ。
仮にこれが本物のディストレーサ栄光騎士団とのやりとりだったなら、イサークはそれを言質に、いざとなればフィデルを強請るくらいのことはやってのけただろう。あるいはそちらの方がこの男の真の狙いかもしれない。
まあ、しかし悲しいかな、たった今彼が話しているのはフィデルではなくトゥルエノ義勇軍の面々だ。ここでラッティたちが交わした口約束はまったく何の拘束力もない。後々本物のフィデルとイサークが揉める火種くらいにはなるかもしれないが。
「分かった。そこまで言うのなら協力しよう。物資の準備だけで良いのなら、そう時間はかかるまい。一晩猶予をもらえるか?」
「感謝致します。侯のご芳志は決して無駄には致しません」
「何、貴君の妹は今や立派な当家の娘だ。ならばその実兄である貴君は私の息子も同然。このくらいの助力は惜しまんよ」
「お言葉、痛み入ります」
「今夜はぜひこの館に泊まっていけ。すぐに部屋を用意させる。せっかくだ、セリシャも呼んで夕餐を共にしないか? ラビア侯や義勇軍の近況も詳しく聞きたい」
そのとき、イサークが笑みと共に零した一言がラッティたちを硬直させた。何となくそんな流れになる覚悟はしていたが、実際に妹の名前を出されると緊張で尻尾の毛がピリピリする。
――いやダメだダメだ、ここで尻尾に意識が行くとそのイメージが反映されて、騎士に尻尾が生えてしまう。ラッティはイサークに気取られぬよう深呼吸してから、ちらりとジャックに目配せした。
大丈夫だ。万が一こういう事態になったときの対策は練ってある。
ジャックもそんなラッティの視線を感じたのだろう、すぐに顔を伏せると、いかにも申し訳なさそうな口振りで言う。
「お言葉ですが、侯。お心遣いには衷心より感謝申し上げます。叶うことなら、私もぜひ妹の顔を見ていきたい……ですが此度の一件は、あくまで内密に事を進めよとの主命です。私が侯を訪ねたことは、何人にも覚られてはならぬと厳命されて参りました。よって私が今日ここに現れたことは、侯とその側近の皆様だけが知る秘密としていただきたい」
「ほう。しかし、それでは宿はどうする?」
「今宵は城下の宿に一泊致します。何分この人相ゆえ、貴邸でご厄介になったのではすぐに噂が広まりましょう」
「そうか、それは残念だ。だがラビア侯の厳命とあれば仕方あるまい。ならばせめて宿はこちらで用意させていただこう。それくらいの好意は受け取ってもらえるな、フィデル?」
「ありがとうございます。ではそれについては、義父上のお言葉に甘えさせていただきます」
ジャックが流暢なルエダ訛りでそう答えれば、イサークは目尻の皺を綻ばせて破顔した。端から見ればそれは義息を労る父親の顔に見えなくもない。
しかしやはりその目だけが炯々と笑っていないのを見て取って、ラッティは嫌な予感がした。一応交渉は成立したが、これはこの都を出るまでとてもじゃないが安心できない。
そしてその予感は、ラッティも予想だにしていなかった形で的中することになった。
このときイサーク・アバリシアの背後では、思いもよらぬ陰謀が蠢動していたのである。