第二十九話 ヤート・クラーブ
※表現控えめにしてますが、ちょっとグロいです。苦手な方はご注意下さい。
義勇軍の戦士が馬ごと宙を舞うのを、グニドは唖然と見ていることしかできなかった。
村は、黒煙と恐慌に包まれている。突然現れた巨大な魔物――ヨヘンはそれを〝蟹の化け物だ〟と言い、ヒーゼルは〝ヤート・クラーブ〟と呼んだ――によって義勇軍の戦士たちが次々と蹴散らされ、目の前でムシャムシャと喰われていくのだ、無理もない。
蟹の化け物。
あんな姿の化け物を、グニドは生まれて初めて見た。
大きさは、グニドたちが砂漠で戦った大蚯蚓ほどではない。しかし青黒い外殻で覆われた脚の第一関節だけでもグニドの身の丈ほどはあり、しかもこれがとんでもなく硬いのだ。
「くそっ……! お前ら、下がれ!」
為す術もなく化け物の前で立ち竦んでいた戦士たちが、ヒーゼルの一喝で我に返った。そうして後退する彼らと入れ替わるように、ヒーゼルが素早く前へ出る。
その手にはバチバチと弾ける雷気。それはすぐに一本の稲妻となり、馬上のヒーゼルから放たれて化け物に直撃した。
だが直後、化け物に当たった雷は小石が壁に弾かれたように吹き飛び、あらぬ方向へ飛んでいく。滑らかな曲線を描く化け物の装甲には、ちょっと焦げ痕がついただけだ。
「じょ、冗談だろ……神術が全然効いてねえ……!」
その光景を目の当たりにしたヨヘンが、ヴォルクの腰で震撼していた。先日グニドを一撃で卒倒させた、あのヒーゼルの神術でさえ歯が立たないとなれば当然だ。
だがヒーゼルは初めからそうなることを分かっていたようで、「チッ」と顔を歪めながら馬を下げた。途端に化け物のハサミが降ってきて、それまでヒーゼルがいた場所に突き刺さる――間一髪だ。
「こいつはまずいな……まさかこんな規格外の魔物まで出てくるとは……」
「お、おいおいヒーゼルさん、どうすんだよ!? アイツ、何やってもビクともしないぜ!」
「ヤート・クラーブの外殻は神術を通さない。もちろん剣も槍も無理だ。あの外殻さえ剥がせれば中身はやわらかいんだが……」
「け、けど外殻を剥がすって、一体どうやって!?」
「あいつの殻は塩水に弱い。海水なんかをかければ外殻が溶けて中身が剥き出しになる」
「し、塩水に弱い!? 蟹のくせに!?」
「ああ、蟹のくせにだ」
「けど、ここは内陸……海水なんてどこにも……」
大真面目に頷いているヒーゼルの横で、ヴォルクが眉を寄せながら呟く。その尻尾は毛並みが逆立ち、先程から忙しなく左右に振れていた。
ふと目をやればグニドの尻尾も、無意識のうちに先端がピンと天を向いている。表現こそ違うが、どちらも「これはまずいぞ」の合図だ。
「ヒーゼル殿!」
と、そこへ鋭い呼び声がして、一人の戦士が駆けてきた。まだ年若いオスの人間だが、何故か全身煤まみれだ。
「おう、どうだった?」
「駄目です、村中に火の手が回ってしまって……探せそうな場所はすべて探しましたが、わずかな量の塩しか見つかりません!」
どうやらヒーゼルは、部下を遣って村中にある塩を探させていたらしい。だが結果は虚しかったようで、報告に来た戦士は今にも泣き出しそうだった。
それを聞いたヒーゼルは再び舌打ちし、正面の化け物を睨み据える。化け物はギチギチと不気味に牙を鳴らしながら、さて次は誰を喰らってやろうかと品定めしているようだ。
「大量の塩さえあれば、水の神術と併せてヤツの弱点を突けるんだが……それが無理となると、あとはここで時間を稼ぐしか……」
「け、けど、塩がないのに時間なんて稼いでどうすんだ!?」
「さっきサン・カリニョに事態を報せる伝令を出した。カルロス殿の≪義神刻≫なら、あの化け物を一瞬で焼き払える」
「あ!? そ、そうか、大神刻の力なら……!」
「でも、伝令がどんなに速くサン・カリニョに着いたとしても、カルロス将軍が到着するまで四刻(四時間)はかかるんじゃ?」
すっかり動転しているヨヘンとは裏腹に、ヴォルクの方は冷静だった。なるほど、グニドたちはサン・カリニョからこの村まで片道二刻(二時間)かけて来たのだから、帰りも同じだけ時間がかかるというのは道理だ。
そしてカルロスがそこから救援にやってくるまで更に二刻。となればグニドたちは、その間あの化け物を足止めしておかなければならない。
――だが、一体どうやって?
グニドは半ば絶望的な気分で魔物を見やった。神術をも跳ね返す装甲で覆われた巨大な怪物を、四刻もの間食い止める――それを口で言うのは容易いが、既に二十人余りの義勇兵が一瞬であの魔物に蹂躙されているのだ。
「とにかく今はやれるだけのことをやるしかない。――おい、地術兵、前へ!」
しかしヒーゼルは諦めなかった。すぐさま背後を振り向き声を上げると、すっかり怖気づいた戦士たちの中から数名を呼び寄せる。
集められた戦士たちは皆、右手や左手の甲に岩の結晶を思わせる神刻を刻んでいた。――地刻だ。
「まずはあの化け物の動きを封じる。全員で一斉に『大地の怒り』を唱えるんだ。狙いはあの化け物の腹。俺の合図で同時に放て。いいな?」
早口で伝えられるヒーゼルの命令に、神術兵たちはぎこちなくも頷いた。そうして彼らは口々に精霊を呼び出すための呪文――どうやらそれは人間の間では『祈唱』と呼ばれるらしい――を唱え出す。
だが相手の方も気長に待ってはくれなかった。化け物はこちらが攻めてこないと分かると奇声を上げてハサミを振り上げ、そのハサミでバンバンと地面を叩き始める。
それが攻撃の合図だった。赤い複眼を好戦的に明滅させた化け物は、前に出たヒーゼルたちに狙いを定めて突撃してきた。
神術兵たちの唱える呪文は長い。ルルのそれとは大違いだ。このままでは間に合わない――そう判断したグニドはフンスと鼻から息を吐くと、意を決して化け物の前へ飛び出していく。
「お、おい、グニド!!」
後ろから引き止めるヨヘンの声がしたが、振り向いている暇などなかった。グニドは咆吼を上げながら正々堂々勝負を挑み、化け物のハサミ目がけて大竜刀を振り上げる。
そうして横薙ぎに払った刃で叩きつければ、まるで鉄同士がぶつかり合うようなすさまじい衝撃が伝わってきた。
――想像を絶する硬さだ。たとえ叩き斬るのは無理でも外殻をへこませるくらいはできるだろうと思っていたのだが、見れば傷一つついていない。
今の一撃でへこんだのは、むしろグニドの自尊心の方だった。
同じ竜人の中でも膂力には自信がある方なのに――それが魔物に微瑕すら負わせられないとはどういうことだ。
「グニド、下がれ!」
そこへ突然ヴォルクの声がかかって、我に返ったグニドはその場から飛び退いた。直後、グニドが止めたのとは逆のハサミが恐ろしい音を立てて振り下ろされ、地面に叩きつけられる。
――危うくぺしゃんこにされるところだった。そう肝を冷やしたグニドの横を、黒い影が目にも留まらぬ速さで駆け抜けた。
ヴォルクだ。
彼は獣人ならではの機敏さを活かして跳躍すると、地に刺さった化け物のハサミに飛び乗り、ヨヘンの悲鳴を引き連れて器用に胴体まで駆け上った。
かと思えば鋭く剣を振り上げ、迷いもなく振り下ろす――その切っ先が突き立ったのは、化け物の胴体にいくつも並んだ赤い目だ。
「ギシャアアアアアアッ!!」
ヨヘンの体長ほどもある目の一つを潰されると、魔物は悲鳴を上げて仰け反った。するとヴォルクもツルツルした魔物の背中に留まってはいられなかったようで、そのまま外殻を滑り下りると見事に後方へ着地する。
「いいぞ、今だ!」
その瞬間を、ヒーゼルは見逃さなかった。
土色の光が炸裂し、ズン、と大地が震動する。直後、仰け反った魔物の下から飛び出したのは何本もの大地の牙だ。
それらが次々と魔物の顎のあたりにぶち当たり、その巨体を突き上げた。体勢を失っていた魔物は隆起した大地に押し上げられて更によろめくと、やがて地響きを上げてひっくり返る。
「やった!!」
背後の戦士たちから歓声が上がった。腹を天へ向けて倒れた魔物はなかなか起き上がれないのだろう、六本の脚をジタバタさせてもがいている。
その様子を見て初めて、なるほど、ヒーゼルはこれが狙いだったのかとグニドはようやく気がついた。
ヤート・クラーブは背中が丸みを帯びているせいで、一度ひっくり返ると簡単には起き上がれない。体の構造上、蟹と同じでハサミも下にしか振れないから、腕で体を支えて持ち上げるということができないのだ。
「よくやってくれた、グニド、ヴォルク。お前ら、なかなかやるな!」
やがてヴォルクが無事に戻ってくると、破顔したヒーゼルが馬上からそう声をかけてきた。
グニドは別にヴォルクと示し合わせて動いたわけではないのだが、結果として上手く連携した形になったようだ。さすがは狼の血を引いているというべきか、ヴォルクは〝ここぞ〟というときをよく嗅ぎ分ける。
「ハ、ハハッ、ハア、ハア……よ、よ、よくやった二人とも。ぜ、ぜぜ全部オイラの指示どおりだったな、ハハハハ!」
ところがそんなヴォルクの腰では、依然物入れに収まったままのヨヘンがぶるぶる震えながら精一杯の虚勢を張っていた。……どうやら魔物に挑むヴォルクの道連れにされたのがよほど恐ろしかったらしい。だから砦で待っていろと言ったのに、と、グニドは改めて呆れの目を向ける。
「にしても、ヴォルク! 突っ込むなら突っ込むとせめて突っ込む前に一言言えよ! ただでさえ儚いオイラの寿命が、今ので十年は縮んだぞ!」
「ヨヘン、今六歳でしょ? だとしたら明日あたりには寿命が尽きる計算になるけど」
「そうなったら全部おまえさんのせいだっ! まったく、毎度毎度命を粗末にしやがって!」
「粗末にしてるつもりはないよ。でもあのときラッティに拾われなかったら、とっくに消えてた命だから……今更失うのを怖いとは思わない」
「おまえさんは怖くなくてもオイラは怖いの! 巻き添えにされたくないの!」
「自分からついてきたんだろ?」
相変わらずヨヘンの言い分は自分勝手だったが、ヴォルクももう慣れているのだろう、答えた声はいつもと変わらなかった。そうして淡々と正論を返されたことが更に悔しかったらしく、ヨヘンはまたいつもの癇癪を起してじだじだしている。
だがグニドがそんなヨヘンの様子にため息をついた、そのときだった。
突然魔物のいる方角から「ギャアッ、ギャアッ」と耳障りな声が聞こえ、皆が何事かと振り返る。
そこにはいつの間にか、倒れたヤート・クラーブの上を飛び回る数匹の魔物がいた。先程逃げ出していった蝙蝠人間どもだ。
彼らはまるでヤート・クラーブを焚きつけるかのように、醜い声で騒ぎ続けた。すると次の瞬間、突然ヤート・クラーブのハサミがぐわっと開かれる。
グニドは目を疑った。
ヤート・クラーブはそのハサミで蝙蝠人間の一匹を捕まえると、そのまま口に運んでバリバリと噛み砕いた。
魔物が魔物を喰っている――。
共食いだ。いや、あるいは仲間割れか? とも思ったが、どうやらそれとは様子が違う。
何故なら蝙蝠人間どもは仲間が喰われたというのに、むしろそれを喜ぶように手にした槍を振り回した。するとヤート・クラーブはその中から更にもう一匹を捕まえて、同じようにバリバリと頭から喰ってしまう。
そのあまりにおぞましい光景に、グニドたちは呼吸も忘れて固まった。
アレは一体何をしているのだ――と、疑問に思ったのも束の間。
ついにヤート・クラーブが三匹目を咀嚼し終えたとき、突如あたりにバキバキと異様な音が響き出す。
「な、何だ!?」
何か硬いものが粉々に砕けるような音。それと同時に、ひっくり返ったままの魔物の体がグラグラと揺れ始めた。
直後、ヤート・クラーブのハサミの付け根――そのやや上方から、突然新たなハサミが突き出してくる。まるで魔物の体に寄生したまったく別の生き物のように、三本目と四本目のハサミが殻を突き破って現れたのだ。
グニドたちは唖然とした。新たに生まれたハサミは元の二本とは違って自在に動くらしく、その二本が倒れたヤート・クラーブの体を支えて持ち上げた。
ゆっくりと体を起こした化け物はやがて六本の脚を器用に動かし、大地に鋭く爪を立てる。
ほどなくその巨体はズシンと重い音を立て、ついに体勢を取り戻した。
「ギシャアアアアアアアアアアアアッ!!」
先程よりも更に禍々しさを増した魔物の声が轟き渡る。
グニドは不覚にも、その咆吼に気圧された。
――何だ、アレは。
とても理解が追いつかない。魔物は魔物を喰らうことで進化するとでも言うのだろうか? だが、そんな話は聞いたことがない。
「おいおい、これは……」
魔物に怯えた馬たちが嘶き、その手綱を制しながら、さすがのヒーゼルも口元を歪めた。が、そのときやかましく鳴きながらヤート・クラーブの眼前へ舞い降りた蝙蝠人間が、またしてもハサミに捕まり食べられる。
食いちぎられた魔物の羽がぼたりと落ちた。ヤート・クラーブの口は真っ黒な魔物の血で染まっている。
ところが牙を濡らすその黒血が、にわかにブクブクと泡立ち始めたのをグニドは見た――何か来る。
「逃ゲロ!」
グニドがそう叫ぶのと、ヤート・クラーブの口から大量の黒い泡が噴き出すのが同時だった。泡は洪水のような勢いで押し寄せ、グニドたちはとっさにそれを回避する。
だが逃げ遅れた数名の義勇兵が泡に呑まれた。途端にゾッとするような悲鳴があたりに轟き、グニドは思わず身震いする。
黒い泡に呑み込まれた人間たちは、溶けた。
身につけていた鎧も、武器も、鬣も、肌も、何もかもがでろでろに溶け、最後は骨さえ黒い泡の一部になる。
「う、うわああああああっ!」
その光景を目の当たりにした義勇兵たちは、瞬く間に恐慌した。驚愕と恐怖が伝播し、皆が取り乱し、味方からあっという間に統制が失われていく。
「くそ……! お前ら、この泡には触れるな! 魔物から距離を取れ! 後退だ! 後退して隊形を――」
ジュウウウ、と音を立てて地面をも溶かす毒の泡を前に、ヒーゼルが馬上から声を上げた。しかし既に混乱を来した戦士たちは思い思いに逃げ出してしまい、ヒーゼルの指示が届かない。
まるで砕けた石の破片が四方へ飛び散るように、戦士たちはバラバラになった。ヒーゼルが何とかそれをまとめようと声を張り上げているが、誰も聞く耳を持っていない。
そこへ魔物が奇声を上げ、再びハサミで地を叩いた――まずい。
グニドの予感は的中した。それは突撃の合図だった。
ヤート・クラーブが六本の脚を動かし、すさまじい速さで突っ込んでくる。グニドを始め、何とか正気を保っていた者たちはそれを避けたが、逃げ惑っていた戦士たちの何人かは後ろから轢き殺された。
更に魔物は四本に増えたハサミを使い、次々に手近な人間を捕まえる。一度そのハサミに捕まった者は逃げ出すこと能わず、悲鳴を上げながら魔物の口へ放り込まれた。
バリバリと骨を咀嚼する音がする。その音が更に戦士たちの恐怖を煽り、冷静さを奪った――このままでは全滅だ。
そう予感したグニドはヒーゼルに指示を求めようと思ったが、混乱の中で引き離されたのか姿が見えない。ヴォルクは今も傍らにいるものの、その腰元ではヨヘンが狂ったように騒いでいる。
「おい! おい! ヴォルク、グニド! 何やってんだ、早く逃げろって!」
「でも、ここで俺たちまで逃げ出したら収拾がつかなくなる。カルロスさんが来るまで持ちこたえないと……」
「んなこと言ってる場合かよ!? あんなのこれ以上足止めできるわけねーだろ! このままじゃみんな揃って死んじまう! 命あっての物種だろーが――ってギャアアア!?」
そこでいきなりヨヘンが悲鳴を上げるので、どうしたのかとグニドは振り向く。するとその先に、複数の目をチカチカさせてこちらを見下ろす化け物がいた。
もしやヨヘンの甲高い騒ぎ声を聞きつけたのか――いや、違う。
化け物の狙いはヴォルクだ。あれは先程目を潰された恨みを晴らそうとしている!
「ヴォルク、受ケロ!」
そう叫ぶが早いか、グニドは思いきり長い尾を振った。その尾がヴォルクを吹き飛ばし、ヨヘンの悲鳴が谺する。
それと同時にグニドも跳んだ。するとそれまで二人が佇んでいた場所に、例の泡がぶちまけられた。
グニドたちの代わりに巻き込まれた建物の瓦礫が、焼けるような音を立てて崩れていく。ヴォルクは派手に地面を転がったようだが、大丈夫だ、グニドはもちろん手加減したし、彼が吹き飛ばされる直前にきちんと受け身を取ったのも確認している。
だが別々の方向へ回避した二人の間には毒の泡が立ち塞がり、グニドはいよいよヴォルクとも引き離された。
これではさすがに連携もできない。しかも魔物の注意は完全にヴォルクを向いている。
(このままじゃまずい……!)
何とか魔物の気を逸らさなければ。グニドは自分を無視してヴォルクを追いかけようとする魔物の背に回り込んだ。
そうして尻のあたりを一撃叩いてみるが、相変わらず硬い。渾身の力で振り下ろした大竜刀は弾かれて、その反動にグニドの方がたたらを踏む。
ならばせめて先程のヴォルクのようにヤツの上へ駆け上がれないか、とも思ったが、体の重いグニドにはさすがに無理だった。脚力はあってもヴォルクほどしなやかな俊敏さは持ち合わせていないし、掴むところもない外殻の上では簡単に振り落とされてしまう。
(くそ! せめてヤツの背中にもトゲがついていれば――)
グニドがそう悪態をついている間にも、魔物はまた口元をブクブク言わせ始めた。再び毒の泡を吐くつもりだ。
このままではヴォルクやヨヘンまで溶かされてしまう。グニドは焦燥に駆られながら必死に思考を巡らせた。
溶かされる。溶ける。毒の泡――毒?
そこではたと気がついたグニドは、周囲に首を巡らせる。
(――あった!)
グニドは見つけた。とっさに走り寄って拾い上げたそれは、先程蝙蝠人間が手にしていた短い槍だった。
あたりにはヤート・クラーブに喰われたものや義勇軍に倒された蝙蝠人間の死骸が散乱していて、その傍らにはいくつも槍が落ちている。まるで全体が錆びたように気味の悪い風合いの槍だが、確かヒーゼルがさっき、この槍には〝鎧溶かし〟の毒があると言っていたはずだ。
詳しく槍の構造を検分している暇はなかったが、グニドは槍の柄の中程に何か小さな突起があるのを見つけた。
それをグッと押し込むと、穂先からビュッと音を立てて黒い液体が飛び出してくる――これだ!
グニドは重いだけで今は役に立たない愛刀を捨てた。ついでに鎧も脱ぎ捨てた。
そして左右の手には二本の槍。更に予備の一本を横ざまにして咥えれば、さあ、準備は万端だ。
「――百雷槍!」
そのときだった。
突然視界が真っ白になり、グニドは思わず顔を背けた。
次いで轟き渡ったのは、地を揺るがすほどの爆音。
グニドはその恐ろしいまでの音の津波に呑み込まれ、ひっくり返りそうになる。
視界が焼き切れそうなほどの閃光の中、辛うじて目を開けて見れば、魔物の頭上から幾筋もの雷の雨が降っていた。
否、あれは雨というよりもはや滝だ。それが轟々と大地も割らんばかりのすさまじい雷鳴を上げ、次から次へ降り注いでいる。
間違いない。
ヒーゼルの神術だった。
それも想像を絶するほどの。
だがこの化け物に神術は効かないのではないか――とグニドが思い至ったところで、突然魔物が悲鳴を上げる。
「ギシャアアアアアアッ!!」
それは先程ヴォルクの攻撃が通ったときとまるで同じ反応だった。ヒーゼルが百と降らせた雷の雨が、魔物の目を撃ったのだ。
更に追い討ちとばかりに降り注ぐ雷から己を庇うように、ヤート・クラーブは四本のハサミで複眼を覆い、たまらずその場にうずくまった。
――今だ!
グニドの本能が号令する。
あのデカブツの背中に飛び乗るチャンスは、今しかない!
「グルルルル……!」
喉を鳴らし、雷の雨を掻い潜り、グニドは身軽になった体で閃光の中を駆け抜けた。
そうしてうずくまっている魔物の外殻に取りつくと、脚のトゲを足場にしてよじ登り、更に這うようにして魔物の背中まで到達する。
するとそこで不意に雷鳴が途切れ、グニドはあまりの轟音にくらくらしている頭をぶるりと振った。
さすがに力を使い果たしたのだろう、魔物の行く手に立ち塞がったヒーゼルが馬上で息を切らしているのが見える。強力な術を使った反動なのか、彼が押さえ込んだ左腕にはバチバチと音を立てて青い雷気が巻きつき、微かに歪んだ表情は激痛をこらえているようだ。
「――グニド! あとは頼む!」
そのヒーゼルが眼下から叫ぶのを聞いて、グニドは大きく頷いた。
次の瞬間、両手に持った槍を垂直にして振りかぶり、渾身の力でそれを魔物に突き立てる。
「ギシャアアアアアアアアア!!」
鎧溶かしの毒は、思いのほかよく効いた。
槍の穂先から垂れた毒が魔物の硬い甲羅に落ちると、ジュウッと焼けるような音がして煙が上がり、いとも容易く槍が突き刺さったのだ。
この化け物の外殻がどれほど厚いのかはよく知らない。しかし竜人自慢の膂力によって深々と刺さった魔物の槍は、確実にヤート・クラーブの中身に届いたようだった。
その証拠に、それまでうずくまっていたはずの化け物が悲鳴を上げて飛び起きる。彼は背中に乗ったグニドを振り落とそうと暴れたが、グニドとてこうなることは予測済みだ。
だから先に刺した二本の槍にしっかりと掴まり、グニドはその場で踏ん張った。かつて砂漠で戦った化けミミズと同じ要領だ。
ヤート・クラーブはしばらくその場で暴れ回っていたが、直前に受けたヒーゼルの神術が効いたのだろう、やがて息切れを起こして動きを止めた。
その瞬間、グニドはすかさず咥えていたもう一本の槍を引き抜き、今度は突き刺すのではなく毒だけを撒き散らす。先に刺した二本の槍の間をつなぎ、円を描くように溶かしたのだ。
そうしてできた外殻の切れ間に、グニドは三本目の槍を突き刺した。
それも垂直ではなく斜めに突き刺し、穂先が殻の下まで到達した手応えを感じた刹那、グッと踏みつけて槍の柄を押し下げる。
「ギシャアッ!! ギシャアアアアアッ!!」
魔物が再び暴れ出した。グニドは体勢を維持するために、今度は足ではなく尻でドスンと槍を下敷きにした。
そうして全体重を預けたのが効いたのか、やがてメキメキと音を立てて外殻の一部が割れていく。いわゆる〝梃子〟の要領だ。
むしろ魔物が体を振り回して暴れるので、グニドが振り落とされまいと踏ん張る度に槍には力が加わった。おかげで外殻の亀裂はどんどん広がっていく。
やがてバキッ!と一際大きな手応えがあり、外殻の一部がついに剥がれた。グニドが予め毒を撒いたあたりが脆くなり、いびつに割れて持ち上がったのだ。
『ジャアッ!』
それを見たグニドは浮き上がった外殻を両手で掴むと、気合と共に引き剥がしてぶん投げた。
剥がれた外殻の縁にはまだ毒液が残っていて、掌に激痛が走ったが今は気にしていられない。そんなものはあとでルルにでも頼んで治療してもらえばいいのだ。
「――ヴォルク、火ダ!」
次いでそう叫んだグニドにヴォルクが頷いた。彼は傍で燃えている家から火のついた木の切れ端を引き抜くと、グニドへ向けて放り投げた。
光の弧を描いて飛んできたそれを、グニドはしっかりと掴み取る。
覗いた外殻の穴の中には、人間の肌色によく似た肉の塊が見えた。
それはドクドクと不気味に脈打ち、筋肉のような筋が何本も走っている。その表面がてらてらと脂で輝いているのをグニドは見逃さなかった。
やめろ、とでも言うように魔物が叫ぶ。
しかしグニドはためらわず、その穴に火のついた木切れを突っ込んだ。
「ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
一際長い悲鳴と共に、ヤート・クラーブが天を仰ぐ。
グニドの思ったとおり、魔物の中身はよく燃えた。その中身と殻の間にはうっすらとだが空洞があり、脂に移った炎は瞬く間に燃え広がっていく。
グニドは魔物の背を滑り降りた。体内を激しく燃やされた魔物が暴れるので、最後はグシャッと頭から地に落ちたが、そのまま見事に前転を決め、何とか事無きを得た。
魔物の背中から火柱が上がっている。ヤート・クラーブは得体の知れないモノが焼ける匂いを振り撒いて暴れると、やがてその場に頽れた。
地響きを鳴らして六本の脚を折った魔物のハサミが、まるで天に助けを乞うように伸ばされる。
しかしほどなく、そのハサミは力を失って地に落ちた。
魔物はそれきり動かない。
――グニドたちの勝利だ。
「う……う……うおおおおおおお!! 勝ったぞおおおおおおおおっ!!」
どこからともなくヨヘンの雄叫びが響き、茫然と立ち尽くしていた義勇兵たちもその声に打たれて我に返った。
彼らの目の前では、巨大な魔物の骸がぶすぶすと煙を上げている。赤く不気味に光っていた複眼も、今は外殻と見分けがつかないほどに真っ黒だ。
それを見た義勇兵の誰かが、呻くように声を漏らした。
しかしその声はやがてどよめきへ、そして歓声へ――やがては天を衝くほどの喝采へと変わり、雨のように降り注ぐ。
「勝った!! ヤート・クラーブに勝ったぞ!!」
生き残った義勇兵たちの多くは体中に喜びを漲らせ、互いに抱き合ったり手を叩き合ったりしていた。
中には緊張が解けて脱力したのか、はたまた戦い疲れたのかぐったりと座り込んだ者もいたが、その表情には安堵の笑みが浮かんでいる。
グニドはその様子を眺めて、フン、と鼻から息を吐いた。ヤート・クラーブが放つ異臭であたりはひどい匂いだったが、無邪気に歓喜する人間たちの姿を見ていると、いくらか気が紛れて楽になる。
「グニド、大丈夫か?」
ほどなく駆け寄ってきたヴォルクに、グニドは「ウム」と頷いた。
幸い毒液で焼けた両掌の怪我も大したことはない。握ったり何かを掴んだりするとひどく痛むが、どうせすぐ治るし、騒ぐほどのことではないだろう。
ヴォルクの腰では興奮しきったヨヘンが身を乗り出し、何かしきりに騒いでいる。だが今はその相手をするよりまずヒーゼルだ。グニドは両手が使えない自分の代わりにヴォルクへ愛刀と鎧の回収を頼むと、魔物の死骸を迂回して狂喜する義勇兵の中へと入っていく。
「ヒーゼル。無事カ?」
グニドがのしのしと足音を立てて近づいていくと、義勇軍の戦士たちはサッと道を開けた。
だがそれは竜人を恐れたからではない。思い思いにグニドを顧みた戦士たちの瞳にはこれまでになかった輝きがあり、それがまるでグニドを歓迎するようにあちこちから注がれている。
グニドはそんな人間たちの反応を奇妙に思いながらも、義勇兵に囲まれていたヒーゼルへと歩み寄った。
いつの間にか馬を下り、地面に座り込んだヒーゼルは依然左腕を押さえている。傍らでは水刻――水の精霊の力、即ち癒やしの力を使える神刻だ――を刻んだ戦士が彼を案じていたが、ヒーゼルはグニドがやってきたのを見るとそれを押し留め、へらりと笑みを作ってみせる。
「よう、グニド。お前にはおいしいところを全部持っていかれちまったなぁ」
「オイシイトコロ?」
「一番の見せ場ってことだよ。今回の戦の第一功労者は間違いなくお前だ。礼を言う」
「ムウ……コーローシャ? ヨクワカラン。オレ、戦士。ダカラ戦ッタ。戦士ガ戦ウ、アタリマエ。礼、言ワレルコトト違ウ」
「だがお前がいなかったら被害はこんなもんじゃ済まなかっただろう。あいつを足止めする間に、俺たちはもっとたくさんの犠牲を払っていたはずだ。だから義勇軍を代表して、礼を言う」
改めて力強い口調でそう言われ、グニドは困ったように頭を掻いた。が、あたりを囲んだ戦士たちはヒーゼルに同調するように頷き合い、やがて次々に手を叩き出す。
彼らの手を打つ音は次第に広がり、重なり合い、激しい波音のようになった。グニドはその音に呑まれて戸惑う。それが人間たちの間で『拍手』と呼ばれる称賛の証であることを、まだ知らなかったからだ。
だがやがて誰かがピュウッと口笛を吹き、「さすがは恐れ知らずの竜人!」と褒め称えたのを皮切りに、他の戦士たちもグニドの戦いぶりを賛嘆し出した。
そこで初めて自分が称賛されているのだ、と気づいたグニドは、にわかに居心地が悪くなる。あれほど自分を恐れていた人間たちに受け入れられたことが何だかこそばゆくて、どう反応して良いものか分からなかったのだ。
「ム、ムウ……ソ、ソレヨリ、ヒーゼル、腕、大丈夫カ?」
「ハハハ、それがあんまり大丈夫じゃない」
「何!?」
「最初のザコどもを蹴散らした段階で、ほとんど神力を使い切ってたからな。そんな状態で無理矢理大技を撃ったもんだから、神刻が暴走して左腕が使い物にならん。これじゃまたカルロス殿に怒られる……」
心配すべきところはそこじゃないだろう、とグニドは盛大につっこみたかったが、どうやらヒーゼルにとっては左腕が使えないよりカルロスに叱責される方が大問題らしい。彼はところどころ袖が焼けてしまった自身の左腕を見下ろすと、さも物憂げにため息をついている。
「まあ、数日休めばまた元通りになるだろうが、しばらくは神術は使えないな。城に戻ったら安静にしてないと、カルロス殿にぶちのめされるだろうし」
「カルロス、オマエ、殴ルカ?」
「ああ、そりゃもうボコボコに。俺を大人しくさせるにはそれが一番だって知ってるからな、あの人は」
「ヒーゼル殿、昔はよくカルロス将軍に刃向かって、その度にボコボコにされてましたからねぇ。よく懲りないなぁと、あの頃は皆感心してましたよ」
「う、うるさい……あれは、その……何というか、若気の至りだ。こっちはいつも全力で打ちかかってるのに、笑って相手にしようとしないあの人にムカついてしょうがなかったんだ」
「まさか本気で信じてたんですか、自分が将軍より強いって?」
「い、いや、あの頃はその……ああ、くそ! そんな話は今どうでもいいだろ! それよりお前ら、さっさと味方の被害状況を確認しろ! 水術兵は負傷者の治療だ! それから手の空いてる者はまだ燃えている家屋の消火! 第五班で動ける者は、村を回って逃げ遅れた生存者がいないか調べてくるように!」
「露骨に話を逸らしたな」
「そこ、うるさいぞ! 以後私語は厳禁だ! ホラ、分かったらさっさと動け!」
指揮者としての権限を遺憾なく振り回し、ヒーゼルは集まっていた戦士たちを散開させた。が、戦士たちはそんなヒーゼルの様子を笑うばかりでちっとも反省した様子はない。
彼らはいかにも「しょうがないな」と言いたげにヒーゼルの指示に従うと、踵を返してそれぞれの持ち場へ向かった。ヒーゼルはそんな戦士たちを半眼で睨み据え、再びため息をついている。
「ったく、どいつもこいつも人の心の傷に塩を塗りやがって……」
「オマエ、カルロス、嫌イダッタカ?」
「お前までその話題か? アレは嫌いだったっていうかだな……つまり、その、ガキだったんだよ。認められなかったんだ、この世に自分より強い男がいるなんて」
「フム?」
「俺は故郷じゃ右に出るヤツがいないってくらい強かったからさ。現に傭兵として旅に出てからも、戦いで負けたことなんて一度もなかった。だから見下してたんだよ、自分以外のあらゆるものを……だけどそんな俺の腐った性根を、カルロス殿は叩き直してくれたんだ。最初は喰ってかかってもまったく相手にされなかったけどな」
あの頃の俺には、改心させるだけの価値もなかったんだ。そう言ってヒーゼルは苦笑した。
だがそれは、別段自虐的な笑みではない。むしろ当時の自分の愚かさを懐かしみ、愛おしむような、そんな表情だ。
「あのときあそこでカルロス殿と巡り会ってなかったら、俺は今頃どっかで野垂れ死んでただろうな。だからあの人には感謝してるんだ。おかげでマルティナにも出会えたし……」
「マルティナ?」
「ああ、マルティナってのは俺の嫁さ。あー、つまり、エリクの母親ってこと。そうだ、サン・カリニョに戻ったらあいつにもお前を紹介するよ。夫の俺が言うのも何だけど、マルティナはそりゃいい女で――」
「――う、うわあああああっ!?」
そのときだった。突然あたりに悲鳴が響き渡り、ヒーゼルの言葉が遮られた。
ハッとして振り向いた先から、グニドの嗅覚を鋭く刺激する匂いがする。――血の匂いだ。
これは、とグニドが思った直後、崩れ落ちた家の瓦礫の向こうから、血相を変えた義勇兵の一人が駆けてくる。
「ヒーゼル殿! 大変です!」
「どうした!?」
「ま、魔物が――逃げたはずの魔物の群が、戻ってきました!」