第一話 竜人の戦士
木でできた箱の中に、見たこともないほど小さな人間がいた。
たぶん、人間だと思う。
肌は白っぽくて毛皮にも鱗にも覆われていないし、尻尾も生えていないようだし、頭にだけ青黒い毛がたくさん生えている。
この世にはこんな小さな人間もいるのかと、グニドは身の丈四十葉(二メートル)に迫る体躯を屈め、まじまじとそれを見つめた。
それにしても、これだけ小さいと食べるところもほとんどなさそうだ。
おまけに先程からひどい大声を上げ続けていてうるさいことこの上ない。が、グニドを見ても箱の中に寝転がったままで、他の人間のように逃げ出さないのは何故だろう。
『おい、グニド。さっきからうるさいぞ。何の鳴き声だ?』
と、そこへ不意に声をかけられ、グニドはようやく我に返った。
振り向いた先には、グニドの悪友のスエンルフ――通称スエンがいる。全身を覆う鱗は黒く、手には未だ血の滴る片刃の大剣〝大竜刀〟を引っ提げている。
だが何より目を引くのは、彼の奇抜な鬣型だった。スエンは長い首の付け根まで生えている樺色の鬣を、スクムの実の粘液で鶏冠のような形に固めている。
おかげでスエンの鬣はえらく硬い。死の谷でもこんな鬣型をしている竜人はスエンくらいだ。
昔から目立つことが好きな変わったやつだが、グニドはその鬣型だけは未だに好きになれなかった。
何故なら前に一度、鎧を脱いでいるときにスエンの鬣がグニドの腹に当たり、ひどく痛い思いをしたことがある。竜人は基本全身を硬い鱗で覆われているが、腹だけはやわらかくて白い皮膚が剥き出しになっているのだ。
『ああ、スエン。いいところに来た。見ろ、人間だ。こんなところにも隠れてた』
と、グニドが指差したのは、足元にある例の木箱だった。グニドの大きくて平たい足があれば、中の人間ごと一撃で踏み潰せてしまえそうなほど小さな箱だ。
そこは人間たちがよく『馬車』と呼んでいる乗り物の中だった。木でできた荷台の上には白い幌が被せてあって中は薄暗い。
おまけに山のような荷物が積まれており、それがさしたる法則性もなく散らばっていた。
恐らくグニドたちが馬車を襲ったときに、馬が暴れたせいでこうなったのだろう。もちろん馬は人間より貴重なご馳走なので、逃げられる前にしっかりと息の根を止めてある。
『人間? 人間にしてはずいぶん変な鳴き声を上げるやつだな』
『ああ。それに、えらく小さい。こんな小さい人間は初めて見た』
『そんな小さい人間がいるのか? ……って』
と、俄然興味を引かれたようにやってきたスエンが、箱の中身を見るなり首を傾げた。
竜人は驚くと首を傾げる習性がある。この角度は相当驚いていると見て間違いない。
いつも斜に構えているスエンがここまで素直に驚きを露わにするのは珍しいことだ。
『こりゃすげえ。こいつは人間の幼体だ。オレも初めて見たぜ』
『幼体? じゃあ、卵から孵ったばかりの人間ってことか』
『おいおい、バカだな、お前。人間ってのはオレたち竜人と違って卵は生まねーんだよ。そんなことも知らないのか?』
『そうなのか? でも、卵から生まれないんなら、他にどうやって生まれてくるんだ?』
『そりゃあお前、あれだよ、あれ。その……たぶん、にゅるっと生まれてくるんだ、にゅるっと』
『にゅるっとって、どこから?』
『ど、どこでもいいだろ、そんなの! それよりこいつ、どうすんだ? こんなに小さいんじゃ、巣に持って帰っても喰うとこなくて分けられないだろ。いっそオレたちがここで喰っちまうか』
スエンはあからさまに話を誤魔化した。たぶん、人間が本当はどこから生まれてくるか知らないのだ。
しかし後半の話についてはグニドも同感だった。グニドたちが今ここにいるのは他でもない、狩りをして巣の仲間たちに食糧を持ち帰るためだ。
そこは北西大陸南部に渺然と広がる砂の海、ラムルバハル砂漠。
グニドたち竜人は、その砂漠の更に南にある死の谷で暮らしていた。
主な食糧は人間。
何故なら人間は竜人よりも圧倒的に数が多く、比較的狩りやすいからだ。
だが最近、死の谷では人間を狩っても狩っても食糧が足りない。、雨の月を迎え風の月にメスたちが生んだ卵が一斉に孵化したためだ。
だからグニドやスエンのような若いオスの竜人は、この時期になると総出で狩りをし食糧を集める。
二人は共に七歳。脱皮も済んで、皆に大人と認められる年頃だ。
『このところガキどもにばかり飯を取られて、こっちは腹ぺこだからな。ちょっとくらいつまみ食いしても怒られないだろ』
『待て、スエン』
ずらりと牙の並んだ口からよだれを垂らし、早速仔人を取り上げようとしたスエンをグニドが止めた。
腕を掴まれたスエンはいかにも不満そうだ。眉間――竜人は人間とは違い、目の上のやや盛り上がった部分を〝眉〟と呼んでいる――にシワを寄せ、露骨に「何だよ」と言いたげな顔をしている。
『おれたちが狩った獲物を勝手に喰ったなんてバレたら、またエヴィに怒られるぞ。あいつ、最近チビどもの世話に追われてカリカリしてるから』
『けっ、何だよそれ。あんなメストカゲ、知ったことか。オレたちはあいつらが子育てと称して楽してる間、空腹を押して狩りに出てやってるんだぜ? これくらい許されるだろ』
『確かにそうだけど、やっぱり駄目だ。こいつは一旦巣に連れて帰ろう。小さいから運びやすいし、何ならもう少し大きくなるまで待ってから喰ってもいい』
『おい、バカグニド。お前、いつからあんなメスの尻に敷かれるようになったんだよ。情けないやつめ』
『じゃあ、おれはいらないからお前が一人で喰ったらいい。その代わりエヴィにはお前が勝手に獲物を喰ったって報告するぞ』
『この卑怯者! お前に竜人の誇りはねーのかよ!』
『お前も十分尻に敷かれてるよ』
言って、グニドは小さな木の箱ごと人間の幼体を持ち上げた。スエンはまだ物欲しそうにその木箱を見つめ、牙の間からだらだらとよだれを垂らしていたが、グニドは無視して箱を小脇に抱えるようにする。
それにしても問題なのはこの仔人の鳴き声だ。仔人は未だにその小さな体とは不釣り合いなほど大きな声を上げている。両手を胸の上に寄せて、全身を引き攣らせるように。
こんな鼓膜に障る声をいつまでも聞かされていたのでは堪らない。それでなくともあたりに充満する血の匂いに引かれ、いつ砂漠の大蛇がやってくるとも分からないのに。
『こいつ、どうやったら鳴きやむかな?』
『そんなの簡単だ。喰っちまえばいい。喰われる前はどんなにうるさい人間でも、オレたちの腹の中に入れば静かになる』
『それは却下だ』
『何でだよ。名案だろ』
『お前は喰うことしか頭にないのか――』
と、グニドが言いかけたとき、突然仔人の鳴き声が激しくなった。
その喧しさたるや、グニドがこれまで聞いたどんな人間の声よりもうるさい。うるさすぎる。
駄目だ。とてもじゃないが耐えられない。
こうなったら一度足元の砂に叩きつけて黙らせてやる――
そう思い、グニドが発作的に木箱を高々と持ち上げた、そのときだ。
『――グニド!』
スエンの声。同時に足の裏から嫌な震動が伝わってきた。
グニドはこの震動の正体を知っている。
――やはり来た。
大蛇だ。
『来るぞ!』
言われなくても分かっている。グニドは仔人の入った木箱を放り投げ、抜き身のまま腰に吊っていた大竜刀を手に取った。
そうして振り向いた先から砂が迫ってくる。大蛇はいつも砂の中を移動する。
だから大蛇の通り道は砂が盛り上がる。それが蛇行しながら迫ってくるのだ。
狙いはグニドたちが狩った人間と馬。
大蛇には竜人のような知性はないが、こちらが狩った獲物を横取りする程度の狡猾さはある。
「――ジャアアアアアアッ!!」
瞬間、大竜刀を構えたグニドとスエンの目の前で、飛沫のように砂が爆ぜた。
砂の中から飛び出してきた鎌首。砂色の鱗。ちろちろと動く二又の舌。そして人間くらいなら一瞬で丸飲みにしてしまう、巨大な口。
砂の中から出ているのは長い体の半分だけなのに、その頭の高さはグニドたちの三倍はあった。
これが砂漠の大蛇。
数少ない竜人の天敵だ。
『避けろ、スエン!』
こちらが先手を打つよりも早く、大蛇が動いた。蛇はグニドたちの姿を見つけるや否や首を引き、勢いをつけて頭から突っ込んでくる。
グニドとスエンはその攻撃を左右に分かれることで躱した。
しかし大蛇は突進の勢いもそのままに、二人の間を飛び抜けざま馬を一頭掻っ攫っていく。
『ああっ、オレたちのご馳走が!』
正確にはチビたちのご馳走だが、とグニドが訂正する暇もなかった。
大蛇は馬を咥えたまま勢いを駆って砂に潜り、やがてぽーんと馬だけを吐き出す。投げ出された馬は石ころのように宙を舞い、グニドたちのいる場所から遠く離れた場所に落ちる。
それは竜人に獲物を奪還されないようにするための、大蛇が使う常套手段だった。
つまり大蛇はまだグニドたちの獲物を奪うつもりでいる。
その証拠にやつは砂の中で旋回し、再びこちらへと向かってくる。
『ちくしょう、させるか!』
空腹でいつもより気が立っているスエンが真っ先に飛び出した。
大蛇の次なる狙いはその軌道で分かる。馬車の傍に倒れているもう一頭の馬だ。
その馬を奪おうと大蛇が砂から飛び出してきたところを、大竜刀で叩き斬る――それが大蛇と戦うとき最も有効な手段であることはグニドも知っていた。
だが次の瞬間、そんなグニドの目の前で予想もしていなかった事態が起きる。
『――うおぉっ!?』
大蛇の狙いは馬ではなく、スエンだった。
ゆっくり獲物を食すためには、それを守る竜人が邪魔だと踏んだのだろう。
大蛇は勢いよく地中から躍り出るや、倒れた馬の上を飛び越え、スエンに強烈な体当たりを決めた。大蛇の巨体に激突されたスエンの体は軽々と吹っ飛び、巻き添えを喰って大破した馬車の破片と共に砂の上を転がっていく。
『スエン!!』
悪友がやられた。吹き飛ばされたスエンは、仰向けに倒れたまま動かない。
そんな馬鹿な。あのスエンが。
グニドがその事実を受け入れられず、そちらに意識を奪われた、そのときだ。
「――シャアアッ!!」
すぐ耳元で、声。
気づいたグニドが振り向いたとき、そこには限界まで開かれた大蛇の口があった。
体が宙に浮くような感覚。グニドは足元の砂ごと大蛇の下顎に掬われ、そのまま全身に衝撃を感じた。
突然視界が暗くなる。大蛇がグニドを咥えたまま、砂の中に潜ったのだ。
だが幸いにして、竜人の眼には薄い透明の瞼がある。水中や砂の中でも目が見えるようにするためだ。
加えて鼻孔を閉じれば砂が気管に入ることもない。竜人は同じ方法を使って、最低でも一刻(一時間)は水に潜っていられる。
砂の中でも同じ要領だ。背中から激流のように砂が叩きつけてくることを除けば、死ぬような状況ではない。
グニドはとっさに大竜刀を大蛇の下顎に突き刺し、自分を大蛇の口の中へ押し込もうとする砂の猛攻に耐えた。
堪らなかったのは大蛇の方だ。下顎を刀で突き刺され、耐えかねた大蛇はほどなくグニドを砂の中から吐き出した。
だがその勢いが尋常ではない。
グニドの体は先程の馬と同じように空高く放り投げられた。
そこを狙い澄ましたように、真下から大蛇の口が迫ってくる。
体をバネのように使い、地中から飛び出してきた大蛇の全長はおよそ二枝(十メートル)はあるだろうと思われた。
――このままおれを喰うつもりか。
戦士の勘がそう告げている。
そのときグニドは――笑った。
いいだろう。来い。
その勝負、受けて立つ。
「ジャアアアアアアッ!!」
刹那、天に響いた咆吼はグニドと大蛇、果たしてどちらのものだったのか。
グニドは頭上高く大竜刀を振りかぶり、大蛇の牙が眼前まで迫った瞬間、その鼻先に刃を叩きつけた。
ゴシャッと骨の潰れる音がする。
砂色の鱗にめり込んだ刃はそのまま大蛇の頭蓋を断ち、脳まで達して押し潰す。
竜人。
それはこの世界において、もっとも残虐で恐ろしいと言われる獣人。
人間の天敵である彼らは、大竜刀の一振りで鋼の鎧さえも容易く叩き斬ってしまう。
グニドはそんな竜人の中でも、特に将来を嘱望される若き戦士だ。