第 三 十 話 一難去って
なんてことだ、と、グニドは己の失態を呪った。
あの、ヤート・クラーブが死に際に撒き散らした強烈な死臭。それが村全体をすっぽりと覆っていたせいで、グニドは戻ってきた魔物の接近に気づけなかった。
いつもならば彼らの発する不快な瘴気の匂いが、グニドにその存在を知らせたはずだ。だが今回ばかりはそれを察知できず、完全に後手に回った。村は再び戦場と化している。
しかし戦況は明らかにこちらが不利だった。一度は退散したと思われた魔物たちは近隣にいた仲間を呼び集めたのか、再び数を増やして戻ってきたのだ。
一方の義勇軍はヤート・クラーブとの戦いで著しく戦力を消耗した上に、皆が戦い疲れている。体にのしかかる重い疲労は魔物たちに味方して、グニドらの手足を絡め取った。
いかな体力底なしの竜人と言えど、息つく間もない連戦はさすがにこたえる。
おまけにグニドは両掌を負傷していて、満足に武器も握れない。中でも大重量の愛刀を振り回すことはどうしてもできなかったので、グニドは仕方なく戦死した義勇兵の剣を借りて奮闘していた。
だがグニドにとっては棒きれのように軽い剣であっても、魔物に当たれば衝撃が来る。その度に魔物の毒に冒された掌は悲鳴を上げて、グニドは剣を取り落としそうになる。
この状態でこれ以上戦い続けるのは無理だ。そんな焦燥を抱えたまま、グニドは背後から迫ってきた獣型の魔物を長い尾で叩き伏せた。
長時間痛みに耐えているせいだろうか、いつになく息が上がる。加えて今は鎧を身に着けている時間もなく、竜人最大の弱点である腹が剥き出しだ。
だからグニドはどうしても慎重に戦わざるを得ず、いつものような豪快な立ち振舞いができずにいた。慣れない戦い方は体にますますの負担をかけ、見えざる手となった疲労が頭上からグニドを押し潰そうとする。
「――ヒーゼル殿!」
そのとき少し離れた場所から悲鳴が聞こえて、グニドはハッと首を巡らせた。
そこではヒーゼルが角の生えた人型の魔物を前に苦戦している。背後に負傷した味方を庇っているのだ。
加えて今の彼は左腕が使えない。左手を柄に添えることすら苦しいようで、右手一本でどうにか剣を操っている。
対する人型の魔物の武器は、不気味なゴツゴツのついた棍棒だ。全身毛むくじゃらのその魔物は体もヒーゼルより遥かに大きく、まるでいたぶるのを楽しむように右へ左へと大きく棍棒を振り回している。
その攻撃を躱しきれなくなり、とっさに受け止めようとしたヒーゼルの剣が弾かれた。
まずい。
反射的に神術を使おうとしたようだが、左手に刻まれた雷刻はバチン!とすさまじい破裂音を鳴らしただけで彼に応えず、精霊に拒絶されたヒーゼルは左腕を押さえて屈み込む。
「ヒーゼル!」
激痛で動けなくなったヒーゼルへ向けて、魔物が棍棒を振り上げた。あんなものを一撃でももらったら、人間など一発で潰れてしまう!
助けなければ。とっさにそう思ったが、同時に「間に合わない」と本能が囁いた。グニドの行く手には更に何体もの魔物がいる。今から走り出したとしても無理だ、間に合わない――。
「ガルルルァ!!」
そのときだった。並み居る魔物どもの間をジグザグに、稲妻のような速さで駆けていく影があった。
あれは黒い獣――ヴォルクだ。狼の姿を取った彼は目を見張る速さでヒーゼルの危機に駆けつけると、棍棒を振りかぶった魔物の背中へ飛びかかり、その肩に鋭い牙を立てる。
「グガアアアッ!!」
背後からの奇襲に悲鳴を上げた魔物が、一瞬の隙を晒した。刹那、ヒーゼルは何とか気力を振り絞り、右手を鋭く一閃させる。
銀の軌跡を描いた切っ先は、魔物の胸を寸分の狂いもなく斬り裂いた。真横に胸を裂かれた魔物は黒い血を噴いて絶命し、やがてどうと倒れ込む。
「――わああああああ!! おっ、おたっ、お助けえええええ!!」
そうしてヒーゼルの無事を確かめホッとしたのも束の間、今度は別の方角から悲鳴が聞こえてグニドは思わず眉をしかめた。
見ればヨヘンが物入れを出て、魔物から必死に逃げている。ヴォルクが獣化したために服が脱げて、ヨヘンも置き去りにされたのだ。
短い二本足で逃げ切るのは限界があると感じたのだろう、ヨヘンもついに鼠の姿――と言っても体格は変わらず、ただ四足で駆けるようになるだけだ――を取って駆けていた。それを見たグニドはすかさずヨヘンと差し向かうように駆け出すと、頭を腹の方へ引きつけて、ヨヘンを追っていた三つ首の魔物を頭突きで思いきり吹き飛ばす。
「わああああ!! グニド、グニドォォォ!! 心の友よぉぉぉ!!」
その隙にグニドの股の下を擦れ違うように抜けたヨヘンは、喚きながらグニドの尻尾に取りつき、更にものすごい速さで背中を駆け上がってきた。
そうしていつからか特等席になっているグニドの頭上に落ち着くと、緋色の鬣に体を埋めてブルブルと震えている。いつの間にか獣化は解いたようだが、体の大きさが変わらないのでヴォルクのようにいちいち服を脱ぎ捨てなくていいのがヨヘンの利点だ。
「うっ……ひぐっ……し……死ぬかと思った……マジで……」
「ヨヘン。オマエ、オス。オスナラバ、簡単ニ泣クナ」
「うっさいうっさい! オイラはお前らみたいな生まれついての戦闘種族じゃないんだよ! か弱いただのネズ公なんだよ! チューッ! チューッ!」
(うるさいな……)
普段はネズミと呼ばれることを嫌がるくせに、こんなときばかりネズミであることを主張するヨヘンに、グニドは若干イラッとした。
だがここで仲間割れを起こしても仕方がない。それよりも今はどうやってこの窮地を切り抜けるかだ。
「なあ、なあ、グニド、お前竜人だろ!? 〝竜みたいな人〟と書いて竜人だろ!? ならお前も獣化して本物の竜になれたりしないのかよ!? そんで魔物をバーンと一気に片づけてくれよ!」
「無理ダ。竜人、オマエタチト、違ウ。獣ニナル、デキナイ」
「はあ!? なんでだよ!? お前も獣人だろ!?」
「獣人、獣ニナレルモノト、ナレナイモノ、イル。ポリーモ、ナレナイ。ラッティ、ソウ言ッテイタ」
「いや、けどそこを気合いで何とか!」
「無理ダ!」
気合いで何とかなるならとっくにそうしている。グニドは内心そう悪態をつきながら、右から来た魔物を剣で薙ぎ払った。
ふと目をやればあちらでもこちらでも、疲れ切った義勇兵たちが苦戦している。その武器捌きからは次第に精彩が失われ、体力の尽きた者から次々と魔物に喰われていく。
このままでは死ぬ思いをしてヤート・クラーブを倒した意味がない。免れたと思った全滅の崖はすぐそこだ。
――どうすればいい?
グニドは低く喉を鳴らして尻尾を振った。
死ぬわけにはいかない。帰らなければ。
サン・カリニョで別れ際に見たルルの顔を思い出す。彼女はポリーの後ろに隠れながら半分だけ頭を出して、何か言いたげにグニドを見ていた。
そしてグニドも、ルルに伝えたいことがある。
あの子の面倒は最後まで自分が見るのだ。
ルルを置いては逝けない。
何があっても、ルルだけは――
「――イーラ・ヴェントス!」
そのとき、すさまじい風が吹いた。
まるで砂漠で砂嵐の真ん中に放り込まれたような、そんな風だ。
空は快晴。
だのに突然嵐が襲ってきたのかと、グニドは一瞬錯覚したほどだった。
あちこちに散乱していた建物の瓦礫や魔物の死骸が吹き飛ばされる。戦いの真っ只中にいた戦士たちも魔物も皆が悲鳴を上げて、突然の突風に吹き飛ばされまいと踏ん張っている。
同じように自身もグッと踏ん張り、グニドは頭の上で飛ばされそうになっているヨヘンを押さえた。
そうして誰もが動きを止めた、刹那、
「――殲滅しろ!」
野太い男の声が響き、村の北側から喊声が上がった。
押し寄せてきた声の津波が、瞬く間に魔物の群を呑み込んでいく。
怒涛という言葉がまさにぴったりの猛攻だった。村の北から現れた一軍は鳥が翼を広げたような隊形で魔物を挟み込み、舐めるように掃討していく。
カルロスが来たのか。グニドは一瞬そう思ったが、それにしては到着が早すぎた。
しかもあの一軍はサン・カリニョのある南西ではなく北側から現れたのだ。ならばあれはどこの勢力だ? とグニドが首を傾げた刹那、新手の軍勢に応戦しようと集まった魔物の真ん中に一騎、果敢にも突っ込んだ者がいる。
「あれは……!」
それまで疲労困憊していた義勇兵たちが色めき立った。その視線の先で、一際逞しい鹿毛に跨がった男が長柄の槍を鋭く突き出し、あっという間に数匹の魔物を串刺しにする。
浅黒い肌をした、金髪の男だった。顔の右半分に額から頬まで走る古傷があり、いかにも歴戦の戦士という体つきをしている。体格はヒーゼルより一回りも大きく、筋骨隆々で、しかも眼は獲物を狩る獣のそれだ。
その男の姿を見た途端、グニドの背中を得も言われぬ感覚が走り抜けた。
――何だ、アレは。
鬣がビリビリと痺れ、グニドは男を凝視したまま立ち竦む。まるで砂漠の大蛇と一騎打ちになったときのように舌が乾き、緊張に呼吸が浅くなる。
だがグニドがそうして我を忘れている間にも、男とその軍勢は魔物の群に猛然と襲いかかっていた。
彼らが押し通るところには必ず道が開き、魔物の群が布切れの裂けるように割れていく。その強さは尋常でなく、戦士一人一人の動きにもまるで乱れがない。完全なる統制が取られているのだ。
「――キム!」
そうしてついに魔群を突破し、救援に駆けつけた男を見上げて、ヒーゼルが嬉しそうに叫んだ。
が、次の瞬間、キムと呼ばれた男はわずかに眉を寄せる。かと思えば突然その槍がヒーゼルに襲いかかった。
あまりに鋭い一撃に、グニドは思わず「アッ」と声を上げる。同時にヒーゼルも悲鳴を上げて、あわやというところで串刺しを逃れた。
「お、おい、いきなり何するんだよ!? 危ないだろ!?」
「お前が人の話を聞かんからだ。俺の名はウォンだと言っている」
「あ、ああ、そうか、悪い、うっかり……けど、だからって何も槍で突くことないだろ? 一歩間違えてたら死んでたぞ!」
「お前が殺して死ぬようなタマなら、とっくに俺が殺している」
抑揚もなく物騒な言葉を吐き捨てながら、キム――いや、正確にはウォンというのだろうか?――は手綱を捌いて馬首を巡らせた。するとその動きに合わせるように、彼を取り巻く戦士たちが隊形を立て直す。
まったく惚れ惚れするほどの、一糸乱れぬ動きだった。戦士たちが思い思いに暴れ回る竜人とは違い、人間の中には時折こういう動きをする者たちがいる。しかしそれにしたところで、あの統率力はグニドの知るどんな軍勢よりも優れている。
「あとは俺が片づける。お前は手勢をまとめて離脱しろ」
「いや、それは有り難いが――」
「今のお前にいられても邪魔なだけだ。その左腕、使えんのだろう?」
「……相変わらず言い方に容赦がないな。分かったよ、あとは任せる。フェンテ城趾で会おう」
「ああ。すぐに行く」
まったく迷いのない口振りでそう言い切ると、ウォンは直槍をぐるぐると頭上で回して持ち直した。直後、彼が馬腹を蹴るのに合わせて戦士たちが雄叫びを上げ、再び魔物の群へと突っ込んでいく。
「グニド、来い! 撤退だ、殿を頼む!」
その一連の動きにすっかり見とれていたグニドは、自分を呼ぶヒーゼルの声で我に返った。
が、〝シンガリ〟と言われて何のことかと首を傾げていると、頭の上からヨヘンが「味方のケツを守ることだよ」と教えてくれる。それで合点がいったグニドは『ああ』と頷くと、身につけている暇のなかった鎧を回収してヒーゼルらに続いた。
この〝シンガリ〟というのを竜人の間では『竜尾』と呼ぶのだが、戦場における竜尾というのは往々にして激しい追撃に晒される。その追撃から味方を守るための〝尾〟の役割は危険でありながら至高の名誉でもあり、竜尾として散った戦士の名は一族の語り部の歌に加えられるほどだ。
ゆえにグニドは、ヒーゼルがその役を自分に与えたことをちょっと誇らしく思いながら、同時に魔物による苛烈な追撃を覚悟した。
だが、いざ味方の撤退が始まれば、どうだ。
魔物などただの一匹も姿を見せず、グニドたちは易々と村を抜けて、四半刻(十五分)ほど行った先にある何かの遺跡に辿り着いてしまったではないか。
『……拍子抜けだ』
「え? 何だって?」
その遺跡は人間たちの間で〝フェンテ城趾〟と呼ばれているらしく、かつてはサン・カリニョにあるような立派な砦が建っていたのだと、ヒーゼルはそう教えてくれた。
なるほど、言われてみれば確かにそこには崩れかかった石の壁があり、その壁に囲われて大きな建物の残骸がある。あまりにも石を高く積みすぎて途中で折れてしまったような、そんな風体の苔むした残骸だ。
グニドたちが助けた村人たちはその残骸の中で身を寄せ合っていて、ヒーゼルが何か言葉をかけると安堵したように泣き崩れていた。
しかしグニドは何か腑に落ちない。魔物の追撃を躱せて良かった、とは思うものの、その追撃を跳ね返すために滾らせておいた力を持て余して、何だか暴れ足りない気分なのだ。
『まあ、それだけあの軍勢が強いということか……まさかあの状況で魔物一匹漏らさないとはな』
「おーい、グニドさん? オイラにも分かる言葉で話してくれる?」
『しかし、あのウォンとかいう男……』
頭の上で何か言っているヨヘンを無視し、グニドは崩れた壁の間から村の方角を見やった。
草原の向こう側、そこに集まった家々からはまだ黒い煙が上がっている。しかし既に混乱は感じられず、魔物との乱闘が起こっているにしては静かすぎるほどだ。
「グニド」
と、ときに名を呼ばれて振り向けば、いつの間にかすぐ後ろに黒い狼――ヴォルクがいた。
彼は行儀良く前脚を揃えて腰を下ろすと、口に咥えていた剣を地面に置く。よくよく見ればそれはヴォルクの剣で、どうやら戦場から撤退するときに回収してきたようだ。
「よう、ヴォルク。さっきはオイラを景気良く放り出してくれてありがとうな!」
「悪かったよ、ヨヘン。でも、あそこで指揮官がやられたら大変なことになってた。あのときはああするしかなかったんだ」
「チェッ、それくらいオイラにだって分かってるさ。けどおまえさん、いつまでその格好でいるつもりだ? たぶん戦闘はもうないぜ」
「……それはそうなんだけど、急いでたから剣しか回収できなくて」
「ああ、なるほど……」
心なしか悄然と答えたヴォルクに、ヨヘンも憮然と声を返した。つまるところ、ヴォルクは今度も衣服を置いてきてしまったらしい。またポリーに怒られる……とうなだれているヴォルクを見ると、グニドは少し気の毒になった。
「――それはそうと、気づいた?」
「何をだ?」
「さっき救援に来てくれた、あのウォンって人」
はたりと尻尾を揺らしながらヴォルクが言って、グニドは思わず身構えた。
――やはり、アレを感じたのは自分だけではなかったのだ。頭の上ではヨヘンも身じろぎした気配がある。
「やっぱりお前も感じたか。グニドは?」
「ウム……アレハ、ニンゲント、違ウ。ダガ、姿ハ、ニンゲン」
「耳や尻尾も生えてなかったし、半獣ってわけでもなさそうだったな。けど何だよアレ、ヤバいぜ。なんか上手く言えねーけど、近づいたら全身の毛に火がついちまいそうな、とんでもない気配だった。人間よりはオイラたちに近いモンを感じたけど……」
あの男が現れたときに覚えた怖気を思い出したのだろう、ヨヘンはグニドの鬣を握ったままぶるりと一つ身震いした。だが今回ばかりはグニドもヨヘンに賛成だ。あの男のまとう気配は尋常のものではなかった――まるで存在するだけで他を圧倒し、ひれ伏されるような。
思い出すとグニドでさえ背筋が寒くなる。あの男を一目見た瞬間グニドが感じた痺れは間違いなく畏怖だ。
だがヒーゼルら義勇軍の面々は、まるで何でもないようにあの男と言葉を交わしていた。彼らの反応からしてあのウォンという男も義勇軍の一員であることは明白だが、ヒーゼルたちはあの男の正体を分かった上で接しているのだろうか?
「ヒーゼル殿! ウォン隊長の一隊が戻ってきました!」
そうこうするうち斥候に出ていた騎兵が駆け戻り、声高にあの軍勢の到来を告げた。それだけでグニドは背中の毛が逆立ち、思わず村の方角へと長い首を巡らせる。
その視線の先から、堂々とこちらへ向かってくる一軍が見えた。先頭はあのウォンという男。その後ろに続く軍勢にはやはり一糸の乱れもない。ウォンの他数名を除いて残りは徒歩だが、全員が胸を張り足並みを揃えてやってくる。
「キ……じゃなくて、ウォン! 無事か?」
「問題ない。村の魔物は一匹残らず殲滅した。大きな火は消してきたから、火の手もじき収まるだろう」
「そうか……助かったよ、礼を言う。けど、なんでお前がここに? お前の隊は北領境付近の賊討伐に行ってたはずだろ?」
「――はいはーい、それにはねぇ、アラファレ海溝より深い理由があるのですー」
と、ときにウォンの後ろからやけに間延びした声が聞こえて、芦毛が一騎進み出てきた。
その背に乗っているのはウォンより一回り――いや、二回りは小さい人間のメスだ。波打つ淡い金髪に、海の青を閉じ込めたような瞳。年齢はヒーゼルよりやや若いか同じくらいだろうか。魔物の血で汚れた軽鎧をまといながらニコニコしているところを見ると、どうやら彼女も義勇軍の戦士らしい。
「なんだ、マナ。お前もいたのか」
「なんだってことはないでしょぉ、失礼ねー。魔物を盛大に吹き飛ばしてピンチから救ってあげたのは誰だと思ってるのー?」
「いや、悪い。けど、アラファレ海溝より深い理由ってなんだ?」
「――これだ」
低い声で言い、ウォンが背後に控えた部下たちに向けて軽く合図する。するとそこに並んだ歩兵の間から一人、明らかに戦士ではない身なりの男が引っ張り出された。
両脇を武装した戦士に押さえられ、ヒーゼルの前に突き出されたその男は喰うところもないようなひどい痩せぎすだ。鬣は剃られ、身長は高い。しかし何故か右目に大きな痣があり、ところどころ切れた唇には白い布が巻かれている。
「ウェッ……その男、ひでえ臭いだ」
と、そのとき声を上げたのは頭の上のヨヘンだった。彼が顰め面をしてとっさに鼻を押さえると、その声に気づいたウォンとマナがこちらへ目を向けてくる。
「あらぁ? 竜人? なんで竜人がこんなところにー?」
「ああ、いや、こいつらはカルロス殿の意向でしばらく義勇軍が雇うことになった傭兵でさ。竜人は竜人でも敵じゃない。現にさっきも俺たちと一緒に戦ってくれた」
「へえ、そうなのー。だけど竜人が群を離れて一匹でいるなんて珍しいわねぇ。おまけに鼠人までいるじゃない。ってことは、そっちのワンちゃんは狼人かしら?」
「〝ワンちゃん〟……」
グニドには何のことだかサッパリだが、マナからそう呼ばれたヴォルクは耳を垂れてうなだれた。とすれば差別的なことを言われたのか、とグニドは眉を上げてマナを見やったが、彼女は相変わらずニコニコとしている。……毒気がない。
いや、それ以前に竜人であるグニドや狼人族の血を引くヴォルクを前にして、怯えもせずニコニコとしているのが異様だった。ちらりとこちらに一瞥をくれたウォンもまるで動じる気配がないし、何なんだこいつらは、とグニドの方が困惑する。
「まあ、こいつらの紹介はあとにするとして、だ。この男は?」
「侯王の手下だ」
ヒーゼルの問いかけにウォンが即答し、それを聞いたヒョロ長の男が何か訴えかけるように騒いだ。しかし布を噛ませられているせいでその訴えは言葉にならず、ウォンは男の抗議を無視して話を続ける。
「この男の他にも一緒に行動していた者が数名いたが、全員殺した。賊を討ってサン・カリニョへ戻る道すがら、荷馬車に大量の死体を積んだこいつらを偶然発見してな」
「大量の死体だって? そんなもの、何のために」
「お前、あの異様な数の魔物を妙だと思わなかったのか?」
呆れたようなウォンの一言で、ヒーゼルがはっと目を見開いた。同時にあたりを取り囲んでいた他の戦士たちもどよめき出す。そこでグニドは気がついた。
――ああ、そうか。
さっきヨヘンが〝ひでえ臭い〟と評したそれは、人間の死臭だ。
「それはつまり、あの魔物の群はこいつらが呼び寄せたってことか?」
「そうだ。無理矢理吐かせたところによると、こいつらは侯王軍の指示で死体をサン・カリニョの近郊へ運び、砦を魔物に襲わせる計画だったらしい。魔物は死臭に惹かれるからな。それを使って義勇軍に打撃を与え、時間を稼ぐつもりだったんだろう」
「なんてやつらだ……!」
話を聞いた義勇軍の戦士たちが憤りの声を上げ、どよめきが更に広がった。ヒーゼルもそれに口を噤み、深刻な表情で拳を握り締めている。
グニドは燃えた村の方角を顧みた。今のウォンの話が事実なら、あの村は偶発的に襲われたわけではなく、侯王軍が画策した陰謀の巻き添えになったということだった。
あの村にはきっとルルくらいの小さな仔人もたくさんいたことだろう。その多くの命が魔物の襲撃によって奪われた。それが侯王軍の仕組んだことだったというのなら、侯王は自らの国の民を保身のために殺したということだ。
それは竜人の感覚で言えば、死の谷の大長老が私利私欲のために一族の仲間を殺すということと同義だった。
それを理解した刹那、再び背中がビリビリとする。ブワッと逆立った鬣の中では、ヨヘンもまた灰色の毛並みを膨らませていた。
――ありえない。
グニドは改めてそう思う。
人間が同族同士で殺し合う種族だということは分かっていたが、それにしたところで、ありえない。
「まーそんなわけでぇ、そのことを急いでカルロスさんに伝えようと思って戻ってきたら、あの村の方角から煙が上がってるのが見えたってわけ。それで様子を見に来てみれば、ヒーゼルたちが魔物の大群に押されてたから~」
「……なるほど。それで救援に入ってくれたってわけか」
「そーいうこと」
決して楽しい話題ではないはずだが、マナはそう言ってニコッと笑った。対する隣のウォンは先程からクスリとも笑わず、表情もまったく変わらないだけに、グニドには何だか彼らが奇妙な二人組に見える。
「とにかくこの件は一度カルロス殿に報告した方がいいだろう。ヒーゼル、お前、動けるか?」
「ああ、大丈夫だ。すぐに隊をまとめる。その間、お前たちは魔物の残党がいないかあたりを見てきてもらえるか?」
「それはいいけどー、ヒーゼル、その左腕罰焼けしてるでしょ? 私が治してあげよっかー?」
「いいよ。お前、さっきもデカい魔法を使ったばっかりだろ。これ以上力を使わせて、またぶっ倒れられでもしたら困る」
「あー、そーやってまた人を虚弱扱いするー。そりゃ確かに私はか弱いけどねぇ――」
「――ヒーゼルさん!」
そのときだった。それまでグニドの足元にいたヴォルクが突然大声を上げ、呼ばれたヒーゼルがビクリと肩を震わせた。
何事かと目を向ければ、先程まで地面に腰を下ろしていたはずのヴォルクが四つ足で立ち上がり、全身の黒い毛を逆立てている。尻尾はピンと立って反り返り、種族の違うグニドから見てもただならぬ様子だ。
「ど、どうした、ヴォルク?」
「あれを!」
叫ぶと同時に吠え声を上げ、ヴォルクは顔を西へ向けた。そこには先程グニドたちが駆け下りてきた丘があり、その上に茂る緑の森が見える。
だが、丘の上に見えたのはそれだけではなかった。まるで大地が被り物をしたような森の木々――その向こうに濛々と空へ立ち上る、黒い煙の柱がある。
ときに伸び上がってそれを見たヨヘンが、グニドの頭の上で言った。
「……おい。あっちって、サン・カリニョの方角だよな?」