第三十二話 会いたい
ズドン、と地面が揺れる度に、その部屋は悲鳴に包まれた。
頭の上からパラパラと細かい砂が落ちてくる。地上で何かが暴れている気配。それが怖くて怖くて、ルルはポリーのやわらかな毛並みに抱きついた。
するとポリーもそんなルルを抱き返しながら、まるで壊れたみたいに「大丈夫ヨ大丈夫ヨ大丈夫ヨ大丈夫ヨ大丈夫ヨ大丈夫ヨ……」と繰り返す。ちっとも大丈夫じゃないようだ。
「グウォアァァァ……!!」
遠いが、どこからかおぞましい咆吼が聞こえた。途端にルルの胸を押し潰そうとする、真っ黒で禍々しい感情。
――来るよ、来るよ、来るよ、来るよ……。
耳元でそんな囁きが聞こえる。否、正確にはそれは言葉ではないのだけれど、ルルにはそういう囁きなのだと分かる。風の精霊が先程からルルの胸に運んでくる、この黒い靄のようなものは魔物たちの〝声〟だ。
殺セ殺セ殺セ殺セ……喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ……!
たぶんそんなことを言っている。恐ろしい。こんな〝声〟をずっと聞いていたら、頭がおかしくなりそうだ。
「みっ……みみみみ皆さん、おちっ、落ち着いて下さい! だ、だだ大丈夫です、こっ、この地下倉庫の扉は鉄製でとても頑丈ですので、そそそう簡単に魔物が侵入してくることはないかと……!」
と、ときに暗い部屋の入り口付近で、誰かが頓狂な声を上げていた。顔を上げて見やれば、そこに佇んでいるのは何だか重そうな服にひらべったい帽子を被った黒鬣の人間――確かポリーはトビアスさまと呼んでいた――だ。
「いっ、今、地上では義勇軍の皆さんが果敢に応戦して下さっています! こ、ここここここは偉大なる虹神ケシェットの加護が与えられた神聖な場所、そっそれだけできっと魔物を遠ざけます……!」
と、トビアスが言った矢先から、頭上でドゴーン!とものすごい音がする。また砂埃が降ってきて、隠れている皆が悲鳴を上げた。あれは絶対に聖堂の何かが破壊された音だ。――魔物は全然遠ざかってない。
「だっ、だっ、だっ、大丈夫デス! いいいいイザとなったらここここには食糧や油の備蓄ダッテああありマス……! ま、魔物の脅威が去るマデは、こっここに隠れていれば安全デ――ぐふっ!」
よほど動揺していたのだろう、ついにはグニドみたいな片言になって必死に両手を振っていたトビアスが、突然何かに吹き飛ばされた。というか横っ腹に強烈な飛び蹴りを喰らって、ぽつぽつと灯る火の光が届かない、部屋の隅の闇溜まりに吸い込まれていった。
彼に無慈悲な退場を強いたのは、まるで星みたいにキラキラした鬣を持つメスのナム――ロクサーナだ。彼女はトビアスが消え去った方角を見やって嘆息すると、彼に代わって皆の前に佇み、腕を組んでふんぞり返る。
「良いきゃえ、皆の衆。今ほどトビーが申したとおり、ここにおる限りは何も案ずることはにゃー。何せここには光の神子たるわーがおる。わーに宿りし光神オールの力をもってすれば、チンケな魔物どもを蹴散らすことなぞ造作もにゃー。そもじらの身の安全は神に代わってわーが約束するき、安心しんしゃい」
まったく怖じる様子もなく、むしろ堂々と言い放たれたロクサーナの言葉は、トビアスのそれとは打って変わって効果絶大だった。そうよ、ここには神子様がいるわ、神のご加護がある、ロクサーナ様がいれば大丈夫――そんな安堵の囁きがあちこちから聞こえてくる。
そこはサン・カリニョの砦付近にある聖堂の地下。ルルはその地下に設けられた大きくも小さくもない部屋で、ポリーの他たくさんのナムたちと身を寄せ合っていた。
どうもグニドたちが魔物退治に出動した直後から、サン・カリニョに暮らす女子供――つまり、メスのナムと小さいナムということだ――は念のためこの聖堂に避難するよう言われていたらしく、入り口をくぐると既にたくさんのナムがいたのだ。
ルルとポリーはそんな人々に紛れて、魔物の襲撃から逃れてきた。目の前で大きなナムが魔物に食べられてしまったときはどうなることかと思ったが、あのときもルルたちを救ってくれたのはロクサーナだった。
彼女が扱う神術はすごい。手がピカッと光ったと思ったら、そこから光の槍みたいなのが生まれて魔物へ向かって飛んでいく。
その槍が刺さると、魔物はまるで強烈な光に掻き消されるように消えていった。ルルみたいに燃やして消し炭にしたり、風の刃で切り刻むのとはまったく違う。別格の力だ。
ロクサーナはそうして聖堂周辺に現れた魔物を蹴散らすと、ルルたちをこの暗い部屋へ案内してくれた。ここは地下だからマドがなくて少し息苦しい。死の谷にいた頃はずっと地下暮らしだったルルでさえそう思うのだから、体の大きなポリーなどはよほど窮屈な思いをしているだろう。
ナムがたくさん集まっているせいもあり、暑い。空気が淀んでいる。
「ルル、だいじょうぶ?」
そのとき、ナムたちの間にぽつぽつと灯された光――あの白い棒みたいのは『蝋燭』というらしい――の間を縫って、小さな影がやってきた。
声をかけてきたのは、エリクだ。これだけ魔物が暴れていたら彼だって怖いはずなのに、それでもルルの心配をしてくれている。
「ね、さっきのケガ、まだなおってないよね? ロクサーナさまにおねがいする? ケガしたままだと、まものがきちゃうよ」
「……? ケガすると、まもの、くる? なんで?」
「まものは人間の血のにおいをかいでくるんだ。どんなちっちゃなキズでもにおいがわかるんだって、おとうさんが言ってた。だからケガ、なおさないと」
「そ、そうなの? だったら、ルル、なおす。――アメル・バティアン・メック」
魔物が来る、と脅されてようやくケガのことを思い出したルルは、急いで水精に怪我の治療をお願いした。するとルルの全身が淡い青色の光に包まれ、ゆっくりと一呼吸する間に両腕の傷が綺麗になくなってしまう。
それは一瞬の出来事だった。エリクはあんなにたくさんあったルルの傷がすうっと消えてしまったことに驚いたようで、大きな目を何度も瞬かせた。
しかしそのとき、ポリーが慌てた様子でルルをぎゅっと抱き寄せる。そうして忙しなくあたりを見渡すと、ルルの小さな体を隠すように背を丸めた。
「る、ルルちゃん! その力はここでは使っちゃダメだって、グニドに言われたでしょ?」
「でも、ケガすると、まもの、くるって」
「そ、それはそうなんだけど……! 怪我を治すならロクサーナさまやトビアスさまにお願いすればいいのよ。ルルちゃんは人前で力を使っちゃダメ!」
ポリーはルルの耳元で、囁くようにそう言った。けれどもルルはちょっと不服だ。確かにグニドには『今後おれがいいと言わない限り力は使うな』と釘を刺されたが、どうして使ってはいけないのかルルには分からない。谷にいた頃は長老様に迷惑がかかるから、と言われて一応は納得していた。だけどその長老さまはもういない。
それにあのヒーゼルとかいう赤髪のナムだって、この前グニドと戦ったとき精霊の力を使っていた。なのにどうしてルルだけダメなのか?
ルルはグニドに説明を求めたが、何だか難しい話をたくさんされてよく分からなかった。要約すると、ルルの力は他のナムが使う力とは似て非なるものだからダメなのだとか。
だけど精霊の声が聞こえるルルにしてみれば、ヒーゼルが使っているあの力だってルルのと同じ精霊の力だ――もっともヒーゼルの周りにいる精霊たちは寡黙で、なんとなくトゲトゲしていて、話しかけるとツンとそっぽを向かれるか威嚇されるか、そんな感じなのだけれど。
彼らはルルが近づくと何故だか怒る。だからどちらかと言うと、ポリーがよく使うあの不思議な石の中から聞こえる声の方が、ルルがいつも聞いている精霊たちの声に近い。石たちはルルが耳を澄ましているといつもこう尋ねてくる――〝仲間か?〟〝仲間か?〟と。
「――エリク。何やってるの、こっちへ来なさい」
と、ときにエリクを呼ぶ声がして、呼ばれたエリクははっと声のした方を振り向いた。そこには髪の長いメスのナムがいて、エリクへ向けて小さく手招きしている。
「おかあさん、この子、ルル! おとうさんが言ってた子だよ。こっちはね、えっと、ポチ族のポリー!」
けれどもエリクはその手招きに応じるどころか、ぱっと嬉しそうな顔をしてルルとポリーを指し示した。それを見たメスのナムは若干困ったような、それでいて驚いたような顔でこちらを見て、姿勢を低くしたままエリクの傍へやってくる。
「すみません、うちの子がお騒がせして……」
「い、いえ。えっと……」
「はじめまして、ですわね。わたくしはこの子の母で、マルティナと申します。先日は夫がご迷惑をおかけしたようで……」
「い、いえ、迷惑だなんてとんでもない! あ、あの、あの、ワタシは獣人隊商のポリーと言います。ま、まさかこんなところでヒーゼルさんの奥さまにお会いするなんて……」
ポリーが慌てふためきながら答えると、メスのナムはにっこりと微笑んだ。ここにいる人たちはみんな、ポリーを見ると最初は変な顔をしたのに、この人はすごく優しそうだ。ルルはそれだけでこのナムに好感を覚えた。
どうやらマルティナという名前らしいそのナムは、毛先の方だけ波打った赤茶色の髪を真ん中から綺麗に分けている。深い緑色の目は大きくてキラキラしていて、まるで陽の光を照り返すオアシスの泉みたいだ。
ゆったりとした喋り方からはとてもお上品な印象を受けたけれど、そんな印象とは裏腹に、マルティナはぴったりと体の線が出るような服装をしていた。
生成りの上衣の袖口はルルの服みたいにたっぷりしていないし、鈍色の脚衣も足首のあたりがシュッとしている。とても動きやすそうな格好だ。メスのナムはルルやポリーみたいなふわふわした服を着ている印象だったけど、マルティナの格好はどちらかと言うとラッティに近かった。さすがにおヘソは出していないけど。
「夫から話は聞きました。何でもしばらく義勇軍に力をお貸し下さるとか……キャラバンのメンバーは全部で六人と伺いましたが、他の皆さんは?」
「あ、ええと、他の仲間はほとんどヒーゼルさんと一緒に魔物退治に……隊長のラッティは残っていますが、本砦の方に置いてきてしまって……」
「そう。だけど本砦であればカルロス様がいらっしゃるはず。あの方のお傍にいるのであれば、何も心配いりませんよ。同じ神子でもない限り、あの方に比肩し得る者などこの地上にはおりませんから」
ポリーとマルティナは何か難しい話をしている。ルルはその会話の断片しか分からなかったけれど、再びにっこり笑ったマルティナにポリーが見惚れているのを見て、たぶんここなら安全だとか、ラッティは無事だとか、マルティナはそんなことを言っているのだろうと思った。
「で、で、ですが、あの……この魔物の群は……ヒーゼルさんたちが討伐へ向かったはずなのに、どうして……」
「わたくしにも詳しいことは分かりません。ですが恐らく討伐隊が向かったのとは別の場所にも魔物の大群がいて、それがこの砦へ押し寄せてきたのでしょう。そうでなければ説明がつきませんから」
「そ、そ、そ、そうなんでしょうか……あ、あの、でも……こんなことは考えたくないのですけど、もし……もしもヒーゼルさんたちの身に万一のことがあったんだとしたら――」
「大丈夫。それはありませんわ」
「ど、どうして分かるんです?」
「うちの夫は〝殺しても死なない〟と、カルロス様からお墨つきをいただいてますの。ですから連れて出た討伐隊共々、必ず無事に戻ります」
二人が何を話しているのかは、やはり分からない。けれどもルルはポリーが不意に瞳を潤ませ、こくん、こくんと頷くのを見た。
一方のマルティナはなおも微笑んでいる。地上から絶えず魔物の暴れる音やおぞましい咆吼が聞こえてくるというのに、まるでそんなのちっとも耳に入っていないかのようだ。
「ルル、だいじょぶだよ。まものはみんな、カルロスさまとおとうさんがやっつけてくれるからね」
と、ときにエリクがそう言って、ルルの手をぎゅっと握ってくる。エリクの手はルルのそれより小さかった。しかもちょっと震えている。
でもエリクはルルと目が合うと、ニッと口の端を上げて笑ってみせた。その笑い方がびっくりするくらいヒーゼルに似ている。
そう言えばグニドが昨日、〝エリクはヒーゼルのムスコ〟だと言っていた。ムスコというのが何なのかよく分からないけれど、二人は鬣の色も一緒だし、きっとルルがグニドに育てられたみたいに、エリクもヒーゼルが育てたに違いない。
そのヒーゼルは無事だと、マルティナはポリーにそんなことを言っていたみたいだった。
だとしたらきっとグニドも無事だ。すぐに砦の異変に気づいて戻ってきてくれる。そうなればもう安心だ。グニドがいれば負けない。グニドがいれば大丈夫。グニドなら必ず守ってくれる。グニド、グニド、グニド……。
――早く会いたい。
そんな風に思ったら、図らずも涙が滲んだ。
早く、早く。早く会ってグニドに謝りたい。グニドの無事を確かめたい……。
けれど、そのとき。
突然ルルの胸の中に、するっと風精が入り込んだ。
そうしてぐるぐると渦を巻く。忙しなく、慌てたように、渦巻きながら、騒ぐ。
――来るよ!
ルルはハッとした。それはルルがぺたんと座っている石の床、更にその下から聞こえてきた。
どす黒い感情。どんどん来る。迫り上がってくる。ルルたちの真下。土精の悲鳴。ガリガリガリガリ。耳の奥で響く。ルルは弾かれたように立ち上がった。そして、叫ぶ。
「――ポリー! まもの! したからくる!」
皆が驚いたようにこちらを向いた。その中でもポリーはとびきり驚いている。
ガリガリガリガリ。近づいてくる。皆にはこの音が聞こえないのか。
「つちのなか! きこえる! にげよう!」
「そ、そんな、土の中からなんて……」
と、誰かが否定するように呟いたとき、サッと動いた影があった。
ロクサーナだ。彼女は素早くしゃがみ込むと、床に耳を押し当てる。そして数瞬ののち、目を見開いた。
「――トビー! 扉を開けんしゃい!」
「えっ」
「あのめのこの申すことは真じゃ。何ぞ近づいてくる! ここを出るぞえ!」
ロクサーナが叫ぶのを聞いて、皆の顔色が変わった。打たれたように駆け出したトビアスが閂を外し、重い扉を渾身の力で押し開ける。
ギ、ギ、ギ、ギ、と不安になるような音がして、ゆっくりと扉が動いた。二枚の分厚い鉄板の間に、ナムがようやく一人通れるくらいの隙間が開く。
その隙間に向かって、わっとナムたちが殺到した。まだ扉が開ききっていないのに、皆恐慌を来して我勝ちに逃げ去ろうとしている。
いくつもの蝋燭が倒れ、部屋はどんどん暗くなった。恐怖からか、小さいナムたちが泣き叫んでいる。すごい騒ぎだ。
ルルもポリーに手を引かれて走った。隣ではエリクがマルティナに抱き上げられ、彼女の首にしがみついている。人波が扉にぶつかって更に隙間を広げた。行き場をなくした濁流みたいに、ナムたちがどんどん部屋の外へ溢れていく。
そのときだった。
突然ルルたちの背後ですさまじい音がして、あたりは悲鳴に包まれた。
細かい石の破片や土くれがいっぱい飛んでくる。それからルルを庇うように、ポリーが覆い被さった。暗い部屋が砂埃でいっぱいになる。その砂埃の向こうに、何かいる。
「ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……」
それは低く、錆びた鉄が軋むような声で鳴いた。同時に異様な、何か腐ったような、生臭い匂いがあたりに充満する。
砂埃の向こうから現れたのは、目がない魚の化け物だった。
その化け物がぶち開けた大穴から頭を突き出し、立ち竦むルルたちをゆっくりと、振り向いた。