第四十二話 伸るか反るか
ここで一度、列侯国の状況をおさらいしてみよう。
北西大陸南西部、ルエダ・デラ・ラソ列侯国は七つの侯領からなる連合国家である。七つの侯領はそれぞれ『侯主』と呼ばれる貴族の代表が治めており、更にこの七人の侯主たちをまとめるのが『侯王』だ。
侯王は十年に一度、モネダ・デ・オロと呼ばれる侯主たちの投票によって決められる。もちろん任期を満了する前に侯王が斃れたり、民衆の不支持などによって新たな王を決める必要が生じた場合はこの限りではない。
現在の侯王はトレランシア侯領の侯主カルヴァン・ラビア。
彼はここ数年の深刻な飢饉に際して、食糧を買い求めるための金を宿敵シャムシール砂王国から受け取っていた悪辣な王だ。
いや、ただ砂王国に媚び諂い、金を恵んでもらっていただけならいい。
だが実態はそうではなかった。侯王カルヴァンは国の労役に従事した者には銀貨百枚を与えるという破格のお触れを出し、そのために集まった民衆を事故に見せかけて砂王国へと送っていた。
何故なら砂王国は今なお奴隷制が健在で、なおかつ竜人を手懐けるための餌を必要としていたからだ。
よって砂王国へ送られた人々は過酷な労働を強いられる奴隷になるか、もしくは竜人の食糧とされた。カルヴァンが砂王国から得ていた金は、そうした人身売買の対価だった。
この事実が露見したのが昨年の秋。何でもサン・カリニョで聞き回ったところによると、現在トゥルエノ義勇軍に参加している光の神子ロクサーナが紆余曲折あって侯王の所業を暴き、世間に触れ回ったらしい。
これにより列侯国各地で民衆が蜂起した。民を騙し、その命を刈り取っていた侯王カルヴァンとそれを支持した六人の侯主に対して、彼らは宣戦布告した。かくなる上は冷酷非道な侯王を廃し、新たな王を立て、この地に統一国家を築こうと。
散発的だった蜂起にそのような形と力を与えたのが、カルロス率いるトゥルエノ騎士団だ。彼らは元々トレランシア侯領に領地を持つ騎士団だったが、カルロスが《義神刻》に選ばれたことをきっかけに侯王への忠誠を蹴り、かの王に弓引く民衆に味方した。
それがいつしか『トゥルエノ義勇軍』と呼ばれるようになり、現在に至るというわけだ。だが列侯国にはそれ以外にも複雑な事情がある。
というのはこういう事態になる前から、七つの侯主の足並みが揃っていなかったという点だ。
ルエダ・デラ・ラソ列侯国は元々アルコイリス法王国と呼ばれる一つの王国だったが、それがいつしか分裂し、今の形に落ち着いた。ところが彼らは分裂してから気がついた。この国は土地によって貧富の差に開きがあると。
海上貿易で潤い、気候も温暖な南部の侯領と、頻繁に外敵の侵攻を受ける東や北の侯領ではまるで民の暮らしが違う。だから七人の侯主たちは常に互いを妬んだり騙したり、裏切ったり争ったりしてきた。
つまり〝連合国家〟とは言うものの、この国に暮らす人々の間には他領に対する妬みや不信が根深く残り、とても一枚岩とは言えない状態なのだ。
「――で、その中でも俺が一番腹黒いと踏んでるのが、これから向かうアフェクト侯領のアバリシア侯だ。やつは表向きには善良な貴族の長を演じてるが、裏では自分の利権獲得のためにあれこれ工作してる気配がある。今回あの男が内乱に対して中立の立場を維持してるのも、神子であるカルロス殿に楯突けば世間の顰蹙を買うからだ。同時にこの件で現王が失脚するのを望んでるのかもしれないな」
と、ラッティの認識に新たな補足を付け加えてくれたのは、隣で馬に揺られる顎髭の男だった。
男の名はジャックという。髭と同じ赤銅色の髪を長く伸ばし、うなじのあたりで結んだ若い男である。
歳はたぶん、ヒーゼルと同じくらい――二十代半ばといったところだろうか。そう言えばこの男はルエダ人ではなくトラモント人だというし、同じ黄皇国出身のヒーゼルとは髪型もちょっと似ている。
ひょっとすると今のトラモント黄皇国では、男も髪を伸ばすのが流行っているのだろうか? だとしたら髪紐や整髪油が売れる。特にトラモント人は裕福で、オシャレ好きでも有名だから。
「ってことはよ、そのイサーク・アバリシアって男は次期侯王の座を狙ってるってことかよ? それじゃそんなヤツに〝侯王軍を支援しろ〟なんて言いに行ったって、返事を濁されるんじゃないのか?」
「だから俺は行くならテンプランサ侯領の方がいいって言ったんだ。同じ中立勢力でも、あそこのグラーサ侯はアバリシア侯ほどクセのある人物じゃない。単に厄介事を避けてるだけの腰抜けだ。あの男ならまだ脅しようがあった」
「だけどサン・カリニョからテンプランサ侯領の主都セルドを目指そうと思ったら、往復で二ヶ月はかかる……。その点、アバリシア侯のいるソーロならかかる日数は半分以下だ。成果を急ぐなら、ソーロを目指した方がいい」
「お前らは護衛としてくっついてくるだけだから気が楽だろうけどな。直接アバリシア侯と交渉すんのはこの俺だぞ。しかもあのイケ好かねえフィデル・ドラードに成り済まして、だ。くそ、俺はこんなことをするために列侯国へ来たわけじゃねえのに……」
ヨヘンやヴォルクと会話しながら、ジャックはげっそりした顔で腹のあたりを摩った。彼は現在、品の良い革のベストに襟つきシャツという商人みたいな服装でいるが、これがソーロへ入ると同時に侯王の腹心フィデル・ドラードのそれへと代わる。
そう、今回ラッティの術を被ってアバリシア侯と交渉するのは他ならぬ彼だ。ジャックは最近列侯国入りしたラッティたちよりも遥かに――大袈裟に言うと、生粋のルエダ人であるカルロスより列侯国の内情に詳しい。だからフィデル役はこの男に任せろと、カルロスが作戦の供につけてくれたのだ。
「――ここだけの話なのだが」
と、カルロスが明かしてくれたのは出発前夜だった。
曰く、このジャックという男はいわゆる〝間者〟で、トラモント黄皇国の皇子オルランドの命を受け、以前から列侯国の内情をひそかに探っていたのだとか。
それがトゥルエノ義勇軍とトラモント黄皇国の密約によって、カルロスたちの手助けをすることになった。ラッティたちがサン・カリニョへ入ったときには不在だったのも、単身カルヴァンのいる主都ウニコルニオに潜入していたからで、侯王軍とエレツエル神領国の同盟を真っ先に探り当てたのも彼だ。
その彼ならばきっとラッティたちの力になってくれるだろうと言って、カルロスは渋るジャックを説得してくれた。
さすがのジャックも神子の言うことには逆らえなかったようで、不承不承という顔をしながらも現在こうしてここにいる。
そこはサン・カリニョとアフェクト侯領の主都ソーロをつなぐ山間の道。ラッティたちはその薄暗い森の中を、数人の義勇兵と共に東へ進んでいた。
一応誰かに見咎められれば行商の一行を装うことにしているが、今回は馬車はない。少しでも行程を早めるために、それぞれ馬の尻に必要最低限の荷を括りつけているだけだ。
それでもいざとなればラッティの化かしの術で、その荷を大量の商品に見せることができる。警戒すべきはサン・カリニョへの物流を妨げているという賊徒の存在だが、このあたりの敵は先日ヒーゼルたちが一掃したというので、その言を信じるならばあとは周辺を治める騎士団にさえ気をつけていれば大丈夫だろう。
「けどサ、アタシの術もアンタの演技も完璧だって、カルロスさんたちからもお墨付きをもらってきたろ? だったらそんなに心配することないって。こう見えてアタシ、悪運だけは強いんだ。だから今回もきっと何とかなるよ」
「そんな根拠のない気休めを言われてもな……言っとくがこの内乱の帰趨には、俺の隠居生活が懸かってんだ。義勇軍を上手いこと勝たせなきゃ、俺はまた向こう十年皇子に扱き使われることになる。そんなのはまっぴらごめんだぜ」
――その歳で隠居志望とは贅沢な。
ラッティは片眉を上げてそう言ってやろうかとも思ったが、ジャックがちょっと冗談じゃない様子で「胃が痛い……」と弱音を吐いているので、もしかしたら黄皇国の皇子はよほど人使いが荒いのかもしれないな、と思い直した。
でもラッティは、この作戦はきっと上手くいくと信じている。ジャックの言うとおり根拠はないが、自分は今日までそう思うことで幾度もの修羅場を潜り抜けてきた。それにフィデル・ドラードの皮について、彼をよく知るカルロスたちからお墨付きをもらったというのも本当だ。
特にヒーゼルなどは、最初何も知らせずにフィデルの姿をしたジャックを連れて行くと腰を抜かしかけた。
何でもヒーゼルとフィデルは騎士団時代からの因縁の仲だそうで、彼の妻であるマルティナも元はフィデルの婚約者だったとか。それをヒーゼルが惚れ込んでフィデルから奪い取ったのだ。彼女を懸けた決闘を挑み、完膚なきまでに叩きのめすという騎士にとって最も屈辱的な方法で。
「だからこのことがフィデルにバレるとすごくめんどくさい。というわけで俺のためにも頑張ってくれよ、ジャック」
と、ジャックは出掛けに満面の笑みを浮かべたヒーゼルから肩を叩かれていたが、それが胃痛のもう一つの原因か。思えばルエダ人ですらないジャックが二人の並々ならぬ因縁を一身に背負わなければいけないというのはちょっと気の毒かもしれない。と言っても今更後戻りはできないのだけれど。
「……問題があるとすれば、アバリシア侯の次男のところにフィデル・ドラードの妹が輿入れしてるってことかな。事前の報せなくお忍びで行くって筋書きだから、素早く交渉してソーロを出れば会わずに済むかもしれないけど……」
「確かに、アバリシア侯は騙せても身内まで騙すのは難しいかもなぁ。ジャックさん、ドラード兄妹ってのは仲睦まじいのかい?」
「睦まじいかどうかは知らないが、フィデルの妹セリシャは言わば、アバリシア侯がいざってときのためにもぎ取った人質だからな。一応兄のフィデルもそれを分かってて、妹を気にかけてはいるらしい」
「ってことは、鉢合わせたら厄介かもね……」
「厄介なんてもんか。そんときゃお前らも道連れだぞ」
せいぜい覚悟しておけ、とでも言いたげに、ジャックが馬上で口の端を持ち上げた。しかし目が笑っていないところを見ると、今回の件を相当根に持たれているらしい。
けれど残念ながら、ラッティはそんなもの痛くも痒くもなかった。長年の経験で、人間様の戯言は右から左へ聞き流すのが習慣になっているから。
そんなわけで一行は領境を越え、山を越え、まっすぐにソーロを目指した。長らく黄皇国の間者として列侯国内のことを調べ上げていたジャックや、元々アフェクト侯領の出身だという義勇兵がいたおかげで、行程は思いのほかスムーズに進む。
やがてラッティたちの行く手にそそり立つ城壁が見えたのは、サン・カリニョを発ってから七日後のことだった。
「あれがアフェクト侯領の主都ソーロだ」
草木生い茂る山の峠。そこから裾野を見下ろして、馬を止めたジャックが言った。
遠く、山々に囲まれた農園の真ん中に、天を貫く尖塔が見える。更にその周辺には美しく円を描くカボチャ色の家々。
その街並みを見下ろす目を細め、ラッティは不敵に笑った。
都を囲む城壁の上。
そこで跳び上がる狐を描いた、アフェクト侯領の旗が揺れている。