第二十五話 木を知りたくば
お前はちょっとここで待ってろ、と言われ、そのとおりにしたことをグニドは悔いた。
あのヒーゼルという男、一体何を考えているのか。言われたとおり物陰に身を潜めて、やたらと大きな建物が並ぶ一帯へ歩いていったヒーゼルの背中を眺めていたら、あれよあれよという間にあちこちから人間が湧き出しわらわらと集まってきたではないか。
「よーしお前ら、よーく聞け! これからお前らに紹介したいヤツがいる!」
こちらに背を向けたままのヒーゼルが大声でそんなことを言っているのが聞こえて、グニドは頭を抱えた。
確かに自分は先刻人間のことをもっとよく知りたいと伝えたが、だからと言ってアレはなんだ。ものの百ほど数える間に、それ以上の数の人間が集まっているではないか!
「どーしたんですか、ヒーゼルさん。また将軍が気まぐれに変なモノでも拾ってきたんですか?」
「まあ、そんなとこだ。その前に一応訊くが、その〝変なモノ〟ってのには俺も含まれてるのか?」
「当たり前でしょーよ。オレはアンタが何度あの方にブチのめされても懲りずに突っかかっていってた頃から知ってますからね。あの頃はみんな、アンタが実は深刻な被虐趣味なんじゃないかって噂してましたよ」
「よーしアントニオ、お前はしばらく黙ってろ。俺がいいと言うまでにちょっとでも口を開いたらその度に一つ、お前が管理する倉を増やす」
「ちょ、それはいくらなんでも理不尽でしょ!?」
「ハイ、一つ追加。誰か、あとでパブロに第八倉庫の鍵をコイツに預けるよう伝えてくれ」
そりゃねえや! と誰かが叫ぶのが聞こえて、揉め事だろうか、とグニドは思った。しかしグニドが物陰からちょっと顔を出すと、途端にどっと大勢の笑い声が上がる。……揉めているわけではないのだろうか? ヒーゼルは〝クラ〟がどうとか言っていたようだが、グニドにはよく分からない。
「それで、ヒーゼル殿。紹介したい方というのは?」
「ああ、それなんだがな。お前ら、俺たちが昨日隊商を連れてきたのを知ってるだろ?」
「ええ。何でも獣人と半獣人で構成された風変わりな隊商だって噂じゃないですか。その隊商が何か?」
「実はカルロス殿のご意向で、そいつらがしばらくこの城に留まることになった。ラッティっていう狐人の半獣が率いる隊商なんだがな。その中に凄腕の用心棒がいて、そいつにしばらく手を貸してもらうことになったんだ」
両手を腰に当ててヒーゼルが言えば、言下にどよめきが広がった。彼の前に集まった人間たち――その数は恐らく竜人の部族を三つ併せたくらいにはなるだろう――は銘々に顔を見合わせて、その表情に驚きや動揺を浮かべている。
「で、ですが、ヒーゼル殿。獣人だけで構成された隊商ってことは、もちろんその用心棒も獣人なんでしょう?」
「ああ、そうだ。だが能力に関しては俺が保証する。何せこの俺が危うく首を取られるところだったからな」
「まさか、襲われたんですか、そいつに?」
「いや、逆だよ、逆。俺が襲ったんだ。その、敵と間違えて……」
「ハハ、そりゃヒーゼルさんらしいや。ま、相手が獣人じゃ敵と間違えるのもしょーがないってモンですがねぇ」
「アントニオ。更に倉庫一つ追加な」
「え? 冗談でしょ?」
「これが冗談を言ってる顔に見えるか?」
直後、群衆の中でサッと口を押さえたオスの人間がいる。遠くて顔まではハッキリ見えないが、ひょろりとした背の高い男だ。
恐らくそれが〝アントニオ〟なのだろう。しかし会話を聞いている限り、ヒーゼルと仲がいいのか悪いのか、よく分からない。
「まあそんなわけで、しばらく義勇軍に獣人隊商の連中が仲間として加わることになる。獣人隊商は、侯王軍に目をつけられる危険を冒して俺たちに物資を届けてくれた義侠心厚い連中だ。そのメンバーを暖かく迎え入れるようにと、カルロス殿からお達しが来ている。だからお前らにも、彼らを恩義ある客人として鄭重にもてなしてもらいたい」
「だ……だけど、半獣人もいるって……なあ?」
「ああ。しかもそのうち一人はあの残忍な狼人の血を引いてるって聞いたぜ。そんなやつらを仲間として迎え入れるなんて……」
人間たちの間に広まったどよめきは、収まるどころか更に大きくなっているように思えた。そこではたくさんの声が重なり、すべての声を聞き取ることはできなかったが、何となくラッティたちが歓迎されていないのだ、ということは分かる。
――アタシやヴォルクみたいな半獣人ってのはサ、大昔から人間に嫌われてンだ。
そのときグニドの脳裏に、先程カルロスの部屋で聞いたラッティの言葉が甦った。
どうやらあの言葉は、今の人間たちの反応を見る限り事実だったようだ。グニドはこれまで、ラッティが必要以上に人間たちの集落を避けるのは侯王軍を警戒してのことだと思っていたのだが、どうもそれ以上の理由があったらしい。
「あのなあ、お前ら。余所者の俺が言うのも何だが、ここはかつて誇り高き法王陛下に治められていたルエダ・デラ・ラソ列侯国だぞ。法王陛下の下ではどんな人種も種族も平等に尊重された。俺たちはそんな時代を取り戻すために今、侯王軍と戦ってるんじゃないのか?」
「そ、それはそうですが……」
「〝平等と統一による平和〟を謳う俺たちが、まずここでそれを体現しなくてどうする。俺たちは侯王のように命を選別したりしない。そうだろ?」
更にヒーゼルが何か小難しいことを言っている。グニドがその言葉の意味を何とか追いかけている間に、人間たちのどよめきは小さくなっていた。
〝俺たちは侯王のように命を選別したりしない〟――。どうやらその言葉が効いたようだ。集まった人間たちの中にはまだ納得していないような、不安げな顔をしている者もいるが、多くはヒーゼルに反論できなくなって口を閉ざしている。
「それにな、俺はこの三日間獣人隊商の連中とほとんど一緒にいたが、どいつもこいつも見た目以外は俺たち人間と大して変わりない。実際に会って話せばお前らだってすぐに馴染むさ。下手な人間より気のいいヤツらだしな」
「……まあ、ヒーゼル殿がそう仰るなら信じますけど……」
「で、そのキャラバンの連中ってのは? ここに連れてきてるんですか?」
「ああ、とりあえずまずは一人だけ。例の〝腕の立つ用心棒〟だ。呼んでもいいか?」
「ほ、本当に大丈夫なんでしょうね? おれたち、襲われたりしませんよね?」
「心配すんなって、ちゃんと信用できるヤツだから。それに万一何かあったとしても、俺がいるだろ?」
そう言ってヒーゼルがあたりを見渡せば、どよめきは更に小さくなる。グニドは少し驚いた。どうやらあのヒーゼルという男は、義勇軍の中でも特別信頼されているようだ。
「よし。じゃ、呼ぶぞ。お前ら、くれぐれも騒いだり逃げ出したりするなよ」
客人に失礼だからな、とヒーゼルが付け足せば、ほとんどの人間が腹を決めたように頷いた。ヒーゼルはそれを満足そうに見やってから、くるりとこちらを振り返る。
「おい、グニド。待たせたな、出てきていいぞ」
「……」
グニドは躊躇した。
ヒーゼルの前に集まった人間たちの中には武器を身につけた者も多くいて、あの人数に囲まれたら厄介だぞ、と本能が警告している。
「グニド? 何やってんだ、早く来いよ」
だがヒーゼルからの催促は続く。グニドは仕方なく、物陰からちょっとだけ顔を出した。
……本当に大丈夫だろうか。
いや、しかし人間のことをもっと知りたいと言い出したのは他ならぬ自分だ。ヒーゼルはそれを聞いてあの人間たちを呼び集めたのだから、あそこへ行けばきっと何か得るものがあるに違いない。
何しろグニドは、人間と言えばルルとヒーゼルくらいしかまともに知らないのだ。人間のことを更によく知り、歩み寄るためには、もっともっと多くの者と触れ合わなくてはならない。
グニドは腹を括った。
そうしてついに物陰を出て、のしのしと人間たちの方へ歩き出した。
が、そこからが大変だった。
何故ならヒーゼルが事前に〝騒ぐな〟と言っていたにもかかわらず、グニドの姿を見た人間のほとんどが目を剥き、悲鳴を上げ、あたりは大混乱に陥ったからだ。
「どっ……!! ど、ど、竜人だ!!」
近づいてくるグニドを見て、人間たちはわっと浮き足立った。まるで波が引くように人垣がザアッと後ずさり、中にはその途中で腰を抜かす者、武器に手をかける者、気が狂れたように絶叫する者ととにかく色んな人間がいる。
だがそれらの人間に共通して言えるのは、竜人をひどく恐れているということ――。
人間たちの反応を前にしたグニドは、途中で歩み寄る足を止めた。
これ以上近づいていいのか分からず、首を垂れて様子を窺う。
そして、少し傷ついた。
そんな自分がひどく意外だ。自分はどこかで人間たちにすんなり受け入れてもらえるとでも思っていたのだろうか?
自分が彼らに恐れられ、憎まれる存在であることは砂漠にいた頃から知っていたはずだ。
ただ――そう、ただ。
ルルは、ルルだけは、最初からグニドを恐れなかった。
だからあの人間たちももしかしたら、と期待していたのか。
だとしたらそれはとんだ勘違いだ、と、グニドはその場にうなだれる。
「おいお前ら、騒ぐなって言っただろ! そこの二人も、武器をしまえ!」
「で、ですがヒーゼル殿!」
「大丈夫、あいつは大丈夫だから。おいグニド、お前も何やってんだ、もっとこっちに来いよ」
「……ダガ、オレ、行クト、皆、逃ゲル」
「大丈夫だ。少なくとも、俺は逃げない」
グニドはちょっと顔を上げた。見やった先で、ヒーゼルはしゃんと背筋を伸ばして佇んでいる。
――俺は逃げない。
その言葉が、グニドの尻尾をゆらっと揺らした。
それからグニドは一歩、前に出る。すると人の波も一歩あとずさる。
そんなことを何回か繰り返して、グニドはいよいよヒーゼルの隣に立った。
その頃には既に竜人三人分も人間たちとの距離は離れてしまっていたが、ヒーゼルだけは笑ってグニドの背中を叩いてくる。
「よし。お前ら、紹介する。こいつが例の獣人隊商の用心棒、竜人のグニドナトスだ。仲間には〝グニド〟って呼ばれてるらしいんで、俺もそう呼ぶことにした。こう見えて人の言葉も話せるぞ。なあ、グニド。試しに自己紹介してくれよ」
「ジコショーカイ?」
「自分の名前とか、生まれとかさ。そういうのを、お前の口からこいつらに教えてやってくれ」
「ムウ……」
要するに自分の身の上話をしろということか。
グニドは少し困って頭を撫で、それから怯えている人間たちを見渡した。
人間たちは、グニドなどサッと囲んで袋叩きにできてしまいそうなほどの人数がいるにもかかわらず、すっかり腰が引けてしまっている。ここでグニドが悪戯にワッと吼えてみせたら、きっと諸手を上げて逃げ出すに違いない。
そんな相手に自分の身の上話などして意味があるのか、とグニドは甚だ疑問だったが、ヒーゼルがそう言うのなら仕方がない、と首をもたげた。
どうもこの男には、そんな風に〝仕方がない〟と相手を諦めさせるところがある。たぶんラッティと同じで、人を化かすのが上手いのだ。
「――オレ、名前、グニドナトス。ドラウグ族ノ戦士。ダガ、今ハ、獣人隊商ノ用心棒、シテイル。オレ、群、ハグレタ。ダカラ、用心棒、シテイル」
グニドが知っている限りの言葉でどうにか自己紹介するのを、人間たちは固唾を飲んで凝視していた。
きっとヒーゼルもそうだったように、竜人が人間の言葉を話すことに驚いているのだろう。だがそのときふと、グニドは怯えて固まった人間たちから一人だけ離れている者を見つける。
それは先程ヒーゼルがアントニオと呼んでいた、背の高い男だった。
遠くから見たときはひょろりとしている印象だったが、近くで見ると意外に逞しい体をしている。袖がない――というより、引きちぎったように見える――上衣から覗く二本の腕は細いながらもしっかりと筋肉がついていて、きっとちょっとした剣ならば軽々と振り回してみせるだろう。
だがアントニオは武器を帯びていない。それどころかヒーゼルの目の前で腰を抜かし、グニドを見上げて凍りついている。
たぶん、一人だけ逃げ遅れたのだろう。体つきは戦士のようなのに、意外と肝の小さいヤツだ――そう思ったところで、グニドは気づく。
アントニオには、片足がなかった。
左足の膝から下には、何故か丸太が生えている。
グニドは思わずそれを凝視した。それはどこからどう見ても人間の足ではなく、丸太だ。それも丁寧に表面が削られて、先端には鉄の塊がついている。
何だアレは。そう思い、グニドはそれをもっとよく見ようと首を伸ばした。
するとアントニオは「ひっ」と息を飲み、顔面蒼白になって震え出す。何やら酸っぱい臭いがした。――アントニオが失禁したのだ。
「あ……あ……!」
「落ち着け、アントニオ。こいつはお前を喰ったりしない」
「じょ……冗談じゃねえ……冗談じゃねえ! ヒーゼルさんだって知ってるでしょう!? オレの左足は昔、コイツらに喰われちまったんだ! なのに、なのになんでこんなヤツを!!」
――左足を喰われた。
アントニオが絶叫したその言葉に、グニドはすさまじい衝撃を受けた。
とっさに隣のヒーゼルを振り返る。だが彼は至って冷静だ――その横顔が突然冷酷なものに見えてくるほどに。
「アントニオ。俺がいいというまで口を開くなと言ったはずだぞ」
「っざけんな! オレは認めねえ! 絶対に認めねえよ! 竜人がオレたちの仲間!? 冗談じゃねえ! コイツは、コイツらは、オレたち人間を食い物だとしか思ってない人喰い獣人だぞ!? 魔物と同じだ、アンタや将軍は魔物と手を結ぼうってのか!? 神子のくせに!」
「こいつは魔物なんかじゃない。れっきとしたこの世の生き物だ。魔物のように見境なく人を襲ったりしないし、こうして言葉を交わすこともできる。それどころかグニドは、砂漠で拾った人間の赤ん坊を十年も育てたらしい。その赤ん坊も今この城にいる」
「ハッ! 何だよそれ、感動のお涙頂戴物語か? その赤ん坊だって、どうせソイツらが殺した人間から奪ったんだろ! てめえが親を殺した赤ん坊を偽善者ヅラして育てたってか? とんだ人外サマがいたモンだな!」
その瞬間、空気がパリッと音を立てるのをグニドは聞いた。
ハッとしてヒーゼルの左手を見やる。――雷気。まさか撃つつもりか。
よせ、とグニドは言おうとした。
だがその寸前、
「――おとうさん!」
突然幼い声がして、ヒーゼルの雷気が引っ込んだ。
そのとき目の前の人垣から転がるように飛び出してきた人間がいる。小さい――ルルよりも小さい、ヒーゼルと同じ色の髪をした、仔人だ。
「おお、エリク! なんだ、お前も来てたのか?」
――こんな小さな人間は久々に見た。グニドがそう思って目を見開いているうちに、突然頬を緩めたヒーゼルがサッと地面へ膝をついた。
その胸元へ、仔人――ヒーゼルは〝エリク〟と呼んだ――が一目散に飛び込んでくる。そうしてヒーゼルに抱き留められると、エリクは無邪気に目を細めて笑った。
「えへへ、今日ね、エルナンおじさんがぼくに剣をつくってくれるっていうから。だからおじさんのところにあそびにきたの」
「剣? ああ……チャンバラ用の木刀か。エルナンにも母さんにも、お前にはまだ早いと言ったんだがなぁ」
「でもおじさん、つくってくれるっていったよ! おかあさんにはナイショだけど」
「ほう、そんな内緒話を俺に教えていいのか? 母さんに言いつけるぞ」
「へへっ、ヘーキだよ! おとうさんはおかあさんにいわないって、ぼく、しってるもん!」
「何だ、ちょっと留守にしてる間にずいぶんと生意気言うようになったな、こいつは」
「わ~っ!」
はしゃぎ声を上げたエリクの両足が浮いた。ヒーゼルがその体を抱き上げ、立ち上がったからだ。
たぶん体の育ち具合から言って、エリクは三歳か四歳、それくらいだろう。仔人の年齢なら、グニドも過去にルルの成長を見ているから、分かる。
「なあ、グニド。紹介するよ。こいつはエリク、俺の息子だ」
「ムスコ?」
「あー、つまり俺の子供ってこと。分かる?」
「コドモ……」
――ああ、なるほど。つまりこの仔人はお前の卵から孵ったのか、と言おうとして、グニドは思い留まった。
そうだ。すっかり忘れていたが、人間は卵を生まない。かつて長老から聞いた話だと、人間は砂漠にいるスナギツネのようにつがいを作り、一人のオスと一人のメスの間で子を生み育てるのだという。
「エリク、見ろ。こいつはグニド。砂漠で暮らす竜人だ。前にお前にも話したことがあるだろ?」
次いでヒーゼルはそう言いながら、エリクにグニドを紹介する。グニドはちょっと緊張した。何故ならヒーゼルと同じ空色の大きな瞳が、真ん丸に見開かれてじーっとグニドを見つめてきたからだ。
――この仔人もおれに怯えるだろうか?
そう思うと、グニドは迂闊に口を開けなかった。自分の口にズラリと生えた牙を見て泣かれでもしたらたまらない。
だからグニドはそのまま岩のように固まって、じっとエリクを見返した。するとエリクは何度かパチパチと瞬きをして、それからヒーゼルに問いかける。
「おとうさん、これが〝どらごにあん〟?」
「ああ、そうだ」
「でも、ぜんぜんうごかないよ?」
「あー……そうだな。だが生きてる」
「どらごにあんは、人をたべちゃうんでしょ。だからとってもこわいんだって、まえにエルナンおじさんからきいたよ。アントニオさんの足をたべたのも、どらごにあんだって」
「ああ、そうだ。けどこいつは違う」
「どうちがうの?」
「アントニオの足を喰ったのはこいつじゃない。それに、こいつは人を食べない」
「ほんとに?」
「ああ。グニドはいい竜人だからだ。人間にだってカルヴァンみたいな悪いやつもいれば、カルロス様みたいないい人もいるだろ?」
「うん」
「それと同じだ。竜人にもいいやつと悪いやつがいる。こいつは俺たちの味方だ」
「ふうん……」
「触ってみるか?」
言いながら、ヒーゼルはグニドに目配せしてきた。たぶん、そのまま大人しくしていろ、という意味だ。
仕方がないので、グニドはヒーゼルに頭を差し出すような姿勢で静止した。グニドの頭がゆっくり下がってきたのを見たエリクは、一度驚いたようにヒーゼルへひっついたが、それきりグニドが動かないと知ると恐る恐る手を伸ばしてくる。
その小さな手が、グニドの額のあたりに触れた。
そうして硬い鱗の感触を確かめるように、何度かグニドの眉の間を行き来した。
その感触が少しくすぐったくて、グニドはブフン、と鼻から息を吐く。
途端に「わっ」と悲鳴を上げて、エリクが手を引っ込めた。
まずい。怖がらせたか――と思ったのも、束の間。
エリクはグニドを見つめる目を再び真ん丸にしたかと思うと、弾けるように笑い出す。
「おとうさん! どらごにあん、すごく硬いよ! でも、ツルツルしてる!」
「おお、そうだろ。竜人の鱗はなぁ、鎧の代わりなんだ。ちょっとやそっとの攻撃じゃ傷つかない。それに体も大きいから、戦場じゃ敵なしだ。なあ、グニド?」
「ウ、ウム……」
「わ! しゃべった!」
グニドがヒーゼルの言い分を肯定すると同時に、エリクの目がぱっと輝いた。
その二つの空の中で、太陽のように煌めいているもの――それは恐怖でも戸惑いでもない。〝この大きな生き物のことをもっと知りたい〟という無垢なる好奇心だ。
――この仔人もおれを恐れないのか。
グニドは驚きと共に思った。
だが、そういうことなら話が早い。仔人の相手ならばお手のものだ。グニドだって伊達に十年、苦労してルルを育てていない。
「――乗ルカ?」
「え?」
「オレノ頭。乗ルカ?」
グニドは更に首を低くして言った。頭や肩に乗せてやると、ルルはいつも『高い!』と言って喜ぶ。それならばエリクも喜ぶに違いない、と思ったのである。
が、エリクはすぐには「うん」とは言わず、ヒーゼルの顔色を窺った。
本当に乗ってもいいのだろうか。たぶん、そんな不安が掠めたのだろう。けれどもそれを見たヒーゼルは笑って、
「乗りたいか?」
そう尋ねた。
「いいぞ」とも「ダメだ」とも言わず、エリクの意思を確かめた。
途端に二つの太陽が輝きを増す。
「――のりたい!」
「よし。じゃあしっかり掴まれよ!」
悪戯っぽく笑ったヒーゼルが、エリクの体を高々と持ち上げた。そのままグニドの頭に乗せられたエリクは、はしゃぎ声を上げながら首に抱きついてくる。
その小さな重さを確かめたグニドは、下げていた首をぐんっと持ち上げた。頭の上から、悲鳴とも歓声ともつかない声が降ってくる。
懐かしい重さだった。グニドは今でもルルを重いと思ったことは一度もないが、彼女にもこのくらいの、頭に乗せると妙にしっくりくる時期があったことを、グニドは不意に思い出した。
それが何だか感慨深くて、グニドはゆらりと尻尾を揺らす。それからのしのしとあたりを歩いてみせれば、エリクはもう大はしゃぎだ。
「わ~! すごい! おとうさん、たかい! たかいよ!」
「おー、そりゃ良かった。だがあんまりはしゃいで転がり落ちるなよ」
グニドが背中を向けて少し離れる素振りを見せても、ヒーゼルは慌てない。それどころか腕を組み、のんきに笑っている始末だ。
むしろそんな彼よりも群れて固まっている人間たちの方が気が気ではないようで、彼らの間には再びどよめきが生まれていた。さっきはあれほどがなり散らしていたアントニオも、今は腰を抜かしたまま茫然とエリクを見上げている。
「エリク。オマエ、オレ、怖クナイカ?」
「どうして? ぜんぜんこわくないよ! だって、グニドはいいどらごにあんなんでしょ?」
「ムウ……ダガ、オレ、体、大キイ。ソレニ、牙、生エテイル」
「キバがはえてたらこわいの? でも、パブロさんが飼ってるクレトだってキバがはえてるよ」
「クレト?」
「うん、ぼくよりずっとおっきい犬! でもすっごくかわいくて、ぜんぜんこわくないんだ!」
「ムウ……オマエ、変ダ。ヒーゼルモ、変ダ。ダカラカ?」
「え? ぼくのおとうさん、ヘンかなぁ?」
「ウム。変ダ」
「おーい、そこ、こっそり離れて息子に何か吹き込んでないか? エリクは俺に似て純真なんだから、あんまり変なこと教えるなよ――オフッ!?」
ところがそのとき、俄然背後からヒーゼルの悲鳴が上がった。何事かと振り向けば、直前まで軽口を叩いていたはずのヒーゼルが地面に膝をつき、うなだれながら腰を押さえている。
その背後に、見たこともないほど美しい人間がいた。
竜人のグニドは正直に言って、人間の美醜というものはよく分からない。そもそも髪の色や背格好が同じだと顔の見分けもつかないくらいで、これまで人間を美しいと思ったことなど一度もない。
だがその人間は、他に形容のしようがないくらい美しかった。
背は低く、胸のあたりにわずかながら膨らみが見て取れるから、たぶんメスだ。歳はラッティよりも若いだろうか。肌はルルにも引けを取らないくらい白くて、同じように鬣も白い。
いや、あれは限りなく白に近い銀だ。その銀が日の光を受けて、まるでそれそのものが光の筋であるかのようにキラキラと輝いている。グニドが美しいと思ったのはそれだ。譬えるならばあれは星の色。星の光で染め抜いたような色――。
その美しい鬣を持つ人間は、グニドが振り向いたとき、ちょうど片足を地面に下ろすところだった。
どうやらヒーゼルが地に伏しているのはあのメスのせいのようだ。状況から推測するに、恐らくあのメスが背後からいきなりヒーゼルを蹴り飛ばしたに違いない。
「ろ……ロクサーナ……いきなり何を……」
「ああ、ごめんなし。なんぞそもじが純潔の神を冒涜するような言葉を吐いておったような気がしたき、神子として見過ごせぬと思うての。神の裁きでおじゃる」
「こ、こんな理不尽な神の裁きがあっていいのか……」
「我は今カルロスに顎で使われて機嫌が悪いのじゃ。光の槍を喰らわなかっただけマシでおじゃろ」
「とことん理不尽だ……ていうか、カルロス殿が何だって?」
――ロクサーナ、というのがあのメスの名前だろうか。名前の響きまで優美だ、と、グニドは思わず聞き惚れた。
その間にも腰を摩りながらヒーゼルが起き上がり、ロクサーナと何か言葉を交わしている。その内容がほとんど頭に入ってこないのは、グニドがロクサーナの鬣の輝きに見とれていたから――ではない。
ロクサーナの話す言葉が、グニドの知る人語とかけ離れているせいだ。
「何でも獣人隊商とやらと契約を交わす準備ができたから、そもじを聖堂へ連れてこいと言われての。カルロスの小童め、そのような雑用をよりにもよってわーに押しつけよったのじゃ! 何でもわーよりもトビーを公証人にした方が信用が上がるなぞと申しての!」
「あー、そう。まあ、俺はカルロス殿のご判断についてとやかく言える立場じゃないから――っていてててて! 地味に足を踏むな、足を!」
「そもじら師弟はほんに年長者を敬わんの。わーはこう見えてそもじの二十倍もの歳月を生きておるのじゃぞ! 少しは神子に対する畏敬というものを見せたらどうじゃ!」
「わ、分かった分かった、気が向いたら悔い改めるから! そんなことより、カルロス殿が呼んでるんだろ? じゃあもう行かないと――おいグニド、一旦ラッティたちのところに戻るぞ!」
と、依然ロクサーナに足を踏まれたままヒーゼルが呼びかけてくる。その眼差しが〝こいつ何とかしてくれ〟と言っているのを感じ取って、グニドは何となく憐れみの目を向けた。
だがそれよりも気になるのはやはりロクサーナだ。驚いたことに、彼女はグニドの姿を見ても眉一つ動かさなかった。
それどころかグニドが近づいても動じない。
彼女はグニドの胸のあたりまでしか身長がないにもかかわらず、少しも怖じずに、むしろ胸を張ってこちらを見上げた。
「そもじがグニドナトスけ?」
「ム? ウ、ウム」
「そうけ。話はカルロスより聞いておる。わーは光神オールの神子、パーシャ・ロクサーナでおじゃる。以後よろしくの」
そう言って、ロクサーナは何の気負いもなく手を差し出してきた。
間違いない。〝アクシュ〟の催促だ。
グニドは重ねて驚いた。〝アクシュ〟というのは、もう少しお互いの間に信頼関係のようなものが生まれてからするものだと思っていたから、たった今出会ったばかりの相手にそれを求められるとは思わなかった。
おまけにグニドの解釈が正しければ、今この人間は自分を〝神子〟だと言わなかったか。
グニドは混乱する頭でヒーゼルを見やった。これはどういうことだ、と説明を求めたつもりだったが、その視線の先でヒーゼルは肩を竦める。
「とりあえず握手しとけよ。じゃないとあとが怖いぞ」
直後、ヒーゼルが思いきり脛を蹴られてうずくまるのを見て、グニドはサッとロクサーナの手を取った。
保身のためのアクシュだった。