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第二十一話 草の海

『ふわあー!』


 どこまでも続く蒼天の下に、ルルの歓声が響く。

 馬車を引く馬の歩みは、今までよりずっと力強い。大きな車輪が奏でる音色も、砂漠の砂を轢いていたときとはまるで違う。


 嗅いだことのない風の匂い。

 砂漠の外の風はこんなにも瑞々しく青くさいものだったのかと、グニドは改めて驚いた。


 ラムルバハル砂漠の西、ルエダ・デラ・ラソ列侯国。


 国境を越え、いよいよ訪れたその天地は、グニドの知る砂だらけの世界とはまるで別物だ。


『グニド、グニド、見て、すごい! みどり! ずうっとみどりだよ!』

『ああ。数年ぶりに見るが、本当にすごいな――まるで草の海だ』


 轣轆れきろくと街道を行く馬車の上。荷台にかかった幌から顔を出したグニドとルルは、あまりにも珍しい景色に驚嘆を禁じ得なかった。

 何しろあたりは草まみれ。見渡す限り、地平線の果てまで緑色なのだ。

 まるで砂漠の砂の一粒一粒が種として芽生え、大地に根を下ろしたかのよう。それでいて列侯国の大地には砂丘のような高低差もなく、見晴らしの良い平らな地面がどこまでもどこまでも続いている。


「おいグニド、興奮するのは分かるが、あんまり尻尾をバタバタするなよ! おまえさんが暴れると、馬車の床に穴が開いちまう!」

「……ムウ? スマン」


 が、ときに背後からそう声をかけてきたのは、すぐ傍の木箱に乗ったヨヘンだった。実は先程からグニドの尻尾がバンバンと荷台の床を叩くので、近くにいたヨヘンはその尻尾に潰されそうになりかなり肝を冷やしたのだが、当のグニドは知る由もない。だって尻尾が感情に任せて動くのは生理反応なのだ。


 シャムシール砂王国とルエダ・デラ・ラソ列侯国の国境にそびえる要塞――ラッティはアレを『関所セキショ』と呼んでいた――を通過してから、およそ三刻(三時間)。初めは砂漠とさして変わらぬ乾いた荒野だった外の景色は、その三刻の間にすっかり様変わりしていた。

 現在馬車は関所からまっすぐ西へ伸びる土の道に添って移動している。何でもこの道は『街道カイドウ』というそうで、主要な集落まち集落まちとをつなぐため、人工的に整備されたものなのだという。


 だがグニドに分かっていることは、この馬車はひたすら西へ進んでいる、ということだけだ。行き先については関所を抜けたあとにラッティが説明してくれたが、砂漠の外のことはまったく分からないグニドが聞いてもまるでちんぷんかんぷんだった。


 とりあえず理解できたことだけ要約するならば、この馬車はこれより列侯国南部のパシエンシア侯領というところへ向かう。そこには現在『トゥルエノ義勇軍』と呼ばれる軍隊がいて、ラッティたちはその義勇軍を相手に商売をするつもりなのだという。


 その『義勇軍ギユーグン』というのは何だ、とグニドが尋ねると、ラッティは「間違ったことを正すために戦っている軍隊のことサ」と答えた。

 どうも詳しいことは分からないのだが、目下ルエダ・デラ・ラソ列侯国は内戦状態にあり、その内戦の発端となったのがトゥルエノ義勇軍らしい。彼らは列侯国の王――列侯国には七つの侯領があり、それぞれに王がいて、更にその七人の王を統べる王がいる――が不義を働いたとして怒り、その不義を糾弾するために戦っているのだとラッティは言った。


 だから獣人隊商ビーストキャラバンは、これから義勇軍に武器を売りに行く。彼らは元々戦士でない者たちが集まってできた軍隊らしく、ゆえに武器や防具が不足していて、売りに行けばなかなかいい値で取引してくれるのだという。

 キャラバンの馬車に武具の類がたくさん積まれていたのはそのためだったのだ。しかしラッティは関所を抜けるとき、荷物を改めに来た列侯国人たちに、


「この武具一式は、トレランシア侯領のディストレーサ栄光騎士団様にお届けする品ですよ」


 と言っていた。


 ディストレーサ栄光騎士団とは、現在トゥルエノ義勇軍と敵対している王の軍のこと。

 要するにラッティは〝これは王への献上物だ〟と偽って、列侯国に入る許可を得たのである。


「だってそうしなきゃ、アタシらあそこで全員打ち首だぜ。義勇軍ってのは、言い換えれば王に逆らう反乱軍だ。その反乱軍に武器を売りに行きます、なんてバカ正直に話したらどうなると思う? アタシら狐人フォクシーの化かしの術ってのはね、こういうときも役に立つのサ」


 無事に関所を抜けたのち、ラッティはそう言って笑いながら数枚の紙切れをひらつかせた。それは何も書かれていない真っ白な紙だったが、関所の人間たちにはそれが騎士団からの注文表に見えたのだ。


 ちなみに関所を通る際、ラッティはグニドにも術をかけた。荷台に竜人ドラゴニアンを乗せたままでは関所は通れない、と言うので――何せ竜人は列侯国人の天敵だ――、グニドの姿が馬車に積まれた鎧の一つに見えるよう、相手の目を欺いたのだ。

 同じようにラッティ自身も耳と尻尾を隠し、すっかり人間のメスに化けていたものだから関所側はお手上げだった。

 彼らはラッティの見せた白い紙を何の疑いもなく騎士団との契約書だと信用し、いかにも頑強そうな鉄の門を開いてくれたのである。


「なあ、グニド。今は術をかけてないんだから、あんまり馬車から顔を出さないどくれよ。この国の人間はアンタら竜人のことが怖くてしょうがないんだ。そんな連中に竜人を乗せてることがバレたら、とんでもない騒ぎになっちまう」


 と、ときに馭者台側の幌が払われ、顔を覗かせたラッティが言った。その頭には既にしっかりと狐の耳が戻っている。

 が、それを見て自身にかかっていた術もすっかり解けていることを思い出したグニドは、若干しゅんとして「スマン」と返した。

 本当はもう少し緑色の大地を眺めていたかったが、隊長おさであるラッティにそう言われたのでは仕方がない。そもそも旅の仲間であるラッティたちに迷惑をかけるのは、グニドとて本意ではないのだ。


(だがこれで、本当に谷へは戻れなくなったな……)


 と、最後にふと東を顧みてグニドは思う。さすがにここからはもう見えないが、シャムシール砂王国とルエダ・デラ・ラソ列侯国の国境には寝そべった砂漠の大蛇トネプレスのごとき長大な防壁が築かれており、再び砂漠へ戻りたければ関所を通るほか道はなかった。


 そこをこの先グニドが一人で通り抜けることは、ほぼ不可能だ。関所は砂王国人の侵入を阻む鉄壁の要塞でもあるから、力に訴えて押し通るのはまず無理だし、グニドではラッティのように人間ナムたちを〝化かす〟こともできないだろう。


 途端に込み上げてきた郷愁をやり過ごすべく、グニドはのしのしと荷台の奥へ戻って腰を下ろした。

 隣ではポリーがせっせと縫い物をしている。どうやら売れ残った布で、ルルのために新しい服を作ってくれているらしい。


「ラッティ。義勇軍イルトコロ、何日デ着クカ?」

「んー、そうだねぇ。もう少ししたら街道を逸れて間道に入るから、義勇軍がいるっていうサン・カリニョまではちょっと遠回りすることになる。順調にいっても一月はかかるかな」

「カンドー?」

「うん。間道ってのは整備が行き届いてない代わりに関所を避けられる道のこと。街道と違って道も治安も悪いけど、侯王軍に目をつけられる確率はグッと下がる。アタシらは侯王の敵に武器を売りに行くワケだからね。連中に見つからないに越したことはない」

「フム……抜ケ道カ」

「ま、そういうこと。だけど最近この国じゃ、内乱に乗じて魔物や賊が増えてるって話だからね。場合によっちゃ、途中でそういうヤツらと鉢合わせるかもしれない。そのときはアンタが頼りだよ、グニド」

「任セロ。タマニ戦ウ、シナイト、腕、鈍ル」

「アハハッ、そうかい。そりゃ頼もしいや」


 縦に切れ目の入った幌の向こうで、ラッティがからりと笑った。その切れ目からふわりと風が舞い込み、グニドの鼻先をくすぐる。やはり青くさく、少しばかりの湿気を孕んだ風だ。


 それから数日をかけ、グニドら獣人隊商の馬車は山の裾野に広がる森へと入った。グニドは〝森〟というものを生まれて初めて見たが、これがまたすごい。

 何せ道の両脇に視界が塞がれるほどの木が並び、長く伸びた枝葉が鬱蒼と頭上を覆っているのだ。

 それはまるで緑の洞窟。ラッティがその道を指して〝間道ぬけみち〟と呼んだのも頷ける。それほどまでに森の中にかよった細い道は薄暗く、それでいて頭上から細切れになった日の光が雨のように降り注ぐのだ。


『ふわあ……! グニド、すごいよ! あたまの上、きらきら……!』

『ああ……これはすごいな。しかも見たこともない木ばっかりだ。クリムの木よりずっと背が高いし、オアシスの木とも葉の形が全然違う……』


 今日も今日とて馬車の後ろから顔を出し、グニドとルルは見慣れない景色を楽しむ。街道に比べて人通りが少ないためか、間道に入ってからはグニドがそうしていてもラッティはあまり注意しなくなった。


 森の中をぐねぐねと蛇行しながら走る道は、デコボコしていて石も多い。おかげで時折馬車が思わぬ跳ね方をするものの、その度にルルは『きゃあ!』とはしゃいで楽しそうにしている。


『あっ! グニド、見て! あれ、あれ!』


 と、ときに荷台から身を乗り出したルルが、ひどく興奮した様子で何かを指差した。グニドがそちらに目を向けると、馬車の両脇にそそり立つ木々の間を何かがサッと横切って行く。


 ――魔物か?


 グニドは一瞬それを警戒し、思わず長い首を伸ばした。

 だが、ルルが青い顔をして騒ぎ出さないところを見るとそれは違う。葉擦れの音を立てながら、茂みの中をピョンピョンと跳ねるように遠ざかっていくそれは、見たこともない大型の獣だ。


「ヨヘン、アレハ何ダ?」

「あん? ああ、ありゃ鹿シカってんだよ、鹿。こういう森の中で群を作って暮らす草食動物で、害はない。オイラは喰ったことねえけどさ、アレの肉はなかなかうまいらしいぜ」


 つい尋ねたグニドの問いに、頭の上からヨヘンが答えた。列侯国に入ってからというもの、グニドがやたらとあれは何だ、これは何だと尋ねるので、いつでも視界が共有できるよう、グニドの頭の上はいつの間にかヨヘンの特等席と化している。

 だがそのときヨヘンの口から発せられた〝肉〟という一言に、グニドは思わず鼻孔が広がるのを感じた。


 肉。

 そうか。

 あれはシカ。

 シカの肉はうまいらしい。

 喰ってみたい。


 本能的にそう思った頃にはシカの影は森の奥へと消えていたが、グニドはそれでもなお残り香を追跡するようにフンフンと鼻を鳴らした。

 実を言うとこのところ、グニドは生の肉を喰っていないのだ。砂漠の途中まではヴォルクが自分用に買っていた豚の肉を分けてもらっていたが、それも二、三日で底を尽き、あとは乾いた干し肉を囓って我慢してきた。

 その状況は列侯国に入ってからも変わらない。ラッティは積み荷が人目につくことを嫌い、国境を越えてからも人間の集落に近づこうとしなかったので、新鮮な肉を手に入れる機会がなかった。


 ならばあのシカという獣を狩ることはできないだろうか……。

 グニドの中で食欲と狩猟本能が疼く。

 グニドは誇り高い戦士なので食い意地を張ったりはしないが、たまには腹一杯食べたいと思うことだってあるのだ。竜人の間には〝空腹は最大の敵イェメネ・シ・レグヌ〟という諺があって、戦士の本分を果たそうと思ったらまずは空腹という強敵ごうてきを倒さなければならない。


 だが、そうしてしばしフンフンとしたのち。

 グニドははたと自らの欲望を鎮めて、我に返った。

 何故なら緑の匂い濃い風の中に、不意に異質な匂いが混ざり込んだからだ。

 これは――人間と鉄の匂い。


 そして、微かな血の匂いだ。


『――グニド』


 そのとき、ルルが不意にグニドの名を呼んだ。

 振り向くと、彼女は蒼白な顔でグニドを見上げている。


 その時点で、グニドは確信した。


 すぐさまルルを抱き上げ、荷台の中へと駆け込む。隅の方でウトウトしているポリーの隣に彼女を預け、更にその膝へヨヘンを振り落とすと、彼が上げる抗議も聞かずにラッティとヴォルクのいる馭者台へ顔を突き出した。


「ラッティ!」

「うわっ! な、何だよ、急に大声出して」

「血ノニオイダ」

「へ?」

「血ノニオイ、スル。アト、ニンゲンノニオイ、タクサン」

「……!」

「タブン、コッチニ来ル。用心スル方ガイイ」

「どうやらそうみたいだね。ポリー、魔石の準備!」

「ハッ! ハイッ!?」


 うたた寝をしていたポリーの垂れ耳が、ラッティの鋭い声に叩かれピン!と跳ねた。かと思えば彼女は慌てて腰の物入れをあさり、その中から黄色く透明な石を掴み出す。


 ――魔導石。


 ラッティたちは時折〝魔石〟と呼んだりもするが、その石こそが使い手に神術に似た力をもたらす奇跡の石だった。しかも魔導石は色によってそれぞれ効果が違うらしく、黄色は〝守り〟や〝癒し〟を司る石だ。

 大きさはグニドなら手の中に握り込めるほどで、不思議なことに石の中では星のような光が明滅していた。

 ラッティの話ではその光が消えると石は力を失ってしまうらしいのだが、たった今ポリーが取り出した石の中ではまだ星が輝いている。


 ポリーは急いでその石を両手で包み込み、祈るように目を閉じた。

 すると彼女の指の間から光が漏れ、やがて一瞬、グニドの視界が白に染まる。

 馬車に起きた変化はそれだけだったが、グニドにはすぐに状況が飲み込めた。

 恐らく今のポリーの〝祈り〟で、この馬車には砂漠で大蚯蚓エグ・ムロウと戦ったときのような守りの術がかかったに違いない。


「ヴォルク、さっさと森を抜けるよ!」

「ああ」


 それとほぼ時を同じくして、ビシッと鋭い音が空を切った。ヴォルクが馬車を引く四頭のエスロフに鞭代わりの手綱をくれたのだ。

 途端に馬車の揺れが大きくなり、馬たちの脚が急ぐ。元々デコボコの道で何度も跳ねていた馬車は更に激しく震動し、グニドは隣でずり落ちそうになった木箱をとっさに押さえた。


 だがこの馬車はグニドたちの他に、大量の武器や鎧を積んでいる。そんなものを引いていたのでは、どんなに馬を急かしたところで限界がある。


 ――果たして間に合うのか。


 グニドがそんな懸念を抱いてほどなく、不安は現実のものとなった。


 突然森から数本の矢が射かけられ、驚いた馬がいなないて棹立ちになったのだ。


「危ないっ!」


 ラッティが馭者台に掴まりながらそう叫ぶのと、ヴォルクが素早く手綱を絞るのがほぼ同時だった。仰天していた先頭の馬もそれでいくらか大人しくなる。

 だがそのせいで車輪が止まった一瞬のうちに、馬車は大勢の人間に囲まれていた。

 それも銘々剣や弓で武装した、いかにも素行の悪そうな人間たちだ。


「あっれー? おかしいな、今のは絶対当たったと思ったんだけどなー」


 木々の間から姿を現した人間の一人が、そう言って頭を掻くのが見えた。

 その手には弓。恐らくあの人間は馬を狙って矢を射かけたのだろう。それが当たらなかったのは、ポリーのかけた守りの術があったからだ。


「おいおい、しかもよく見たら、乗ってるのはどっちも半獣じゃねえか。今回はハズレなんじゃねえのか?」

「ん~、けど、マルコス殿にはたとえ民間の馬車でも通すなって言われてるしなァ。てことは、半獣の馬車もやんなきゃダメでしょ」


 馬車の中にいても、聞こえがよしに交わされる会話が聞こえてくる。グニドは馭者台側の幌の裂け目から、じっと外の様子を窺った。

 ラッティとヴォルクは、どちらも緊張で体を強張らせている。だがこちらには魔導石による守りの術があると分かっているためだろう、やがてラッティがおもむろに馭者台の上で立ち上がった。


「アンタたち、アタシらになんか用? 見たところ最近噂の義勇軍サンってわけでもなさそうだけど」

「ひゅう、何だよ、よく見たらイイ女じゃん。お前、狐人か? 半獣じゃなかったら可愛がってやンのになァ」

「質問に答えてくれる? アタシら、これから商いで西に行くんだ。用がないんなら道を開けてほしいんだけど」

「そいつはできねえ相談だな。実はこの道は、とあるお方の命令で絶賛封鎖中なんだ。通りたきゃそれなりの代価を払ってもらわにゃならん」

「封鎖中、ねぇ。アタシにはシケた山賊が行商の馬車を狩ってるようにしか見えないけど?」

「ぶははっ、言ってくれるじゃねえか! 何ならその太え肝に免じて、通行料は馬車一台で勘弁してやるぜェ?」


 途端にラッティの零したため息が、グニドにも聞こえた。どうやら話の通じる相手ではないらしい。

 ちなみに先程ラッティの口から出た〝山賊〟というのは、まあ、要するにシャムシール砂王国にいる傭兵たちのようなものだ。

 暴力にモノを言わせて弱き者から金や命をふんだくる。それが山賊というものだ、と、グニドはラッティから事前に聞いている。


「お話にならないね。それじゃあ馬車で轢いていくけど、文句ない?」

「ヒヒヒッ、いいねェ、やれるもんならやってみな。悪ィがオレたち――半獣まざりものには容赦しねえからよォ!」


 刹那、森の空気がワッと震えた。馬車を取り囲んだ山賊どもが、喊声を上げて攻め寄せてくる気配をグニドは感じた。

 だがヴォルクも負けじと手綱を打つ。馬を走らせ、強引に囲みを突破するつもりだ。だが馬車の前方にも山賊。やつらは昼間だというのに松明を持っている。恐らく火で馬を怯ませるつもりなのだろう。そうなれば馬車は進めない。


 ならば、こちらにも考えがある。


『――ジャアアアアアアアッ!!』


 目の前の幌を割って飛び出し、馭者台を蹴って地面へ降り立ち、腹の底から、グニドは吼えた。

 瞬間、山賊の上げていた喊声がどよめきに変わる。こちらへ殺到しようとしていた賊どもは一斉に足を止め、あたりにはたちまち驚愕と動揺が伝播する。


「なっ――ど、竜人だと!?」


 直前まであれほど好戦的に見えた山賊たちの顔が、みるみる血の気を失った。彼らは国境から遠く離れた森の中に竜人がいる、という光景が信じられないようで、誰もが目を剥いている。


 だがグニドはその隙を見逃さなかった。もう一度更なる威嚇を込めて咆吼を轟かせると、大竜刀を手に一目散に駆け出した。

 向かった先は、馬車の前方。

 松明を手にした賊どもの方だ。


「う、うわあああああああ!?」


 脇目も振らずに突っ込んでくる竜人グニドを見て、慌てた山賊たちが身を翻す。しかしグニドは冷静に飛刀を引き抜き、背を向けて逃げる山賊を狙ってそれを投げた。


 よく磨かれた飛刀はまっすぐに背中へと吸い込まれ、「ぐえっ」と声を上げた賊が倒れる。その拍子に地面に転がった松明を大きな足でドスンと踏み消し、更に倒れた賊の頭を掴んで持ち上げると、グニドは刺さった飛刀を口で引き抜きながらその体をぶん投げた。

 まるで木切れか何かのように宙を飛んだ死体は、逃げ遅れた賊を何人か巻き込んで森へと転がっていく。そこへ追い討ちをかけるようにグニドが吼えれば、賊たちはもう大恐慌だ。


「ヴォルク、行ケ!」


 これで血路は確保した。既に馬車の前方を遮る者がないことを確かめたグニドは、すかさずヴォルクを促した。

 それに頷いたヴォルクは改めて手綱を打ち、素早く馬を走らせる。大きな車輪が小石を吹き飛ばしながら回転した。馬たちが横を走り抜け、先鋒にいたはずのグニドは殿しんがりへと早変わりする。


『グニド!』


 通りすぎていく馬車の後ろから、身を乗り出したルルが呼んでいた。

 だがグニドはそれをちょっと顧み、大丈夫だ、と目だけで合図する。何しろ敵は既に腰の砕けた烏合の衆。ざっと見たところ人数もたった三十人程度だ。


 この程度の数ならば、竜人の敵ではない。


『先に行ってろ!』


 グニドは最後にそう一吼えし、改めて山賊たちに向き直った。そこにはもう真っ向から向かってこようとする者などいなかったが、グニドにはある狙いがある。

 ぶるりと首を振り、再び吼え声を上げながら、グニドは逃げ惑う賊の中へと飛び込んだ。

 そうして比較的軽装の者に目をつけ、素早く尾で薙ぎ倒す。


 濁った声を上げ、胴に一撃を喰らった賊は倒れた。恐らく背骨ごとイッたのだろう、それきりピクリとも動かない。

 途端にグニドは身震いして、賊の上体から邪魔な胸当てを強引に剥ぎ取った。


 ああ、体中の血が悦びで沸騰している。


 肉だ。


 肉だ。


 肉ダ!!


「――う、うわああああああっ!?」


 久方ぶりにありつける鮮肉ごちそう。その最もうまいところにかぶりつこうとした瞬間、それは起こった。

 突然ドッと大地が揺れ、森の中へ逃げようとしていた賊どもが引き返してくる。それを見たグニドが顔を上げ、どうしたのか、と瞬きした直後、


「――ガスパル一家! 貴様らの悪行、義神ツェデクつるぎにて成敗する!」


 茂みを破り、血飛沫を上げ、まるで大蚯蚓が起こす砂津波ドゥナス・エヴァヴのような勢いで、馬の群が飛び出してきた。

 それも五頭や六頭どころではない。十、二十、三十――恐らく五十頭ほどはいる。


 馬の背には、山賊などよりずっと装備の充実した人間の戦士たち。

 その剣が逃げ惑う山賊を斬り裂き、馬の蹄にかけ、容赦なく追い立てるのを見てグニドは確信した。


 〝アレ〟はどうやら山賊どもの敵だ。


 しかしこれがまた――うまそうな馬に乗っている。


(肉ダ……!!)


 一度本能が目覚めると、あとはもうどうにもならなかった。グニドは手にしていた貧相な人間の肉を放り投げるや、大竜刀を構えて咆吼する。


 その咆声で、騎乗した戦士たちがグニドに気づいた。その誰もが面食らったような顔をしている。

 グニドはそちらへ一歩踏み出し、吼えた。


「馬、ヨコセ」

「な、何……!?」

「馬、ヨコセ!!」


 もうこれ以上は我慢できない。グニドは牙という牙の間から獰猛な唾液を垂らし、狂喜を乗せて大竜刀を振るった。

 だがその刃が目の前の鹿毛の首に届く寸前、グニドはハッとして刀を止める。


 そうしてふと見上げた先――そこに、人影。


 太陽の光を背に降ってきたその人影は、落下の勢いと己の体重を乗せ、振りかぶった剣をグニドへ叩きつけてくる。


『ジャアッ!!』


 すんでのところで、戦士としての理性が戻ってきた。

 グニドは返す刃で降ってきた相手の剣を弾き、互いに飛びずさって距離を取った。


 恐れもせずにグニドへ飛びかかってきたのは、若いオスの人間だ。

 それも燃えるように赤いかみ)をした、ただならぬ気配の男。


「まったく……これはどういうことだ? マルコスのやつは山賊だけじゃなく竜人まで飼ってたってのか?」


 着地の際に地面へ膝をついたその男は、そんな悪態を垂れながらゆらりとその場に立ち上がった。

 そうしてグニドを見据えた瞳は、蒼。

 怯えも傲りもない、空の蒼だ。


「ひ、ヒーゼル殿!」

「構うな。お前たちはガスパル一家の掃討に専念しろ。この竜人は、俺がやる」


 男は戸惑いを浮かべている仲間に一瞥もくれず、ただ剣の血を払ってグニドと向き合った。

 瞬間、グニドの背中を得も言われぬ痺れが駆け上がり、緋色のたてがみを逆立たせる。


 ――この人間は、できる・・・


「おい、竜人。お前、さっき人の言葉を話していたな。なら、俺の言葉が分かるか?」

『……!』

「どうせお前もマルコスの手駒の一つだろうが、ここで俺に会ったのが運の尽きだ。あの卑怯者の策略ごと――ここで叩き潰す!」


 マルコス。テゴマ。サクリャク。

 男が何を言っているのか、グニドには半分も分からなかった。


 だが悠長に意味を尋ねている時間は、既にない。

 赤髪の男は剣と鎧を閃かせ、一直線にグニドへと向かってくる。


「はあああっ!」


 振り上げられた切っ先。グニドは長い首を仰け反らせてそれをかわし、下がると見せかけて振り向き、素早く尻尾を振り抜いた。

 男もそれを跳んで躱す。だが着地に隙が出る。グニドはそこへ刀を見舞った。完璧なタイミング。しかし刃は虚しく地を叩く。


 そのとき男は、地面を転がってグニドの側面にいた。

 一体何が可笑しいのだろうか。

 男は左手を地についた体勢で笑い、不敵にグニドを見上げている。


「――お前ら竜人ってのは頑丈だからさ」


 そう言った男の左手に、青い蛇が巻きつくのが見えた。

 バチバチッと音を立て、激しく弾けたそれは――雷気。


「確実に仕留めるなら――この距離でないとな!」


 しまった、と思ったときにはもう遅かった。

 とっさに身を躱そうとしたグニドを雷の槍が襲う。


 ――雷刻ライトニング・エンブレム


 それは風の精霊がもたらす怒りの力だった。

 その怒りがグニドの体を突き抜け、これまで感じたこともないほどの衝撃に吹き飛ばされる。


 視界が一瞬で暗転し、グニドは背中から森の木に叩きつけられた。


 それはグニドが、初めて人間に敗北した瞬間だった。

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