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第三十六話 エレツエル神領国

 かつてグニドたちが初めてカルロスと対面したあの部屋むろに、ラッティはいた。

 血が臭う。既にグニドの体は魔物の血を浴びて真っ黒で、その生臭さが嗅覚を覆っているが、この部屋に漂うのは赤い血の臭いだ。

 扉をくぐった先でグニドがふと目をやれば、部屋には数人の人間ナムが倒れていた。彼らはいずれも血の池に沈み、ぴくりとも動かない。


 そのうちのどれがカルロスの身辺を守っていた義勇兵で、どれが敵から送り込まれてきた刺客なのか、グニドには見分けがつかなかった。

 恐らく刺客は義勇兵になりすまして砦に紛れ込んだのだろう。軽いがあまり防御力は期待できそうにない革の鎧から、いかにも使い古された様子の軍靴まで、どの死体もひどく似たような格好をしている。


「ヴォルク」


 しかしそんな死臭漂う室内に、唯一息をしている影が三つあった。

 一つは石の床に身を横たえているラッティ。もう一つはその傍に控えた義勇兵。

 そしてもう一つは、ラッティに寄り添うように腰を下ろした獣姿のヴォルクの影だ。


「グニド。外の魔物は?」

「カタヅイタ。オレ、ナニモ、スルコト、ナカッタ」

「することがなかった?」

「ウム……。魔物、スベテ、カルロスガ倒シタ。ラッティハ?」

「気を失ってる。でも、命に別状はないって」

「ダイジョウブ、イウコトカ?」

「うん。水刻ウォーター・エンブレムの力で解毒してもらったんだ。傷もそんなに深くなかった。ただ、しばらくは安静にしなくちゃいけないみたいだけどね」

「ソウカ」


 砦の中も外も悲惨な有り様ではあるが、グニドはようやく心底から安堵の息を吐くことができた。歩み寄ると、ラッティは顔色こそ悪いが整った寝息を立てていて、ヴォルクの言うことが真実なのだと分かる。

 グニドは床に腰を落とし、グルルルル……と喉を鳴らした。仰向けに横たわるラッティの肩には、確かに出血の痕がある。傷は既に癒えているようだが、破れた上着が痛々しかった。


 それは誰がどう見ても刃によってつけられた傷だ。何でもグニドがカルロスから聞いたところによると、ラッティは刺客が起こした乱闘騒ぎに気づいて駆けつけ、自分が相手になる・・・・・・・・、と叫んだらしい。

 しかしラッティにはグニドたちのような武芸の心得はない。そもそも刺客の狙いはカルロスだ。なのに何故そんな見当違いのことを叫んだのか?


 答えは簡単だ。ラッティはこの部屋に駆けつけたとき、カルロスに化けて・・・いたのだ。

 本物のカルロスはそのとき、既に毒を受けて窮地に陥っていた。そこにトドメを刺そうとしていた刺客は、突如現れた二人目のカルロスにさぞや面食らったことだろう。


 カルロスたちはその隙をついて、どうにかその場を凌ぐことができた。あそこでラッティが現れなければ、さすがの自分も危うかっただろう、とカルロスは言っていた。

 どうやら大神刻グランド・エンブレムが神子に与える恩寵は、いかなる傷も癒やしてみせるが、すぐさますべてが元通り、というわけにはいかないらしい。

 今回のように毒を受ければ解毒されるまでにしばし時間がかかるし、普通であれば命に関わるような手傷を負ったときなどもそうだ。だからカルロスは毒が消えるまで身動きが取れず、魔物の襲撃への対応が遅れたのだという。


(刺客の狙いはそこにあったのか?)


 と、グニドは首を拈って考える。刺客、というからには、カルロスの命を狙ったのは目下義勇軍と敵対する侯王カルヴァン以外に有り得ない。

 そして今回の魔物の急襲も、侯王軍の手引きによるものだ。だからやつらはカルロスを狙ったのか? その命までは取れずとも、義勇軍が魔物の大群によって甚大な損失を被るように。


『卑怯なやつらめ』


 と、グニドは呟いて憤慨した。ラッティが眠っていなかったら、尻尾で床をバシバシ叩いているところだ。

 死体を使って魔物を誘き寄せたやり口と言い、刺客など放ってコソコソとカルロスを狙うやり方と言い、侯王軍というのは戦いというものを真っ向から侮辱している。やつらはこの国の人間たちを導く立場にありながら、正々堂々戦うということを知らないのか。

 まったく戦士の風上にも置けない。カルヴァンというおとこはきっと内臓まで腐りきっていて、喰えたものではないのだろう。どんなに食欲旺盛な竜人ドラゴニアンにだって、コイツだけは喰いたくない、と思うような人間はいる。


『――グニド!』


 そのときだった。不意に背後から呼び声がして、グニドは長い首を巡らせた。

 そこに、ポリーに付き添われたルルの姿がある。頭の上にはヨヘン。どうやら三人とも無事だったようだ。


『ルル。良かった、無事だったか……』


 グニドは本日二度目の安堵を吐き出す。聖堂に向かったヨヘンと共に戻ってきたということは、二人はやはりそこにいたのだろう。

 だが、ルルの様子がおかしい。彼女は最初にグニドを呼んだきりぴくりとも動かず立ち尽くすと、ところどころ汚れた白衣しらぎぬをぎゅっと握り、小さく肩を震わせている。


『……ルル? どうした、どこか怪我でも――』


 と、グニドが言いかけたところで、腹に衝撃が走った。いきなり矢のような速さで駆け出したルルが、正面からグニドに激突したがゆえの衝撃だった。

 不意討ちを喰らったグニドの体が吹っ飛ぶ。ついでにルルの頭に乗っていたヨヘンも吹っ飛んだ。

 グニドは背中から床に倒れ込んで「グエッ」と潰れた声を上げ、その傍に落下したヨヘンも「オフッ!?」と悲鳴を上げて転がっていく。


『る……ルル、お前……』

『グニド……! グニドグニド! よかった……グニド、かえってきた……』


 長時間の連戦で疲れ果てた今のグニドに、ルルの特攻は結構こたえた。背中が痛くて声が出ない。一方のルルは鋼鉄の鎧に激突したというのに、さして痛がる様子もなくグニドの腹に乗っている。


『ルル、こわかった。グニドがかえってこなかったらどうしようってこわかった。ごめんなさい。ごめんなさい……』

『お、おい……待て。何を謝ってるんだ?』

『だってルル、グニドにひどいことした。グニドが戦いにいくとき、いってらっしゃいも言わなかった。ルル、ひどい。とてもひどい。だから、ごめんなさい……』

『ルル』


 グニドは仰向けにひっくり返ったまま首だけもたげ、腹の上にいるルルを見やった。ルルは大きな淡黄色の瞳を滲ませて、ぽろぽろと涙を零している。

 その頬が、グニドに飛びついた拍子についた魔物の血で汚れていた。けれども汚れは透明な涙に溶けて、どんどん洗い流されていく。


『……あのな。そんなこと気にしなくていいんだよ。おれは別に何とも思ってないんだからな』

『ほんとに? でも、ルル、わるい子だった。とてもわるい子』

『本当に悪いやつはそんな風に泣いて謝ったりしないさ。とにかくこのとおり、おれは無事だ。心配かけて悪かったな』


 先程したたかに打ちつけた背中はあんまり無事じゃなかったが、グニドはそう言ってグイッとルルの頬を拭ってやった。するとルルはますます目を潤ませて、ついにはわあわあ声を放って泣き始める。

 ――ああ、この声だ。人間より遥かに聴覚が優れた竜人グニドにとって、人間の子供の泣き声というのはたまらない。

 けれども同時に懐かしさもこみ上げてきて、グニドはちょっと口の端を持ち上げた。そうしてどうにか体を起こし、腕の中にルルを抱いてやる。


「おい、グニド。何を話してるのかまでは知らないが、〝イルロス〟ってのはおまえさんたちの言葉で〝ごめんなさい〟って意味だろ?」

「ジャ? ソウダ」

「だったらルルに、オイラにも謝るように言ってくんない。今の、ちょっとした命の危機だったんだけど」

「アナタはその程度のことで死んだりしないでショ、ヨヘン。そんなことより今はラッティよ」

「そんなことってなんだ! ポリー、おまえさんはオイラが儚い命を無駄に散らしてもいいってのか!?」

「ヴォルク、ラッティの容態は?」

「おい! 無視すんな! しないで下さいお願いします!」


 命辛々死地から戻って、ようやく再会した仲間に無視されるのはさすがにこたえたのだろうか。飛び起きたヨヘンは珍しく下手に出て懇願したが、ポリーはこれをスルーした。そうしてヴォルクへ歩み寄り、ラッティの様子を聞いている。

 だが、ひとまず命は無事だと知って安心したのだろう。彼女が胸に手を当ててほっと愁眉を開いた頃、再び部屋の入り口からどやどやと人がやってきた。


 現れたのはカルロスを始め、ヒーゼル、ロクサーナ、トビアス、ウォン、マナと、義勇軍の中核を担う錚々たる面々だ。

 その中に一つ、グニドの知らない顔がある。すらりとしたオスの人間で、荒野の岩石に似た色の前髪かみを横に流し、やってきた人間たちの中では唯一顎髭を蓄えている。


 だからグニドも一目で見分けることができたのだが、その身のこなしが油断ならない。まるで獣のようにしなやかで隙のない動き。

 あれは誰だ、と、グニドは思わず首をもたげた。そのオスはカルロスやヒーゼルのものに比べるとやや短い直剣を腰に佩いていて、いかにも小回りが利きそうに見える。神刻エンブレムの加護があるカルロスたちとはまた違った意味で、敵に回したら厄介そうな相手だ。

 グニドがそんなことを考えていると、すぐにこちらに気づいたカルロスが声をかけてくる。


「ここにいたか、グニドナトス。ラッティの具合はどうだ?」

「ダイジョウブ、ダ。毒、消エタ。アトハ、ユックリ、休ムトイイ」

「そうか。万一の事態に備えてロクサーナを連れてきたが、取り越し苦労だったようだな。まずは無事で何よりだ」

「おい、ちょっと待て。これはどういうことです、カルロス殿。なんでこんなところに竜人が? しかもそいつ、今、人間の言葉を……」


 と、ときに剣呑な声を上げたのは、他でもないあの顎髭のオスだった。

 顎髭はグニドの姿を見るやあとずさって、恐らく本能的にだろう、早くも腰の剣に手をかけている。だがその他の面々は既にグニドを見知っているため、別段取り乱す様子はない。


「ああ、そう言えばジャック、君にはまだ紹介していなかったな。彼はグニドナトス。先程私を救ってくれたあの狐人フォクシーの仲間だ。今は義勇軍われわれの雇った傭兵として働いてくれているが」

「竜人を雇うだって? 冗談だろ! シャムシール砂王国じゃあるまいし、そんな話聞いたことないぞ!」

「お、落ち着いて下さい、ジャック。私もグニドさんとは色々ありましたが、彼は野生の竜人とは違って理知的で話の分かる……」

「はあ、このやりとりにもいい加減飽きたのう」


 あのオスの名はジャックというのか。カルロスたちの会話からグニドがそう理解した頃、ため息と共にそう吐き捨てたのはロクサーナだった。

 横ではトビアスが必死にジャックを宥めようとしているのに、彼女はそんなものどこ吹く風だ。これにはジャックも険しい目つきをして、キッとロクサーナを睨みつける。


「おい、ロクサーナ。飽きたってのはどういうことだ? まさかお前、去年エルマがこいつらに喰い殺されたのを忘れたっていうんじゃねえだろうな?」

「人を年寄り扱いするでにゃー。わーもそこまで耄碌しとらんき。じゃけんじょこやつは既にわーたちの仲間。そもそもエルマを喰らった竜人とは別人でおじゃる。のう、グニドナトス?」


 集まった面々の中でも一段と小柄なロクサーナに見上げられ、グニドはちょっと困惑したまま頷いた。

 二人の言う〝エルマ〟というのは、今朝トビアスが言っていた彼らの仲間のことだろうか。確か去年、彼らが大地の肚レドヌ・ダオルを抜けるときに竜人に襲われ、帰らぬ人になったのだと聞いた。


 だがグニドは記憶を遡ってみても、大地の肚で狩りをしたことなどない。砂王国の都シェイタン近郊では時折あそこに逃げ込む奴隷がいるらしく、そういう輩は喰らっていいと砂王国からお達しが来ているようだが、あのあたりで狩りをするのはグニドのいたドラウグ族とは別の部族だ。


 だからグニドは彼らの仲間を襲ったのは自分ではないと断言できる。が、ジャックの方はそう簡単には割り切れないようで、まるで威嚇する砂漠猫アムプさながらに全身から殺気を溢れさせている。


「だからって、ハイそうですかと納得できるかよ。俺は竜人ってのが生理的に受けつけないんだ。こいつらには砂漠を渡る度に何度も襲われて――」

「はいはーい、そういう愚痴はあとでたっぷり聞いてあげるから。そんなことより、今はみんなで話し合わなきゃいけないことが他にあるはずでしょー?」


 と、今度は気の抜けるような声が部屋に響いて、グニドはそちらへ目をやった。そこではマナが相変わらずニコニコしながらウォンの傍に佇んでいて、ジャックの怒りと呆れが混ざった視線をふんわりと受け流している。


「そんなことってマナ、お前な……こっちは過去に何人も仲間を喰われて――」

「それは分かるんだけどー、言ったところでグニドが食べた人を吐き出してくれるわけでもなし、だったらこんな話続けるだけ不毛じゃなーい? だいたいねー、ウチの隊長タイチョーはそんなに気が長い方じゃないんだからー、あんまり怒らせない方がいいわよ? でないとうっかり殺されちゃうわよ?」


 ――うっかり殺されるってなんだ。グニドはそうつっこむべきかどうか迷ったが、あの男ウォンならば確かにやりかねないような気がして口を噤んだ。

 一方のジャックもウォンの名前を出されるとさすがに怯んだようで、顔色を窺うように彼を見やる。ウォンは奥の壁に背中を預けて佇んでいるが、その顔は相変わらずの無表情で、何を考えているのかさっぱり分からない。


「え、いや、あれ怒ってんの? そんなに怒ってんの?」

「そうよー。ウォンの怒りは今やバクハツ寸前よー」

「いつもの顔と見分けがつかないんですが? なあ、ウォン隊長。アンタ、確かに顔は極悪人だが、いくら何でも仲間を手にかけたりはしないよな?」

「ああ。殺しはしない・・・・・・。安心しろ」


 片方だけ縦に傷の走った双眸ひとみをすっと細め、平板な口調でウォンが言った。

 だがその答えがいかにも不穏だ。殺しはしない・・・・・・って? つまり殺しはしないが痛めつけるくらいはするということか?

 それもこの男ならやりかねない、という気がして、グニドはぶるりと身震いした。ジャックも同じ感想だったのだろう、彼は一瞬口角をひくりと歪ませると、すぐに横を向いて舌打ちする。


「わ、分かったよ……けどその竜人、本当に信用できるんだろうな?」

「それは俺が保証する。グニドは俺たちを守るために、あのヤート・クラーブとも命懸けで戦ってくれた。おかげで俺は今こうして生きてる。証人なら他にもいるぞ」


 言ったのは、依然左腕を吊ったままのヒーゼルだった。グニド同様魔物の血で全身真っ黒に染まったヒーゼルは、さすがにちょっと疲れた顔をしているものの、目には未だ闘志を湛えている。ジャックがどうしてもと言うのなら力づくでも説き伏せてやる、といった様子だ。


「ああ、はいはい、分かりましたよ。俺もこう見えてトラモント人なんでね。太陽の村の戦士サマがおっしゃることに異を唱えるつもりはございませんよ」

「おい、そういう言い方はよせよ。俺はそういう扱いを受けるのが嫌で遥々列侯国まで逃げて来たんだからな。そんなことより、そろそろ本題に入ってもらおうか。――さっき言ってた、エレツエル神領国の差し金ってのはどういう意味だ?」


 瞬間、その部屋の空気が一瞬にして張り詰めるのをグニドは感じた。まるで目には見えないが確かに世界を満たしている精霊たちが、ピリッと悲鳴を上げたかのようだ。

 中でも一段と顔色を変えたのは、意外にも獣人隊商ビーストキャラバンの面々だった。

 彼らはヒーゼルの発したエレツエル神領国という名を聞くなり全身の毛を逆立てる。ポリーなどはそのままぶるぶると震え出し、いきなりその場に尻餅をついた。


「え……エレツエル、神領国……まさか、ここにも神領国の手が……?」

「ポリー、ドウシタ?」


 明らかに彼女の様子がおかしい。ポリーは黒目がちな瞳を限界まで見開いて、ひどく怯えている様子だった。

 それを見たヴォルクが座り込んだポリーの膝に前脚を置く。そうして気遣わしげにフン、フン、と鼻を鳴らすと、入り口のあたりに固まっているカルロスたちを顧みて言った。


「あの、すみません。話に入る前に、ラッティとポリーを別室に移してもらってもいいですか? ――その、ポリーは、エレツエル人の元奴隷で」


 そう言ってヴォルクがうつむくと、カルロスたちも事情を察したのだろう。すぐにカルロスの部下が呼ばれ、気を失ったままのラッティと体を小さく丸めたポリーは別室へ連れていかれた。部屋の中に散らばっていた死体も、そのとき一緒に外へ出された。

 グニドはそこにルルも同行させようとしたが、本人はグニドの傍を離れたくないようだ。ひしとグニドの脚にしがみついて離れないのでどうにもならず、結局そのまま一緒に話を聞くことになった。


「それで、あの、我々は話が見えないのですが、〝エレツエル神領国の差し金〟と言うのは……?」

「言葉どおりの意味さ。さっきこの部屋で俺たちを襲った暗殺者。こいつらはエレツエル神領国の手先だ。『兇王の胤マンダウ』って聞いたことあるか?」

「神領国が裏で操っている諜報機関だな」

「ご名答。意外と詳しいんだな、ウォン隊長」

「長く各地をさすらっていれば、噂くらい聞くことはある」


 壁に背中を預けたまま腕組みをしてウォンが言い、ジャックは「フーン?」と意味深に片目を眇めた。その隙にグニドは、いつの間にか自分の頭の上にいるヨヘンを見上げて声をかける。


「ヨヘン。エレ……エレツェン、シンリョーコク、トハ、ナンダ?」

「神領国ってのはこっからずうっと東、海を越えた先にあるエマニュエル最大の国家だよ。ものすごい力を持った国で、世界中に散らばってる大神刻グランド・エンブレムを集めるために他国をどんどん侵略してる。欲しいモンは神の名を騙って力づくでブン取っちまおうっていう、おっかない連中さ」

「ムウ……」


 そう言えばそんな国の名を、グニドはかつてラッティの口からも聞いたような気がする。北にはその国が擁する軍隊がいて、そこでは獣人狩りが行われているとか何とか……。

 同時にラッティは、そんな連中がいる土地にルルを連れていくのは危険だ、とも言っていた。

 あれはエレツエル神領国が珍しい神刻を手に入れるためならば手段を選ばない連中だからか。グニドは低く喉を鳴らして、依然左脚にひっついているルルを見下ろす。


「まあ、とにかく、こいつらはその『兇王の胤』から派遣されてきた刺客だってこった。狙いは言うまでもねえ。カルロス殿の首だ。あと、ついでに余力があったらロクサーナの首もってとこだな」

「ま、まさか、神領国は神子を殺めることで大神刻を無理矢理奪っていくつもりなのですか? そのような冒涜、許されるはずが……!」

「トビー。神領国のやり方はお前も故郷でイヤってほど見てきただろ。ヤツらはてめえの大義名分のためならどんなあくどいことでも平気でやってのける。ましてや救いの手を差し伸べてやった自分たちの顔に泥を塗るような神子なんざ、最初から神子とは認めねえってわけだ」

「ちょっと待て。救いの手って、一体何の話だ?」


 と、ときにヒーゼルが口を挟み、「おや?」というような顔でジャックがカルロスを見た。

 その視線を受けたカルロスは一つため息をつき、腕を組んで皆に背を向ける。そうして執務机の後ろにある縦長の窓の前に立つと、外の様子にじっと目を落としながら言った。


「実は今から六ヶ月ほど前、エレツエル神領国からの密使が来た。かの国は永神トーラの神子エシュアが治める国。ゆえに同じ神子として選ばれた者の誼で、我らトゥルエノ義勇軍に神領国から物資や戦力を提供したいとな」

「何ですって? そんな話、俺は初耳ですよ!」

「その話は私の一存で断った。神領国が我々に接触してきた、などという話が外部に漏れれば、未だ日和見を決め込んでいるグラーサ侯やアバリシア侯あたりが、彼らを味方につけるべきだと騒ぎ出すだろうと思ってな。それでこの件は私とロクサーナ、そしてジャックの三人だけが知る機密にしたのだ」

「いや、でも俺はてっきり、ヒーゼル殿には話が通ってるモンだと……」


 と、釈明するようにジャックが言えば、そんな彼をヒーゼルがキッと睨んだ。どうもヒーゼルは、カルロスが秘密を打ち明ける相手として自分よりジャックを選んだことが不満らしい。


「勘違いするな、ヒーゼル。私がこの件をお前に話さなかったのは、お前を信用していないからではない。私が打ち明けた二人以外は知る必要のないことだと判断したからだ」

「そうさの。ほいでわーもそれに同意した。竜騎士も己の舌は御しきれんと言うからのう。エレツエル神領国が義勇軍に接近してきたと知れば、なにゆえきゃつらの力を借りんのかと、カルロスの方針に反発するもんが出てきて要らぬ混乱を招いたじゃろう」

「でもー、神領国がこの辺じゃ一番潤沢な兵力と物資を持ってるのは事実ですよねー? それにー、秩序の神トーラの神子まで義勇軍についたってなれば、さすがの侯王カルヴァンも手出しができなくなると思うんですけどー、カルロスさんはどーしてそれを断ったんですかぁ?」


 グニドは必死でカルロスたちの話についていこうと、発言者を右へ左へ忙しなく追いかけた。その度に頭の上でヨヘンが「うおっ!?」とか「ひぃっ!?」とか言ってるが、正直うるさい。揺れるのがイヤなら、ルルの頭にでも移ってほしい。


「ならば逆に訊くが、マナ。仮に我らがエレツエル神領国の力を借りてこの国を統一したとして、彼らはそれを祝福したのち、何の見返りも求めず去ると思うか?」

「えっとー、とりあえず今までの神領国のやり方を見るにー、まずこの内乱で義勇軍に恩を売ったあと、その恩を振り翳して同盟国になれって言ってきますよねー? で、晴れて同盟が成立したら、今度は北のアマゾーヌ女帝国あたりを攻めるから、列侯国からも兵を出せって言ってくるような?」

「そして女帝国を制圧したあと、度重なる内乱と外征で疲弊した列侯国に一気に攻め込み、この地を根こそぎ奪い取る」


 人差し指を顎に当てて話すマナの言葉を引き取ったのは、部屋の奥で炯々と目を光らせたウォンだった。

 その言葉を聞いて、ヒーゼルやトビアスが顔色を変える。カルロス、ロクサーナ、ジャックの表情には変化がないところを見ると、三人は初めからその顛末を予測していたのだろう。


「そういうことだ。いずれそうなると分かっていて、押し売りされる恩とやらをわざわざ買う輩がいるかね?」

「んー、確かにそーですねー。でもー、それなら内乱の間だけ神領国の力を借りて、あとの約束は反故にするってこともできたんじゃ?」

「マナ、お前、意外とあくどいな」

「なによー、ジャック。人聞きが悪いわねー。せめて策略家と言ってくれる?」

「まあ、確かに私もそれは考えた。だがいくら神領国の評判が地に落ちているとは言え、軍事的支援を受けておきながら用済みになった途端矛をさかしまにするというのは外聞が悪い。第一、たとえ一時的にでも我らが神領国と手を組んだとなれば、北をかの国に脅かされているアマゾーヌ女帝国が黙ってはいないだろう。そうなれば女帝国と朝貢関係にある国々が、脅威の芽を摘もうと問答無用で押し寄せてくる」

「うーん、なるほどー。政治って難しいのねー」

「そもじがそれを言うのきゃえ?」

「あらー、ロクサーナ。それ、どーゆー意味かしらぁ」


 呆れたようなロクサーナの眼差しに、マナは相変わらずニコニコと掴みどころのない笑みを湛えている。その背後で、腕を組んだままのウォンがため息をついた。……ような気がした。


「まあ、そんなわけで、だ。何とも悪いことに、面目を潰されて腹を立てたエレツエル神領国は、その足で今度は侯王軍に取り入った。神子に仇為す大義名分が欲しかった侯王軍にとっちゃ渡りに船だ。それでヤツらはあっさり神領国と同盟した。自分たちにはトーラの神子の後ろ楯がある、その神子がツェデクの神子は魔道に堕ちたと言っている、ゆえにカルロス討つべしって錦の御旗を掲げるためにな」

「何とも浅はかな連中じゃの。目先の金欲しさに砂王国なぞと手を結んだことも含めて、ここまで来ると救いようがにゃーでおじゃる」


 ロクサーナがこんなときでもキラキラ輝く星色のかみを払いながら言い、ジャックも向かいで肩を竦めた。カルロスは依然窓の外に目を落としており、ヒーゼルは何か考え込むようにじっと床の一点を見つめている。


「まあ、これで状況は分かった。つまり今後義勇軍は、侯王軍の他にシャムシール砂王国、そしてエレツエル神領国とも戦争をしなければならんということだな」

「で、で、ですが、砂王国軍についてはトラモント黄皇国軍のオルランド皇子殿下が食い止めて下さっていますし、この隙にこちらも何とか一計を案じれば……」

「一計を案じるって? 魔物に拠点を蹂躙されたこの状態でか?」

「ちょっとー、ジャック。トビアスに当たらないの。魔物の件は侯王軍の工作だったって、さっき話してあげたでしょー?」

「んなこた分かってるんだよ。だがな、エレツエル神領国が侯王側についたってことは、東で砂王国軍を引きつけて下さってる殿下の背中が危ねえってことだ。ヤツらが黄皇国と義勇軍の関係に気づいてるなら、海を越えて黄皇国を攻めてくるのは時間の問題――」

「――皆、この話はここまでだ」


 と、ときにピシャリと水を打つような声がして、ざわめきが静まり返った。

 声を上げたのは、なおも窓際に立つカルロスだ。彼は仲間たちに背を向けたまま、まるで目の前の透明な板と話しているかのように言葉をつなぐ。


「各々意見はあるだろうが、それは明日改めて会議の場を設ける。まずはこの拠点の復旧と混乱の収束、そして傷ついた兵や住民の救護が最優先だ。ロクサーナ、トビアス、頼む」

「は、はい!」

「ウォンとマナは動ける兵を連れて、引き続き拠点周辺の警戒を。ジャックはウォンが連れてきたという侯王軍の捕虜から引き出せるだけ情報を引き出せ」

「はーい」

「……了解しやした、と」

「カルロス殿、俺は――」

「お前は傷の治療を受けて休め、ヒーゼル。全体の指揮は私が執っておく。グニドナトス」

「ム?」

「お前たちもよくやってくれた。今日はこのまま休んで、ラッティの傍にいてやれ。それから、ポリーに伝えてほしい。君を再び神領国に引き渡すような真似はしないと約束する、と」

「ありがとうございます、カルロスさん」


 グニドに代わって礼を述べたのはヴォルクだった。そんな彼に一瞥を向けてちょっと微笑むと、カルロスはまた窓の外へと視線を投げる。

 義勇軍の仲間たちは銘々、カルロスの指示を受けて動き出した。それを見たルルが『おわった?』と言いたげに見上げてくるので、グニドは黙ってその手を引いてやる。

 が、そこでグニドは気づいた。

 ただ一人、休め、と言われたヒーゼルだけがどこにも行かず、思い詰めたようにカルロスの背中を見つめている。


「カルロス殿」

「大丈夫だ、ヒーゼル」


 こちらを振り向きもしないまま、カルロスは言った。


「私は、大丈夫だ」


 まるで他の誰でもない、自分に言い聞かせるように。


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