第十七話 獣人隊商
黒い獣がグニドたちを導いたのは、シェイタンの西の外れだった。
ちょうど大地の肚への入り口がある旧市街地と、新市街地の境目に位置する場所だ。そのあたりは街の中心に比べて建物が少なく、あまり砂王国人も寄りつかないのか閑散としている。
代わりに道や建物の屋根にはこんもりと砂が積もり、獣が一歩踏み出す度にその足元で砂が跳ねた。
無論、グニドが歩いてもそうなのだが、グニドの場合は一度に蹴立てる砂の量が小さな獣の比ではない。もっとも〝小さい〟とは言っても、獣の体長は鼻先から尻尾の先まで合わせれば、ルルの身長とさほど変わらないのだが。
「あんた、名前は?」
グニドがそんな観察をしている間にも、前を歩く獣が言う。
やはり人間の言葉を喋っていた。それも、一応獣よりは人間に近い形をしているグニドよりずっと流暢に、だ。
グニドはその事実に改めて驚きながらも、小さく揺れる獣の尻尾を見つめて返した。
「グニドナトス、ダ」
「……ゴツい上に長い名前だな。〝グニド〟って呼んでもいい?」
「ウム。ナカマ、皆、ソウ呼ブ。オ前ハ?」
「ヴォルク」
「ヴォルク?」
「ああ。そっちの人間の子は、ルル?」
「ウム。オレ、名前、ツケタ」
「ふうん……じゃあ、あんたがその子を育てたって話は本当なんだ」
獣──ヴォルクは路地を歩く足を止めずに、顔だけをこちらへ向けてくる。どうやらヴォルクは、先程の街中での騒ぎを最初から聞いていたらしかった。
しかしグニドがそれ以上に意外に思ったのは、この獣が竜人である自分をまったく恐れる素振りがないことだ。
ヴォルクは砂漠では見かけない種類の獣だし、あるいは竜人がどういうものかよく知らないのかもしれない。それにどうやら肉食獣のようだから、同じ肉食の自分が竜人に喰われるわけがない、と高を括っている可能性もある。
だがどちらにしたところで、その反応はグニドにとって新鮮だった。
知性などかけらもないただのトカゲでさえ竜人が寄れば逃げるのに、この獣は自分が怖くないのだろうか?
「だけど、どうして竜人が人間の子を?」
「オレ、ルル、砂漠デ拾ッタ。トテモ小サクテ、喰ウトコロ、ナカッタ。ダカラ、育テタ」
「育てて大きくしてから喰うつもりだったってこと?」
「ウム……ダガ、喰エナクナッタ」
「なるほど……情が湧いたわけか」
「ジョーガ、ワク?」
「かわいく思えてくるってこと」
「カワイク……?」
いずれもグニドの知らない言葉だ。それは一体どういう意味なのだろう、と首を傾げていると、ヴォルクはちょっとだけ笑ってまた前を向いた。
その次に見えてきた角を、ヴォルクは迷わず右へ曲がる。グニドも続いて崩れかかった建物の陰を抜けると、急に視界が開けて驚いた。
角を曲がった先は、ちょっとした広場のようになっていたのだ。相変わらず人気はなく、そこは広場というより小さな砂漠と言ってしまった方がいいくらい殺風景な場所だったが、その広場の隅に何か白いものが見える。
グニドが目を凝らすと、それは一台の馬車だった。
白く見えたのは荷台に四角く張られた幌だ。その馬車を曳くはずの四頭の馬は、今は軛を解かれてくつろぎ、秣がたっぷり入った桶にのんびり鼻先を突っ込んでいる。
「戻ったぞ」
そのときヴォルクが、突然その馬車に向かって声を上げた。その声は「ウォン!」という吠え声と共に伝わり、四頭の馬が頭を上げる。
が、馬たちは目の前に恐ろしい肉食獣が現れたにもかかわらず、「なんだお前か」とでも言いたげな素振りで再び食事を再開した。
なんと無防備な馬だ。あんなに警戒心のない馬がいるのか。グニドがその光景に驚いていると、突然その馬たちとは別の方角から声が上がる。
「──ああ、ヴォルク、おかえりなさい! ねえ、ちょっと聞いてちょうだいナ! さっきからヨヘンが……」
馬車に手が届くまで、あと十歩。それくらいの距離まで迫ったとき、にわかに馬車の荷台から何かが飛び出してきた。
グニドはその動きを警戒して足を止める。そうして身構えた先に見えたのは──毛むくじゃらの人間?
いや、獣人だ。
グニドは目を見開いた。馬車の中から現れたのは、人間によく似た体格に獣の頭を持った獣人だった。
グニドはそれほど多くの獣人を知っているわけではないが、あのタイプの獣人は辛うじて知っている。あれは〝犬人族〟と呼ばれる、犬と人間が合体したような姿の獣人だ。
だが個体ごとの差異と言えば鱗や鬣の色くらいしかない竜人とは違い、犬人は実に様々な姿形のものがいる。たった今グニドの前に飛び出してきたその犬人は、全身を黄色みの強い毛皮で覆われ、垂れた耳だけが唯一茶色く、全体的に丸っこい見た目をしていた。
毛足も長く、ふわふわで──とてもうまそうだ。
牙の間から思わずよだれが垂れそうになる。が、どうやら思わぬ異種族の登場に驚いたのは向こうも同じだったらしい。
「──キャーーーッ!! ヴォ、ヴォルク、後ろ、後ろーーーっ!!」
「ああ、ポリー、この人は……」
「ど、竜人!! 竜人よ!! いやあああああ!! ワタシたち、このまま食べられるんだワ!! もうおしまいよおおおおお!!」
「なんだってぇ!?」
グニドの姿を見て絶叫した犬人はその場に腰を抜かし、全身を震わせながら頭を抱えた。
ところがそこへ更に別の声が響く。直後、何か小さなものが馬車から顔を覗かせた。
あれは──鼠?
「う──うぎゃああああああ!! ほ、本物の竜人だああああああ!!」
「ヨヘンも落ち着いて。この人は……」
「や、ヤメテ!! お願いオイラは喰わないで!! オイラは、オイラは、そう、ただのちっぽけなネズ公さぁ!! ネズミなんか喰ったっておいしくないし、腹もちっとも膨れないよ!! チューチュー!!」
「おい! 二人とも話を聞け!」
呆気に取られるしかないグニドの横で、苛立った様子のヴォルクが吠えた。
それは肉食の獣がよく発する、低くて鋭い威嚇の声だ。途端に取り乱していた犬人とネズミの騒ぎ声がピタリとやみ、あたりに静寂が訪れる。
その静寂の中に、はあ、とヴォルクのため息が落ちた。
それから彼は改めて馬車の方へ歩いていくと、体ごとこちらへ向き直り、茫然としている犬人の傍に腰を下ろす。
「ごめん、グニド……このふたりは俺の仲間。見てのとおり騒がしいけど、どうか喰わないでやってほしい」
「ナカマ?」
「そう。こっちの犬人はポリー、こっちの鼠人はヨヘンという。本当はもう一人仲間がいるんだけど……」
「ちょ、ちょっと待てよ、ヴォルク。おめえさん、誰と話してる?」
「誰って、決まってるだろ──あの竜人だよ」
ヴォルクが平然とそう答えれば、さっきまで騒いでいた二匹──いや二人が、唖然とこちらを振り向いた。
だがそのとき、グニドの目はもっと別のものに引きつけられている。
それは砂の上に置かれたヴォルクの前脚。
その脚が、突然人間の手に変わった。
脚だけではない。突如として黒い毛皮を失い、五本の指を供えたヴォルクの前脚はそのまま人間の腕へと変わり、まるで蛇が脱皮をするように徐々に毛皮を脱ぎ去っていく。
とは言え黒い体毛が抜け落ちているわけではないのだ。それらは一斉に肌色の肌の中へと吸い込まれていき、それと同時にヴォルクの体が別の生き物のそれへと変化している。
やがてグニドの前に姿を現したのは、砂上に佇む人間の青年だった。
ただ唯一黒いその鬣と、そこから覗く獣の耳、そして股の間から見える尻尾だけが、その人間と先程までそこにいた獣が同じ存在であることを教えてくれる。
「驚いた?」
あんぐりと口を開けたままのグニドの前で、青年はちょっと肩を竦めた。
「それじゃ、改めて自己紹介。俺はヴォルク。見てのとおり、人間と狼人の間に生まれた半獣人だ」
「ハンジュージン……?」
──つまり、アレがイドウォルの言っていた半獣というものか。
グニドは何となくそれを察した。
ヴォルクは人間と獣人の血を引く〝混ざりもの〟だったのだ。
だから人の言葉を話せた。それでいて、あのように獣の姿を取ることもできた。
『ふわあー!! グニド、見た!? 黒いの、ナムになっちゃった!! なんでー!?』
と、ときにグニドの背中から身を乗り出したルルが叫ぶ。その重みを感じてわずかに首を下げながら、グニドはちょっと待て、と言おうとした。
何せ混乱しているのはグニドも同じなのだ。だからまずは落ち着いて状況を整理しよう、と思ったのだが、
「ちょ……ちょっと!! あの竜人、背中に人の子を乗せてるわよ!?」
再び金切り声が上がり、先程ヴォルクに〝ポリー〟と呼ばれていた犬人が慌ててこちらを指差した。
が、ヴォルクは動じない。どこかぼんやりとした表情のない顔で隣のポリーを見下ろすと、
「そんなことより、ポリー。俺の服知らない?」
「は!? え!? って、キャアアアアアア!! ヴォ、ヴォルク、素っ裸じゃないの!! 着ていった服は!?」
「置いてきた」
「どこに!?」
「色々あったんだ。だから、俺の服。このままだと、熱い」
一糸まとわぬ姿で砂の上に立ったヴォルクは、確かに熱そうだった。布も毛皮も身にまとっていないために肌をそのまま陽射しに晒され、ちょっと困ったような顔をしている。
ポリーはそんなヴォルクを前にして何故か両手で顔を覆うと、何事か喚きながら馬車の向こうへ走り去っていった。グニドにはサッパリ意味が分からない。
『ねえ、ねえ、グニド! あの黒いのはどこいったの? それにあの毛むくじゃらは何!?』
『うむ……どうやらあの黒い獣は、人間と獣人の合いの子だったようだ。ちなみにあいつの名はヴォルクというらしい』
『ヴォルク? ヴォルクはナムなの? けものなの?』
『どっちの血も引いている。だから人間にも獣にもなれるんだ。あと、さっき走っていったのは犬人。あっちのちっこいのは鼠人族のようだな。おれも見るのは初めてだが……』
『ポチ? チュイ?』
『どちらもおれと同じ獣人だ。でもってヴォルクの仲間らしい』
『えっと、えっと……ヴォルクはルルたちのこと、たすけてくれたよね? だから、ヴォルクもポチもチュイも、ルルたちのなかま?』
『恐らく、な。だがまだ油断はするな』
最後は少しだけ声を低めて、グニドは言った。ルルと話すことで状況はいくらか整理できたが、先程助けてくれたからと言ってあの獣人たちが味方であるとは限らないのだ。
現にそれぞれポリー、ヨヘンと呼ばれていたあの二人は、グニドを見るなりはっきりと拒絶の素振りを見せた。
同じ獣人同士と言っても、種族が違えばそんなものだ。だとすればあの二人も竜人という脅威を排するために、隙を見て攻撃を仕掛けてくるかもしれない。
「おい……おい、おい、ヴォルクさんよ。オイラにはあの人間の嬢ちゃんが竜人と会話してるように見えるんだが?」
「うん。どうやらそうらしい」
「そうらしいって、竜人と会話できる人間なんて聞いたことないぞ! アイツらの言語を理解できる種族なんて、この世のどこにもいないってのに!」
「ああ……けど、あの子は特別なんだ。何でもあの子はあのグニドって竜人に育てられたらしい」
「へぇえ!? 竜人が人間の子供を育てただって!? そんなバカな!」
「初めは食べようと思って攫ったけど、育ててるうちに何だか情が湧いたんだって。さっき本人がそう言ってた」
「竜人が!? おめえさんも竜人と喋れたのかよ!?」
「違う……あの竜人が人の言葉を喋れる。語彙は少し不自由だけど」
一方、グニドが注意深く視線を注ぐ先では、ヴォルクがヨヘンとそんな会話をしながら服を着ている。どうやら馬車の陰からポリーが投げて寄越したらしく、膝上まで届く黒い上衣の首元に、更に細長い布を何回か巻いていた。
次いで筒状の布が二股に分かれた変な形の衣類に足を突っ込み、その筒の先から器用に足の先を出している。突き出た足の先にはこれまた細くて白い布を巻き、その上から人間がよく『長靴』と呼んでいる履物を重ねていた。
同じようにポリーやヨヘンも衣服をまとっていたが、何故他の種族はああして何枚も複雑に衣服を重ねるのだろうと、グニドは毎度不思議に思う。あんなに服を重ねたら動きにくそうだし、きっと着替えるのも面倒だ。
竜人は平時でもゆったりとした上衣を一枚まとうだけで、眠るときなどは裸になる。寝床は砂の中だから、服を身につけていると逆に後始末が面倒なのだ。
だがグニドは知らない──そもそも竜人が人間と同じような脚衣や靴を履こうにも、独特の構造をした脚の関節や足の先に生えた鋭い爪に阻まれて、そもそも不可能なのだということを。
「で、何から話そうかな」
と、着替えが済むなりヴォルクが言う。彼は荷台の上り口に歩み寄ると、ちょうど日影になっているその場所にゆっくりと腰を下ろした。
その頃にはヴォルクの服を取りに行っていたポリーも戻ってきていて、馬車の陰からそっとこちらを覗いている。ヨヘンはなおも落ち着かない様子で、ヴォルクの足元を行ったり来たりしていた。
「その前に、グニド。もう少しこっちに来てくれないかな」
「何故ダ?」
「そこだと、ちょっと遠くて話しづらい」
「……」
「あんた、ルルの食べ物を探してここに来たんだろ。何だったら俺たちが売ってあげてもいいけど」
「売ル?」
「ああ……俺たち、隊商なんだ。人呼んで『獣人隊商』」
「ビーストキャラバン?」
「見てのとおり、獣人が集まって作った隊商ってこと。あー……〝隊商〟っていうのはつまり、チームを組んで行商する商人のことなんだけど……」
言うや否や、ヴォルクが体を拈って荷台の中に頭を突っ込み、おもむろに何かを取り出した。それは彼の腕でも一抱えはある木の箱で、彼はそれをどさりと足元に置く。
そうして無造作に蓋を開けると、中身を掴んでグニドに見せた。
彼の手の中からサラサラと零れ落ちていくそれは、ルルの大好物であるドライフルーツだ。
『ふわあー!! ドライフルーツ!!』
それを見るや否や、グニドの背中から伸び上がったルルが椅子の上でぴょんぴょん跳ねた。グニドは思わず『おい、落ちるぞ』と警告したが、そうしてルルがはしゃぐのも無理はない。何せオアシスを出た翌日には手持ちのドライフルーツが底を尽き、ルルはこの三日、炒った豆しか食べていなかったのだ。
「同じ獣人の誼だ。安くしとくよ」
「ムウ……食イモノ、他ニモ、アルカ?」
「もちろん。干し肉から乾酪まで、何でもござれだ」
ヴォルクが言わんとしていることは、何となく分かった。つまり彼らは砂漠を渡る商人であり、グニドを助けたのは先程の騒ぎでルルのための食糧を探していることを知ったからだ。
それでいて、同じ獣人だからという親しみもあったのだろう。グニドはそこでようやく彼らに対する警戒を解いた。
もっとも、だからと言って完全に信用したわけではないが、ルルの食糧の確保は急務だ。「ドライフルーツ」という単語を連呼して背中で跳ね続けているルルのためにも、グニドはひとまずヴォルクの言に従うことにする。
「コレデ買エルカ?」
ようやく馬車へ歩み寄ったグニドは、背中からルルと荷袋を下ろし、砂金の袋を取り出した。その間にルルは大はしゃぎでドライフルーツ入りの箱へ駆け寄っていき、ポリーとヨヘンは縮み上がって馬車の後ろに隠れている。
だがそれについてはひとまず気にしないことにして、グニドは唯一平然としているヴォルクと交渉した。ヴォルクは手渡された袋の中身を見て「まいど」と微笑むと、馬車の前に置かれたいくつかの箱を指差して言う。
「その辺にあるのは全部食糧品。好きなものを好きなだけ取ってもらっていいよ」
「ドレデモ?」
「ああ、どれでも」
『グニド! これ、食べていいの!?』
依然ドライフルーツの箱に取りついたまま離れないルルが言う。グニドはヴォルクに一瞥を向けたが、「どれでも好きなだけ持っていっていい」と言われたばかりだ。きっと問題はないのだろうと頷けば、ルルは「ヤーウィ!」と大喜びでドライフルーツを掬い上げ、小さな口いっぱいに頬張っている。
そのあまりにも嬉しそうな顔を見て、グニドは少しほっとした。それからヴォルクに言って他の箱の中身も見せてもらい、胡桃や乾燥野菜、果ては肉の燻製なども譲ってもらう。
「し、信じられねえ……ヴォルクのやつ、本当に竜人と対等に話してやがる……」
と、ときに車輪の後ろから顔を覗かせたヨヘンが、そんなグニドとヴォルクの様子に茫然とした声を上げた。
一方のポリーもまた、馬車の陰に隠れながらふるふると震え続けている。
だがその視線はグニドではなく、先程からドライフルーツに夢中になっているルルへと向いていた。
実は、ポリーは子供が好きだ。昔からその無垢で小さな存在が好きで好きでたまらず、ゆえにルルのことが気になって仕方がない。
(あ、あの子も竜人みたいに噛んだりするのかしら……)
と不安を覚えつつも、ポリーはあの残忍無比なことで知られる竜人に育てられたという少女のことが気になってしょうがなかった。
だからヨヘンが止めるのも聞かず、そっと馬車の陰を出る。問題の竜人が箱詰めにされた豚の生肉を見て目を見開き、興奮気味に尻尾で砂を叩いているのを確認してから、そろそろと少女へ近づいた。
確かヴォルクはさっきこの子を「ルル」と呼んでいたはずだ。そこでポリーはルルの前にしゃがみ込み、試しにその名を呼んでみる。
「ルルちゃん?」
それまで夢中でドライフルーツを頬張っていた少女が顔を上げた。その口は未だに色とりどりのドライフルーツを咀嚼しつつ、大きな淡黄色の目は物珍しそうに開かれてポリーを見ている。
その驚いた様子のあどけなさと言ったら。途端にポリーの胸には、なんてかわいらしい女の子だろう、という愛着が泉のように湧き上がった。
身なりこそ粗末で薄汚れてはいるものの、白い頬はぷっくりとして、瞳も子供特有の無邪気さを湛えている。そこに竜人のような野蛮さは少しもなく、あるのは未知の存在であるポリーへの興味と弾けるような驚きだけだ。
「こんにちは、ルルちゃん。ワタシはポリー。犬人族のポリーよ」
「……ぽりー?」
ごくん、と口の中のドライフルーツを飲み込んでルルが言った。言葉が通じているのかは分からないが、何とも庇護欲をそそられるたどたどしい言葉つきだ。
おかげでポリーの中のルルに対する愛しさは、ますます大きく膨れ上がった。
やはり何者に育てられようと、子供は子供だ。ポリーはそんな思いと共に表情を綻ばせ、このかわいらしい少女を慈しんでやろうと手を伸ばす。
「そう、そうよ。ワタシはポリー。よく呼べたわネ──」
そうして長く伸びきった少女の黒髪を、そっと撫でようとしたときだった。
『ジャアアアアッ!!』
突然恐ろしい咆吼があたりに響き、ポリーはその場に飛び上がる。何事かと手を引っ込めて目をやれば、何とあの竜人が牙を剥き、こちらへ向かってくるではないか。
『ルルに触るな!!』
何を言っているのかは分からない。しかし今にも自分を噛み殺しそうな剣幕で迫ってくる竜人に、ポリーは悲鳴を上げて逃げ出した。
竜人の長い尾があたりの木箱を薙ぎ倒し、ぞっとするような吼え声が谺する。その声にはさすがの馬たちも驚き、食事を中断して口々に嘶き始める。
ポリーは後悔した。好奇心からあの少女に近づき、声をかけたことを心底後悔した。
ああ、どうしよう!
食べられる、食べられる、食べられる──!
「──ちょっとお客さぁん、ウチの隊員に手を出されるのは困りますねぇ」
そのときだった。
突然どこからともなく声が聞こえ、ポリーは頭を抱えながらハッとした。
途端に竜人の悲鳴が聞こえる。次いで少女の困惑した声も聞こえた。
『グニド!? どうしたの!?』
とその声は言っていたのだが、当然ポリーには分からない。
急いで地を這うように砂を掻き、もう一度馬車から顔を覗かせると、そこでは竜人が鼻を押さえて苦しんでいた。
さっきまでの恐ろしい剣幕はどこへやら、仰向けにひっくり返ってもがき、よく晴れた空に向かって何事か喚いている。
そしてその竜人へ臆することなく歩み寄っていく、一人の女。
「おまけにウチの商品をこんなにしてくれちゃって、どう責任取ってくれるんです? どれもさっき買い入れてきたばっかりのモノですよ。弁償してくれますよね、弁償」
その女の背中、腰のあたりには、いかにも手触りの良さそうな、ふくよかな尾が生えていた。
尻尾の先の毛は白いが、それ以外は狐色。同じように先端だけ白い耳が頭の上に生えていて、長い髪は高い位置で一つに結われながらも奔放に跳ね回っている。
今のポリーの位置から見えるのは、その後ろ姿だけ。
けれどもポリーは、その姿を見て心の底から安堵した。
ああ、帰ってきた。
帰ってきてくれたワ──ワタシたちの隊長が!
「あ、ごめん。そういや竜人って、アタシら狐人の匂いが苦手なんだっけ?」
服の間から露出した細い腰に手を当てながら、女は屈託もなくカラリと笑った。
彼女の名はラッティ。
この獣人隊商の創立者にして、ポリーたちが愛してやまない隊長だ。