第二十話 夜の砂漠で
「うおーーーーーーーーーー!!!!」
というヨヘンの雄叫びが、夜の砂漠に轟き渡った。
何もない砂漠の真ん中に突き出た岩の陰。そこでチラチラと揺れる焚き火を、グニドら獣人隊商の面々が囲んでいたときのことだ。
頭上には明るい月と満天の星。昼間の大蚯蚓の襲撃が嘘だったかのような、穏やかな夜だった。
なのにそんな静謐な空気をヨヘンが突然ぶち壊すので、これにはポリーもいささか機嫌を損ねたようだ。
「ちょっとヨヘン、うるさいわヨ。こんな時間に騒がないでちょうだいナ」
「うるさいうるさーい! これが騒がずにいられるかっ! もう、とにかく書きたいことが次から次へ湧いてきて、全然筆が追いつかないんだよ! ああっ、今だけ腕が十本になればいいのに!」
「腕が増えたって頭が一つじゃ同じだろ」
「今はそういう冷静なツッコミは求めてねーから! あーっ、くそっ、全然進まねー……!」
言いながらヨヘンは小さな手で頭を抱え、そこに生えた灰色の毛をワシャワシャと掻き乱した。どうやらヨヘンは先程から何か小さくてペラペラしたものの束に『文字』を書き殴っていて、その作業が思うように進まないことを嘆いているらしい。
「だけど、今日はいつにも増して熱心だね、ヨヘン」
「そりゃそうさ! だって、あんなすげえ戦いを見たあとだぜ! オスなら誰でも血が滾るってえもんよ!」
「不謹慎ねえ。あの戦いでヴォルクは怪我をしたのヨ。あと一歩間違ってたら大変なことになってたワ」
「まあ、そりゃそーだけどさ。いーじゃねーか、全員無事だったんだし、ヴォルクの傷だってルルが綺麗に治してくれたんだから」
言って、ヨヘンは砂の上に座ったヴォルクを顧みる。今はもう平気な顔をしているが、昼間の戦闘で化けミミズの毒液を後肢に受けたヴォルクは、人型に戻ると右足に火傷のようなひどい傷を負っていた。
それをルルが水の精霊の力で癒やしたのだ。そのルルは昼間の戦いで大きな力を使って疲れたのか、今はやわらかな体毛に覆われたポリーの膝に頭を預け、すやすやと寝息を立てている。
「いやあ、しかし、やっぱり竜人ってのはすげえなあ、グニド! オイラおまえさんたちのこと、野蛮で言葉の通じないアブナイ連中だと思ってたけど、一度味方につければこれ以上頼もしい仲間はいないぜ! 感激した!」
言いながらヨヘンはグニドに駆け寄ってきて、バシバシと脚を叩いた。そんなヨヘンの喋り方は相変わらず早口で、グニドは聞き取るのに難儀する。
だが今回は彼が何を言っているのかちゃんと分かった。――微妙に失礼なことを言われている。
「そこでだ! オイラは決めた! オイラはこれからおまえさんを主人公にした冒険記を書く! 題名は、そうだな、『子連れ竜人のエマニュエル探訪記』なんてどうだ!?」
「タンボーキ?」
「そうだよ! 今までこのエマニュエルに竜人と一緒に旅をした冒険家なんていやしない! だからオイラが書き残すんだ、竜人の強さも生態も言語も! そしたら筆者のオイラはもちろん、おまえさんだってとびきり名が売れること間違いなしだぜ! なあ、なあなあなあ! 悪い話じゃねーだろ!?」
「……ヨク分カラン。好キニシロ」
「おうともさ! たとえおまえさんがダメだって言ったってオイラは書くぜ~! こいつは鼠人族初の偉大なる冒険家、ヨヘン様に課せられた使命なのだ! もう誰もオイラを止められないぞー! チュチュチュチュ!」
何が楽しいのか分からないが、とにかくヨヘンは上機嫌で、また先程のペラペラの束――どうやらそれは『手帳』というらしい――のもとへ駆け戻っていった。
まあ、何はともあれ、あのお喋りな灰色ネズミが大人しくしてくれるのならそれでいい。ヨヘンの声はルルやポリーのそれとはまた違った意味で甲高いので、あまり早口で捲し立てられると鼓膜に障るのだ。
「ダガ、驚イタ」
「何が?」
「オレ、竜見タ、ハジメテ。本物ト思ッタ」
「ノガルド?」
「昼間、オ前、ナッタ。翼アル、大キイ生キモノ」
「ああ、竜のこと? へえ、アンタらの言葉ではアレをノガルドって呼ぶんだ」
と、ときに焚き火を挟んでグニドの向かいに座ったラッティが、けたけたと声を立てて笑った。
その手には銀色の金属でできた水筒が握られていて、ラッティは先程からそれをうまそうに傾けている。竜人がよく使う革の水筒とはずいぶん赴きが違うが、どうやら中身は酒らしい。
「まあ、ビックリしてもらえたなら何よりだよ。でないとこっちも頑張って化けた甲斐がないからね。竜みたいに滅多にお目にかかれない生き物に化けるのは、なかなか骨が折れるんだ。相手を化かすときは何をどういう風に見せるのか、かなり詳細にイメージしなきゃいけないから」
――〝化ける〟。
という言葉の意味が、グニドは初めよく分からなかった。
昼間の大蚯蚓との戦いのさなか、突如として現れた巨大な竜。
あれはラッティが竜に化けた姿だったというのだ。
つまりあの竜は偽物。幻。そう説明されて初めて、グニドも〝化ける〟という言葉の意味を理解した。
どうやらラッティには、特定の相手に特定の幻を見せることができる不思議な能力があるらしい。
しかしよくよく話を聞けば、どうやらそれはラッティに限った話ではないようだった。相手を化かす能力は狐人族なら誰でも持っていて、小さい頃から練習を重ねて次第に上手くなるのだという。
やがてその技が上達すれば、昼間のラッティのように自分より遥かに大きなものにも化けることができる。一度に大勢の相手を化かすこともできる。視覚だけでなく、相手の五感すべてを騙すことができる。
これまでこの小さな隊商が無事に旅を続けてこれたのは、そのラッティの能力に依るところが大きいのだとヴォルクは言った。
まあ、確かにあの力があれば、小さい魔物や危険な獣を追い払うくらいは容易いだろう。
もっとも対象があの化けミミズくらいの大物となるとさすがに限度があるようで、そういうときのためにグニドが雇われた。それまでは今のグニドの役割をヴォルクが一人で担っていたらしい。
「シカシ、アノ魔物モ、変ダッタ」
「変って?」
「途中デ、砂モグル、ヤメタ。イツモハ、砂ノ中、来ル。アレハ何故ヤメタカ?」
「ああ、そりゃ、あそこが岩道の上だったからでしょ。あの巨体じゃ砂が浅くて、潜るに潜れなかったんだよ」
「ガンドウ?」
「知らないの? 岩道ってのは、地中に岩があって砂が浅くなってるところのことだよ。まあ、海で言う浅瀬みたいなモンだね。その上を渡っていけば、少なくとも昼間の化けミミズやスナヘビみたいな、砂に潜りながら接近してくる天敵からは身を守れる。ヤツらは岩道の上じゃ狩りが上手くいかないことを知ってるから寄ってこないし、仮に寄ってきたとしても昼間みたいにすぐ発見できるだろ?」
だからこっちも身の守りようがある。そう言ってラッティは酒を呷った。
――ときに、竜人の間には〝眼が脱皮する〟という言い回しがある。今まで知らなかったことを知ったり、自分では思い浮かばなかった名案を手に入れたりして感激したときに使われる言葉だ。
そのときグニドはまさしく〝眼が脱皮した〟ようだった。確かにこのラムルバハル砂漠では、人間がよく通る地点とそうでない地点が明確に分かれているのだ。
グニドら竜人はその場所を〝穴場〟と呼び、その〝穴場〟を縄張りの中により多く持っていることが一族の力の象徴でもあった。
だがグニドはこれまで、人間は何故竜人に襲われることを分かっていながらいつも同じ道を通るのか、それが不思議でならなかったのだ。
その理由が今、ようやく分かった。この砂漠には砂漠の大蛇の他にも大蠍や巨大蟻地獄といった危険生物がウヨウヨしているので、それらの天敵に不意を衝かれる危険と竜人に襲われる危険を秤にかけたら、普通は後者の方が安全だと判断するだろう。
「ムウゥ……ソウカ、ガンドウ。ガンドウ!」
「な、何だい、アンタまで興奮したような声出して」
「オレ、ガンドウ知ッタ、ハジメテ。竜人、皆、ガンドウ知ラナイ」
「そうなの? そのわりにはアンタら、よく岩道で狩りをしてるじゃないか」
「アレハ、人間、ヨク通ル場所。皆、知ッテイル、ソレダケ。何故通ルカ、誰モ知ラナイ」
「まあ。竜人って砂漠のエキスパートだと思ってたケド、そんなことも知らずに暮らしてるのネ。何だかちょっと意外だワ」
「竜人、人間、喰ウダケ。喰エレバイイ。ダカラ知ラナイ」
「アハハ! アンタらって野蛮なんだか間が抜けてるんだか、よく分かんない一族だなぁ」
そう言ってラッティが笑えば、ヴォルクやポリーもつられて笑った。その笑い声を聞いたヨヘンが向こうで顔を上げて、何の話だと言いたげにキョロキョロしている。
それからしばらくが過ぎ、獣人隊商の面々はそれぞれ眠りに就いた。ラッティは馬をつないだ馭者台で、ポリーとヨヘンはルルと共に馬車の中で、ヴォルクは有事の際に備えて焚き火の傍で眠っている。
グニドは隊商の一員になってから、そのヴォルクと交代で夜の番をしていた。今夜はグニドの方が当番が先だ。岩陰の火を見守りながら月が高くなるのを待ち、ある程度したところでヴォルクと役割を交代する。
そうしているとほんの少しだけ、捨ててきた谷のことを思い出した。
死の谷でも、夜の間の巣の守りは持ち回りだ。毎晩若いオスが交代で巣の周りを警戒し、メスや子供たちの安眠を守るのが群の掟の一つだった。
もうすぐあの谷を離れて一月が経とうとしている。そう思いを巡らせると、何だかずいぶん遠くまで来てしまったような気がした。
もちろん、距離で言えば言うほど遠く離れてはいない。ただきっと、もうあそこへは戻れないという思いがそうさせるのだ。
――今日聞いた岩道の話を、スエンやエヴィにも聞かせてやりたかった。
きっと二人もあの話を聞いたら、グニドと同じように驚き興奮しただろう。
その驚きや発見を分かち合える仲間がいないというのは、少し寂しい。
だがグニドは同時に恐ろしかった。
自分はいつか、この兄弟を想う気持ちさえ遠くなったと感じるときが来るのだろうか?
「――グニド」
と、ときに自分の名を呼ぶ声が聞こえて、グニドの意識は追憶の淵から顔を上げた。
長い首をもたげて振り向くと、その先にはラッティがいる。やけに酒臭いが、おかげで狐人族特有のあのキツイ臭いは薄れていた。
「ちょっといい?」
「ナンダ? 寝ナイノカ?」
「んー、正直眠いし寝たいんだけど、その前に大事な話。――ルルのことなんだけどサ」
言って、ラッティはグニドの隣にあぐらを掻いた。あまり近くに寄られると臭うので勘弁してほしいのだが、これも嫌いな臭いを克服するためだ。仕方がない。
何より〝ルルの話〟というのが気になった。
グニドは焚き火に赤く照らされたラッティの横顔がやけに真剣なのを見て、内心思わず身構える。
「……あのさ。この話がどこまでアンタに通じるか分かんないんだけど、率直に言っていい?」
「ウム」
「昼間、ルルが化けミミズを退治するのに使った力さ。アレ、神術だろ? アンタらの言葉では〝シトシム〟っていうんだっけ」
「〝シトスィム〟ダ」
「まあ、どっちでもいいんだけどさ。アタシ、ずっと引っかかってたんだ。アンタこの数日、ルルに水浴びさせたり着替えたりさせるとき、決まってなんかコソコソしてたじゃん?」
「……」
「最初はルルも女の子だし、そのための気遣いなのかなって思ってたけど、竜人がそんな細かいこと気にするか? って、ちょっと疑問だったんだよね。だけど今日のアレを見て分かったよ。アンタ――あの子の神刻を隠してたんだね?」
グニドは何も答えなかった。その沈黙が肯定と捉えられることは分かっていたが、図星なので何とも答えようがなかった。
いつかはバレるだろうと思っていたが、グニドは獣人隊商に加わってからの数日間、ルルの胸の神刻のことをひた隠しにしていたのだ。ルルが得体の知れない神刻を刻んでいることが知れて隊を追い出されたらまずいと、グニドはまずそれを危惧した。
それから、ルルがあの神刻の力で精霊と交信しているらしいことも。
グニドら竜人の間ではそれは〝異端〟であって、同じような認識が彼らの間にもあったら具合の悪いことになると、そう思ったのだ。
「ちなみにさ。アンタ、〝バイハンド〟、〝トリハンド〟って言葉は知ってる?」
「バイ……?」
「〝バイハンド〟ってのは、一人で二つの神刻を使う人間のこと。〝トリハンド〟は一人で三つの神刻を使える人間のこと。そういうのをまとめて〝マルチハンド〟っていうんだけどね、こう呼ばれる人間はそう多くないんだ。属性の違う神刻を同時に使いこなすってのは、よほどの神力と才能、それに鍛練を必要とするからね。ここまでは分かる?」
「ウム……」
「だけどルルは昼間の一件だけで、地の神術と水の神術、その両方を使ってみせた。しかもあの規模、あの威力、あの回復量だ。正直アタシはおったまげたよ。たった十歳かそこらであんなにすさまじい神術を使える人間を、アタシは知らない」
「……」
「ルルが刻んでるのは、蒼淼刻と大地刻?」
「……オレ、神刻ノ名前、分カラナイ」
「ああ、そっか。じゃあどんな形の神刻なのか、これで描いてみてよ」
言って、ラッティは脇に積まれていた薪の中から一際細い枝を抜き取る。そうしてそれを差し出してくるので、グニドは仕方なくそれを受け取った。
その枝の先を使って、砂の上にルルの神刻を描く。
×を作る四つの菱形。
そしてそれを囲む円をぐるりと回したところで顔を上げれば、ラッティが虚を衝かれたように目を瞬いている。
「コレダ」
「え、いや、これだ、って……これだけ?」
「コレダケダ」
「いや、でも、ルルはバイハンドで――」
「ルル、使ウ、他ニモアル。火、雷、風、全部使ウ。昔カラ、ズット」
「そんな馬鹿な」
「本当ダ。ルル、勝手ニ神術覚エタ。竜人、皆、神術使エナイ。ダカラ、誰モ教エテナイ。ナノニ覚エタ」
「まさか、そんな……けど、それじゃあこの神刻はどこで?」
「知ラナイ。オレ、ルル、拾ッタ。ソノトキ、モウ持ッテタ」
「グニドがあの子を拾ったのって、確か生まれたての赤ん坊の頃だって言ってたよね?」
「ソウダ」
グニドが頷きと共に肯定すれば、ラッティは深刻な顔つきで砂上の神刻を見つめ、黙り込んだ。
その耳はピンと星空へ向かって伸び、心なしか尻尾の毛も逆立っている。焚き火の向こうでヴォルクが寝返りを打つと、耳だけが素早くその音を振り向いた。
「……でもこれは大神刻じゃない」
「グランド・エンブレム?」
「ああ。普通の神刻とは比べ物にならないほど強大な力が使えるっていう、規格外の神刻サ。大神刻は眠れる二十二大神の魂そのものとも言われていて、この世にたった二十二個しかない。だけどその神刻を手に入れた者は歳を取らず、首を刎ねられるか心臓を貫かれるかしない限り死なないんだって」
「……? ダガ、コレ、違ウ?」
「ああ、違う。大神刻ってのは、中にはまだ見つかってないものもあるけど、形は全部判明してるんだ。だけどこの神刻は、そのうちのどれとも一致しない」
「オレタチモ昔、ルルノ神刻、調ベタ。ダガ、何モ分カラナカッタ」
「だろうね。火、水、土、風、雷……全部の属性の神術を一度に使える神刻なんて、アタシも聞いたことがないよ。これでも一応、神刻についてはそこそこ詳しいつもりなんだけど……」
「ソウナノカ?」
「ああ。神刻ってのはなかなか高値で取引されるからね。しかもそれが珍しい神刻であればあるほど高く売れる。だから商人ってのは自然と神刻について詳しくなるモンなのサ。だけど、この神刻は……」
そう言ったきり、ラッティは再び考え込んで口を閉ざした。
グニドはそのラッティが再び口を開くのを、まるで何かの審判を受けるような気分で待つ。これでこの隊を出て行けと言われたらどこへ行けばいいのか、もしくはラッティがこの神刻を欲しいと言い出したらどうするか、そんなことばかりがぐるぐると頭を巡った。
が、それからややあって、
「アッ」
とグニドは思わず声を上げる。
何故なら隣のラッティが、何の前触れもなくいきなり身を乗り出して、グニドがせっかく描いた神刻の絵を消してしまったからだ。
「オイ、何ヲスル」
「グニド。今話したことは忘れて」
「何?」
「ルルが刻んでる神刻のことは、アタシたちだけの秘密だ。他の誰にも漏らしちゃいけない。人間に教えるなんてもってのほかだ。ヤツらはルルの神刻のことを知れば、必ずあの子を欲しがる」
「欲シガル?」
「さっきも言ったろ。人間の間じゃ、珍しい神刻であればあるほど高値で取引がされるって。ルルの神刻もたぶんそうだ。金に目の晦んだ人間が知ったら、あの子に何をするか分からない」
「オ前ハ違ウノカ?」
「あン? あのねぇ、見くびってもらっちゃ困るよ。アタシは一度仲間として迎えた相手を売るような真似はしないし、そもそも金なんか必要ない。アタシはこのキャラバンのメンバーが毎日腹いっぱい喰えるだけの稼ぎがあれば十分なんだ。あ、あとアタシの酒代ね」
言って、ラッティは腰の物入れから取り出した例の水筒をヒラヒラさせる。ついさっき寝る前に飲み干していたと思ったのだが、中からタプタプと音がするところを見ると、どうやらまた中身を注ぎ足してきたようだった。
そうしてその音に耳を傾け、嬉しそうにニッと笑うラッティを見ていると、グニドも何だか毒気を抜かれる。
どうもこの半獣は、幻とはまた別の意味で相手を化かすのが得意なようだ。
「ついでに言えば、名前も出自も分からない神刻をこのまま使い続けるってのがちょっと不安なんだ。神刻の中には、力が強すぎて持ち主の精神を惑わせるものもあるって聞いたことがある。だから今後、ルルには極力あの神刻の力を使わせない方がいい」
「ウム……ソウダナ……」
「ルルの神術には劣るけど、アタシらには連合国産の魔導石があるしね。アレを使えば、アタシらにも神術と同じようなものが使える。連合国の外でアレを使うと大抵渋い顔をされるけど、まあ、背に腹は変えられない」
「ソウナノカ?」
「ああ、言ったろ? あの石の力は世間じゃ〝魔の力〟と呼ばれてるって。〝魔の力〟ってのはつまり〝魔界に由来する力〟って意味だ。人間どもは神の力に依らない術は何でも〝魔術〟だとか〝妖術〟だとか言って――ってああ、そうだ!」
と、ときにラッティが突然デカい声を上げるので、グニドは慌てた。
焚き火の向こうで一瞬、こちらに背を向けたヴォルクの尻尾がぶばっ!と膨らんだような気がしたが、彼はそれきり微動だにしない。ラッティはそんなヴォルクの様子に気づいているのかいないのか、とにかくやたらと興奮した様子で捲し立てる。
「そうだよ、アビエス連合国! なあ、グニド、あそこへ行こう! あの国ならルルの神刻のことも何か分かるかもしれない。何せあそこは魔法大国だ。ヨヘンがいたエルビナ大学では神刻の研究も盛んだって言うし、シャマイム天帝国時代に創られた識神図書館でなら何か手がかりが掴めるかも。何せあそこは全智神コルの神子カエサルが創らせた図書館だからね!」
「ウ、ウム……? ソウカ……?」
「そうだよ! それにさ、アビエス連合国は愛神の神子ユニウスによって創られた博愛の国なんだ。だからあそこでは人間も獣人も差別されない。あらゆる種族が平等に扱われるし、そのおかげでとにかく色んな獣人がいる。アンタも一度あの国へ行けば、世の中の見方ってモンが変わると思うよ。何ならそのまま連合国に住んだっていいしね」
言って、ラッティはニカリと笑った。正直なところ、グニドは彼女の言うことの半分しか理解できなかったのだが、とにかくそのアビエス連合国というところへ行けばルルの神刻について何か分かるかもしれない、ということらしい。
加えて連合国では、いかなる獣人も差別されない――。
ラッティのその言葉が本当なら、それは夢のようなことだとグニドは思った。
そこでなら、谷を捨てたはぐれ者の竜人でも受け入れてもらえるだろうか。
竜人と人間が共存することを許してもらえるだろうか――。
「ってワケで、隊の進路決まり! 本当は列侯国での取引を終えたら北に向かうつもりでいたけど、まあイイでしょ。アタシも久々に顔を出しておきたい取引先があるし――」
言いながらラッティはあたりを見渡し、岩陰に置かれた荷袋を見つけた。
途端に彼女はニヤリと笑い、その荷袋を引き寄せる。そうしてしばらくゴソゴソやっていたかと思うと、中から金属製の杯を取り出して酒を注ぐ。
「――それに、最近北じゃエレツエル神領国がデカい顔してて、ルルを連れてくのは危険だしね。アタシらもうっかり神領国軍に見つかろうモンなら、その場で獣人狩りに遭っちまう」
「獣人狩リ?」
「うん……まあ、その話はまた今度ってことで。とにかく今夜は飲もうぜ、兄弟。明日からの旅路に乾杯だ!」
戯けた口調でそう言って、ラッティは酒を注いだ杯を差し出してきた。その直前、彼女の表情が微かに翳りを帯びたような気がしたのだが、今はもうその面影もない。
グニドは狐人族と兄弟になった覚えなどさらさらないものの、ひとまず杯を受け取った。この流れで相手の好意を拒むのは野暮というものだ。
そうしてラッティから求められるままに乾杯し、二人同時に酒を呷った。
人間どもの作る酒は薄い。これでは酒というよりちょっと匂いのキツい水だ。
だがその水は、いつか無理をして飲み干した濁り茶ほどまずくはなかった。
グイッと杯を持ち上げた先で、星の砂漠が輝いている。
明日も一日西へ進めば、いよいよルエダ・デラ・ラソ列侯国だ。