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第三話 世話係任命

 ちうちう、と音を立てて布を吸う仔人を、グニドら三人はぽかんと口を開けたまま眺めていた。

 仔人に布を吸わせているのは、いつも長老レドルの身の回りの世話をしている老いたメスだ。

 彼女が吸わせているのはもちろんただの布ではない。

 このネダから更に南へ行った先にある、大河シャールーズの畔。

 そこには白くて甘い樹液が取れる、クリムの木という高木がある。


 老いたメスが仔人に吸わせているのは、その白い樹液を浸した布だった。

 ただしクリムの木の樹液は死ぬほど甘いので、いくらか水で薄めたようだ。

 グニドはてっきり、クリムの木の樹液など白竜酒を作る原料にしかならないと思っていたから、こんな意外な使い方もあったのかと驚いた。

 仔人もその味が気に入ったようで、布が口元から離されるとねだるような声を上げる。


『まったくあんたたちときたら、人間ナムのことをちっとも分かっていないんだから。人間はアタシら竜人ドラゴニアンと違って暑さに弱い生き物なんだよ。何しろこいつらは腹の中に水を溜めておくことができないから、砂漠みたいな暑いところにいるとすぐに干上がっちまうのさ。で、最悪そのまま死に至る』

『し、知らなかった……。おれたちはてっきり、気持ちよく眠っているものだと……』

『ああ、あと少しここへ来るのが遅かったら、あのまま気持ちよく永遠の眠りに就いてただろうね。人間の赤子なんてエスロフよりも貴重だってのに、危うく死なせちまうところだった』


 呆れたような、叱るような口調で言われ、グニドたちは三人仲良くうなだれた。

 そんなグニドたちを余所に、仔人はなおもちうちうと樹液を吸っている。その仔人が未だ箱の中にいるのは、鋭い爪の生えた竜人の手で抱き上げると、それだけで怪我をしてしまいそうだからだ。


『しかしまあ、よくぞ人間の子なぞ拾うてきたものじゃの。このとおり、人間の赤子というものは大人の人間の何倍も弱い。それが生きて砂漠の真ん中におったというだけでも奇跡じゃ。でかしたぞ、グニドナトス』


 と、ときに奥から現れた一頭の竜人に名を呼ばれ、グニドはさっと頭を下げた。

 こぶのついた木の枝を杖代わりに、ゆったりとした足取りでやってきたその竜人こそ、グニドらドラウグ族の長たる長老だ。

 長老は褪せた樺茶色の鱗に、艶を失ったたてがみと下顎から伸びる長いひげを持った老齢の竜人だった。

 昔は死の谷モソブ・クコルでも一、二を争うほどの優れた戦士だったというが、年老いた今となっては当時の面影などどこにもない。

 ただ、かつて牛人タウロス族との死闘の末に負ったという左目の古傷が、彼の壮絶な戦士時代を物語っているだけだ。


『あのう、長老様? 一応そのチビを拾った現場にはオレもいたんですが――あだっ!』

『しみったれたこと言ってんじゃないわよ、スエン。どうせあんたのことだもの、グニドが一緒じゃなかったら、その赤ん坊も一人でこっそり食べるつもりだったんじゃないの?』

『げっ……な、何でバレてるんだよ……』

『へえ? ってことは、やっぱりそのつもりだったんだ? 巣でお腹を空かせてる子供たちを差し置いて、ねえ?』

『い、いや、待てよエヴィ落ち着け! そりゃ確かに最初はそのチビも喰っちまおうかと思ったけどよ、結局喰わなかったんだから今回は未遂ってことでギャアアアアアア!』


 ――〝竜祖の祠〟。

 遥か昔からそう呼ばれる厳粛な空間に、スエンの断末魔が轟いた。

 グニドはそんなスエンの悲鳴を、呆れたまま背中で聞いている。

 この場所でこんな大騒ぎができるのは、若い竜人の中でもスエンとエヴィくらいのものだ。


 そこはグニドらドラウグ族が暮らす岩窟の奥。

 その終着点に聳え立つ、巨大な灰色の祠だった。

 赤褐色の岩しか存在しないはずの死の谷で、太古の竜人たちがどうやってこんな祠を築いたのかは分からない。

 壁も柱も天井も、すべてが灰色の岩石によって造られている。それが〝竜祖の祠〟だ。


 伝説によればここは最初の竜人が生まれたという神聖な土地。

 それを代々守ってきたのがドラウグ族の長老であり、グニドら戦士たちだった。

 だがグニドは時々思う。

 この死の谷でこんな立派な建造物があるのはここだけだ。

 今となっては岩を切り出し積み上げるための方法など失われていて、だからグニドたちはこうして天然の洞窟を棲み処としている。

 その技術は一体いつ、どこで失われてしまったのだろう。

 グニドはかつて長老にそう尋ねたことがあるが、それは誰にも分からないと長老は言った。


 人間の中にはこうした太古の遺物について詳しい者がいると聞く。

 しかし竜人にはあまりそういう者がいない。

 たぶん、三十余年という竜人の寿命は、何かを語り継いでいくには短すぎるのだ。

 口伝は死の谷にそびえる岩石の山と同じように、早すぎる代替わりの間で風化していく。


『ですが長老様。その様子だと、この間の長老たちの寄り合いで、うちの一族が人間を飼うことに決まったというのは本当なんですね?』

『ああ、いかにも。そのためにはまず人間の棲み処を襲って子を攫ってくるしかあるまいと思っていたが、これでひとまず手間が省けた。しばらくはこの赤子を使い、人間の飼育が本当に可能なのかどうか試してみようと思う』

『でも、どうしてそんな役をうちの一族が? どうせなら人間の棲み処に一番近いレドロヴ族にでも任せれば……』

『それはほれ、これがあるからじゃよ』


 言って、長老はかつんと杖の先を鳴らした。

 一拍遅れて、グニドはそれが足元の床を――ひいてはこの祠全体を示しているのだと理解する。

 しかしこの祠が何だと言うのか。疑問に思うと同時に、グニドは自分の身長の三倍はあると思しい天井を見上げた。

 するとそんなグニドを見た長老が、小さく笑いながら言う。


『どうも我らが暮らす巣穴というのは、人間が暮らすには向かんようでの。しかしこの石の祠の中ならば、幾分かは過ごしやすかろう。何しろ谷の風はここまでは届かんし、奥へ行けば水場もある。加えて地下には人間を飼育できそうな檻もあるでの』

『なるほど……。しかしさっきエヴィから、人間を育てるには大変な時間がかかると聞きました。だとすれば、その赤子が繁殖可能になるのは何年後の話です?』

『そうさのう。わしが聞いた話では、人間が子を生むのは十五を過ぎた頃という。つまり、少なくとも十五年は様子を見る必要があるということかの』

『十五年!?』


 とっさに聞き返したグニド、スエン、エヴィの声が、その場で綺麗に重なった。

 しかし十五年と言えば、竜人の寿命のほぼ半分ではないか。

 竜人は脱皮が終わる六、七歳頃には既に成熟し、十分に繁殖が可能になるというのに、人間がそこへ至るには倍の年数がかかるという。


 そういうことを考えただけで、グニドは気が遠くなった。

 元々途方もない話だとは思っていたが、その途方のなさはグニドの想像を遥かに超えている。

 先程までエヴィによってギタギタにされていたスエンも、これには開いた口が塞がらないと言った様子で見事なアホ面を晒していた。

 が、その中で唯一エヴィだけが冷静さを失わず、長い尾をゆらゆらと揺らしている。

 尻尾をゆっくり左右に振るのは、竜人が考え事をするときの癖のようなものだ。


『だけど、長老様。それってその子供がオスかメスかにもよるんじゃないですか? あたしたち竜人だって、オスは六歳にもなれば交尾を始めるけど、メスが卵を産めるのは八歳か九歳になってからだし……』

『ふむ。確かにそれも一理あるの』

『けどよ、それじゃあもしこいつがメスだったら、繁殖できるようになるまで二十年とか三十年とかかかるかもしれないってことかよ? そんなの待ってらんないぜ。だいたいこいつがオスかメスかなんて、どうやって見分けろってんだ?』

『うーん、確かに……人間の成体はメスの方が鬣が長かったり、胸が膨らんでたりするから見分けられるが、こいつはまだ赤ん坊だし……』

『あら、そんなの簡単よ。要は〝ついてる〟か〝ついてないか〟でしょ?』


 言うが早いか、ときにエヴィが箱に入ったままの仔人へぬっと手を伸ばした。

 そうして彼女は躊躇なく、仔人をくるんでいた布を足の方から捲り上げる。

 気づけばグニドはスエンと共に、その布の下を覗き込んでいた。

 結果、


『……ついてないわね』

『ああ、ついてない』

『ついてないな』

『ってことはこいつメスじゃねーか! どーすんだよ、二十年なんてとてもじゃないが面倒見切れねーぞ!』

『いや。かえって好都合じゃ』

『え?』


 と、そこで長老が長い髭をしごきながら言ったのを聞いて、グニドたちは一斉に顔を上げた。

 この状況の一体何がどう好都合なのか。三人が一様にいぶかしげな視線を向けると、長老は低く笑って言う。


『人間のメスがいつ頃繁殖可能になるのかは、後日改めて調べよう。しかしその子供がメスならば、繁殖は思ったより容易になりそうじゃ。何しろ掛け合わせる相手をわざわざ攫ってくる必要がない』

『どういうことです?』

『人間のオスならば、既に繁殖可能な者が砂王国にいくらでもいるではないか。そこから若く健康なオスを見繕って、そのメスと交配すれば良い。砂王国の者ならば、砂金さえ渡せば快く引き受けてくれるじゃろうしの』

『ああ、なるほど。それは確かに』


 治安も衛生も最悪と言われているシャムシール砂王国に、自ら望んで居座っている傭兵たち。

 彼らが何故砂王国に留まっているのかと言えば、答えは単純明解だった。

 傭兵たちの目的は、〝カネ〟。それ以上でもそれ以下でもない。


 この死の谷の北にあるラムルバハル砂漠では、時折『ドログ・トノフ』と呼ばれる現象に出会すことがあった。

 〝ドログ〟とは竜人の話す言葉で〝きん〟を、〝トノフ〟とは〝泉〟を指す。

 つまり〝金の泉〟。

 ドログ・トノフとはその名のとおり、砂の中からひとりでに砂金が噴き出してくるという現象だ。


 グニドら竜人は砂漠で金泉ドログ・トノフと出会すと、できる限り砂金を集めて巣へ持ち帰るようにしていた。

 砂金は集めて固めても、それほど強い金属にはならない。だからほとんど使い道などないのだが、人間は何故かこの金を異様に欲しがるのだ。

 ゆえに砂王国の人間と何か交渉事ができたとき、砂金はかなり役に立つ。グニドたちはそれを知っているから、集めた砂金はすべて巣の奥深くに蓄えていた。

 おかげで砂金庫の中は今や、ちょっとした金の砂漠のようになっている。

 あれだけの砂金があれば、確かに繁殖相手の獲得には困らなさそうだ。


『それじゃあ本当に、これからこの人間を育てていくんですね……』

『うむ。だがそれには一つだけ問題がある』

『問題とは?』

『種族こそ違うとは言え、この人間はまだ赤子。ならばこの赤子の世話は、子育ての経験豊富なメスに任せるのが一番じゃろう。しかしそのメスたちは今、生まれたばかりの一族の子らを世話するので手一杯じゃ。ここにはイダルがおるが、イダル一人では手が回らぬことも多かろう』


 長老がそう言って目をくれれば、仔人を抱えたままのメスがわずかに頭を垂れた。

 イダルというのはそのメスの名だ。彼女には長老の身の回りの世話をするという役目があるので、子育てには加わっていない。

 が、その本分が長老に仕えることにあると考えれば、確かに彼女一人に仔人の世話を託すのは少々荷が重そうだ。


『そこでじゃ、グニドナトス』

『はい』

『今日を以てお前を、この赤子の世話係として任命する。お前が狩りに出ている間のことはイダルに任せるが、それ以外のときはお前がこの赤子の世話をせよ。何、分からぬことはイダルに訊けばまず間違いない。早速明日から毎日この祠へ通って来るように』


 グニドは、開いた口が塞がらなかった。

 もはや先程のスエンの反応を〝アホ面〟とは笑えない状況だ。

 今のは何かの間違いではないか。そう思いたかったが、驚きのあまり首を傾げることもできなかった。

 グニドは数瞬石のように固まったあと、ついにぶるぶると頭を振り、ようやく正気に返って言う。


『長老様。念のために言っておきますが、おれはオスです』

『無論、それは分かっておる』

『だったら、どうしておれが世話係なんですか。おれには狩りはできても子育てなんかできません。ましてや人間の赤ん坊だなんて』

『グニドナトス。わしとて無理難題を押しつけておるのは百も承知じゃ。しかしこれは誰かが為さねばならぬ役目。一族のメスたちが子らから手を離せぬと言うのなら、オスがその役を引き受けるしかあるまい。そしてそれには、その赤子を拾うてきたお前が適任じゃろう。そうは思わんか、スエンルフ』

『えっ? あ、えーと、はい。とりあえず、オレはオレが面倒事に巻き込まれなければそれでいいです』

『スエン!』


 ガチン、と牙を鳴らして噛みつくようにグニドが怒れば、スエンは『おわっ!』と身を引いて卑怯にもエヴィの後ろに隠れた。

 が、やがてそこから顔を出し、こちらを窺ったスエンはニヤニヤと笑っている。

 要するにこの状況を楽しんでいるのだ。

 それを知ったグニドは怒りのあまり腰の大竜刀へ手をやりかけたが、ときに長老がそんなグニドを諭すように言う。


『グニドナトスよ。お前はまだ若く、知恵も武勇もある。わしはお前ならばこの役目もしっかりこなしてくれるものと信じておるのじゃ。ここはわしの顔を立て、一つ引き受けてはくれんかのう』


 刀の柄を掴みかけたグニドの手は、そのまま虚しく空を掻いた。

 まったくこの老戦士は卑怯だ。

 長老にそんなことを言われたら、グニドのような若輩者が逆らえるはずもないことを知っていて、敢えてそんな言い方をしてくる。


『………………分かりました。やってみます……』


 長い長い沈黙のあと、グニドが絞り出せた言葉はそれだけだった。

 途端にスエンが「ヤーウィ!」とはしゃいだ声を上げる。

 グニドはそんなスエンの下顎に、拳の一撃を叩き込んだ。

 ひっくり返ったスエンの足元で、イダルに抱かれた人間の赤子が、再び寝息を立て始めている。

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