第十九話 化けミミズ
ヨヘンは非常にお喋りなネズミだった。
……いや、〝ネズミ〟と呼ぶと彼は怒る。竜人が〝トカゲ〟と呼ばれると激昂するアレと同じだ。
「いいか、そもそもオイラたち鼠人族とそんじょそこらのネズミとはまったく別の生き物だ。オイラたちはとにかく勤勉で綺麗好き、好奇心と冒険心溢れる理知的で清潔な種族なんだよ。なのに人間どもときたら、見た目がちょっと似てるからってだけで、オイラたちとあの汚ならしいネズ公どもをいっしょくたにしやがる。ヤツらが毎日二度も風呂に入るか? 大学まで行って知性を磨くか? 言っとくがオイラはこう見えてアビエス連合国の最高学府、エルビナ大学を卒業してる。糞まみれで薄暗い穴の中を走り回って、手当たり次第に病原菌を撒き散らしたり、人の家の柱を囓ったりするアイツらとは違うんだ。そこを履き違えてもらっちゃあ困る」
ガタゴトと西を目指す馬車の中。幌を被った薄暗い荷台の中で座ったグニドは、目の前で間断なく喋り続ける小さな生き物を観察していた。
襟つきの赤い上衣と生成りの脚衣をまとい、木靴を履いた二本足で立っていることを除けば、その生き物はどこからどう見ても鼠だ。
体長はグニドの掌ほどもあるだろうか。とにかく余所見をしていたら存在に気づかず踏み潰してしまうのではないかというほど小さく、体は濃い灰色の毛で覆われている。が、〝綺麗好き〟というのは本当なのだろう、毛並みはつやつやとして思いの外やわらかそうだ。
「しかしまあ、オイラが故郷のアルビオンを出てきたのもそんな一族に対する人間どもの偏見を正すためなんだけどな! オイラたち鼠人族は人間や他の獣人に比べて寿命が短い分、代々偉業を成し遂げて世に名を遺そうって気風が強いんだ。自慢じゃないが、オイラの叔父はエルビナ大学で言語学の名誉教授に選ばれたし、従兄のスジェはマグナ・パレスの宮廷役人になった。妹のアルンダは飛空船の設計技師、親父は一代で財を築いた大商人だ。だけど親父の商売については、オイラの兄貴と嫁さんが継ぐことが決まってる。だからオイラは考えたのさ。〝だったら自分は、一族の誰も挑戦したことのない分野で後世に名前を残せないか?〟ってな!」
ヨヘンはちょっと興奮気味に身振り手振りを加えながら、なおも早口で喋り続ける。彼がぺちゃくちゃと喋る度に、尖った鼻の先で細いヒゲが忙しなく動いた。
「そこでオイラが出した結論は、そう、冒険者だ! オイラは一族初の冒険者として名を遺すことに決めたのさ。オイラは昔から色んな冒険者が遺した冒険記を読むのが好きだった。だけど、思えば鼠人族がこの世に遺した冒険記ってのはまだ一冊も存在してないんだよ。それはオイラたちの寿命と体格じゃあ、世界を巡ろうにもあまりに時間が足りないからなんだけどさ。それでもオイラはその前人未到の壁に挑むことにした。理由はそこに浪漫を感じたからだ!」
ビシッとこちらを指差しながらヨヘンは言う。恐らく本人はそれでかっこよくキメたつもりなのだろう。
しかし他者を指差すことが不敬に当たるという文化の中で育ったグニドは、そんなヨヘンのキメ顔にイラッとした。そもそもあまりにも早口で捲し立てるので、この灰色ネズミが一体何を言っているのか、グニドにはサッパリ分からない。
「そこでオイラが身を寄せたのがここ、『獣人隊商』だったってワケ。このでっかい馬車を使えば、オイラの足でも人間と同じ速さで世界を巡ることができる。オイラはそこに目をつけたワケだ。それにオイラも一時期は親父の商売を手伝ってたから、こう見えて経済や算術には結構明るい。ついでに大学では文化人類学を専攻してたおかげで、世界中、あらゆる国の歴史と民俗についての情報がこの頭には詰まってる。つまり何が言いたいかっていうとな、オイラはここじゃおまえさんよりずっと先輩で、しかもこれ以上はないってほど頼りになるエマニュエル案内人ってわけだ。そんな先輩に敬意を表し、オイラのことは今後〝ヨヘン様〟と呼ぶように。でもってオイラの言うことには基本的に絶対服従、オイラがテペトルチーズを買ってこいと言えばすぐさま走っていって──ってぎゃーーーっ!! ヤメテ!! ウソですごめんなさい謝るからお願い食べないで!!」
と、ときにヨヘンが幌を裂くような悲鳴を上げた。何故ならあまりに一方的に喋りまくるヨヘンに苛立ちを募らせたグニドが、その小さな体をガシッと右手で捕まえたからだ。
ちなみにヨヘンが直前まで何を話していたのかは知らない。グニドは話の途中から、彼の言葉を追いかけ理解することを放棄していた。
ただそれでも何となく、自分に対して何か不当な言葉が投げかけられたような気がしたのだ。そしてその予想は当たったのか、ヨヘンはグニドの手の中でもがきながら必死に謝罪の言葉を繰り返している。
「ちょっと、グニド。気持ちは分かるけど、ソイツは食べちゃダメだよ。ヨヘンも一応この獣人隊商の大事な仲間なんだからサ」
と、そんなヨヘンの悲鳴を聞きつけたのだろう。ヴォルクと共に馭者台に座っていたラッティが、幌をひょいと捲りながら荷台の方に顔を見せた。そのラッティの言い草に対して、ヨヘンは「〝一応〟って何だ!」と抗議しながらジタバタと暴れている。
「心配無用ダ。竜人、ネズミ、滅多ニ喰ワナイ。ネズミ、腹ノ中、虫イル。ダカラ、喰ウト腹壊ス。ソレニ、小サクテ、喰ウトコロ、ナイ」
「だから、人をネズミ呼ばわりするんじゃねー!! たった今オイラとネズミの違いを懇切丁寧に説明したばっかりだろうが!!」
「オマエ、小サクテ、喰ウトコロ、ナイ。ネズミト同ジ」
「くそーっ!! ちょっと体が小さいからってバカにしやがってっ!! だったら〝窮鼠猫を噛む〟って言葉の意味を教えてやろうかーっ!?」
そう叫ぶや否やヨヘンは大きく口を開け、そのやたらと長い二本の前歯でグニドの右手に噛みついた。
が、グニドはびくともしない。ただ珍しい生物の生態を観察するように、しげしげとそんなヨヘンの抵抗を眺めているだけだ。
何しろ竜人の手を覆う鱗は硬い。ヨヘンは鈍く光を返す黒緑色の鱗にガシガシとしばらく挑み続け、やがて燃え尽きたようにガックリとうなだれた。
と、そんなグニドとヨヘンの傍らで、ときにたどたどしい声が上がる。
「──けんかを、しては、いけません。みんな、なかよく。それが、かみさまとの、おやくそく。やくそく、やぶると、まものが、きます。まものは、こわくて、きけんです」
「あらあら、ルルちゃん、上手に読めたわネ~! えらいえらい!」
グニドが思わず目をやると、そこにはルルを懐に抱いて座ったポリーと、そのポリーにもたれかかるようにして足を投げ出したルルの二人がいた。
ルルは手にちょっと大きな木の板を持っていて、ぱちぱちと目を瞬かせながらその板に見入っている。
それはポリーが『蝋板』と呼ぶ、何とも奇妙な道具だった。板の表側には『蝋』と呼ばれるやわらかい石のようなものが塗りたくられていて、ポリーがそこに尖った銅の棒でぐにゃぐにゃと変な紋様を描くのだ。
どうやらそのぐにゃぐにゃは『文字』という人間の紋様らしく、一つ一つに読み方が存在した。しかもいくつかの文字をつなげて読むと、それは人間の〝言葉〟になる。
つまり『文字』というのは、人間の言葉を目に見える形で表した紋様なのだった。ポリーはそれをいくつも蝋板に書いてみせ、数日前からルルに読み方と言葉を教えている。
ルルの飲み込みは、驚くほど早かった。やはり人間の声帯は、人間の言葉を話すのに最も適しているのだろう。
発音など、未だに竜語訛りが抜けないグニドより、ルルの方がずっと人間のそれに近いほどだ。当のルルも言葉を覚えるのが楽しいらしく、シェイタンを発ってからこの数日の間に、二十二種類もある文字の読み方をすべて習得してしまっている。
『グニド、これ! これ、〝ケンカ〟、どんな意味?』
『あー……〝ケンカ〟はおれたちの言葉でいうと〝喧嘩する〟だな』
『けんか! そっかぁ、それじゃあ今のグニドとヨヘンのことだね!』
『……』
『じゃあこれ、これは? 〝カミサマ〟ってなに?』
『そいつは精霊のことだな。人間たちは、この世には二十二の大いなる精霊と五十六の小さな精霊がいると考えていて、それをまとめて〝カミ〟と呼んでいるんだ』
『ヤーウィ! 〝カミサマ〟は、精霊! じゃあ、風の精霊のことは、ナムのことばでなんていうの?』
「……ポリー。ルル、風ノ神ノ呼ビ方、知リタイ、言ウ」
「あら、風の神さまの名前? それならネーツさまよ。〝ネーツ〟」
「ねーつ! るる、ねーつ、すき!」
手に持った蝋板を高く差し上げて、ルルははしゃいだような声を上げた。それを見たポリーは微笑ましそうに表情を綻ばせると、「あらそう、ルルちゃんはネーツさまが好きなのねぇ」と頷きながら、ルルの髪を何度も撫でやっている。
グニドは右手にヨヘンを掴んだままなのも忘れて、そんなルルの様子をじっと見ていた。──やはり今までとは雰囲気がまったく違う。
それもそのはず。実はルルはシェイタンを出た日の晩、ラッティたちの勧めで伸び放題だった鬣をバッサリと切り落としていた。
今までのルルの鬣型では砂漠の風でごわつく上に、すぐに絡まって手入れするのが大変だろうという話になったのだ。
座ると地面に垂れるほど長かったルルの鬣は、その晩、ポリーによってかなり短く整えられた。それでもまだ緩やかに波打つクセは残っていて、青黒いルルの鬣は今もふわりと耳元を覆っている。
グニドも最初はあれだけ長かった鬣を切ってしまうのはもったいないように感じたものの、今ではそちらの鬣型の方がルルには似合っていると思っていた。
ただ、彼女の長い鬣を梳かしてやるのが好きだったイダルは少し悲しむだろうな、とも思う。
「それにしても、ルルちゃんは本当に物覚えがいいわねぇ。これにはきっとラマドさまもびっくりだワ」
「ラマド?」
「ラマドってのは学問の神様だよ。賢神ホフマの眷属で五十六小神のひとり。オイラみたいに進んで学ぼうとする者を導き、祝福を与えて下さる神様さ」
「ガクモン……」
「ははあ、その顔、さてはまず〝学問〟の意味からして分からないって顔だな? そうだなぁ、それならオイラを下ろしてくれたら教えてやるんだけどなぁ」
未だグニドに捕まえられたままのヨヘンが何か言っている。グニドは初めそれを無視しようかと思ったが、
『グニド! ルル、カミサマのはなしもっと聞きたい!』
と向かいでルルが言うので、仕方なくヨヘンを荷台に下ろした。
するとヨヘンは額を拭いながらふう、と息をつき、心底安堵した素振りを見せる。どうやら本当に喰われるのではないかと思っていたようだ。
「はあ、助かった……えーっとな、グニド。おめえさん、この世には二十二の大いなる神とそれに仕える五十六の神がいることは知ってるか?」
「ウム。知ッテイル」
「だとしたら話は早い。ラマドってのはな、二十二大神のひとり、賢神ホフマに仕えた小さき神だ。あー、賢神ってのはつまり、とっても賢い神様ってこと。考えることとか、知識を司る神ってことだな。ラマドはその中でも特に〝学ぶこと〟を推奨する神だ。今のルルみたいに」
言って、ヨヘンは両手でルルを示す。まだいくつかの人間の言葉を覚えたばかりのルルは、ヨヘンが何を言っているのか分からないのだろう。突然自分の方を示されて、不思議そうにきょとんとしている。
「ああやって自分から色んなことを学ぼうとする者に加護を与える神。それがラマドだ。ま、つまりルルはラマドの愛娘ってことだな」
「マナムスメ?」
「物覚えがいい人間のことをそう呼ぶのさ。ラマドに愛されて生まれてきた子だってな」
「ムウ……オ前タチノ神、多スギル。竜人ノ神、四ツダケ」
「えっ! ど、竜人にも信仰してる神がいるのか? そいつは初耳だ! オイラはてっきりシャムシール人と同じで、竜人も邪神に魂を売った無神主義者かと思ってたぜ!」
「オ前、失礼。竜人ト砂王国人、全然違ウ。ヤツラ、野蛮。神モ掟モナイ。ダガ、竜人ハ、ソレアル。仲間想ウ心モ、アル」
「確かに、シャムシール砂王国の人間には法も信仰もないからネ。おまけに味方同士でも平気で裏切り合うし、気に食わないことがあるとすぐ暴力を振るうし、ワタシもあの国の連中は嫌いだワ」
以前懐にルルを抱いたままのポリーが、つぶらな瞳をわずかに細めながら言った。過去にあの国で何か嫌な体験でもしたのだろうか、その表情にははっきりとした嫌悪の情が浮かんでいる。
ところが、そのときだった。
それまでポリーの懐にすっぽりと収まっていたルルが、突然バッと立ち上がった。
驚いたグニドたちが目をやれば、その先でルルが蝋板を取り落とす。そうして何もない宙に視線を彷徨わせたルルの顔色は──蒼白だ。
『──グニド! 砂の中、なにか怖いもの、来る!』
全身を震わせたルルの叫びが、荷台の中の空気を切り裂いた。
次の瞬間、グニドはすぐそばの木箱に立てかけていた大竜刀の柄を掴み、すぐさま馬車を飛び降りる。
グニドの体重を受け止めた熱砂が足元で弾け、嫌な感じの風が吹いた。グニドはその風の中へと鼻先を突っ込む。──生臭い。
砂の中、と聞いて砂漠の大蛇が来たのかと思ったが、どうやら違う。
この何かが腐敗したような臭いは──
「お、おいグニド、どうした!?」
「──大蚯蚓ダ!」
大竜刀を構えたグニドが、そう叫んだ直後だった。
砂漠の真ん中で動きを止めた馬車から、およそ二枝(十メートル)先。
そこで突然巨大な砂柱が上がり、斑色の皮膚を持つ不気味な生き物が現れた。
大蚯蚓。
それは竜人たちの間でそう呼ばれる、ミミズ型の巨大な魔物だ。
「う、うわああああああっ!! 化けミミズだ!!」
それまで荷台から身を乗り出していたヨヘンが、ひっくり返るように腰を抜かした。魔物の出現に気づいたのか、ラッティとヴォルクも馭者台を下りて息を飲んでいる。
目のようなものなどどこにも見当たらないのに、巨大蚯蚓はしっかりとこちらを向いて奇声を上げた。その円形の口からは毒性の粘液が飛び散り、口の形に沿って並んだ牙がブワッと開くのが見える。
「ああ、くそ、こりゃまた厄介なのに見つかったな……」
と、ときにラッティがぼやくのが聞こえた。あの巨大蚯蚓は滅多に姿を現さない──されど一度遭遇すれば、砂漠の大蛇より手強い相手だ。
魔物。それは世界のどこかにある大地の裂け目から現れるという、禍々しく凶暴な生き物たちの総称だった。
彼らの生態は、地上に生きる様々な生物のそれとはまったく違う。魔物は主に人間を襲い、争いや天災のある土地に好んで集まり、一見生物的つながりがなさそうな魔物同士でも群を成して集落を襲うことがあるという。
しかしこの砂漠では、シェイタン以外に人間が集まって暮らす集落というものがない。だから滅多に魔物も姿を見せないのだが、一体どこから迷い込むのか、時折ああいうはぐれ者が姿を見せることがあった。
そういう魔物は大抵ひどく飢えていて、人間であろうと竜人であろうと見境なく襲う。だからアレは厄介なのだ。戦いを矜持とする竜人の間でさえ、もしあの化け物と砂漠で遭遇したら、可能な限り戦わず逃げろと言われている。
「ラッティ。ドウスル、逃ゲルカ?」
「そうしたいところだけどね。残念ながら今日は重たい積み荷が満載だ。この距離じゃたぶん、全速で逃げても追いつかれる」
「ナラバ、戦ウカ? アレ、トテモ危険」
「分かってるよ。だけど勝算はある。──ポリー!」
そのとき、ラッティが鋭くポリーを呼んだ。その呼び声に反応したポリーが垂れた耳をぴくりともたげ、慌てて荷台から顔を出す。
「いつものプランで行くよ。例のアレ、出して!」
「ハ、ハイ!」
そう返事をするが早いか、ポリーは大慌てで荷台の中へと引っ込んだ。だがグニドたちがそうこうしている間にも、獲物を捕捉した魔物はこちらを目指して突っ込んでくる。
ぐっと鎌首を引いたミミズは勢いをつけて砂へ飛び込み、地表を滑るようにして迫ってきた。
だがグニドはまずそこで違和感を覚える。
──あの化け物、砂の中に潜った方が明らかに有利なのに、何故敢えて地表を滑ってくるのか?
少なくとも過去グニドが遭遇した大蚯蚓は、隙あらば大蛇のように砂の中へ潜り込み、こちらを攪乱するような動きを繰り返していたはずだ。
あるいは個体によってその知性に差があるのだろうか?
頭の片隅でそんな疑問を覚えつつも、グニドは大竜刀を構え大蚯蚓を迎え撃とうとした。
が、そうして一歩踏み出した矢先、
「──グニド、ストップ!」
突然ラッティの叱声が上がる。グニドは何事かと足を止めた。
だが凶暴に開かれた大蚯蚓の牙は、もう目と鼻の先だ。
「ポリー!」
猛スピードで地上を滑ってきた勢いを駆り、再び大蚯蚓が鎌首をもたげた。
それはそのまま眼前の馬車へ突っ込む合図だ。巨大な影がグニドたちの真上に落ちる。
大蚯蚓の巨体が、砂上で跳ねた。
それを見たグニドの体は戦士としての本能に逆らえず、とっさにその攻撃を阻止しようと動いた。
ところが次の瞬間、
「──目を瞑れ!」
再び、ラッティの声。
直後、目を閉じそびれたグニドの視界は真っ白に染まった。
次いで聞こえたのは、まるで巨大な岩が降ってきたかのような衝突音。
そして鼓膜を貫くような、甲高い魔物の悲鳴だ。
『……!?』
束の間目を閉じてぶるぶると首を振り、辛うじて視界を取り戻したグニドは唖然とした。
何故ならすぐ目の前に迫った魔物の巨体が、あたかも見えない壁に乗り上げたかのように半分宙に浮いているのだ。
いや、実際そこには確かに〝見えない壁〟があった。砂漠では日の光が強すぎて見えにくいが、微かに発光した何かが魔物の巨体を食い止めている。
それは緩やかな曲線を描き、蓋のような形でグニドたちの頭上を覆っていた。
さては神術か。いや、しかし、獣人は人間のように神刻を使うことはできないはずだ。ならばルルが──?
「魔導石」
と、ときにラッティがぽつりと言った。
「アンタはたぶん初めて見るだろう? コレは南のアビエス連合国でしか手に入らない、人工的に神力を込めた石の力だ。もっとも世間じゃこれは神の力なんかじゃなくて、古の魔女たちが創り出す魔の力だ、なんて言われてるけど」
こちらを向いたラッティの耳がぴくりと動く。
その口元には、不敵な笑みが刻まれていた。
「でもね、驚くのはまだ早いよ」
そう言ったラッティの背中から、突然翼が生えるのを、グニドは見た。
それもただの翼ではない。
ラッティの身長とはおよそ釣り合いが取れないほど巨大に突き出した鋭い骨。
その骨を覆う砂色の鱗。
それでいてその骨組みの間には、蝙蝠のような薄い翼膜。
次にグニドが瞬きしたとき、そこには一頭の竜がいた。
まぎれもない、竜だ。
長い首。褐色の鬣。二本の角。太く逞しい尾。
巨大な四肢。額に輝く赤色の石。神々しいまでに美しく完成された姿。
グニドは生まれて初めて、全身が畏怖に震えるのを感じた。
同じくらい巨大な砂漠の大蛇や大蚯蚓を前にしても、一度も感じたことのなかった痺れが体中を駆け抜けた。
これが、竜。
遥かな昔、竜人と血を分けたと言われる生き物。
だがこの竜は一体どこから現れたのか?
気がつけば先程までラッティがいた場所に、彼女の姿は既にない。
「キシャアアアアアアア!!」
そのとき、光の壁に阻まれた大蚯蚓が、巨体を引いて威嚇の声を上げた。
彼らが竜という生き物をどのように認識しているのかは知らないが、恐らく自分と並ぶほどの巨大生物の出現に警戒を露わにしたのだろう。
それに対して、竜も腹の底から吼え返す。ただのミミズの化け物とはその迫力からしてまったく違った。
大地と共にグニドの体までビリビリと震える。なんという力強さだ。
「──グニド!」
と、ときに突然名を呼ばれ、すっかり肝を潰していたグニドは我に返った。
名を呼んだのはヴォルクだ。彼の手には細身の剣が握られていて、グニドを促すように顎で大蚯蚓を示す。
「ラッティがミミズの注意を引きつけてる間に、俺たちでヤツを倒す。化けミミズの弱点は知ってる?」
「ウ、ウム、知ッテイル」
──いや、待て。その前に今、ヴォルクはあの竜を指してラッティと言わなかったか?
グニドの頭はますます混乱した。何やらわけの分からないことばかりだ。
「だったら話は早い。俺は前、グニドは後ろ。二手に分かれてヤツの心臓を潰そう。やれるよな?」
「ウ、ウム……分カッタ。ダガ……」
──どこから現れたのか分からないとは言え、こちらには竜がいるのだ。ならばこの化けミミズの始末など、その竜に任せてしまえば良いのではないか。
グニドはそういう旨のことを何とか人の言葉にしようとしたが、そうこうしている間にヴォルクが颯爽と駆け出した。
彼は竜と睨み合い、互いに威嚇し合っている大蚯蚓に素早く接近すると、獣のような身軽さでその巨体へと跳び乗っていく。
まるでヘドロのような緑色をした大蚯蚓の体。そのあちこちに見られる斑点の中には一際大きく、黒々と浮かび上がっているものが五つあった。
それが大蚯蚓の弱点だ。大きな斑の下にはヤツの心臓がある。大蚯蚓には首の後ろから尻尾にかけて、全部で五つも心臓があるのだ。
この化け物を完全に殺すには、そのすべての心臓を叩き潰さなければならない。どれか一つでも心臓が動いていれば魔物は生き続けるし、欠損した部位も時間をかけて再生する。
そのくらいのことはグニドも知っていた。そして同時に、暴れるミミズの背中に跳び乗って、五つもの心臓をすべて潰すということがどれほど至難の業であるのかも、過去の経験から知っている。
とすれば、このままヴォルク一人に任せておくわけにはいかない。グニドはもう一度頭を振って雑念を振り払うと、とにかく今は目の前のミミズ退治に集中することにした。
図体がでかく、重量もある竜人では、ヴォルクのように軽々とミミズに跳び乗ることはできない。だがこんなときのために、グニドにはラッティから買いつけておいた内反りの短刀がある。
『ジャアッ!』
短い気合を発し、グニドは地を蹴ると同時に短刀をミミズへ突き立てた。どうやらその程度の小さな傷は、巨大蚯蚓の痛覚にはまったく影響がないらしく、ミミズはなおも砂色の竜と一触即発の睨み合いを続けている。
グニドはそれを幸い、更にもう一方の手で二本目の短刀を掴み出すと、そちらもミミズの体に突き立てた。
それを交互に繰り返し、ミミズに突き刺した短刀を支えにして、腕力だけでその体へと登っていく。グニドが刺した傷からは臭くて粘り気のある体液がドロドロと溢れてきたが、今はそんなことを厭っている場合ではない。
──まず一つ目。
グニドはミミズの尻尾付近にある大きな斑点の上に立った。
時折ミミズがぐねぐねと体を揺らすので、バランスを取るのが難しい。それでもグニドはまず先に短刀を突き刺し、次いで腰に提げていた大竜刀を引き抜いて、頭上高く振りかぶる。
『ジャアアアッ!』
次の瞬間、構えた刀を思い切り振り落とした。
グニドの膂力と大竜刀の重量を活かした一撃は、ミミズの肉の厚さをまったく感じることなく、その下にある心臓へと到達する。
「ギシャアアアアアアアアアアッ!!」
ミミズの長い体が仰け反り、おぞましい悲鳴が上がった。いかな痛覚の鈍い魔物と言えど、さすがに心臓を潰された痛みはこたえたらしい。
ミミズは蚤のように厄介なグニドたちを振り落とそうと、体を激しくうねらせた。しかしグニドは予め突き刺しておいた短刀に掴まり、何とかミミズの背中にしがみつく。
そのときグニドの真後ろで、同じくミミズの背に乗ったヴォルクが、器用に体勢を維持したまま銀色の長剣を垂直に構えた。
その剣がミミズの心臓を貫く。ミミズが更に仰け反った。
これで二つ。
残す心臓はあと三つだ。
「お……おぉ、おおおおおっ! いいぞ、ヴォルク、グニド! 化けミミズなんてやっちまえー!」
遠くからヨヘンの歓声が聞こえた。それに応えるわけではないが、グニドはまた左右の手に握った短刀を交互に突き刺して、ミミズの背を這うように進んでいく。
当然ながらミミズはこれを歓迎しなかった。だがミミズの意識が背中に乗ったグニドらへ向きそうになった刹那、再び竜が吼えてミミズへ噛みつこうとする。
ミミズはすんでのところでそれを躱し、竜へと向き直って奇声を上げた。灼熱の砂漠の真ん中で巨大生物二匹が差し向かい互いに威嚇し合っている様は、もはやこの世のものとは思えない。
しかしミミズもいよいよ辛抱できなくなったのだろう。一際鋭い声を上げると、グワッと円形に並んだ牙を開き、その醜悪な口から粘性の液体を吐き出した。
あれは一種の毒液だ。浴びると皮膚が焼け爛れたようになり、それにはすさまじい痛みが伴う。それを浴びて獲物が弱ったところを、あのミミズは丸呑みにするのだ。
だが驚いたことに、その毒液は竜に効かなかった。
というより、何故か竜の体を貫通した。
正確に竜の頭を狙って放たれたはずの一撃は、何故か竜の体を擦り抜け、その後ろにある光の壁へと降り注いだのだ。
(なんだあれは?)
その光景を三つ目の心臓が眼前に迫ったところで目撃し、グニドは一瞬状況を忘れた。
竜の体を擦り抜けた毒液は光の壁の上で蒸発し、異臭と共に白い蒸気を上げている。だがそもそも毒液が竜の体を擦り抜けるというのがおかしい。あれではまるで、竜には実体がないようではないか。
──そんなことがありえるのか?
未だミミズの背に這いつくばったままのグニドが呆気に取られたそのとき、三度目の悲鳴が上がった。
ハッと我に返って目をやれば、ヴォルクが三つ目の心臓を貫いている。それを見たグニドは慌てて身を起こし、自身も立て続けに四つ目の心臓を破壊した。
──あと一つ。
グニドは傷口から噴き出したミミズの体液を浴びながら、再び這いつくばって長い首をぐっともたげた。
この、最後の一つが厄介なのだ。何せ最後の心臓は、大きくもたげられたミミズの首のあたりにある。
あの心臓をどうやって潰すか。グニドがそう考えを巡らせた、そのときだった。
大蚯蚓が突然、これまで聞いたこともないような獰猛な声を上げる。
その声を聞いた瞬間、グニドの本能がすかさず警告を発した。
──来るぞ。
刹那、グニドは瞬時に短刀を引き抜き、体を起こしながら咆吼する。
「ヴォルク、逃ゲロ!!」
叫んだ直後、グニドは大急ぎでミミズの背中を跳び下りた。
瞬間、それまでグニドがいた場所にミミズの牙が襲いかかる。その長い体を器用にひねり、ミミズが反撃に転じたのだ。
同時に薙ぎ払われそうになったヴォルクも、何とか回避に成功していた。彼はグニドから一枝(五メートル)ほど離れたところで砂の上を転がると、瞬時に跳び起き体勢を整えている。
だが怒り狂ったミミズの反撃はそれだけでは治まらなかった。ミミズはその巨体からは想像もつかない素早さでヴォルクに狙いを定めると、すかさず体を反転し、再び牙で襲いかかった。
グニドがあっと息を飲んだとき、砂上からヴォルクの姿は消えている。
一瞬、喰われたのかと思った。だがよくよく目を凝らせば、ミミズが呑み込んだのはヴォルクの黒い服だけで、黒い獣が弾かれたように跳躍し、ミミズから距離を取ったのが見える。
「ヴォルク、グニド! 一旦退避だ! 守りの壁の内側に戻って!」
そのとき竜が、ラッティの声で喋った。グニドはその事実に驚いて、思わずぽかんと砂色の竜を見上げてしまう。
まさかアレは本当にラッティなのか。だが彼女は竜族ではなく狐人族の血を引いているのではなかったか?
ますますわけが分からない。そう思い、立ち尽くしたグニドの視界の端で、獣の姿となったヴォルクが素早く駆け出すのが見えた。
しかし、思えばそれがまずかったのだ。
目の前で獲物が逃げ出せば、とっさにそれを追いかける──それは獣にも魔物にも共通する、いわば捕食者の本能と言っていい。
当然ながら、目の前の化けミミズも同じ本能を持っていた。突然矢のように駆け出したヴォルクの動きを、首をもたげたミミズが追った。
その牙がギチギチと音を立てて開く。
──まずい。
「ヴォルク!!」
グニドがそう叫ぶのと、毒液の雨が降るのが同時だった。
黒い獣はグニドの警告を聞きつけ、とっさにその場から跳躍したが寸刻遅い。
地面に直撃し、弾けた毒液の一部がヴォルクの後ろ脚にかかった。ジュッと肉の焼ける音と共に、ヴォルクが悲鳴を上げて倒れ込む。
砂の上に投げ出された黒い獣は、ミミズにとって格好の獲物だった。
体液にまみれた体をズルズルと引きずり、ミミズがヴォルクに狙いを定める。ヴォルクは前脚で砂を掻き、何とか体を起こそうとしているが間に合わない。
「ヴォルク!!」
ラッティの声がヴォルクを呼び、竜が吼えた。しきりと威嚇の声を上げ、ミミズの気を逸らそうとするがミミズはそちらに見向きもしない。
褐色の鬣を逆立てた竜は、いよいよミミズの喉元に食らいついた。
だがその巨大な顎はミミズの肉を捉えることなく、ガチンと牙の噛み合う音だけが虚しく響く。
──やはりあの竜に実体はないのだ。
そう覚ったときにはもう、グニドは地を蹴って駆け出していた。
ミミズの上げる歓喜の叫びが轟き渡る。
その口が獲物に狙いを定め、牙を開いて大地を滑った。
刹那、
『ジャアアアアッ!!』
その横面に、体を丸めたグニドが投石のごとく激突した。
助走をつけ、首を腹のあたりへ引きつけて、黒い巨石と化したグニドの一撃はミミズの進路をわずかに逸らした。
予想外の奇襲を受けたミミズは体勢を崩し、束の間砂上に身を投げ出す。
グニドはその隙を見逃さなかった。すかさず倒れたミミズの首に取りつき、短刀を突き立ててその背へよじ登っていく。
「キシャアアアアア!!」
だがミミズもただではやられなかった。首の後ろ側にある最後の心臓を狙われていると察知したミミズは、途端に跳ね起きグニドを振り落とそうとする。
しかしグニドは突き刺した二本の短刀に掴まり、更にその強靭な顎でミミズの肉に喰らいついた。黒い体液の醜悪な味が口の中に広がったが構わない。竜人の顎の力は、本物の竜にだって劣らないのだ。
「グニド!!」
「おいっ、ポリー! 攻撃用の魔石だ、早く、早く!」
首をもたげて暴れ回るミミズと、そのミミズに喰らいつき宙吊りとなったグニド。その双方の死闘を見たラッティたちは、慌てて次の策を講じようと動いた。
だがそれよりも数瞬早く、守りの壁の外へ走り出た小さな影がある。
──ルル。
彼女はポリーが止めるのも聞かず馬車を飛び出すと、ミミズに振り回されているグニドを見上げて、叫ぶ。
「エオルド・ゲフィルスト・ハイネ!」
その叫びを聞き届けたのは、砂の下に眠る褐色の岩石だった。
刹那、大地が鳴動し、ガタガタと足元の砂が揺れる。ラッティたちがそれに驚いた次の瞬間、突如として地面から突き出した鋭い岩が、ミミズの体を貫いていく。
それも一本や二本ではなかった。地表の砂を突き破り、次々と現れた岩石の槍は、まるでミミズを縫い止めるようにその巨体を串刺しにした。
その光景はあたかも大地が牙を剥き、巨大な顎で魔物に喰らいついたかのようだ。
「ギシャアアアアア……!!」
断末魔の叫びにも近い悲鳴を上げて、ミミズの首がどうと倒れた。途端に大地が震動し、グニドはその衝撃で投げ出されそうになる。
しかしなおも短刀を離さず、牙を抜かず、グニドは低く喉を鳴らした。
そのままじっとミミズの様子を窺ったが、体を数ヶ所貫かれた魔物はぐったりとして動かない。
満を持して、グニドはゆっくりと体をもたげた。
そうしてミミズの背を渡り、最後の心臓の上に立つ。
顎から滴る魔物の血をぐいと拭い、グニドは大竜刀を振り上げた。
灼熱の砂漠に、魔物の最期の叫びが響き渡った。