第一二九話 天使か悪魔か
『……んう?』
と、その日、砂の混じった砂漠の風に鼻を突っ込んで、スエンルフはガジガジと未練がましく人骨に囓りついていた手を止めた。
『どうかしたの、スエン?』
『いや……なんか、今、ルルの声がしなかったか?』
『何ですって?』
と、隣で骨の墓場の縁に座り込み、肉片や髄の残った骨はないかとガサゴソやっていたエヴィティスもまた、手を止めて空を仰ぐ。
砂漠の外ではちらちらと雪の舞う季節。
にもかかわらず、今日も今日とて乾いた死の谷の上空は雲ひとつない快晴だった。その空を見上げてじっと耳を澄ましながら、数瞬ののち、エヴィティスはすうっと眼を細める。
『……不思議ね。あたしには声は聞こえないけど、何だかルルがすぐ傍にいるような気がするわ。今、風にあの子のにおいが混じらなかった?』
『え? そうか? ってこたァ、もしかしてグニドのやつが戻ってきたとか?』
『まさか。仮にあいつが帰ってきたんだとしても、ルルを連れて戻るとは思えないわ。今の谷にあの子を連れてくるのは危険すぎるもの』
『あー、まあ、だよなあ……オレでさえ今、ルルを目の前に連れて来られたら、一目散に飛びついて頭から食っちまうかもしれねえし──いてっ!』
と、直後にエヴィティスが投げた何かの骨が、見事スエンルフの額に直撃した。理不尽な暴力に晒された彼は、相変わらずスクムの実の粘液でばっちり固めた鬣を逆立てながら『何すんだよ!』と憤慨している。が、エヴィティスは取り合わず、もう一度真っ青な空に向かって首を伸ばした。そうして二、三度スンスンと風のにおいを嗅いでから、やっぱり気のせいかしら、と頭を傾げる。
(まあ、そうよね。グニドやルルがこんなところにいるわけない……でも、ふたりとも、きっと今も無事でいるんだわ。そんな気がする)
そう思いながら、エヴィティスは記憶の中のふたりに語りかけるようにグルル、グルル……と喉を鳴らした。同じ頃、ルエダ・デラ・ラソ列侯国で遊んでいた子供たち、無名諸島で暮らすラナキラ族の長や鰐人族の巫女、そして傭兵と共に遥か北の地を旅する海の国の魔女もまた、何かに呼ばれたように空を見上げていたことを誰も知らない。
〔ああ……ルルアムス。《世界の深淵》にいるのですね〕
深い深い密林の奥、緋い髪の女人蛇はそう呟いて微笑んだ。
さざめく木々が奏でる音色は、まるで大地の歓呼のようだ。
×
「チュウ……だけどシエンティア学長がご無事で本当によかったわ。うちはセムおじさまがエルビナ大学の教員だったこともあって、学長には本当にお世話になったもの。ラッティさんたちが偶然連合国に立ち寄ってくれてなかったら、きっと大変なことになってたわね」
「ああ……今回は本当に幸運だった。これぞ運命神のお導きってやつさ。グァンデの伯父貴の商館も奇跡的に何の被害もなかったし……」
「……ま、そこはオイラの日頃の行いがいいからな。オイラがたまたまアルビオンに帰ってきてたおかげで、おまえさんたちもその恩恵に与れたってわけだ。まったく感謝してほしいぜ、チュチュチュ!」
「はあ、よく言うわよ。近所で爆撃があったと知るや否や、泣きベソかきながら実家に飛び込んできたくせに」
「チュチュチュ、だよな! こないだラッティたちに連れられて帰ってきたときは伯父貴と大喧嘩したって聞いてたのに、昨日帰ってきたときの第一声は〝オヤジィ~!!〟だったしな」
「う、うるさいうるさい! あんときはオイラも動転してたんだよ! まさか教団がマジでテロを仕掛けてくるなんて思わなかったんだからしょうがないだろ!」
「はいはい。とはいえこれに懲りたら、今後はもう少し真剣に親孝行を考えなさいよ。幸い今回は何ともなかったけど、父さんも母さんもそろそろ何があってもおかしくない歳なんだから」
「うむ……アルンダの言うとおりだぜぃ、ヨヘン。それでなくても連合国は今、こんな情勢だ。おれらの親世代がみんないい歳だってのも含めて、この先何が起こるか誰にも予測できない。何せあのマギステル教授でさえ事件を読み切れなかったんだからな。おれっちはおまえさんの夢を否定するつもりはないけどよ、まだまだ冒険家業を続けるつもりなら、親に会えるのは今回が最後になるかもしれないって覚悟を常にしておけよ。『失って時神を恃む』の故事にならんようにな」
「……」
そんな会話が、ぼんやりと砂がかったような意識の向こうで聞こえていた。初めはずいぶん遠くから聞こえてくるな、と感じたが、声は徐々に近づいている。否、声が近づいてきているのではなく、ここではないどこかへ行っていたグニドの意識が少しずつ、少しずつ、本来あるべき場所へと戻りつつあるのだ。
(ヨヘン……? それに、この声は……アルンダとスジェか……?)
ようやく輪郭を取り戻した思考が言葉となり、ぽつりと頭の中に浮かぶ。と同時にグニドはまだ眠っていたいとごねる瞼をどうにか持ち上げ、何度か瞬きをした。するとぼやけていた視界が次第に鮮明になり、たった今、自分の置かれている状況が少しずつ分かってくる。
この一面白と青ばかりの空間は──マグナ・パレス、だろうか?
とすれば何やら腹の下にあるふかふかした感触は、布の中に大量の鳥の羽根を詰め込んで作られたというマグナ・パレスの寝台か。
どうりですこぶる寝心地がいいわけだ、と思いながら、グニドは全身を包み込むふかふかに身を任せ、再びまどろみそうになった。が、そこではっと覚醒し、がばりと首を持ち上げる。そうしていかん、いかんと必死に首を振ったところで、すぐ傍から息を呑む声がした。
振り向けば、視線の先には真ん丸に目を見開いたルルの姿がある。
どうやらぴったりと寝台に寄り添って、グニドが目覚めるのを待っていたようだ。さらに彼女の後ろに見える寝台ではラッティが眠っており、その枕もとに集まった鼠人三人衆もぎょっとした様子で固まっていた。対するグニドはそんな四人へ順に視線をくれてから、堪え切れずにふわあと大きなあくびを漏らす。次いでぶるぶるともう一度頭を振ったところで、ようやく意識がはっきりしてきた。
『ルル。お前、無事だったか』
『ぐ……ぐ……グニド……グニドぉ!』
そう叫ぶが早いか、しばしの放心から我に返ったルルは跳ねるようにしてグニドへ抱きついてくる。同じくその声ではっとしたらしい鼠人三人衆も「まあ!」とか「うおおおおおお!」とか騒ぎ始めた。
正直、うるさい。
「グニド! おまえさん、やっと目ェ覚ましたか! 心配させやがってコノヤロー!」
「ムウ、ヨヘン……オマエ、カゾク、ドウダッタカ?」
「アテシたちなら大丈夫よ、グニドさん。幸い鳥来祭に合わせて、親族みんな商館に集まってたおかげで大した被害はなかったの。住んでた家が運悪く燃えちゃった親戚はいたけど……」
「まあ、そこは命あっての物種だしな。被害に遭った市民には近く国から支援が入るし、うちは親族も多いから、みんなで支えてやれば何とかなるさ。にしても、あんただけずいぶん早いお目覚めだな。モルタ族長からは、意識が戻るまで早くても二、三日はかかるだろうと聞いてたんだが」
「……モルタ?」
「口寄せの郷のマギサ・モルタ族長だよ! おまえさんたち、オイラがちょっと実家に帰ってる間に族長とお近づきになったんだってな? 羨ましすぎるぞ、チューッ!」
と、ヨヘンは何やら憤慨しているものの、寝起きの頭では情報を処理し切れず、グニドは重い瞼を再び瞬かせた。
そうしながら、自らの首に縋って泣くルルの髪を撫でてやり、順を追って思考を整理することにする。
「ムウ……オレ、ドレクライ、眠ッテタカ?」
「丸一日よ。他の皆さんはまだ目を覚ます気配はないけど、数日眠れば自然と回復するから問題ないとモルタ族長がおっしゃってたわ」
「フム。デハ、サヴァイハ、ドウナッタ?」
「おかげさまで学長もご無事だよ。今はご家族と一緒に別宮で保護されてる。しばらくは絶対安静だが、命に別状はないそうだ」
「ソウカ……ヨカッタ。ルル、オマエ、ヨクヤッタ。オ手柄、ダ」
『ぐすっ……ちがうよ。サヴァイがたすかったのは、グニドたちのおかげだよ。あのとき、ルル……ルルね、クワトだけじゃないの。みんなの声、きこえたの』
『む?』
『グニドたちの、こころの中の声……みたいなのが、ずっとずっと、きこえてた。みんな、すごく、くるしいのに……なのに、がんばれ、がんばれ、って、ルルに言ってくれた』
『ルル』
『みんなが、ルルのこと……だいすきだよ、って、言ってくれてるのが、わかったの。だから、ルルはがんばれたんだよ……ありがとう、グニド』
そう言ってしゃくり上げるルルを見ながら、グニドはしばし呆気に取られた。儀式の最中、グニドたちの心の声が聞こえた、ということは、ルルも一時的にユニウスと同じ『聲』を聞く能力を得たということだろうか?
(ふむ……しかし、ありえない話じゃないな)
実際希法陣が生み出す〝道〟によってつながれたグニドたちは、言葉が通じないはずのクワトとも会話ができた。
あれと同じ原理で、皆の『聲』がルルの中へ流れ込んだのだとしても不思議はない。ゆえにルルは儀式の間、あんなにも泣きじゃくっていたのか。グニドはてっきり万霊刻がもたらす苦痛のために泣いているものとばかり思っていたから、そうではなかったのだと知って拍子抜けする反面、安堵してグルルル……と喉を鳴らした。
『そうか。だが、ルル。そもそもお前がいなければ、ここにいる誰もサヴァイを救うことはできなかったんだぞ。つまり、あいつのために一番頑張ったのは間違いなくお前だ。だから胸を張って誇っていい』
と、そう告げたグニドが改めて頭を撫でてやれば、ルルは涙まみれの顔中をくしゃくしゃにして頷いた。そうしながら再び首もとに抱きついてきたところを見る限り、少なくともルルの体には何の異常もないようだ──よかった。幼い彼女の体では儀式の負荷に耐えられないかもしれないと、初めにマギサから聞かされたときはどうなることかと思ったが、結果的にルルもサヴァイも無事であったなら、グニドも魂を差し出した甲斐があったというものだ。
もっとも、やはり魂を削り取られた代償は大きく、意識こそ戻ったものの体はまだ動かなかった。無名諸島でマドレーンに魂を半分取られたときと同じ状態だ。辛うじて動かせるのは首と手と尻尾の先だけで、胴は鉛を流し込まれたように重い。
両脚に至っては感覚がなく、どれだけ力を込めようとしても、まるで自分の体ではないかのように言うことを聞かなかった。
「グゥ……コレ、治ルマデ、何日モ、カカルカ? ソノ間、オレ、寝タキリカ?」
「あー、そういや前回は鰐人族の霊術師が魂の欠損を補修してくれたんだっけか。頼めば口寄せの民にも同じことができそうだけど、どうだろうな?」
「うーん。そいつはマギステル教授あたりに聞いてみないことには何とも言えないが、あの人も今はマグニ狩りに駆り出されてるからな。しばらくは掴まらないかもしれないぜぃ」
「ム……? マグニガリ?」
「ああ……実は昨日のテロで、さすがにこれ以上アイテール教団を野放しにしておくわけにはいかなくなってな。取り急ぎ、アルビオン市内に潜伏してる教団員を炙り出して、身柄を押さえることになったんだ。街はもう新年祭どころじゃないし……こうなっちまったからにはしょうがないよな」
と、難しい顔をして腕を組んだのは、今日も今日とて内務官の装束に身を包んだスジェだった。聞けば昨日、アルビオンに次々と落下していった飛空船は、やはりアイテール教団が街を攻撃するために墜落させたものであったらしい。おかげで巻き込まれた人々の中からは、少なくない数の負傷者が出た。が、不幸中の幸いだったのは、アルビオン市民からはひとりの死者も出なかったことだ。
あれほど派手な爆発が街のあちこちで起きたにもかかわらず死者がいないというのは信じ難い話だが、何でもあのとき、街にはマギサが率いてきた口寄せの郷の魔女たちが大勢現れていたらしい。彼女らは教団によるテロに備えて、飛空船が降ってくる前から街のあちこちで身を潜めていた。そしていざテロが始まると船の落下地点にいた人々を希術で守り、街への被害も最小限に留めてくれたのだという。
「いや、正直モルタ族長の英断がなかったら、今回ばかりはやばかったよ。負傷者ってのも大半は爆撃によるものじゃなく、テロによる混乱で逃げ惑った市民がぶつかったり転んだりした事故によるものだったしな。ま、船を操縦してきたと思われるアイテール教徒は、全員漏れなく肉片になっちまってたが……」
「ムウ……ダガ、マドレーンハ、テロ、アルカドウカ、ワカラナイ、言ッテイタ。シカシ、他ノ魔女ハ、テロガアルコト、知ッテタカ?」
「まあ、厳密に言うと知ってたわけじゃあないが〝可能性は極めて高い〟という判断で動いてたらしい。というのもな、マギステル教授が新年祭の前に行った口寄せは途中で妨害されたって話だったろ?」
「ウム。マドレーン、確カニ、ソウ言ッテイタ」
「アレな。普通、魔女の口寄せを邪魔するなんて芸当ができるのは同じ魔女だけなんだよ。だから教授は口寄せの郷の誰かが教団に加担してるんじゃないかと疑って、モルタ族長に事前に報告してたんだそうだ。ま、実際に妨害してたのは口寄せの郷の魔女じゃなくて、劇場でユニウス様を襲った自称天使だったみたいだが」
「天使……トハ、イヴ、ノコトカ?」
「うむ、どうもそう名乗ってたらしいな。ヤツのせいでアルビオンは今、大混乱さ。何せヤツが教団のテロを手引きするために現れたのは誰の目にも明らかだろ?」
「ム?」
「つまり天使がユニウス様を襲ったのは、テロを阻止しようとしてたマドレーン先生を劇場に誘き出すためだったってことだよ。現にヤツは劇場に先生が現れた途端標的をルルに切り替えて、ユニウス様には見向きもしてなかったろ? おまけに教団の攻撃が始まったのも、先生が劇場に駆けつけた直後だ」
「ムウ……デハ、イヴハ、マグニノ仲間、カ?」
「現状、そう考えるのが一番しっくりくるよな。でもってたとえ〝自称〟でも、天使がアイテール教団の味方についたってことが知れ渡っちまったのが問題なんだ。何せ天使ってのは神々の使いであって、その天使サマが公衆の面前で〝博愛の神は堕天した〟と宣言したんだからな」
と、なおも難しい顔をしながら、スジェは悩ましげに頭を掻いた。
〝堕天〟とはすなわち、神々の国である天界を裏切ったというような意味の言葉らしい。言われてみれば確かに昨日、イヴはそんな風な話をしていた。エハヴは博愛という甘い言葉で人々を騙し、神に背かせようとしている。ゆえにエハヴの神子であるユニウスはもちろん、かの神を信奉する者たちも裁かれなければならない、と。
(ううむ……仮にイヴの話が本当なら、ユニウスとアイテール教団の立場はひっくり返る。神々が〝正しい〟と認めたのは教団の方であって、ユニウスは人類を騙し、破滅させようとしているという噂が広まれば事態はさらに悪化するだろう。おれにはユニウスがそんなことを企んでいるとはとても思えないが……エマニュエルの人類の大半は、あの〝神〟と呼ばれる連中を信仰の対象にしているわけだからな)
そう考えると、実に厄介なことになった。何せ昨日のイヴの発言の一部は、ユニウスの演説のために用意された伝声器を通して街中に流布されてしまったのだ。めでたい祭の真っ只中に飛空船が降ってきたというだけでもとんでもないことなのに、そこへあんな話を聞かされたなら、人々が当惑するのも無理からぬことだろう。
実際、ヨヘンたちの話によれば、アルビオンではユニウスを信じようとする者と疑心暗鬼に陥る者との間で早くも対立が起きているらしい。ユニウスはひとまず民の安全を守ることを第一として行動を起こしているものの、市民からは「まず状況を説明しろ」という厳しい声が上がり始めているという。
「今はとにかく街の被害状況を把握しつつ、アイテール教徒と市民の接触を防ぐのが最優先なんだけどな。市民の中にはそれを〝国が急いでアイテール教徒を隔離して、真実を隠蔽しようとしている〟なんて言ってるやつもいるらしい。だからと言って市中にいる教団関係者を放置すれば、不安や憎悪に駆られた市民が暴走して私刑を始める可能性もあるし、ほんともう、あちこちしっちゃかめっちゃかだよ」
「ムウ……ソウカ。デハ、マグニヲ捕マエルハ、罰ノタメ、デナク、マグニヲ守ルタメ、デモアルカ」
「ああ、少なくともユニウス様のお考えは後者さ。教団側はコレを待ってましたと言わんばかりに〝弾圧だ〟とか〝信仰の自由の侵害だ〟とか騒いでるけどな。まったく、あの方の気も知らないで……どいつもこいつも好き放題言いやがる」
「スジェ……」
「はあ……いや、悪い。とにかくそういうわけで、おれっちも毒抜きはこれくらいにして仕事に戻るわ。グニドが目を覚ましたことは、おれっちからユニウス様に報告しとくよ。マギステル教授にすぐ来てもらうのは難しいにしても、せめて宮医くらいは呼んで体の状態を診てもらった方がいいだろ。つーわけでそろそろ行くぞ、ニスト」
ところが刹那、頭の上の帽子をぎゅっと押さえたスジェが自分の後ろに向かってそう呼びかけるのを聞き、グニドは「ム?」と振り向いた。するとそこにはスジェの補佐官であるニストの姿があり、思わず「オォ……!?」と驚いてしまう。相変わらず彼はまったくの無口で、スジェに呼ばれるまでは物音すら立てなかったので、ずっと背後を取られていたことにまるで気づかなかった。
が、どうやら彼は彼で、グニドの後ろの寝台で眠るクワトの様子を看てくれていたようだ。呼ばれて立ち上がったニストは一度、グニドに向かってぺこりと一礼すると、ほどなくスジェを肩に乗せて客室をあとにした。しかし寡黙すぎて何を考えているのか分からないニストとは裏腹に、スジェはだいぶ疲労困憊していたように見える。
恐らく昨日の事件の直後から、マグナ・パレスの関係者として休む間もなく対応に追われているのだろう。
「ムウ……スジェ、大丈夫カ?」
「あー、大丈夫か大丈夫じゃないかで言ったら、たぶん大丈夫ではないな。それでなくともあいつは昔からユニウス様に心酔してるし、今の状況は精神的にもかなりこたえてると思うぜ。まあ、あのイヴとかいうエセ天使の言うことはさすがに信じてないと思うが……」
「……エセ? エセ、トハ、ニセモノ、トイウ意味カ?」
「そうだよ。だってあんなおっかない嬢ちゃんが本物の天使なわけないだろ。そもそも《神々の眠り》以来、地上に天使が現れたなんて話は聞いたことないし、エハヴ神が堕天したとかいう話もあまりに信憑性がない。何せそいつが本当なら、全智神の神子だった天帝が知らなかったわけがないからな。だが天帝は《愛神刻》を宿して生まれたユニウス様をずっと溺愛してた。天空神とコル、ふた柱の神に選ばれた人間が、堕天した神の子を愛でるだなんておかしな話だろ?」
「ムウ……ソウダナ。神ハ、エハヴヲ、憎ンデイル。ナラバ、ユニウスガ生キルコト、許サナカッタハズダ」
「うむ、オイラもそう思う。いくら《愛神刻》の能力が有用だったからって、天界を裏切った神を野放しにするなんて、ふた柱の神を宿す天帝にとっちゃ危険すぎるしな。つーか実際野放しにした結果、天帝は革命を起こしたユニウス様に討たれちまったわけだろ?」
「うーん……だけど、兄さん。だとしたらエハヴ神が堕天したのは、ユニウス様が革命を決意されたときだったって可能性もあるんじゃない? だから天帝は事前に危険を察知できなかったと考えれば、一応辻褄は合うと思うけど」
「まあ、確かにそういう可能性も否定はできないが、だったらなんで天使はそのとき地上に現れて連合軍に真実を知らせなかったんだ、って話だろ。〝エハヴはユニウスを操って天帝ごと神を打倒し、人類を破滅に導こうとしてる〟と触れ回れば、あの大戦を止められたかもしれないんだぜ? 神々としては、ふた柱の神を宿す天帝を堕天した神の子が討ち果たすなんて言語道断の結末だったはずだ。現に《識神刻》と《天神刻》は天帝の死後、行方知れずになっちまったわけだしな」
ヨヘンがいつもの身振り手振りを加えてそう話すのを聞き、アルンダはさらに難しい顔をして考え込んだ。だがヨヘンの言うとおりだ。
昨日のイヴの話を正として考えると話の筋道が立たず、疑問が次々湧いてくる。ということはアレの言うことは、やはりこちらを混乱させるためのでまかせだったのではなかろうか。ユニウスを宗主の座から引きずり下ろしたいアイテール教団としては、連合国の民が彼を疑い、見放すような状況になれば願ったり叶ったりであるはずだ。ゆえにイヴに天使を騙らせ、民の間に疑惑の種を撒いたのだとしたら?
(……なるほど。あるいはそれこそが教団の仕掛けた本当の〝テロ〟かもしれないな)
グニドはようやく泣き止んだルルを抱き寄せながら、今度は低くうなるようにグルル……と喉を鳴らした。大勢の市民が暮らす都に飛空船を墜とすなどという前代未聞の悪行を厭わないことから考えても、アイテール教団とはあまりに邪悪で残虐な連中だ。
だのにユニウスは、未だに彼らをも守ろうと動いている。どんな非難に晒されても愚直に人の善性を信じ、逃げずに矢面に立ち続ける彼が、堕天した神と共に人類を破滅へ導こうとしている、だって?
そんな戯れ言はクソ喰らえだ。
グニドは叶うことなら今すぐユニウスのもとまで駆けていき、おれはお前の味方だ、と伝えたかった。しかしやはり体は動かず、起き上がろうにもモダモダと寝台の上でもがくことしかできない。
グニドは己のあまりの無様さに、がっくりと肩を落とした。
が、スダトルダ兄妹は議論に夢中でグニドの傷心には気づいていないらしく、なおもラッティの枕もとでチューチューと騒いでいる。
「だけど、だったらあのイヴって子は一体何だったの? エクターさんの話では、彼女は神術や転移術を自在に操ってたんでしょう? おまけに幽霊みたいに実体がなくて、翼を消したり生やしたり、自由に姿形も変えられるみたいだったって……」
「んなもんオイラが知るかよ。少なくとも人間じゃなかったことは間違いないが、でも〝だから天使だ!〟とはならないだろ。大方、マグニどもが自分たちの主張の正当性を演出するために生み出した幻か何かだったんだろうさ。希石を使えば、ただの人間にもそのくらいのことはできるだろうし……」
「確かに希術を使えば幻を創り出すことも不可能じゃないけど、宗主演説を聞くために集まった何百人もの聴衆をまとめて術にかけるだなんて、一般に流通してる希石の出力じゃ無理よ。第一、彼女の存在がただの幻だったなら、マギステル教授の口寄せを邪魔したのは誰だったっていうの?」
「うッ……そ、それは──」
「──アレは人のかたちをした災いです。それを天使と呼ぶか、悪魔と呼ぶか、はたまた魔女と呼ぶかは汝らの信ずるもの次第。もっともアレを創り出した者たちは『擬人』と呼んでいましたがね」
ところが刹那、部屋の片隅から突如上がった女の声に、一行はぎょっとして固まった。そうして全員で顔を見合わせたのち、恐る恐る声の聞こえた方角を振り返る。
次の瞬間、ヨヘンが「ヒエェェ……!」と情けない悲鳴を上げるのをグニドは聞いた。かく言うグニドも改めて背筋がぞっとする。何故ならそこには、深黒の長衣に身を包んだ深淵の魔女が佇んでいた。
今日も今日とて音もなく気配もなく現れた彼女の瞳は黄金に輝き、寝台の上のグニドとルルとを、ひたと見つめている。
いつもご愛読ありがとうございます。作者の長谷川です。先日、活動報告の方でお知らせさせていただきましたが、このたび諸事情により、活動場所を「小説家になろう」から「Nolaノベル」へと移転させていただく運びとなりました。
つきましては本作の連載も、続きはNolaノベルで、ということになります。
中途半端なところで移転となってしまい大変申し訳ありませんが、場所が変わっても連載を追いかけるよ、と言って下さる読者様がいらっしゃいましたら、引き続き新天地でもよろしくお願い申し上げます。
なお、次回以降の更新はNolaノベルで行いますので、今後なろうで本作が更新されることはありません。1話から全話転載しているととてつもない時間がかかってしまうため、今のところ最新章のみの転載となっておりますが、続きが気になる方は下記URLから飛べる作品ページをチェックしていただけますと幸いです。
▼子連れ竜人のエマニュエル探訪記(Nolaノベル版)
https://story.nola-novel.com/novel/N-f02a8df3-361d-4e9f-8d1d-a12e2224f94a
長い間、大変お世話になりました。ありがとうございました!