第三十八話 歪みと獣
エマニュエルにはこんな神話がある。
遥かな昔――この世界がまだ神々と共にあった頃。
とある王国の片隅に、小さくて平和な村があった。その村にはノードという男が住んでいた。
ノードには娘が一人あり、妻は早くに亡くしてしまったが、それでも慎ましやかで幸せな暮らしを送っていた。ノードは腕利きの狩人で、毎日森へ行っては獣を狩り、その肉や毛皮を売って生計を立てていた。
そんなある日のこと。
深夜、村に一人の盗賊が忍び込んだ。盗賊はひどく飢えており、夜闇に紛れてノードの家へ侵入すると、彼の家にあった食べ物を片っ端から食い荒らした。
しかしノードも狩人である。森で獲物を追うことに長けた彼は耳がよく、物音に気づいて目が覚めた。ノードは弓矢を手に部屋を出ると、夢中で食事している盗賊の姿を見つけた。
しかし対する盗賊も、日頃から人家に忍び込んでは盗みを働く玄人である。すぐにノードの足音に気がつき、逃げようとした。ノードはそんな盗賊と揉み合いになり、家中の家具という家具を倒した。その騒ぎでノードの一人娘が目覚め、何事かと様子を見に現れた。
それが不幸の始まりだった。盗賊は目の前に現れたノードの幼い娘を見ると、彼女を捕まえて人質とし、ノードを脅して逃走した。ノードはすぐに追いかけたが見失い、翌朝、森の中で冷たくなった娘を発見した。
ノードは燃えるような憎しみに駆られた。娘の亡骸を抱いて慟哭すると、彼女を殺めた盗賊に必ず復讐することを誓った。
そうしてノードは旅に出た。月明かりの中で見た盗賊の人相、その記憶だけを頼りに方々を尋ね歩き、やがて遠い町でそれらしき男の情報を得た。
親切な町の者が教えてくれた場所へ赴くと、なるほど、確かにそこで暮らしているのはあの日娘を殺した男である。
ノードはその晩、怒りに燃えて男の家へ踏み込み、彼を殺した。ところが男の悲鳴を聞いた近所の者が王国へ通報し、駆けつけた兵士たちによってノードは捕らわれてしまった。
ノードは殺人の咎で裁判にかけられることになった。
その裁判の場で、ノードは男を殺すに至った経緯を包み隠さず陳情した。
話を聞いた町の者たちは、皆がノードに同情した。彼らは殺された男がひどい粗暴者であり、町でも度々問題を起こしていたことを知っていたのである。
だから誰もがノードの言葉を信じ、彼の罪を許すべきだと言った。が、それでも殺人は殺人である。
難しい判断を迫られた裁判官はノードの処遇を神に委ねることとし、彼を神殿へ導いた。ノードはそこで神の裁定を受けることとなった。
事情を聞いた神官たちが神に祈ると、すぐに天界から一柱の神が現れた。
かの神の名はツェデク。この世の正義を司る神である。
ノードはその神の前で、己が人を殺めた経緯を改めて説明した。更には殺された男の罪を次々と並べ立て、自らの正当性を主張した。
そんなノードの話を黙って聞いていたツェデクはやがて、こう尋ねた。
「ならばノードよ。お前は己がその男を裁くに値する人間だと言うのか。お前は生まれてこの方ただの一つも罪を犯さず、常に正しき人間であったのか」
ノードはこれに頷いた。彼はこれまで盗みや乱暴などの罪を働いたことなど一度もなかった。必要に駆られて多少の嘘をついたことはあるが、どれも他愛もない嘘ばかりで、故意に人を傷つけるようなことはしていない、とも主張した。
するとツェデクは更に言った。
「では今から七年前、お前が故郷の森で旅人を見殺しにしたのは何とする?」
途端にノードの顔色がサッと変わった。彼はたちまち顔面蒼白になるや震え出し、それまでの雄弁が嘘のように口ごもった。
実はノードは七年前、森での狩りの途中に一人の旅人の姿を見かけた。旅人は魔物に襲われて森の中を逃げ惑っており、あちこちから血を流して、今にも喰われてしまいそうだった。
そのときノードの手には弓があった。矢種も十分に残っていた。
けれどもノードはそのあまりに禍々しき魔物の姿に恐れをなし、旅人を見捨てて一人逃げ出したのである。
「あのときお前はあの旅人を救うことができた。しかしお前はそうしなかった。お前はあの旅人があのとき何故あの森にいたのか、知っているか」
「い、いえ、生憎と存じ上げません」
「ならば教えてやる。あの旅人は病気の娘を救うため、あの森にしか生えていないという薬草を求めて旅してきたのだ。そこを魔物に襲われた。旅人はそのまま命を落とし、幼い娘も父の帰りを待ち侘びながら死んでいった。それでもお前は、己の行いが正しかったと言えるのか」
真実を知ったノードは泣き崩れた。神の裁定は下り、ノードは殺人の咎で投獄され、獄中でその一生を終えた。
この神話の最後は、正義の神ツェデクが残した短い言葉で締め括られている。
――人の子の正義を語るは悪に似たり、と。
×
グニドは頭を腹の方へ引きつけて、もう一度喉のあたりを触ってみた。
……大丈夫だ。ちゃんとくっついている。
試しに頭の上の方、鬣の生え際あたりも撫でてみるが、異常はない。それを確認すると、フウ、と知らずため息が出た。こうして自分の無事を確かめるのは一体何度目だろうか。
「――おい、グニド。悪いがこの柱をどかしてくれるか」
と、ときに自分を呼ぶ声がして、グニドは長い首を巡らせた。そうして振り向いた先には赤い髪を惜しげもなく日の光に晒したヒーゼルがいて、足元に倒れた木材を指差している。
サン・カリニョが魔物の襲撃を受けてから、二日目の朝。グニドはヒーゼルら義勇軍の面々に紛れて、拠点の復旧作業に加わっていた。
現在グニドがいるのは最も甚大な被害を受けた居住区だ。そこはいわゆる非戦闘員――メスや子供、それから年老いた人間などのことだ――が暮らす区域で、大小の人間たちの巣が密集して建てられている。
ところが魔物の強襲でその建物のほとんどが破壊され、あたりはひどい有り様だった。昨日まではあちこちに人や魔物の死骸が転がり、これ以上に酸鼻極まる光景だったようだが、幸い今は地面に血の痕が残るくらいで屍は綺麗に片づけられている。恐らく魔物の死骸は焼かれ、人間たちの亡骸は既に弔われたのだろう。
残るは焼け崩れた家々の残骸だけ。ヒーゼルたちはどうやらその残骸を片づけて、また新たに巣を作ろうとしているらしい。
グニドはその手伝いとしてここにいる。少し離れたところには、同じく手伝いとしてやってきたヴォルクの姿もあった。
元々黒っぽい衣服を身にまとっていることが多いヴォルクだが、その彼が今は顔や手まで煤で真っ黒にしながら働いているのを見て、グニドはぶるんっと一度頭を振る。
――駄目だ。いつまでも呆けている場合じゃない。今はやるべきことをやらなくては。
そう考えて気合いを入れ直すと、のしのし足音を立ててヒーゼルの傍まで行った。ヒーゼルは先の魔物との戦いで罰焼けした左腕がまだ動かないようで、今日も首から下げた白い布で力なくそれを吊っている。
「悪いな。俺も手を貸そうか」
「否。オレ、一人デデキル」
グニドはそう答えるが早いか、瓦礫の上に倒れた柱の下へ肩を入れた。根元のあたりが焼け焦げたそれは、優にグニドの身長の二倍はあったが、日頃から大重量の刀を振り回しているグニドにかかれば担ぎ上げる程度朝飯前だ。
「ヒュウ。さすが竜人の戦士は頼りになるな」
などと言いながら感心しているヒーゼルを横目に見やり、グニドは肩に担いだ木材を開けた場所まで運んでいく。一つ疑問なのは、あの「ヒュウ」という音だ。
ヒーゼルは馬を呼ぶときなどもよくあの音を発しているが、一体どうすれば口からあんな音が出るのか。グニドは試しに口をすぼめて細く息を吐いてみたが、牙の間から「スー」と呼気の抜ける音がするだけで上手くいかない。……竜人と人間では口の形がまるで違うので、当たり前と言えば当たり前なのだが。
『――グニド! 板をえらぶの、おわったよ! ルル、つぎはどうすればいい?』
そうして邪魔な柱を運び終えた頃、今度は後ろからぱたぱたと足音がやってきて、グニドの視界に鼻の頭を真っ黒にしたルルが顔を覗かせた。
グニドが戦いから戻ってからというもの、ルルはどうしてもグニドの傍を離れたがらない。だから仕方なく今日もここへ連れてきて、一緒に義勇軍の手伝いをさせている。
とは言え小さなルルにできることなどたかが知れているので、先程までは同じくヒーゼルについてきたエリクと二人で、あちこちにある瓦礫の中から燃えていない板や人間たちの使う道具を探して集めるという作業をさせていた。
ルルとエリクはグニドの知らぬ間にすっかり打ち解けたらしく、今ではルルの方がお姉さん顔をしてエリクにあれこれ指示を出したりしている。まだ言葉もほとんど通じないくせに、だ。
『ずいぶん順調だな、ルル。ちょっと疲れたんじゃないのか? 何なら少し休んでもいいぞ』
『ルル、まだつかれてないもん! ルルもグニドみたいに、なにかはこぶ?』
『いや、重いものを運ぶのはおれがやるからいい。……そうだな。あそこに空の箱があるだろ?』
『あの四角いの?』
『そうだ。あの四角いの。あれを持っていって、エリクと一緒に集めたものを入れておけ。そうすればあとで運びやすい』
『四角いのに、板とかいろいろ、入れる?』
『ああ。やれるか?』
『やる!』
新しい仕事をもらえたことがよほど嬉しかったのだろうか。ルルは大きな瞳を爛々と輝かせると、すぐに放置された木箱の方へ駆けていった。
その箱はともすればルルもすっぽり入れてしまうほど大きく、運ぶのは難儀かもしれない。そう思ったがすぐにルルのあとをエリクが追いかけてきて、二人でぐいぐいと空の箱を押し始めた。……なるほど、利口だ。
「ああしてると姉弟みたいだな、あいつら」
と、そのとき横合いから声がして、振り向くといつの間にかヒーゼルがいた。
彼はうなじのあたりで短く結った髪を風に靡かせ、何か眩しいものでも見るみたいに目を細めている。その視線の先には言わずもがな、彼のムスコであるエリクがいた。
「俺は子供ができるなら男がいいと思ってたが、こうして見ると娘ってのも悪くない。エリクに妹ができたらかわいいだろうな」
「イモウト?」
「もしも俺とマルティナの間に娘……あー、つまり女の子が生まれたら、そいつはエリクの妹ってことになる。俺たち人間の間じゃそう呼ぶのさ」
「フム?」
「はは、竜人のお前にはちょっと難しいか。聞いた話じゃ、竜人ってのは俺たち人間みたいに家族を持たないんだろう?」
「ウム……カゾク、ハ、群ノコト。竜人ハ、群ガ、全部、カゾク。ニンゲント違ウ、ツガイ、作ラナイ」
「つ、つがいって……そうか、お前らから見ると人間の夫婦ってのは〝つがい〟になるのか……なんかちょっと複雑だな……」
などと呟きながら、ヒーゼルは何か考え込むように右手で顎を触っている。人間はつがいとその間に生まれた子供だけで小さな群を作って暮らす生き物だから、血のつながりに依らない大きな群というのが想像しにくいのだろう。
人間の基準で言ったら、グニドには八人のつがいと九人のムスコ、そして四人のムスメがいることになる。グニドは若い戦士の中でもとりわけ将来有望と言われていたから、メスの方から寄ってきて交尾の相手には事欠かなかった。
けれども竜人はつがいを持たない。毎年冬が近くなると繁殖期がきて、メスたちは数いるオスの中でも特に強い者を選んで交尾する。
交尾の相手はその年によってまちまちだ。前にも交尾したことがある相手とすることもあれば、まったく違うメスとすることもある。オスは強ければ強いほどたくさんのメスと交尾することができ、一度の繁殖期で複数のメスとの間に卵を持てるのは優れた戦士である証拠だ。
だから繁殖期になるとオスたちはしきりに決闘をしたりして己の強さを競うのだが、どうも人間たちの繁殖事情とはそのあたりも大きく異なるようだった。
何しろ人間たちは強かろうが弱かろうが、ほとんどの者がつがいを得て群を築くと聞いている。竜人の中には一生卵を持てずに終わるオスなんてザラにいるのに、人間の間では大人になってもつがいを持たないオスの方が稀だと言うのだ。
(……うん? 待てよ。だけどそれなら……)
と、グニドはちょっと考える。ふと頭をよぎったのは昨日、突如としてグニドに剣を振るったあの男のことだ。
「ヒーゼル。カルロスハ、ツガイ、イナイカ?」
「え?」
「カルロスノ、ツガイ。カルロスハ、カゾク、作ラナイカ?」
グニドがそう疑問をぶつけると、ヒーゼルは束の間面食らったような顔をしていた。
が、それからすぐに目を逸らすや、「あー」と意味のない声を発して視線を泳がせる。その横顔は明らかにうろたえていて、何か迷っているように見えた。
「いや、まあ、それはだな……いない、ということになってるというか……表向きには……」
「ムウ?」
「あー、いや、その、つまり、今はいない。昔はカルロス殿にも奥方がいらしたらしいんだが、俺があの方と出会った頃には既に離縁されていたし――お前も聞いたんだろ? カルロス殿の代償のこと」
ときにヒーゼルが硬い表情をして振り向き、二人の間をひゅうと風が通り抜けた。
あちこちで瓦礫の撤去に精を出す義勇兵たちが、大声で何事か言い合っている。けれどもたった今グニドやヒーゼルがいるその場所は、ぽっかりと忘れ去られたように人がいない。静かだ。
「マナから聞いた。カルロス殿の剣はお前を斬れなかったと」
「……」
「正直、驚いたよ。竜人なんて真っ先に両断されると思ってたんだが」
何せお前らは人を喰うだろ? と、ヒーゼルはちょっと遠くを見ながら言う。グニドはその横顔から目を逸らした。
二人の間には相変わらず風が吹いていて、それが焼けた木の臭いを運んでくる。今のサン・カリニョはどこへ行ってもこんな感じだ。
「なのに、斬られないなんて。……お前ら竜人が人を喰うのは、俺たち人間が牛を殺して喰うのと同じってことか。生きるために必要なことだから、許された。そういうことなんだな」
「……オソラク」
「だが今のカルロス殿の剣は、小さな嘘や悪事も見逃さない。それが一つもないなんて、お前、これまでどんな生き方をしてきたんだ?」
そう言って改めてこちらを向き、ヒーゼルは口の端を持ち上げた。たぶん本人は上手く笑ったつもりなのだろうが、その表情はどこか痛々しくて、グニドは返す言葉が見つからない。
――絶対的な正義の神、ツェデク。
そのツェデクに選ばれた神子の剣は、悪を斬る。
それは即ち、断罪の剣だ。カルロスの剣は罪ある者をこの世から葬り去る。それがたとえどんなに昔の罪であろうと、だ。一度でも悪に手を染めた者は許されない。
たとえば、盗み。暴力。偽りの誓いを立てたり、人を陥れるようなこと。
過去にそんな過ちを犯したことのある者は、たとえ味方であってもカルロスの剣から逃れられない。
カルロスがそのことを知ったのは、彼がこのトゥルエノ義勇軍を立ち上げたあとのことだった。
彼は侯王軍との戦いの場で、あの神の力を振るった。
彼にとっての〝悪〟――すなわち侯王軍の兵士のみを呑み込むものと思われた、その力。
ところが彼の剣より放たれたそれは敵兵と交戦していた味方をも粉砕し、塵芥に変えてこの世から消し去った。
彼はその一振りで、大勢の味方の命を奪ってしまった。
カルロスの目に映る世界がおかしくなり始めたのはその頃からだ。
今、カルロスの目にはあらゆる人間の顔が歪んで見える。まるで死人のそれのように皮膚が変色し、ときに潰れて引き攣れたような、そんな化け物じみた顔に見える瞬間があるのだという。
それはカルロスの腹心であるヒーゼルとて例外ではない。カルロスの視界に歪んで映るということは、即ち罪ある人間ということなのだ。
「――初めてその〝歪み〟を見たとき、私にはそれがヒーゼルだと分からなかった」
と、昨日、カルロスはグニドにそう言った。彼は世界が歪み始めたまさにその日、たまたま部屋を訪ねてきたヒーゼルを魔性の類と誤解し――危うく、殺しかけた。
そのときヒーゼルが死なずに済んだのは、彼が手練れの戦士だったから、ただそれだけの僥倖にすぎない。
もしもそのときカルロスの前に立ったのが戦う術を持たない人間であったなら、間違いなくその場で真っ二つにされていただろう。
その日以来、カルロスの葛藤は始まった。圧倒的な神の力、それを恃みに義勇軍を興したはいいものの、神の力を使えば使うほど世界の〝歪み〟は拡大する。
以前はごくまっとうな姿に見えていた人間までいつしか歪み、今やカルロスの周囲は歪みだらけだ。
しかもその歪みはカルロスの中に彼ではない何かを呼び起こす。
それは歪みを見つける度に、カルロスの中で〝殺せ〟と叫ぶ。
「――それが、ツェデクの力を振るう代償」
と、マナは言った。
グニドにはよく分からない話だが、神子が神子たる証である大神刻とは、選ばれし者に強大な神の力を与える一方で、その力の代償を必要とするものらしい。
「それがカルロス殿の場合、〝悪〟に対する強烈なまでの憎悪だってことだ。あの方は今、自分の中に植えつけられたその感情と戦ってる。……自分の中に獣が棲んでいるようだ、とあの人は言ってたよ。気を抜くとすぐにその獣が頭をもたげて、カルロス殿の体を乗っ取り、目に映る〝悪〟を根絶やしにしようとする……」
「ツマリ、ニンゲン、滅ボス、イウコトカ?」
「神が人間を滅ぼすなんて笑えない冗談だが、まあ、実際それに近いよな。何しろ世の中には生まれてから一度も罪を犯したことがない人間なんてそうそういない。聖職者であるトビアスでさえ、カルロス殿の目には歪んで見えるって言うんだ。あの方の目に正しい姿で映る相手は、同じ神子であるロクサーナとまだ罪を知らない子供たち……そしてグニド、お前だけだ」
――それは一体どんな世界なのだろう、とグニドは思う。
心許したはずの者たちさえ、いつしか化け物へと姿を変えてしまう世界。それが自分の大切な仲間だと、少しずつ分からなくなっていくほどの破壊衝動。
カルロスはそんな己の中の獣と戦いながら、ああして平静を装っている。もしも自分がカルロスの立場であったなら、醜悪な化け物に囲まれた世界で、あんな風に振る舞うことなどできるだろうか?
――いや、絶対に無理だ、とグニドは思う。たとえそれが自分の同胞だと分かっていても、そんな相手さえ化け物に変わってしまう世界に絶望し、やがてはきっと気が狂う。
そうなる前に逃げ出すか、自死を選ぶか。まともなうちにできる選択なんてそれくらいだ。
けれどもカルロスはそのどちらも選ばずに、未だ義勇軍の長として彼らを守り、導いている。
「そんな状態じゃ、さすがにつがいなんて作ってられないだろ? だからあの人は今も独り身さ。……本当なら今頃豪華な屋敷に住んで、綺麗な奥さんとたくさんの子供に囲まれて暮らしてるはずの人だったんだがな。あの人はそれを選ばなかった。ご自分の平穏な暮らしよりも、侯王の横暴に苦しむ民を救うことを選んだ……」
「……」
「その結果がこれってのは、いくら何でもむごすぎるよな。神はどうしてあの方にそんな試練をお与えになるのか……」
そう言ったヒーゼルの右手が硬く握り締められているのを、グニドは見た。目下カルロスを苦しめている〝代償〟のことを知っているのは、彼の右腕であるヒーゼルと神子ロクサーナ、そしてマナの三人だけだ。
それ以外の仲間には、カルロスも代償のことをひた隠しにしている。けれども彼の並々ならぬ苦しみを知っているヒーゼルはたぶん、そんな今の状況を歯痒く思っているのだろう。
できることならカルロスをその苦しみから解放してやりたい。けれども義勇軍が侯王軍と対抗するには、どうしても彼の神子としての力が必要だ。
ヒーゼルもまたそんな現状の板挟みに遭って苦しんでいる。同時に自分の無力さにも腹が立って仕方がないのだろう。
「ダガ、カルロス、斬レナイモノ、モウヒトツ、アッタ」
「え?」
「エレツェン神領国ノ、刺客。カルロス、斬レナカッタ、言ッテイタ。ソレハ何故カ?」
周囲に聞き耳を立てている者がいないことを確かめながら、グニドは声を低めて問い質す。するとその問いを受けたヒーゼルは物憂げな顔をして、「ああ……」と一つ嘆息をついた。
「俺も詳しいことは分からないんだが、どうもあの刺客はエレツエル神領国の諜報機関『兇王の胤』ってところから送り込まれてきたらしい。諜報機関ってのは、まあ、つまり、人目につかないように身を隠しながら、敵地に潜入したり裏工作をしたりする集団のことだ」
「フム?」
「ジャックの話では、その『兇王の胤』ってところでは、間者……つまりカルロス殿を狙った刺客みたいな人間を子供の頃から育てるらしい。親のいない孤児なんかを集めて、〝すべては神子エシュア様のため〟と洗脳教育を施して、神子のためなら死をも厭わない人形に育て上げるんだ。つまりやつらは盗むのも騙すのも人を殺めるのも、すべて神子エシュアのためにやっている」
「神子……カルロスト同ジ、神ガ選ンダ。ダカラ、神子ノタメ、殺スハ、悪イコト、ナラナイ?」
「……たぶん、そういう理屈なんだろう。だからカルロス殿も苦戦した。やつらは並大抵の兵士じゃ太刀打ちできないほどの戦闘能力を持ってるらしいしな。生まれながらの暗殺者ってわけだ」
そこまで一息に言って、ヒーゼルはもう一度嘆息をついた。そうして右手で赤い髪を掻き上げた彼の横顔には、濃い疲労の色がある。
「その『兇王の胤』を擁する神領国が敵に回ったってのが、今のところ最大の痛手だな。これからはカルロス殿の警護の手をもっと増やして、厳重にしないと……」
「フム……」
「けどあの人、そういうのすごく嫌がるんだよ。代償のせいもあるんだろうが、元々お一人でいるのが好きな方で、四六時中監視の目があると息が詰まるとか言ってさ……」
まあ、それはそうだろうな、とグニドは思う。それがたとえ自分の身を守るためだとしても、常に身の回りに誰かがいて行動を見張られているというのはいい気がしない。
それでなくとも今のカルロスには、仲間の顔すら醜い化け物のそれに見えるのだ。そんな相手に一日中張りつかれていたのでは、さすがの彼も気が狂うというものだろう。
「なあ、グニド。そこでちょっと相談があるんだが」
「……ム?」
と、ときに隣に立ったヒーゼルから肩を叩かれて、グニドはちょっと首を傾げる。
そうして見下ろした先で目が合うと、ヒーゼルはニッと口角を上げた。今度は下手な作り笑いなんかじゃない、明らかに何か企みのある笑みだった。
「その、カルロス殿の警護なんだけどさ。――これからしばらくの間、お前が任されてくれないか?」