第三十三話 神子は知っている
何と形容したらいいのか分からない、とにかくおぞましい声でそれは吼えた。
吼えると口から――ルルなんて一口で丸呑みにされてしまいそうな大きな口だが、牙はない――得体の知れない液体がびちゃびちゃと跳ね飛んで、臭気がいっそうひどくなる。
それにはやはり目玉がなかった。頭はつるりとしていて丸く、形だけ見れば愛嬌がある。
けれど気味の悪い色をした皮膚は何か膜で覆われているのかぬらぬらしていて、気持ち悪かった。背中には背びれのようなものが生えているものの胸びれはない。代わりに手が――そう、不格好に長い手と足が生えている。
その手はとても大きくて、指が三本しかなかった。太い指はいずれも鋭く尖っており、まるでそこだけ岩でできているみたいに見える。
たぶん、あの爪を駆使して土の中を進んできたのだろう。ずるり、穴から這い出してきた胴体の後ろには尻尾がある。
長くて太くて、グニドの尻尾に似ているけれど、決定的に違うのは先端に生えた尾びれだ。尻尾の先端が二股の骨みたいに突き出して、その間に膜が張っている。骨みたいな部分は鋭く、硬そうで、あんなもので刺されたらルルじゃなくても一巻の終わりだ。
「チッ、よりにもよって地底魚人きゃえ……! トビー、皆を連れて逃げんしゃい!」
ゼムルイバ、というのがこれの名前なのだろうか。扉から溢れようとする人間の中からロクサーナが飛び出してきて、背後にいるトビアスへ向かって叫んだ。
トビアスは人波に押されながら一瞬逡巡する素振りを見せたが、すぐに頷く。彼は頭に乗せた帽子を押さえると、声を上げて皆を誘導し始めた。
「皆さん、私が安全な場所へお連れします! 散らばらないで、まとまってついてきて下さい……!」
あたりは大変な騒ぎで、トビアスの声はすぐに扉の向こうで遠くなった。本当はもっと近くにいるのかもしれないけれど、ナムたちの悲鳴とどこからともなく聞こえる魔物の咆吼とで、距離感が分からない。
「ロクサーナ様、わたくしも……!」
「わーのことは気にするでにゃー! そもじはエリクの傍にいてやりんしゃい!」
目が回るような混乱の中で、一人だけ残ろうとしたマルティナをロクサーナが追い立てた。マルティナはエリクを抱えたまま迷いを見せたものの、唇をきゅっと引き結ぶと即座に身を翻す。
「ポリーさん、来て! ルルちゃんも! ここはロクサーナ様にお任せすれば大丈夫だから!」
マルティナがそう言うが早いか、魔物が再び咆吼した。瞬間ロクサーナが右手を前に翳し、目の前に光の壁を展開させる。
その半透明の壁に向かって、ゼムルイバが勢い良く突撃した。壁を壊そうとしたのか、はたまた目が見えなくて壁に気づかなかったのか。どちらにしても壁は破れず、魔物の巨体が吹き飛ばされる。
そうして相手が怯んだ直後、ロクサーナはすかさず右手を掲げた。するとたちまち頭上にいくつもの光の槍が生まれ、それがゼムルイバ目がけて飛んでいく。――すごい。
ルルはまるで息をするように光を操るロクサーナに見とれた。が、彼女の放った槍が魔物に命中したのかどうか、それを見届けるより早く、ポリーに手を引かれて走り出す。
扉を抜け、階段を駆け上がると、思ったより眩しくて束の間怯んだ。外ってこんなに眩しかったっけ? と不思議に思って見上げれば、なんと見事に天井がなくなっている。
大きく崩れた天井の向こうには、抜けるような青空。そこからびゅうっと風が吹き込んできてルルを急かした。まだ建物が原型を留めている方向へ逃げていくナムの群に続く。だけど突然、ルルの中に居着いた風精がまた暴れ出した――危ない!
「とまって!!」
思わず足を止めたルルの叫びが矢のように飛んだ。それを聞きつけた先頭のトビアスが急制動し、こちらを振り向いてくる。
だが次の瞬間、その彼の目と鼻の先でいきなり床が吹き飛んだ。
火精の仕業ではない。硬い石の床を破って、地中から新手のゼムルイバが飛び出してきたのだ。
「きゃああああああああっ!!」
ナムたちの悲鳴が谺する。まるでその悲鳴に応えるみたいに、魔物が吼えた。
あのゼムルイバという魔物はたぶん、目が見えない代わりにすごく耳がいい。だからどこに獲物がいるか分かるのだ。
ゼムルイバはぬっと大穴から抜け出すと、ナムみたいに立って歩くのではなく這うようにしてこちらへ突っ込んできた。そのスピードがまた尋常ではない。
こちらに逃げる暇も与えず、鋭い爪の生えた腕を振りかぶり、
「――おっ、光の盾!」
魔物の爪がナムたちに襲いかかる寸前。やにわにトビアスが叫び、閃光が迸った。
直後、ナムたちの行く手に光の壁が生まれ、魔物の手が弾かれる。あれは先程ロクサーナが使っていたのと同じ力だ。どうやらトビアスもまた光の精霊を操れるらしい。彼は両手を前方に翳して、必死に光の壁を支えようとしている。
「く……! み、皆さん、下がって下さい! こ、この魔物は、私が……!」
と、トビアスは皆を誘導するもののだいぶ苦しそうだ。ゼムルイバは目の前に邪魔な壁が立ちはだかっていると分かると、怒り狂ったように雄叫びを上げてガンガン殴りまくっている。
これではたとえトビアスが光の精霊を操れても、相手に攻撃を仕掛ける隙がない。かと言って後ろは魔物の咆吼渦巻く聖堂だ。あちらへ逃げたら間違いなく別の魔物に襲われる。
何とかしなくちゃ。何とかしなくちゃ。何とか――!
「――ポリーさん、エリクをお願いします!」
「えっ!? ま、ま、マルティナさん!?」
そのとき俄然、マルティナが抱いていたエリクを下ろすや否や前方へ向かって駆け出した。彼女は戸惑うポリーを振り向きもせず、人混みを掻き分けて飛び出すと、にわかに右手を閃かせる。
「聖眠せし火の神エシュよ、魔を討つ力、我に与え給え――火焔嵐!」
石造りの壁が赤く染まった。勢い良く突き出されたマルティナの両手から飛び出したのは、生き物のように渦巻き魔物に襲いかかる炎の竜巻だった。
横向きに吹き荒れた真っ赤な旋風は光の壁を突き破り、一瞬にして魔物を呑み込む。炎の中で巨大な影が仰け反り、絶叫した。
熱風が噴き上げる。すさまじい熱量だ。ナムたちは皆悲鳴を上げて抱き合っている。
やがてその炎がやむと、ゼムルイバは倒れて黒焦げになっていた。体をテカらせていたぬめぬめはすべて蒸発してしまったようで、あちこちから薄い煙を立ち上らせている。
「やったわ……!」
一部始終を見ていたナムたちが歓声を上げた。魔物が焼けたせいであたりには耐え難い悪臭が充満していたが、皆それも気にならないくらい安堵したらしい。
けれど。
(――まだだ)
と、ルルは思った。そしてその予想は当たった。
床に倒れ伏したゼムルイバが、ぐっと両腕に力を込める。まだ息がある証拠だ。
「ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……」
その声で皆が我に返った。魔物が生きていると知って、誰もが再び恐慌の中へ放り込まれた。
マルティナが小さく舌打ちする。彼女はトビアスの隣に立って断固応戦する構えだ。そのマルティナとトビアスに、ゼムルイバが再び躍りかかった。光の壁がそれを防ぐが、相手は完全に逆上している。
「マルティナさん、もう一度……!」
「ええ……!」
マルティナの右手が閃き、長い髪が微かに浮いた。今度はもっと強力な術を使うつもりなのだろう、聞き取れないがかなり長い言葉で精霊に語りかけている。
だがそのとき、ルルは背後から近づいてくる羽音を聞いた。途端に血の気が引いていく。
振り向くと、その先には、
「ポリー――」
ルルはポリーの服を掴み、引っ張った。
それに気づいて振り向いたポリーもまた硬直する。
ルルたちのすぐ頭上。
そこにはあの翼の生えた獅子がいた。
かなり大きい。ロクサーナが倒したものよりも、更に一回り。
――挟み撃ちだ。
「ゴワアァァァァ……!!」
崩れ去った天井の向こう。そこから姿を現した獅子頭の魔物は、天へ向かって咆吼した。
かと思えば赤い目をギラリと光らせ、ルルたち目がけて急降下してくる。ナムたちは算を乱して逃げ出した。これではもう統制が取れない。
「み、皆さん、落ち着いて下さい! とにかく私たちの傍に――ぐっ……!」
みなまで言わせじ、とでもいうように、ゼムルイバが光の壁を殴りつける。トビアスはその壁を破壊されないように力を込めなければならないようで、こちらまで手が回らない。
ルルは逃げ惑うナムたちの波に呑まれた。皆が好き勝手な方角へ死に物狂いで駆けてゆくので、あっちこっちに弾き飛ばされ、知らずポリーから引き離される。
「ルルちゃん!! ルルちゃん――!!」
目が回った。ポリーの声が遠い。ぶつかられ、尻餅をつく。魔物の咆吼。ナムたちの絶叫。もう何がなんだか分からない。立たなきゃ。そう思って壁際まで這っていった。そのとき背後で、悲鳴が聞こえる。
「わああああああ!! おかあさん……!!」
ルルは目を見張り、振り向いた。視線の先で、赤い髪の小さなナムが魔物に攫われていくのが見えた。
――エリク。彼もあの騒ぎでポリーとはぐれてしまったのだろうか? 魔物の大きな手に捕まったエリクはそのまま上空まで連れ去られ、しかし何とか逃れようと泣き喚いている。
「エリク!!」
マルティナの悲鳴が谺した。彼女はとっさに駆け出そうとしたが、刹那、バンッ!と何か破裂するような音が聞こえて、隣のトビアスが吹き飛んだ。
――光の壁を破られたのだ。はっとしたマルティナにゼムルイバが襲いかかる。
彼女はとっさに応戦した。再び炎を叩きつけ、ゼムルイバを吹き飛ばす。
しかしその間にもエリクは手が届かないほどの高みへ連れ去られ、大きく口を開けた魔物が、その牙の間に、エリクを、
「エリク――!!」
マルティナの悲痛な叫びが、ルルを打った。
瞬間、立ち上がったルルの胸で、神刻が光を放つ。
「――レゲツ・クロー・ジェファー!!」
轟音が大地を震わせた。稲光が走り、一筋の雷光が天空から魔物の胸を撃つ。
雷の矢に射抜かれた魔物が、ビクンと震えて動きを止めた。羽ばたきが止むと、魔物はそのまま声も上げず地上へ向けて落下する。
「エリク!」
魔物が地面に激突すると、エリクの小さな体はその衝撃で放り出された。それを見て叫んだマルティナに代わり、ポリーがわっと駆け出していく。
そのやわらかな毛皮が、飛んできたエリクを抱き留めた。勢い余ってポリーはそのまま尻餅をついてしまったみたいだけれど、二人とも無事だ。
それを確かめて、ルルは心底ホッとした。ホッとすると体の力が抜けて、へなへなと座り込んでしまった。
良かった。良かった……。
泣きたくなって胸を押さえる。けれどもそのとき、ルルの隣に誰かが立った。
ロクサーナだ。
地下に現れた魔物は退治してきたのだろう、彼女は夜明けの空によく似た色の瞳でルルを見下ろすと――何故だかとても深刻な顔をして、言う。
「そもじ。その言葉、どこで覚えた?」
「え?」
「そもじのような幼子が、何故古代ハノーク語を――」
ロクサーナの言葉の先は、マルティナが起こした爆発によって掻き消された。ロクサーナも自分でそれが分かったのだろう、トビアスを庇いながら魔物と戦っているマルティナを顧みると、ため息をついて舌打ちする。
「いや、まずはアレを片づけてからじゃの。こんな場所ではおちおち話も――」
と、言いかけて、ロクサーナは何故か言葉を止めた。
それどころか視線も魔物ではないどこかへ向けたまま、今にも歩き出そうとしていた足を引っ込める。
「……なんじゃ。あやつめ、帰っておったのけ」
ロクサーナの言葉は他のナムたちの使う言葉とは少し違って聞き取りにくい。だからルルは彼女が何を言っているのか知りたくて、その視線の先を追った。
そこに、すらりと背の高い人影がある。その人影は崩れた建物の二階に佇んで、真下の魔物を見下ろすと、くるっと手の中で剣を回転させる。
「――おい、トビー。お前それでも男か? 人妻に戦わせて自分はへばってるなんて、情けねえにもほどがあるぞ」
「えっ……」
その声で初めて頭上の人影に気がついたのだろう。トビアスが彼を見上げ、目を見張って声を飲んだ。
そんなトビアスの反応がよほど愉快だったのか、男はニッと口角を上げる。そうして弄んでいた剣を両手で掴むや否や、二階から跳躍した。
まるでヴォルクみたいにしなやかな動き。彼は空中でくるりと器用に前転すると、眼下の魔物へ狙いを定める。
ゼムルイバがその存在に気がついたときには、もう遅かった。
彼が振り下ろした剣は魔物の脳天に突き刺さり、断末魔の叫びが響き渡る。
『……すごい』
あまりにも華麗な一撃だった。その一撃によってゼムルイバは絶命し、巨体が力なく頽れた。
男はそれを確かめて剣を引き抜くと、あとは軽い調子でひょいっと魔物の頭から飛び降りる。
そんな男を見やって、トビアスが呆れた。
「ウニコルニオに行っていたはずのあなたが、どうしてあんなところから現れるんですか。いくら何でもわざとらしすぎますよ」
「おいおい、それが九回も十回も俺に助けてもらってるやつが言う台詞かよ? もっと他に言うべきことがあるんじゃねえの?」
「私の記憶では、今回の分を数えてもまだ六回だったと思いますが?」
「んな細けえこといちいち気にすんなって。モテねえぞ」
「別に細かくありませんし、私は修道士ですのでモテなくて結構です」
トビアスは男の言葉をぴしゃりと弾く。けれども男はまるでこたえていない様子で、「あ、そ」と剣をしまった。
そうして空いた手をへばっていたトビアスへ差し出す。
トビアスは迷わずその手を掴み、笑った。
「まあ、おかげで助かりました。――おかえりなさい、ジャック」