第十四話 死の砂漠
グニドは焦っていた。
砂漠の太陽が、ジリジリとグニドの鱗を焼く。駆ける度に熱砂はグニドの足を取り、先へ行かせまいとする。
今まで我が庭のように慣れ親しんでいた砂漠を、こんなに残酷なものだと感じたのはこれが生まれて初めてだった。
進めど進めど、まったく目的地に近づいている気がしない。いくつ砂丘を越え、凍える夜をやり過ごしても、目指す場所は一向に見えてこない。
「ギャアッ、ギャアッ」
今日も灼熱の視線が大地を焼く。その熱視線を忌々しく思いながら、グニドは長い首をもたげた。
目を細めて見上げた先で、二羽の禿鷹が鳴きながら輪を描くように飛んでいる。その輪の中心にいるのは言わずもがなグニドだ。やつらは二日ほど前からしつこくグニドにつきまとい、その腕の中にあるごちそうにありつけるのを今や遅しと待っている。
まったく憎たらしい鳥どもだ。やつらが手の届くところまで降りてきたら、間違いなく脚を掴んで地に叩きつけ、羽を毟って喰らってやるのに。
『もう少しだぞ、ルル』
もう何度口にしたか分からない気休めの言葉を繰り返し、グニドは行く。腕に抱いたルルは、昨日から話しかけても何も答えなくなっていた。
それまでは掠れた声で答えたり、弱々しく頷いたり、ぐったりしながらも何かしらの反応を返してきたのにそれもない。耳を澄ませば呼吸は浅く速く、体温が異常に高かった。
人間が砂漠でよく罹るという、熱射病というやつだ。大地の肚を抜けて数日。ここまではルルが使う精霊の力で飲み水を確保してきたが、そのルルがこの有り様では他に水を求めようがなかった。
一応スエンが用意してくれていた荷袋の中には水筒があり、それにも水を溜めておいたが残り少ない。せいぜい数刻にほんの一口、ルルの口に含ませてやるのが精一杯だ。
このままではルルが持たない。グニドはほとんど休むことなく駆け続けた。
そのグニドとてもう何日も水を飲んでいないし、肉も食べていない。いくら絶食絶水で動き回れる竜人と言えど、体力には限度がある。
おまけに鋼の鎧は熱を持つから、それをつけたままルルを抱くわけにはいかず、仕方なく背中に回して亀の甲羅のように背負っていた。
こんなところを砂漠の大蛇にでも襲われたら一巻の終わりだ。それでなくとも禿鷹がしつこくついてくるところを見れば分かるように、グニドやルルの体には大地の肚で浴びたスエンの血の臭いが染みついている。
大地の肚を出てすぐにルルの力で水浴びし、服も替えたのだが、やはりそう簡単に血の臭いは落とせなかった。
あれだけの血を浴びれば仕方のないことだが、それがグニドの空腹にまでこたえるのがなかなかつらい。
「グルルルルルル……」
今日もグニドの腹が鳴り、日が沈む。見渡す限り砂しかない砂漠の真ん中で、グニドはルルを抱いたままうずくまった。
灼熱の昼間とは打って変わって急激に冷え込む砂漠の夜は、砂漠の大蛇に次ぐ竜人の天敵だ。
全身を硬い鱗で覆われ、体毛と言えば背中に走る鬣しかない竜人は寒さに弱い。冷えた空気に晒されると体温が著しく低下し、下手をするとあっという間に凍え死んでしまうのだ。
だから通常、砂漠で夜を迎えた際は砂に潜ってやり過ごすのだが、今はルルがいるためそうすることができなかった。
平たい顔の真ん中に鼻がついている人間は、竜人のように鼻だけ突き出して砂に潜るということができない。しかも遮るものが何もない砂漠では絶えず風が吹いているから、たとえ体だけ砂に埋め仰向けに寝かせても、一晩の間に顔まで砂に埋もれてしまうおそれがある。そうなれば窒息死だ。
そうならないために竜人の鼻孔は下を向き覆いもついているのだが、原初の精霊たちは人間にまでそうした進化の恩恵を与えてはくれなかった。
だからグニドはルルを夜の寒さから守るため、彼女を抱いたまま小さく体を丸めるしかない。なるべく高い砂丘の麓を選び、少しでも風を遮る努力はしたが、それでも砂漠の夜風は容赦なくグニドの体力を奪った。
長年この砂漠で生きてきたグニドでさえ過酷と感じるこの状況に、幼いルルが耐えられるわけもない。
この十年、ほとんど気温の変化もなく風も吹かない死の谷の地下で育ったルルにとって、砂漠の環境は苛烈すぎた。グニドもそれはある程度覚悟していたつもりだったが、ルルの体力の消耗は予想よりずっと激しかった。
本当に人間という生き物は、なんと脆弱なのだろう。砂漠の暑さにも乾きにも飢えにも弱く、それでいて力もなければ臆病で体も小さい。
おかげでグニドら竜人は食糧に困らず生きていけるが、共に生きようと思えば話は別だ。
人間の命の火は小さすぎていけない。それは精霊がちょっとため息をついただけで吹き消されてしまいそうで、守るのに難儀する。
『大丈夫。もうすぐだ……』
その呟きはいつしかグニドが自分自身に言い聞かせる言葉に代わっていた。
震えながら眠れぬ夜をやり過ごし、日の出と共に出発する。ルルを抱えて歩き出す前に、残りわずかな水を彼女の口に流し込み、一緒に塩の結晶も一粒飲ませた。
この小さな塩の結晶は、死の谷の南で採れる岩塩だ。スエンが寄越した荷袋にはこの岩塩がいっぱいに入った袋とドライフルーツ、胡桃、豆などの他、いくらかの砂金まで入っていた。
ルルがまだ辛うじて息をしているのはそのおかげだ。悪友がそうしてつないでくれたこの小さな火を、こんなところで消してしまうわけにはいかない。
グニドは自身も塩の結晶を一粒舐め、重い体を引きずるように歩き出した。既に自分から走る力が失われていることに愕然としたが、それでも歩みは止めなかった。
重くて仕方ない鎧も刀も捨て去りたい衝動をこらえ、立ち止まっては水筒に伸びそうになる手を抑える。どうしても水筒に手が伸びてしまったときは、貴重な一口を自分ではなくルルに与えた。
今日も空から降る陽射しは強い。頭上を舞う鳥どもがうるさい。
目の前が陽炎で歪んで、グニドは何度も瞬きをした。
そうしないと陽炎の揺らめきと一緒に、グニドの意識までぐらぐらしそうだ。
歩け。
朦朧とする頭で念じる。
歩け。歩け。歩け。
枷を嵌められたように重い足を、やっとのことで前に出す。
あと少しなんだ。
あと少し――。
そう念じて左足を持ち上げたところで、世界が回った。
小高い砂丘の下り斜面を、ルルを抱いたまま転がり落ちる。
それからどれほどの間意識を失っていたのか、グニドは自分でもよく分からなかった。
耳障りな鳴き声がして、薄目を開ける。
二羽の禿鷹。
グニドの様子を窺うように、遠巻きにこちらを見ていた。
だがやがてグニドが動かないと分かると、隣に倒れたルルに嘴を伸ばそうとする。
『ジャアアッ!!』
瞬間、グニドは弾かれたように首をもたげて吼えた。
その咆吼に肝を潰した二羽の禿鷹は大慌てで飛び去っていく。
本当はそのどちらか一羽だけでも捕まえられれば良かったのだが、今のグニドにはもうそれを為すだけの気力はなかった。
石になったように重い体を何とかもたげ、再びルルを抱き上げようとする。
しかし直前でその手が止まった。
――ウマソウナ肉ダ。
頭の中で本能が言う。
途端にグニドはぶるぶると頭を振って、飢えに付け込んだ悪霊を払おうとした。
だが悪霊はなおも言う。
ウマソウナ人間ノ肉ダ。
喰ッテシマエバイイ。
グニドはしばらく動けなかった。
気づけば牙の間から、ボタボタとよだれが垂れている。
――喰イタイ。
呼吸と動悸が激しくなった。
――腹ガ減ッタ。
血の臭いに鼻がひくつく。
――肉ダ。
鋭い牙がびっしりと並んだ口を、グニドはぐわりと大きく開けた。
――肉ダ。
肉。
肉。
肉。
肉。
肉。
肉。
〝――グニド!〟
そのとき、頭の片隅で声がした。
〝ルル、グニドのこと、好き!〟
×
グニドは走った。
走って走って、走り続けた。
二羽の禿鷹はなおもグニドを追ってくる。だがグニドはもうやつらのことなど気にかけない。
夜。
冷たい風と月明かりがどんなに皮膚を刺そうとも、グニドは走ることをやめなかった。
砂を蹴立てて、息を荒らげて、それでもルルを抱いて走る。走る。走る。
『もう少しだぞ、ルル』
言って、グニドは吼えた。腹の底から咆吼した。
誇り高き竜人の雄叫びが、忍び寄ろうとする疲労や限界や悪霊どもを片っ端から蹴散らしてゆく。
やがてまた日が昇り、気づけばあんなに夜を賑やかしていた星たちはいずこかへ消えていた。
目の前に迫った小さな砂丘を駆け登る。見上げた空に、朝と夜の境界が見えた。
東の果て、ゆるやかに波打つ地平線が金色に輝いている。
その金色と濃紺が鬩ぎ合う空の下。
見えた。
砂漠の中にぽつねんと、青々とした草木を従えて広がる泉。
オアシスだった。
グニドが愚直に目指し続けたその場所は、記憶と寸分違わぬ姿でそこに在った。
夜明けの空に勝利の咆吼が轟き渡る。
グニドは黄金に煌めき始めた砂の大地を、一直線に走り抜けた。