第十三話 兄弟
洞窟の壁を覆った夜光石の、青くて鈍い光を受けながら、スエンの大竜刀が宙を舞った。
それはくるくると見事に回転しながら高く舞い上がり、しかし最後は天井に当たった衝撃で地面に叩きつけられる。
血が臭った。
その腥い血溜まりの真ん中に、グニドは立ち尽くしていた。
右手には血で汚れた大竜刀。
そしてうなだれるように鼻を向けた先には両手を広げ、仰向けに倒れたスエンがいる。
『……くそ。やっぱ、力じゃお前に、敵わねえよな』
スエンの前身を覆っていた鋼の鎧は、無残にも砕け散っていた。
竜人が鍛える鉄の鎧は、人間が鍛えたものより遥かに強い。それでもグニドのような大重量の刀を使う竜人の手にかかれば、こんな風に砕いてしまうことも不可能ではない。
派手に壊れた鎧はもはやただの鉄屑と化し、血溜まりに沈んで冷たい浮き島のようになっていた。
おかげで今はスエンの白い腹がよく見える。だがそれも今となっては血塗れだ。
彼の左肩から右の脇腹まで斜めに走った傷は深く、今もドクドクと大量の血が溢れ出していた。
赤黒く染まったスエンの腹は不規則に、激しく上下している。
それでもスエンは満足そうだ。その口には細い笑みが浮かび、黒い鱗の間から鋭い牙が覗いている。
『……お前はいつも詰めが甘いんだ、スエン。興奮するとすぐ周りが見えなくなるし、まったく物を考えなくなる』
『うるせえ。んなもん、耳穴が詰まるくらい、聞いたっての……そうやって、いちいちオレに、説教垂れる、ところも、ムカつくんだよ』
『お前が何度も同じ失敗を繰り返すのが悪いんだ』
『へーへー。そうですね』
『……。変わらないな、おれたちは』
『変わって、ほしかったか?』
『いいや』
これで良かった。
グニドは答えず、ただ心の中でそう呟いた。
スエンは確かに救いようのないバカだが、そんなところがグニドも嫌いではなかったのだ。
何でも考えすぎるグニドと違って、スエンの頭はいつも空っぽだった。喰うことと寝ることと暴れること、いつだってそれしか頭になくて、そんなスエンの軽薄さに時々腹を立てながら、しかしグニドは救われていた。
流砂のような思考の深みに嵌まるとき、隣でアホみたいに騒ぐスエンの姿を見ていると、グニドはよく気がまぎれたものだ。
そしてそのうちつまらないことで悩んでいるのが馬鹿らしくなった。たまにはスエンのように何も考えずに生きるのも悪くない、と思わせてくれた。
もちろんスエンだって、今日まで何も考えずに生きてきたわけではないだろう。
グニドは知っている。スエンは確かにバカだが、とても兄弟想いのいいやつだ。
だから、兄弟のためなら笑って命を投げ出せる。
腰抜けのくせに、そういうときだけやけに思考が大胆になる。
一度そうなると迷いがない。
グニドはスエンのそんなところが好きだった。
『グニド』
『何だ?』
『死ぬほど、いてえ』
当たり前だろう。斬られたのだから。
いつものグニドなら、そう答えた。
だが今は違う。グニドはスエンのその言葉の意味を汲み取り、頷いた。
ボタボタと赤い雫が伝う大竜刀を握り直す。
最後に何か言葉をかけるべきかと思ったが、やめた。
自分にその資格はないし、必要もない。
グニドとスエンは確かに兄弟だった。
その兄弟の首に狙いを定め、グニドは刀を振り上げる。
『――やめて!!』
そのとき、鼓膜に刺さるほど鋭い声があたりに響いた。
視界に白くてヒラヒラしたものが飛び込んでくる。
ルルだ。
ルルはくすんだ白の貫頭衣をスエンの血でたちまち汚しながら、彼の体に縋りついた。
そうしてその傷に覆い被さるようにスエンを抱き、涙と戸惑いをいっぱいに溜めた目でグニドを見やる。その眼差しが、グニドには応えた。
『そこをどけ、ルル』
『いやだ! ルルがどいたらスエンが死んじゃう!』
『そいつは決闘に負けたんだ。戦いに敗れた者は死ぬ。それが決まりだ』
『しらない! ルルはそんなのしらない! どうして? どうしてそんなひどいことするの? グニドはスエンが死んじゃってもいいの? ルルのしってるグニドは、そんなことしない!』
幼い瞳から大粒の涙を零しながら、ルルは叫んだ。その悲痛な叫びが洞窟いっぱいに谺して、四方八方からグニドに突き刺さってくる。
――だが、こうするしかないのだ。
グニドは何とか冷静になってルルにそう伝えようとした。
しかし頭の中が空っぽになったようで、上手い言葉が見つからない。
何と言えばこの生きた兎のようにやわらかで汚れを知らない子供を傷つけず、真実を伝えることができるだろうか?
そう考えてグニドが言葉を失っている間に、ルルは予想外の行動に出た。
瞳には涙を溜めたまま体を起こし、しかし腕にはスエンの巨体を抱いて、詠う。
「――アメル・バティアン・ハイネ」
夜光石の光よりも青い光が波紋のように広がり、風を生んだ。
かと思えばその光は瞬く間にスエンを包み込み、薄い膜のように彼の鱗を発光させる。
ルルの胸で神刻が輝いていた。目を見開いたグニドの眼前、そこで光に包まれたスエンの傷が少しずつ塞がろうとしている。
『ルル!』
衝動的に、グニドはルルの腕を掴んだ。
そのままルルをスエンから引き剥がそうとする。だが驚いたことに、ルルはグニドの身長の半分ほどしかないその小さな体で、大の竜人の膂力に抗った。
『やだ、やだ! はなして!』
『余計な真似をするな! スエンを生かして帰すわけにはいかないんだ!』
『そんなのしらない! ルルはスエンをたすける!』
『ルル!』
『――あっちにいって!!』
刹那、グニドの懐でバチン!!と何かが激しく弾けた。
その衝撃をもろに受け、グニドはその場から吹き飛ばされる。
信じられない力だった。グニドはビリビリと帯電する自身の鎧に目をやって、それから茫然とルルを見た。
ルルの長い鬣が生き物のように宙に浮いている。
雷の力だ。ルルがこんな力を使うところはグニドさえ見たことがない。
そのルルの金色の瞳が、まるで今までの彼女とは別人のように、怒りに燃えてグニドを見ている。
『きらい』
『何?』
『スエンにひどいことするグニドなんて、きらい!』
『ルル』
『そんなの、ルルの大好きなグニドじゃない! これ以上スエンにひどいことするなら、ルルはグニドをゆるさない! グニドとはいっしょにいかない!』
彼女の、竜人では考えられないほど澄んだ声は、ときに武器だなとグニドは思った。
その叫びは錐のように鋭い刃となってグニドを突き刺す。同じメスであるエヴィやイダルの声を、こんな風に感じたことはなかった。
ルルはその鬣の一本一本にまで怒りという名の命を宿したように、憎悪さえこもった目でグニドを見ている。
グニドはそんなルルをしばらく見つめたあと、
『……そうか』
と呟いた。
そのままゆっくりと踵を返し、歩き出す。
重い足音が洞窟に反響し、やがて遠くなる。
ルルはグニドの大きな背中が闇の向こうに消えるのを、じっと見ていた。
その背中がついに見えなくなり、足音さえ消えてしまうと、瞳からぼろぼろと涙が溢れてくる。
『……っグニドのばかぁ!!』
腹の底からそう叫び、叫びながらぺたんとその場に座り込んでルルは泣いた。今までこんなに泣いたことはないというくらい、声を上げてわんわん泣いた。
グニドがきらいなんて、うそだ。
本当は今すぐ「行かないで」と追い縋って引き止めたい。
けれどルルにも意地があった。
スエンはグニドの友だちかもしれないが、ルルにとっても大切な友だちだ。
だから、このまま置いてはいけない。
ルルはなおもぼろぼろと泣きながら、血塗れになって倒れているスエンを見やった。
そうして改めてその傷に手をかざし、〝水の声〟にお願いする。
「水よ、彼を癒せ」
と。
途端に一度は途切れた光が、再び息を吹き返してスエンを包み込む。
スエンの腹の傷はみるみる塞がり、あんなにひどかった出血がもう止まり始めた。
だがこれを見て慌てたのは、他ならぬスエンだ。
『おい……おい、おい、おい、おい!』
想像を絶する痛みでそれまで朦朧としていたスエンだったが、ルルの力がその痛みをやわらげたことでようやく意識が覚醒した。
そこで事態を把握した彼はむくりと起き上がり、すかさずルルの腕を掴む。まるで枝切れみたいに細い腕だ。
たぶん、スエンが大竜刀を握るのと同じくらいの握力で握ったら、こんなのは簡単に折れてしまう。
『おいチビ助、やめろ! 余計なことすんじゃねえ!』
『な、なにが? ルルは、スエンのけが、な、なおす、だけだもん』
『それが余計なことだっつってんだ! 誰が傷を治せなんて言ったよ!? んなこたいいから、さっさとグニドのあとを追え! でもってそのままどっかに行っちまえ!』
『い、いやだ! グニドなんて、もうしらない……ルルはスエンといっしょにいる!』
『――ふざけんな!!』
眉間を歪め、いよいよ怒りを露わにしてスエンは吼えた。途端に激痛が彼を襲ったが、今はそんなことにかかずらっている場合ではない。
吼えた拍子に血飛沫が飛び、それを浴びたルルが一瞬怯んだものの、それさえもどうでも良かった。
ぜえぜえと荒い息をして、それでもなおスエンは吼える。
『てめえ、グニドが何のために同胞殺しなんて大罪を犯したと思ってる? 全部てめえを守るためだ! てめえはその恩を仇で返そうってのか!? あんまりふざけたこと抜かすと喰い殺すぞ、ガキ!』
『な、なんでっ……なんでスエンが怒るの? グニドはスエンにひどいことしたんだよ? ルルは、ルルには、わかんないよ!』
『分かんなくてもいいから、さっさとグニドのあとを追え! そして二度と戻ってくんな!』
『い、いやだ! だって、このままじゃスエンが――』
『――オレの兄弟の覚悟を虚仮にするんじゃねえ!!』
スエンの咆吼が、狂気を帯びて大地の肚を震撼させた。
その目は血走り、まるで飢えた獣のようにルルを見ている。そのときになって初めて、ルルはスエンに恐怖を感じた。
『おい、いいか。てめえ、もう一度オレの言うことに逆らってみろ。次は本当に喰うぞ!』
『す、スエン……』
『グニドはな、あいつは、てめえのために巣も群も、戦士としての誇りも捨てたんだ! てめえにゃその覚悟が分からねえのか!? オレたち戦士にとって、誇りを捨てるってこたぁ死ぬことと同じだ! てめえは、それを……!』
叫ぶだけ叫び倒してから、スエンは更にぜえぜえと喘いだ。
傷が燃えるように熱い。こんな大怪我をしたのは生まれて初めてだから、あまりの痛みに体が呼吸の仕方を忘れている。
それでも、これだけはやり遂げねばならない。
スエンは再び意識が朦朧とし始めるのを感じながら、なおも力の限り咆吼する。
『とにかく、何でもいいからさっさと行けって言ってんだ! それとも、今ここでてめえを丸飲みに――オフッ!?』
ところがその瞬間、スエンは横面にすさまじい衝撃を受け、そのまま真横へ吹き飛んだ。
ごろごろと硬い岩の上を転がり、またしても仰向けに倒れたところで止まる。
やべえ。
死ぬ。
『おい。汚い手でルルに触るな。汚れるだろうが』
『ぐ……グニド、てめえ……!』
ぐわんぐわんと脳を揺さぶられ、更に朦朧とした意識の中でスエンは呻いた。
そうして辛うじて首をもたげ、見やった先にはグニドがいる。彼はスエンからルルを庇うように超然と佇み、たった今スエンを殴り飛ばした尾を地面に波打たせている。
『な……なんで、てめえがここに……』
『抜け道の入り口を開けてきたんだ。そうすればお前の血の臭いを嗅ぎつけて、すぐにイドウォルの手下が来る』
『あんだとぉ?』
グニドが何を言っているのか理解できず、スエンはぐらぐらとする頭で聞き返した。
するとグニドは一瞬だけ考え込むように尻尾を揺らしたあと、軽くルルの腕を引いて言う。
『ルル、スエンの傷を治せ。だが途中までだ。全部治したらいけない。せいぜい血が止まる程度だな』
『おい、グニド。てめえ、何を考えてる?』
突然前言を翻したグニドに、わけが分からないままスエンは尋ねた。
そうする間にも、グニドを振り返り振り返りしつつ走り寄ってきたルルがスエンの傍らに膝をつく。その表情にはスエンと同じ戸惑いの色があったが、それでも彼女は言われたとおりスエンの傷を癒し始めた。
『スエン。お前はイドウォルの手下が来たら、死んだふりをしろ』
『はあ?』
『死んだふりなら得意だろ。昔もよく砂漠の大蛇に襲われたときは死んだふりをしてた』
『う、うるせえ! あれは死んだふりじゃなくて、吹っ飛ばされて気ィ失ってただけだ!』
『どっちでもいい。とにかくそのまま巣に運ばれるのを待って、地上に戻ったら生き返れ。そして息も絶え絶えにこう言うんだ。――〝グニドは迷わずオレを殺そうとした〟と』
そこまで言われれば、さすがのスエンにもグニドの言わんとしていることが分かった。グニドが何を望み、何を考えているかなんて、彼の隣の卵から生まれたスエンには手に取るように分かるのだ。
だから驚きに目を見開いていると、そんなスエンを見てグニドは笑った。
ああ、忌々しい。
あれは同じ年に生まれたくせに、スエンに対してアニキ面するときの顔だ。
『イドウォルはおれを殺すことはもとより、群の中でおれの声望が落ちることを何より望んでいるだろう。そうしなければ一族の皆がイドウォルについてこない』
『……だから〝兄弟殺し〟の汚名まで被るってのか』
『実際にお前を殺す気で斬ったんだから、事実さ。お前がおれの声望を落とすような証言を繰り返せば、イドウォルはお前に利用価値を見出だしてむしろ生かそうとするだろう。あいつはそういうやつだ。だからお前はおれに裏切られた、失望したと、皆の前で言い続ければいい』
『グニド』
『お前が死ぬほどの傷を負ったのも事実だ。おれを陥れ、代わりに自分の声望を上げるために、イドウォルはエヴィを解放する。それですべて丸く収まるはずだ。あとはエヴィと達者でやれ』
『グニド、てめえは』
『おれはもう群には戻らない。だから、これでいいんだ』
スエンは返す言葉を失った。そのままもたげていた首を地に落とし、岩の天井を見上げた。
何だか目の奥がジリジリするが、それはたぶん傷のせいだ。
そう思うことにする。
『……バカヤロウが』
『お前ほどじゃないさ』
スエンが足を向けた先で、グニドは笑ったようだった。
やがてルルによる傷の手当てが終わる。確かに血は止まり、痛みもずいぶんマシになった。
それでもまだとても動けそうになかったが、たぶん死ぬことはないだろう。
スエンは自分の頑丈さに自信がある。そしてそれをグニドも知っている。
『それじゃあ行くぞ、ルル』
スエンの傷の具合を遠目に確かめて、グニドは言った。
ルルはなおも困惑している様子だったが、グニドの口調が穏やかだったからだろうか。今度はスエンを振り返り振り返りしながらグニドへと走り寄っていく。
『――おい、待てよ』
そのまま二人の足音が遠ざかっていこうとするのを聞いて、スエンは仰向けに倒れたまま言った。
二人の足音が止まる。その沈黙に促され、スエンはフーッと鼻からため息をつきながら、言う。
『ここからもう少し先に行った、岩の陰』
『何?』
『そこに、オレがトンズラするときのために持ってきた荷物がある。そいつを持ってけ』
『スエン』
『そんなモンが見つかったら、せっかくの計画が台無しだからな。じゃ、これからオレは死ぬんで』
そう言ってスエンは目を閉じた。二人の足音がまた遠ざかっていく。
やがてその足音は、スエンが荷物を隠した岩のあたりで止まった。
ごそごそと袋をあさる音がする。ややあって、ルルが『ふわあ! ドライフルーツ!』と歓声を上げているのが聞こえた。
しばらく布擦れの音が止まる。
やがてグニドが、荷物を背負った気配があった。
『礼を言う、スエン』
遠くからそんなグニドの声が聞こえたが、スエンは死んでいるので何も答えなかった。
やがて二人の足音が再び響き始める。
一つはのしのしと。
一つはぺたぺたと。
まったく竜人と人間の二人旅なんて、変な組み合わせだ。
そんなものは前代未聞。捕食者であるはずの竜人と、その餌であるはずの人間が共存するなんて絶対に有り得ない。
だがあの二人ならきっと大丈夫だろうと、スエンは薄目を開けながらそう思った。
『あばよ、兄弟』
やがて二つの足音は、長い長い洞窟の先へ遠のいて、聞こえなくなった。