第三十五話 正義の剣
人間たちの信仰の世界には、二十二の大いなる神と五十六の小さき神がいる。
これはグニドら竜人が信仰している四大精霊に比べると、かなり多い。一族の祈祷師たちと相談して四大精霊をどんなに細分化しても、恐らく七十八もの小精霊には分けられないだろう。
ならば何故、人間たちの信仰する精霊はそんなにもたくさんいるのか。
グニドは最近その答えに気づいた。自分たち竜人は火や水、大地や風といった五感で感じられるものにのみ神性を附与しているが、人間たちは違う。
彼らはそうした世界を形作る神々の他に、目では見えない、手では触れられないものをも神として崇めているのだ。
そのうちの一つが、正義神ツェデク。
カルロスを神子に選び、その強大なる力を与えた神だ。
ツェデクは人間たちが信仰する二十二の大いなる神に属するものであり、その名のとおり、彼――と形容していいのかどうかは分からないが――が司るのは水でも風でもない、〝正義〟という概念だった。
ヨヘン曰く、このツェデクという神はこの世の〝正義〟を定義する。何が正義で、何が悪か。エマニュエルにおけるすべての物事をそういう風に分け、悪とみなした者は容赦なく断罪する、それがツェデクという神の性質だ。
「カルロス殿のあの剣は、この世の〝悪〟に属する者を一振りで殲滅する」
と、ヒーゼルは言った。
「たとえそれが人間であろうと、魔物であろうとだ。だから侯王軍はあの剣を恐れている。神の意思を受けた神子に逆らうということが、この世における絶対悪だとやつらもちゃんと分かってるのさ。だから決して、直接カルロス殿に手を出そうとはしない。砂王国軍や魔物を盾にすることで、自分たちの身を守ろうとしている」
「連中は、そこまでして権力にしがみつきたいってことかい。自分は死にたくない、今の地位も失いたくない、だからたとえ神子の言うことであろうと聞く気はない、と?」
「噛み砕いて言えばそういうことだな。まあ、カルロス殿のあの力を目の当たりにして、ビビる気持ちも分からなくはないが」
「ケッ。だとしても、とんだ不信心野郎どもだぜ。自分かわいさのために神を否定するようなヤツが国王じゃ、国が乱れるのも当然ってモンだ」
馬上で肩を竦めたヒーゼルと、グニドの物入れに収まったヨヘンが何か難しい話をしている。しかしグニドはその会話の内容を理解しようと努めるより、先程目の当たりにしたカルロスの力について考える方が忙しかった。
あの、圧倒的なまでの、抗い難い、強大な力。
あんな力を使える人間がいるということを、グニドは今日まで知らなかった。ルルが胸に刻んでいるあの謎の神刻もなかなか強力な力を秘めてはいるが、それさえもカルロスの力とは比較にならない。
そう思うと、グニドは知らず呼吸が浅くなり、大竜刀を握る手が微かに震えるのを感じた。
――竜人もいつかは人間と共存を。
かつてそんな理想を解き、一族の顰蹙を買った大長老がいる。
あの人はもしかしたら、知っていたのだろうか。砂漠の外にはあれほど強大な力を持つ人間もいるのだということを。
だから人間と共に生きる道を探していた? 一族を守るために?
(ああ、長老。あなたは――)
グニドは長い首を垂れ、ぎゅっと目を閉じた。
国境を越えて列侯国に入ってからというもの、死の谷のことを忘れかけていた自分を恥じた。
長老は知っていたのだ。谷でただ暴れ、喰らい、仲間と面白可笑しく暮らしていれば良かったグニドたちには想像もつかないようなことを知り、考えていた。
どうすれば一族を、いや、竜人という種そのものを守れるか――。
(だが、おれもそれを知った)
知ってしまった。
ならば自分は、どうすればいい?
「――カルロス殿!」
そのとき、ギギギギ……と軋みを上げて開く扉の音を聞き、グニドははっと顔を上げた。
見れば砦の出口から、数人の供を引き連れたカルロスが歩み出てくる。それを見たヒーゼルが素早く鞍を下りて、カルロスへ駆け寄った。グニドはどうすべきか少し迷ったが、今は何となくカルロスに近づくことが恐ろしく、その場で待機することにする。
「カルロス殿、ご無事で」
「ああ。私は無事だが、ヒーゼル、その腕はどうした」
「あーっと、これはまあ、出動した先で色々ありまして……ちょっと罰焼けしただけなんで、大丈夫です」
「人はそれを大丈夫とは言わん」
「いたっ! いたたた! わ、分かりました、大丈夫じゃないですごめんなさい!」
カルロスは表情こそ変えなかったが、ヒーゼルが神力を使い果たしたことを知ると、布で吊られた彼の腕を力いっぱい拈り上げた。これにはさすがのヒーゼルも悲鳴を上げて前言撤回し、どうにかカルロスの制裁から解放される。
「で、どうだった、村の様子は?」
「む、村を襲っていた魔物の群は何とか撃退しました。しかし被害は深刻で……一応、俺が率いていった手勢をあちらに残してはきましたが、再建には長い時がかかるかと」
「そうか。ならば住む家を失った村人の保護について、皆で審議せねばならんな」
「ええ。しかし、その前にこの騒ぎを何とかしないと……つかぬことをお訊きしますが、カルロス殿は今までどこで何を?」
「すまん。思わぬ邪魔が入って、後手に回った」
言って、カルロスはため息をつくと、羽織っていた緋色の外套の前をちょっとめくった。ヒーゼルは一瞬きょとんとしてそれを見つめ、そしてたちまち顔色を変える。
その只事ならぬ豹変ぶりに、グニドも気になって首を伸ばした。ちょうどヒーゼルの陰になって見えないところを覗こうと伸び上がり、そして目を丸くする。
ヒーゼルが血相を変えた原因は、カルロスの左側腹部にあった。それまで外套で隠れていて分からなかったが、そこには刃で引き裂かれたような痕があり、白い服の下からカルロスの肌が覗いている。
ただ、そこに血の痕はなく、代わりに何か青色の液体で汚れた形跡があった。あの液体は一体何だ? とグニドが首を傾げると、ときにヴォルクが足元で言う。
「――神子の血だ」
「何?」
「神子の血は、青い。神に選ばれた者の血は、神の血と同じ色に染まるんだ」
――血が、青い?
ヴォルクの発したその言葉がにわかには信じられず、グニドは再びカルロスを見やった。が、その間にも向こうでは、険しい顔をしたヒーゼルがカルロスに詰め寄っている。
「侯王の手の者ですか。どうりで顔色が……」
「いや、それが今回は事情が違うようでな」
「事情が違う? いや、それよりまずお体は」
「無事だ、と言った。私には《義神刻》の恩寵がある。傷はすぐに癒えたし、残った毒もじき消える」
「毒? 毒ですって? 駄目です、そんなお体ではとても――」
「私のことはいい。それよりも」
立ち塞がろうとするヒーゼルを押しのけて、ときにカルロスがこちらを見た。
瞬間、正面からばちりと目が合い、グニドは困惑する。――自分が何かしたのか? そう思ったが、どうやらその予想は外れた。カルロスの視線はグニドを見たあと、すぐに獣化したままのヴォルクへと移される。
「そこの獣、ヴォルクだな?」
「はい、そうです」
「すぐに私の部屋へ。ラッティが刺客から私を庇った。今、治癒術を使える部下に治療させているが、毒を受けている」
ぞわり、と、グニドの鬣が総毛立った。同時にヴォルクとヨヘンの毛並みも逆立つ。
刹那、ヴォルクが地を蹴って駆け出し、矢のように砦へ飛び込んだ。それを見たヨヘンも、慌てて物入れから身を乗り出す。
「あっ、お、おい、待てよヴォルク! オイラも……!」
「グニドナトス。お前はまだ戦えるか?」
と、今度は自分に声をかけられ、グニドはピクッと頭を上げた。塔の上にいたときは分からなかったが、確かに今のカルロスは顔色が悪い。ドク、というのはたぶん毒のことだ。ということはカルロスもそれに冒されているのか。
「これだけの魔物を片づけるには、私が出ねばならん。だがヒーゼルはこの様だ。代わりに援護を頼んでも?」
「カルロス殿!」
「お前は虹神聖堂へ行け、ヒーゼル。私が狙われたということは、ロクサーナの身も危ない」
「どういうことです?」
「詳しい説明はあとだ。ウニコルニオからジャックが戻ったので先にやったが、聖堂には居住区から女子供が避難している。恐らくマルティナやエリクもだ。そこをもしやつらに襲われたら、あれ一人ではどうにもならん」
またもヒーゼルの顔色が変わった。自分のつがいの名を出され、動揺した様子だった。そう言えばヒーゼルは先程もつがいと息子のことを気にかけていたようだし、二人の名を出されれば嫌とは言えないのだろう。
しかし、二人のもとへ行けばカルロスを守ることはできない。ヒーゼルはそれゆえに迷っている様子だった。
そんな彼を一瞥し、グニドはカルロスへ向き直る。体調が思わしくないのだろう、カルロスは顔色こそ土気色だったが、しかしその茜色の双眸は燃えているように、グニドには見えた。
「ルルト、ポリーハ?」
「分からん。部下の話では、魔物の襲撃に遭う前に砦を出たという話だ。だが最初に鳴った警鐘を聞いていれば、ひとまず安全な場所へ避難しているだろう。それこそ聖堂かどこかにな」
「ムウ……」
二人の安否が分からない。ラッティは重体だ。本当はどちらも心配でたまらない。ルルたちの居場所が分からないというのなら、今すぐにでも探しに行きたい。
だがグニドは数瞬思い悩んだ末、ぶるぶると頭を振った。それから腰の物入れに手を伸ばし、そこからヨヘンを掴み出す。
「おわ!? お、おいグニド、何を……!」
「ヨヘン、オマエ、ヒーゼルト一緒、行ク」
「何だって!?」
「ルルトポリー、探ス。オレ、カルロス、手伝ウ」
「け、けどよ、けどよ! ラッティだって心配だし、おまえさんも……!」
「オレ、マダ戦エル。ダガ、ルルトポリー、心配。ダカラ、オマエニ、頼ム」
言い聞かせるようにグニドが言えば、ヨヘンはしゅん、とヒゲを垂れた。
しかしそうしてしばし考え込むと、あとは自棄になったように拳を振り上げて、
「あー、もう! 分かった、分かったよ! その代わり、戻ってきたらどんな風に魔物をやっつけたのか詳しく話して聞かせろよな! チューッ!」
と、グニドの右手をぽかぽか殴る。
「ウム。恩ニキル」
だからグニドも先程覚えたばかりの言葉で返して、ニッと口の端を持ち上げた。
これで話は決まりだ。グニドはヨヘンの身柄をヒーゼルに託し、カルロスと共に行くことになる。
出発の直前、ヒーゼルはウォンから借りてきた二百の兵を更に半分に割って、そのうちの百人をカルロスの護衛につけた。
カルロスは「過保護だな」と呆れていたが、ヒーゼルとしてはそれでも譲歩した方なのだろう。彼はしつこいくらい「カルロス殿を頼むぞ」とグニドに言い含めると、自らは再び馬に乗り、聖堂の方へと駆け去っていく。
「すまんな、グニドナトス。お前も連戦で疲れているだろう」
「否。竜人ノ戦士、倒レルマデ、イツマデモ戦ウ」
「お前までヒーゼルのようなことを言うのだな。あれも放っておくと死ぬまで剣を振るっている。だがな、死ぬるために戦う戦など戦ではないぞ」
「ドウイウ意味ダ?」
「そういうものは、人間の言葉で〝自殺〟と言うのだ。戦とは生き延びてこそ。死ねばそこですべて終わりだ。何も守れず、何も変えられぬ。それでは戦う意味がない。違うか?」
土気色の顔のままそう言って、カルロスはうっすらと笑った。しかしその様子にグニドは首を傾げ、至極もっともな疑問を口にする。
「ナラバ、オマエ、何故休マナイ?」
「私は神子だ。神子は首と体を切り離されるか、心臓を一突きにされない限り死なん。あらゆる傷は大神刻の力によってすぐさま癒され、いかなる毒も浄化される」
「ムウ……信ジラレン」
「ははは、ならば信じさせてやろう。行くぞ」
笑ってそう言うが早いか、カルロスは身を翻し、若い兵が連れてきた黒い馬に跨った。彼がひとたび鞭をくれれば馬は颯爽と走り出し、グニドもそのあとに続く。
先刻グニドたちがほとんど魔物を片づけた兵舎区は素通りし、まっすぐに南を目指した。やはり魔物の大群はこの城の南から現れたらしく、そちらへ向かえば向かうほど魔物の数が増えてくる。
最も被害が深刻なのは、ヒーゼルたちが『居住区』と呼んでいた一帯だった。そこには比較的小さな建物――あれは人間たちの巣だ――が密集して並んでいるのだが、そのほとんどが魔物の襲撃によって破壊されている。
開けた道へ飛び込めば、そこには建物の瓦礫や人間たちの死体が散乱していた。それもただ殺されるだけでなく、あちこちを魔物に喰われているので、あたりには砂王国の都・シェイタンにも負けない悪臭が満ちている。
逃げ遅れたのだろうか、道端ではその惨状を見て嘔吐いている人間もいた。だがグニドがそちらに気を取られた瞬間、前方から聞き覚えのある声が響く。
「あー! カルロスさーん! ご無事で~!」
聞くと気が抜けてガクッとくるその声は、言うまでもなく傭兵隊のマナのものだった。ウォン率いる傭兵たちと共に横道から現れたマナは、魔物の血にまみれながら笑顔で手を振っている。まるで通りに立ち込める悪臭など微塵も感じていないかのようだ。
「マナ、それにウォンか。戻っていたのだな」
「はい~。そっちにはヒーゼルが行きませんでしたか?」
「ああ、先程合流したが、あの男は聖堂の救援へ向かわせた。こちらの状況はどうなっている?」
「逃げ遅れてた住民はみんな避難させましたよぉ。ついでにカルロスさんがやりやすいように、魔物を一ヶ所に集めておきました~」
「ほう、それは有り難い。で、集めたというのはどこに?」
「あれでーす!」
マナは笑顔でそう言うと、たった今自分たちがやってきた横道の方を指差した。
次の瞬間、その横道から鉄砲水のように大量の魔物が溢れてくる。これにはグニドもぎょっとした。ウォンやマナはすっかり平気な顔をしているが、どうやら彼らは居住区のあちこちを駆け回り、魔物を集めながらここまで逃げてきたらしい。
「……なるほど、見事だ。だがもし私が来なければどうするつもりだった?」
「そのときはウォンが頑張ったと思いますけどー、カルロスさんがいらっしゃるのは先に視て分かってましたからー」
「そうか。いや、そうだな、愚問だった。では私は君が視たとおり、皆の期待に応えるとしよう」
ニコニコ笑うマナと、特に驚く様子もないカルロスの会話に、グニドは思わず双方を見比べた。自分の耳が正しければたった今、マナはカルロスが来るのを先に見たと言わなかったか。
だが、未だ到着していない者が来るのを先に見るとはどういうことだ?
まったく意味が分からず、グニドはなおもカルロスとマナを交互に見やった。が、カルロスはそんなグニドに意味深な視線を投げると、微かに笑って「随伴ご苦労」と馬を進める。
彼はただ一騎、洪水のように押し寄せる魔物の群に向かって馬を歩ませた。
それを見たグニドは慌てて追いかけようとしたが、寸前、横からそれを阻んだ槍がある。
「邪魔だ。そこで見ていろ」
グニドの行く手を阻んだのは、マナと同じく魔物の血を大量に浴びたウォンだった。その黄金色の瞳に睨まれると、グニドの全身をビリビリと痺れるような畏怖が駆け抜ける。
――こんなのはおれらしくない。そう思いながらも、グニドはたじたじになって数歩後ずさった。
どういうわけかは分からないが、このウォンという男には逆らえない。逆らってはいけない、と本能が言う。まるで見えざる手に頭を押さえつけられているみたいだ。相手をわきまえろ、と。
「へー、びっくりー。キムの一声って、竜人にも有効なのねー」
「……マナ。何度も言わせるな。俺の名は」
「あはは、やだー、そう怖い顔しないでよー。別に今は傭兵隊の仲間しかいないんだからいいでしょー」
「良くないから言っている」
「もー、相変わらずお堅いんだからぁ」
「だから、堅いとか堅くないとかの問題ではないと、何度言ったら――」
「――でもねー、大丈夫。この竜人は、カルロスさんでも斬れないわ」
そのとき、すっと目を細めてマナが言い、ウォンが微かに眉を動かした。
この竜人はカルロスでも斬れない?
どういう意味だ、とグニドは尋ねようとして、しかし瞬間、視界が真っ赤な閃光に覆われる。
突風が吹いた。グニドはとっさに腕を翳して顔を庇い、ウォンたちの向こうに見えるカルロスの背に目をやった。
彼が剣から放った緋色の風が、眼前に迫っていた魔物の群を一掃する。一撃だ。たったの一撃で、五十や六十はいたと思しい魔物の群が瞬時に塵と化していく。
それだけでも目を疑うような光景だというのに、グニドは更に信じられないものを見た。
〝悪〟を刈り取る神の刃。
そこから発せられた死の風は、魔物以外のもの――たとえば建物の壁とか道に転がっている死体に当たっても、擦り抜ける。
つまり、傷一つつかないのだ。
そうして突風がやむ頃には、通りを埋め尽くさんばかりだった魔物の群は、一匹残らずいなくなっている。
『――ねえ、竜人』
今度は耳を疑った。
驚愕したグニドがはっとして見上げた先には、こちらを見つめて微笑んだマナがいる。
『あなた、カルロスさんの希望になれるかも。良かったらあの人の傍にいてあげて。あの人に斬れない相手は、とても貴重だから』
グニドは、開いた口が塞がらなかった。
マナがにこりと笑って紡いだそれは紛れもなく、グニドのよく知る竜人の言葉だった。