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第二十六話 前途多難

 あれはたぶん、グニドが生まれてまだ一年と経たない頃のことだったと思う。

 人間ナムが聞いたら驚くかもしれないが、竜人ドラゴニアンは生まれて一ヶ月ほどで言葉を覚え、自我を持ち、そこからの記憶を脳に保存し始める。

 だからグニドには生まれて間もない頃からの記憶があり、あのときのことを今でも鮮明に覚えていた。


 その日、悪友のスエンが死の谷モソブ・クコルそびえる大岩の麓で、一人の竜人と取っ組み合いの喧嘩をした。

 相手はムラクという名の、グニドと同じ年に生まれた兄弟で、彼が人間との戦で名誉の死を遂げるまでは、スエンと三人でよくつるんでいたものだ。

 喧嘩の原因は些細なもので、その日、グニドたちは谷でネークと呼ばれるグニウを追いかけ回していた。この鳥は谷で甲虫や小さな蜥蜴ドラズィルエスィムなどを狩って生きている体長二十アレー(一メートル)ほどの飛ばない鳥で、喰ってもあまりうまくないものの、狩りの練習台にするにはもってこいの獲物だった。


 グニドとスエンとムラクの三人はこれを競い合って追い立てていたのだが、あるときグニドが機転を利かせてネークの前に飛び出し、その進路を塞いだところでスエンとムラクが飛刀を投げた。

 このとき二人が、まるで事前に打ち合わせでもしたかのような呼吸で同時に飛刀を投げたのがまずかったのだ。しかもその狙いはどちらも正確で、ネークの黒い尻目がけてまっすぐに飛んだ二本の飛刀は途中でち合い、互いに弾き合ってあらぬ方向へ吹き飛んだ。


 結果、そのネークはグニドが一刀両断することになったのだが、このことでスエンとムラクが言い合いになった。

 最初に難癖をつけたのはスエンだったかムラクだったか。とにかく双方〝お前が邪魔をしたから獲物をグニドに獲られた〟と言い争い、やがてスエンの方がムラクに手を出した――思えばあの頃からスエンは気性が荒くてどうしようもなかった。


 それが発端となって二人は取っ組み合いになり、赤褐色の土の上を転げ回って暴れることになったのだ。まったく子供じみた話だが、なるほど、あの頃グニドたちはまだ立派な子供だった。

 もちろんグニドはこれを止めようとしたが、戦士として侮辱された竜人の怒りはそう簡単に静まるものではない。制止の声は二人に届かず、グニドはスエンがムラクの首に噛みつき、ムラクの尾がスエンを薙ぎ倒すのを為す術もなく眺めていた。


 結局二人の争いが止んだのは、狩りに出た大人たちが戻ってきたとエヴィが呼びに来てからのことだ。

 我を忘れて喧嘩に耽っていた二人は、双方、エヴィの尾にぶっ飛ばされてようやく止まった。エヴィはグニドたちより一つ年嵩だったから、生まれたてのグニドたちより一回りも体が大きくて、あの場で彼女に逆らえる者など一人としていなかった。


『で、どうしてあんな喧嘩になったの?』


 と、エヴィが尋ねたのは、彼女にギタギタにされたスエンとムラクがすっかり怯えて大人しくなった頃。

 三人は――そう、何故かあのときはグニドまで一緒に叱られる羽目になり、元凶である二人と並んで座らされた――互いに顔色を窺い合い、結局グニドが事情を説明する羽目になった。スエンとムラクはどちらも満身創痍だったのと、エヴィがとんでもなく恐ろしかったのとで、既に口をきける状態ではなかった。


『……なるほど。それでどっちが悪いかで言い争いになったのね』


 やがてグニドがすべてを話し終えると、エヴィは呆れたようにそう言って、それからスエンをもう一度ぶちのめした。

 理由は、最初に手を出したのがスエンの方だったからだ。思えばエヴィとスエンの力関係は、あの瞬間に運命づけられたのだろう。

 何で殴るんだよ、とスエンが抗議すれば、エヴィの尾はまた容赦なくスエンを吹き飛ばした。グニドとムラクは震え上がって物も言えなかった。


 彼女の言い分はこうだ。


『あのね、あんたたち。そうやって血気盛んなのはいいことだけど、あたしたちは一つのカプなのよ。群っていうのはね、あたしたち一人一人がお互いを尊重して、助け合って成り立つものなの。想像してもごらんなさい。群のみんながみんな、あんたたちみたいに自分勝手に生きてたらどうなると思う? 毎日喧嘩、獲物の取り合い、子育ての放棄。弱い者は食いっぱぐれて、一族の未来さきは途絶える。そうでしょ?』


 グニドたちは揃って頷いた。頷かなければまたエヴィの尻尾打ちの餌食になるのは目に見えていたし、そのときにはもう、彼女が何を言わんとしているのかちゃんと分かっていた。


『そりゃ仲間と一緒に生きていくっていうのは、ときには面倒だし腹が立つこともあるわ。だけどそれをグッとこらえて、許し合う。思いやる。支え合う。それが群ってモンなのよ。それができないなら、今すぐ群を出ておいき。そうすればたった一人で生きていくってことがどんなに大変か、嫌というほど思い知るわ』


 ――これはあとから聞いた話だが、かつてエヴィがもう少し若かった頃。彼女は色々と制約の多い群での生活に嫌気が射して、ある日こっそり谷を抜け出したことがあったらしい。

 そうして一人砂漠へ乗り出して、自分は一族の古い考えなどに捉われず自由に生きるのだと息巻いた。彼女は同じ年に生まれた子供たちの中でも特に好奇心が強く、武芸も達者だったから、自分なら一人でも生きていけると傲っていたのだという。


 だがその結果、エヴィは砂漠で路頭に迷い、危うく飢えて死にかけた。そのうち砂漠を渡る人間たちを襲おうとして返り討ちに遭い、追われて逃げ惑い、やがて自分の愚かさを噛み締めて死ぬのだと覚悟したとき、彼女の身を案じて駆けつけた群の仲間たちに救われた。


 その経験が、エヴィに〝群で生きる〟ということが何かを教えたのだろう。

 彼女に諭されたスエンは渋々ながらも、最後はムラクに謝った。ムラクも素直にそれを受け入れ、二人はやがて先程までの喧嘩がウソだったように『ひでえ顔』と笑い合った。


 グニドは知っている。その後ネダに戻ったエヴィがスエンを呼んで、手ずから怪我の手当てをしてやっていたことを。


 子供というのはそうやって生き方を学んでいくものだ。同じ年頃の仲間とときにじゃれ合い、ときに喧嘩し、ときに笑い合って、共に生きるために必要なことを覚えていく。


 けれどもルルには、そういう〝同じ年頃の仲間〟というものがついぞなかった。


 そのことの重大さを、グニドはここに来てようやく思い知ることになる。



          ×



 両目を満月のように見開いて、ルルが唖然とこちらを見ていた。

 だからグニドもその目を見返す。大きく開かれたルルの瞳にはそれを見下ろすグニドと、グニドの頭に乗ったエリクの姿が映っている。


『グニド! あたまになにかのってる!』


 やがてルルがこちらを指差して叫んだ言葉は、弾けるような驚きに満ちていた。

 だからグニドはサッとルルの手を掴んで下ろしながら、それに頷いてみせる。


『ルル、人を指差したらダメだと言ったろ。これはエリクだ。ヒーゼルのムスコで、今年で四歳になったらしい』

『ムスコ!? ムスコってなに!?』

『あー、ムスコってのは、ヒーゼルのつがい・・・が生んだ子供ってことだ。って言ってもお前には分からんだろうが……』

『それもナムなの? でも小さい! すごく小さいよ!』

『お前も十分小さいけどな。こいつはアレだ、あー、つまり、お前が見たがってた〝脱皮してない人間〟だ』

『だっぴしてないナム!!』


 ルルはひどく興奮していた。たぶん、生まれて初めて自分より小さい人間を見たためだろう。

 その顔には色んな感情が錯綜していて、中でも〝信じられない!〟という驚きと〝もっとよく見たい!〟という強烈な好奇心が、グニドには色濃く見えた。

 だからグニドは両手でひょいとエリクを持ち上げ、地面に下ろしてやる。突然下ろされたエリクはきょとんとしたまま、何故か大興奮している初対面の少女を見ていた。


「おい、グニド。ルルのやつ、一体どうしたんだ?」

「ムウ……ルル、ニンゲンノコドモ見ル、ハジメテ。ダカラ、驚イテイル」

「ああ、なるほど。そういうことか。なら――エリク、この子はルルだ。ルルはグニドと一緒に砂漠から旅してきたんだ。ほら、初めましての挨拶は?」

「えっと……はじめまして、エリクです」


 ヒーゼルから促されたエリクはたどたどしくも、そう挨拶して左手を差し出した。

 きっと大人を真似て〝アクシュ〟をしようとしたのだろう。だがその直後、ルルが思いがけない行動に出る。


「――いたい!」


 とエリクが悲鳴を上げて、グニドは慌てた。

 何故ならルルが突然バッ!と両手を広げ、かと思えばその手でバシン!とエリクの顔を挟み込んだからだ。


『こら、ルル!』


 そうしてルルがまじまじとエリクを観察し出したのを、グニドは急いで引き離した。一方のエリクは両頬を真っ赤に腫らして、せっかく挨拶をした相手からの奇襲にぷるぷると体を震わせている。


「う……う……うわあああん! たたかれたぁ!」


 そのままみるみる涙を溢れさせたエリクは、声を放って泣き始めた。それを見たヒーゼルも慌てて我が子を抱き上げ、苦笑しながらあやし出す。


「よしよし、エリク、びっくりしたな。もう大丈夫だ」

「ヒーゼル、スマン。今ノハ、ルルガ悪イ」

「いや、いいさ。こんなの子供の間じゃよくあることだ」

「ムウ、スマン……」


 理不尽な仕打ちに泣きじゃくっているエリクを見て、グニドは思わずうなだれた。そうして見やった先にはルルがいて、彼女はぱちくりとエリクの泣き顔を眺めている。


『グニド。小さいナム、どうして泣くの?』


 ――なんてことだ、とグニドは思った。

 ルルはエリクが泣いている理由はおろか、自分のしたことが間違いであったことにも気づいていない様子だった。

 彼女はただ無邪気に、初めて目にする人間の子供をよく知ろうとしただけなのだ――たとえば大地の肚レドヌ・ダオルで初めて夜光石を見たとき、その青白く光る石の欠片を眺め回したり、舐めてみたり、地面に叩きつけたりしていたように。


『ルル。エリクが泣いてるのはお前のせいだ。お前が急に顔を叩いたりするから、痛くてびっくりしたんだよ』

『そうなの?』

『そうだ。お前だって知らない相手にいきなり顔をぶたれたりしたら嫌だろう? ほら、分かったらちゃんとエリクに謝るんだ』


 グニドはそう諭すや否や、後ろからルルの両脇に手を差し込んで抱き上げた。そうしてヒーゼルの傍まで行き、泣いているエリクの前へずいっとルルを差し出して言う。


『〝イルロス〟を人間の言葉でなんて言うか、分かるか?』

『むー……〝ゴメンナサイ〟』

『そうだ。それをちゃんとエリクの方を見て言うんだ』


 グニドが言うと、ルルは何故謝らなければならないのかいまいち分かっていない様子でエリクを見、ちょっと不服そうに〝ゴメンナサイ〟をした。

 エリクはそれを受けて泣き声を引っ込めたが、それでもまだぽろぽろと涙を流してルルを見ている――どうやらルルを警戒しているようだ。幼い顔つきには濃い不信と怯えの色があり、彼はヒーゼルにひっついたままぐっと唇を引き結んでいる。


「エリク、スマン。オレ、アトデ、ルル叱ル。ダガ、ルル、ワザトヤッタ、違ウ。悪カッタ」


 続けてグニドも謝ったものの、どうもエリクは今の一件ですっかり心を閉ざしてしまったらしい。彼は小さな鼻をヒーゼルの胸に押し当てるようにして、グニドから顔を背けてしまった。


 それを見たグニドはルルを差し出したまま、困ったな、と首を下げる。子供というのは一度こうなると厄介だ。

 大人なら笑って許せそうなことも、子供の間ではそうではないというのは儘あること。そういう〝暗黙の掟〟のようなものがあるのは、きっと人間の子供だって同じに違いない。だがルルにはそれが分からないのだ――これまでその〝暗黙の掟〟を教えてくれる相手と触れ合ったことが一度もないから。


「これ、エリク。この者どもはこうしてきちんと謝っておるのじゃ。それならそもじもちゃんと許してやりんしゃい。先頃そもじがトビーの服に飲み物をこぼしたとき、トビーはそもじに怒ったきゃえ?」


 と、ときに突然小鳥のさえずるような声がして、グニドはハッと首をもたげた。

 横からエリクを諭したのはロクサーナだ。グニドたちは現在、ラッティたちが待っているという建物――砦の麓に建つ、上の方がやけに尖った建物だ――の前までやってきたところで、それに気づいたルルが走り出てきたことからこの事件が起こったのだ。


「のう、エリク。どうじゃ?」

「……宣教師さまは、おこらなかった……」

「そうでおじゃろ。それはそもじがきちんと謝ったからじゃ。ほいならそもじは何故この者どもを許してやらぬ?」


 すん、と鼻を啜って、エリクはそれきり押し黙った。が、グニドがじっと待っていると、やがて小さな顔が半分だけこちらを向く。


「どうだ、エリク。まだルルを許してやれないか?」


 それを待っていたようにヒーゼルが問えば、エリクは小さく首を振った。

 その様子を見たグニドはホッとする。エリクの機嫌が直るまでは今しばらくかかるだろうが、これ以上話がこじれる心配はなさそうだ。


 それにしたところで、まさかルルがあんな行動に出るとは思わなかった。そう考え込みながらグニドはヒーゼルらに連れられて建物の入り口をくぐり、中にいたラッティたちと合流した。

 そこは『聖堂セイドウ』と呼ばれる特別な建物らしく、中へ入ると驚くほど天井が高い。おまけに入り口の正面にはやたらと色とりどりの壁があって、グニドは思わず呆けてしまう。


 しかもそれはただの壁ではなく、薄く透明で、壁の向こうから太陽の光が射し込んでいるのが見えた。

 陽の光は薄壁を通り抜ける際に色を持ち、石の床にもたくさんの色をちりばめている。いくつにも組み合わされた壁の色は、どこか竜祖の祠にあった壁画を思わせるところがあって、よく見ると七色の翼を持った鳥――いや、もしかしたらあれは蛇?――の姿を描いているようだ。


「来たか、ヒーゼル。何だ、エリクも連れてきたのか?」

「ええ、すみません、カルロス殿。こいつ、一人で兵舎区に潜り込んでたみたいで」

「まあ、かわいい坊や! だけど、どうしたの? 目を真っ赤にして」


 と、ときに弾けるような声を上げたのは、エリクを見てぱっと腰を上げたポリーだった。それまで彼女が腰掛けていた木の長椅子にはラッティ、ヴォルク、そしてヨヘンも顔を揃えている。カルロスはその方が落ち着くのか、腰に佩いた剣に手を預け、佇んだままだ。


「あー、いや、これは表でちょっとな……それはそうとカルロス殿、公証人にはトビアスを立てることにしたんですよね? そのトビアスの姿が見えませんが?」

「ああ。それが教印を部屋に忘れたとかで、今取りに戻っている」

「よりにもよって公証の教印を忘れたのきゃえ。まったく、あやつはほんにそそっかしいのう」


 呆れた調子でロクサーナが言い、左右に並んだ木の椅子の間で両手を腰に当てた。グニドにはさっぱり話が見えないが、どうもトビアスという名の人間が現れないと話が進まないらしい。

 そこでグニドは一度ラッティの傍まで行くと、彼女の隣にルルを座らせた。ルルは先程の一件がまだ腑に落ちていないのか、ちょっとむくれている。こんなときこそポリーに機嫌を取って欲しいのだが、そのポリーは現在エリクに夢中だ。泣いて目を腫らしている子供を放っておけないのだろう、ヒーゼルに抱かれたエリクの前に屈み込むと、にこにこしながら毛むくじゃらの手でその頬を撫で回してやっている。


「にしても驚いたぜ。まさか義勇軍には正義神ツェデクの神子の他に、光神オールの神子まで加わってたとはな。しかも在位六百年って、歴代神子の中で最長じゃないのか? なのにまったく名前を知られてないって、一体どういうことだ?」


 ――さて、どうすればルルの機嫌を直せるか。グニドがそんな思案に暮れている間に、ヴォルクの肩の上からヨヘンが言った。

 途端にグニドの思考はそちらへ引っ張られる。ロクサーナの話題だ、と分かったからだ。

 どうも〝光神オール〟というのは人間たちが崇める光の精霊のことらしく、ロクサーナはそのオールに選ばれた神子なのだという。しかもたった今ヨヘンが言ったように、精霊から与えられた不老の力――つまり、歳を取らないということ――で途方もない歳月を生き、これまでに世界中のあらゆる場所を旅してきたというから、これにはグニドも興味津々なのだ。


「ふふん。わーはこれまでゆえあって隠密に世界を旅しておったからの。これまで他の神子のように己の名を売るという所業をしてこんかったのでおじゃる。しかしそもじの言うとおり、在位六百年と言えば数いる神子の中でも最長の部類と言えるじゃろう。それをそこの新米神子が、軽々と顎で使いおって」


 今度は胸の前で腕を組みながら、ふんぞり返ってロクサーナは言う。するとその視線の先でカルロスが苦笑を零した。二人の様子を見る限り、同じ神子でも生きた歳月によって明確な序列があるようだ――もっとも、見た目だけで言えばカルロスの方がロクサーナよりずっと年上に見えるのだが。


「まったく、相変わらず光の神子は根に持つな。私はその威光に敬意を表しているからこそ、その者たちを迎えに行かせたのだが」

「分かっておる。わーはそれならそうとはっきりそう言わぬそもじのやり方に腹を立てておるのじゃ」

「……つまり、どういうことです?」


 二人の会話が飲み込めない、というようにラッティが口を挟む。するとカルロスはますます苦笑を濃くして肩を竦めた。


「いや、何、先程塔の上から、ヒーゼルがグニドナトスを連れて兵舎区の方へ行くのが見えたのでな。大方兵たちにグニドナトスを紹介するつもりなのだろうと踏んで、それでロクサーナを迎えに行かせたのだ――何せここの兵たちは、ロクサーナが私より遥かに神威ある神子だということを知っている」

「ああ、なるほど。だからわざわざ皆の前でグニドと握手を? さすがはカルロス殿、権力者の使い方・・・をよく心得てますね――いたっ!」


 性懲りもなく軽口を叩き、ヒーゼルがまたロクサーナに足を踏まれている。が、グニドはそこで初めてカルロスたちの話を理解し、思わず自身の右手を見つめた。

 ――なるほど。つまりあの場でロクサーナがグニドに握手を求めてきたのは、神子であるロクサーナが竜人を受け入れた、という事実を人間たちに見せつけるためだったのか。

 人間たちは神子を神と同等の存在だと信じ崇めているから、その神子が竜人のグニドを受け入れたとなれば、それに逆らうわけにはいかない。谷で暮らす竜人の間でも精霊の意思を読み解く祈祷師たちの言葉が絶対であるように、ここでは神子であるカルロスやロクサーナの意思が絶対なのだ。


(そうか。カルロスはそのためにロクサーナを……)


 途端にグニドはぶるりと身が震え、右手をぎゅっと握りながら顔を上げた。すると目の合ったカルロスが、悠然と微笑みかけてくる。


 ――これが精霊かみに選ばれし者か。


 そう思うと、グニドは畏怖で肝が冷えた。


 なるほど、確かに彼らは精霊の意思の体現者だ。ラッティの話を聞いた限りでは、神子も神に選ばれる前はただの人間であったはずなのに、彼らは先程の人間たちのように竜人グニドを拒みはしない。ただ在るべきように在るものとして、その存在を受け入れている――精霊たちがこの世の万物を懐に抱き、平等に生と死の祝福を与えるように。


 つまり自分は精霊の慈悲を受けたのだ。だとすればこれはもうあとには引けないぞ、とグニドは思った。

 果たして自分は人間と和解できるのかどうか、先程の顛末からいささか不安に思っていたのだが、精霊が彼らと歩み寄れと言っている。精霊の意思には決して逆らうことなかれ――それが竜人にとって最も重要な掟だ。

 この掟には竜祖の祠を守る大長老でさえ逆らえない。ならば自分も精霊の意思に従おう、とグニドは腹を決めた。


 見えざる指に示された道は前途多難だが、グニドも一端の戦士である以上、背を向けて逃げ出すわけにはいかない。やれるだけのことをやってやる――そう決意も新たに、グニドはフンスと鼻から息を吐く。


 と、そのとき、


「――す、すみません! 大変お待たせしました――」


 と、突然広間の脇に設けられた横穴から足音が聞こえ、次いで一人の人間が飛び込んできた。

 黒髪黒眼の、やけにゴテゴテした衣服を身につけた若いオスだ。頭には泥団子を掌で叩いて潰したような形の被り物を被っていて、その被り物を押さえながら、もう片方の腕には何か荷物を抱えている。

 よっぽど急いで来たのだろう、その足取りは今にも前のめりに倒れそうで、グニドは「おいおい、大丈夫か?」と思わず首を伸ばした。


 瞬間、そのオスと視線が合う。


 途端にオスは今にもすっ転びそうだった足を止め、みるみるその場に凍りついた。

 かと思えばその腕からバサバサと音を立てて荷物が滑り落ち、顔面蒼白になったオスの口から絶叫がこだまする。


「う……う……うわあああああああ!? な、なんで竜人がああああああああ!?」


 そのあまりに素っ頓狂な悲鳴にロクサーナがため息をつき、グニドは頭を押さええてうなだれた。


 ……本当に、前途多難な道のりになりそうだ。

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