第一二七話 深淵の魔女
※9.11を連想させる描写があります。苦手な方はご注意下さい。
音もなく気配もなく、忽然と現れたその魔女の顔立ちは、金の縁取りがなされた深黒のフードに隠れてグニドの位置からは見えなかった。
ただ、目深に下ろされた布地の下から唯一覗いた鼻は白い。
イヴと名乗った天使の肌にも劣らぬ、つくりもののような白い鼻だ。
千年も生きる魔女だというから、一体どんなしわくちゃの容貌をしているのだろうと思ったのに、外套から覗く指先にも目立った皺はひとつもない。
しかし不思議と彼女からは、イヴのような不気味さは微塵も感じなかった。
それは恐らく生き物が必ずまとうはずの、何かしらのにおいがまるでしないイヴとは違って、目の前の魔女からは深い深い森の奥で何百年もかけて濃縮されたような、草や土のにおいに近い何かを感じるからだろう。
「去ね、エオネスの落とし子よ」
ところがグニドが目を見開き、息を止めて彼女に見入っていると、血に濡れたように赤い唇が不意に動いて、波ひとつない凪の水面を思わせる声が響いた。直後、女は外套の袖からわずか覗く繊手をイヴへ向け、さらに未知なる言語を紡ぐ。
「滅せよ」
すると女の呼びかけに呼応するように、イヴの足もとの床がぼんやりと金色の光を発した。気づいたイヴがはっと目をやり、とっさに跳びのこうとしたときにはもう遅い。次の瞬間、彼女の足もとからにわかに突き出た光の槍が、真下からイヴを串刺しにした。先刻クワトに突かれたときは何の反応も示さなかったイヴの体が途端にびくりと大きく震え、甲高い絶叫が谺する。
「アァアアァアァッ!!」
おぞましい叫びを上げながら、イヴは己の胸をまっすぐに貫く槍を掴んだ。が、間を置かず彼女の肉体には幾筋もの亀裂が走り、中から黄金の光が漏れ出してくる。かと思えば一拍ののち、天使の体は儚げな音を立てて砕け散った。否、砕け散ったというよりは、無数の塵となって爆散したといった方がいいかもしれない。
「な……」
と、その光景を目の当たりにしたグニドらは絶句して、銘々茫然とする他なかった。血も流れなければ肉片が飛び散るわけでもない、あまりにも不可解な消失だった。代わりに残ったものはといえば、パラパラと音を立てて床に落ちた真っ白な石のかけらだ。それらはもとはひとつの石であったものが、イヴが消滅すると同時に粉々に砕けたらしく、真っ白な床の上にあってなお白くキラキラと瞬いていた。
「……あと二体」
と、かけらを見下ろした女がぼそりと呟いたのが聞こえる。彼女は床に転がるいくつもの破片にゆっくりと歩み寄ると、さらにサッと手を払った。
するとたちまち七色に揺らめく摩訶不思議な炎が起こり、白い石のかけらを呑み込んでしまう。赤だったり、緑だったり、紫だったり、身をくねらすたびに色を変える奇妙な炎はほんの一瞬、かけらを食らって狂喜したように大きくなるやあとは静かに縮んでゆき、最後は石の残骸ごと音もなく消えてしまった。
「た……助かりましたぞ、マギサどの。しかし、今の少女は一体……?」
ほどなく、イヴの消滅を確認したエクターが、ほっとした様子で細剣を鞘へ収めながら尋ねた。マギサと呼ばれた女はその声を聞くや、衣擦れの音ひとつ立てずにゆっくりと振り返る。そこでグニドは初めて悠久のときを生きる魔女の顔を見た。
彼女の肌はやはり、死の谷の洞窟に籠もって暮らしていた頃のルルと同じか、あれ以上に白い。肌理細かく、染みひとつなく、あまりに浮世離れした白さだ。
何より見る者の目を釘づけにするのが、何千、何万という夜を閉じ込めたように黒い瞳。じっと見つめられると魂を吸い取られてしまいそうな深淵が、ふたつの眼窩の中に収まっていた。
「……久しいですね、イーヘソラス。なれど今は、アレの正体について語らっている暇はない」
「え?」
相変わらず凪のごとき声色でマギサがそう答えた刹那、突然、廊下に並んだ窓の外からすさまじい爆音が聞こえた。
驚いたグニドらが慌てて駆け寄ってみると、白い壁が刳り抜かれただけの窓の向こうでは、幾筋もの黒煙と人々の悲鳴が上がっている。爆音は白都の至るところから上がっており、新年祭のために集まった大勢の見物客が逃げ惑っているようだ。
「お……おいおい、一体何が……」
「ら、ラッティ、あれを見て!」
と全身の毛を膨らませて叫んだポリーが指さしたのは、よく晴れた夏の空に浮かぶ一隻の飛空船だった。グニドたちがルエダ・デラ・ラソ列侯国から乗ってきた軍用船ほど巨大ではないものの、そこそこの人数を乗せられそうな中型船だ。その船が照りつける陽射しの中を、燃えながら向かってくる。船の舳先は明らかに地上を向いており、まるで速度を落とすことなく市街地へと突っ込んでくる──
「あっ……!」
瞬間、グニドらは揃って声を失った。
燃え盛る炎をまとった飛空船は一直線に地上の建物へと激突し、爆発炎上した。
同じ現象がアルビオンのあちこちで起こっている。街中に轟き渡る爆音は、いずれも空から降ってくる飛空船によって奏でられているようだ。
「そ……そんな……こんなことって……!」
「お……オヤジ……」
「え?」
「あ、あの煙が上がってる方角……オヤジの商館があるあたりだ。しかも今日は、一族中の親戚がウチに集まってる……スジェもアルンダも、セムのおっちゃんも、みんな──」
と、グニドの頭上で愕然と呟いたのは、長い尻尾を体に巻きつけ、耳を伏せたヨヘンだった。途端に皆がはっとする。そうだ。ヨヘンは他でもないアルビオンの出身であり、彼の家族や親類もまたこの街で暮らしているのだ。
「……っ! エクターさん! 申し訳ないんだけど、ヨヘンを連れてスダトルダ商館まで飛んでくんない? アタシらの方は自分たちで何とかするから……!」
「くっ……心得た。ユニウスさまの命に背くことにはなるが、非常事態だ。ヨヘンくんのことは我ら鈴の騎士が責任を持って送り届けよう。ラッティどの、貴殿らはすぐにユニウスさまと合流されよ。マギサどのやマドレーンどののお傍にいれば、ひとまずは安全なはず……!」
「ああ、そうさせてもらうよ。ヨヘン、アンタは先に家族のとこに行ってな! アタシらもあとで追いかけるから!」
「す……すまねえ、ラッティ……」
と、普段の彼からは想像もできないほど弱々しく呟いたヨヘンは、小さな体をぶるぶると震わせていた。グニドはそんなヨヘンをむんずと掴むや、自らの頭上からエクターが跨がる翼獣の鞍へと移動させてやる。ほどなく、グニドらの護衛についていた数名の鈴の騎士はエクターに率いられ、劇場の窓から一斉に飛び立った。その頃には既に街中を震撼させる爆音は止んでいたが、人々の恐慌は続いている。
劇場二階の窓から見渡せる限りの範囲でも、かなりの数の市民が逃げ惑い、泣き叫び、極度の混乱をきたしているようだ。
「こ、これって……これが、きっと……アイテール教団が予告していたテロ……なのよネ……?」
「ああ……連中、マジでやりやがった。下手したらまた戦争が起こるぞ」
「ど、どうして……どうしてこんなことに……っ」
「……とにかく今はエクターさんに言われたとおり、ユニウスさんと合流しよう。サヴァイさんのことも心配だし……」
と、横から告げたヴォルクの言に頷いて、グニドは街の惨状を凝視したまま震えているルルを抱き上げた。次いで、そういえばあのマギサという魔女はどうしているのかと振り向けば、さっきまで確かにそこにいたはずの彼女の姿は影も形もなくなっている。ぎょっとしてすぐにあたりを見回したものの、音もなく現れた魔女は音もなく消えたようだった。まったく、まるで蜃気楼のような女だなと唖然としながら、とにもかくにもグニドらはヴォルクの嗅覚を頼りに、ヴェンのにおいを追ってエクターが言っていた専用通路なる場所から一階へと移動する。
「──おい、ふざけてんじゃねえぞ。まさか軍人の俺より先に逝くつもりじゃねえだろうな? 返事しろっつってんだよ、サヴァイ……サヴァイ!」
まるで人気のないひっそりとした階段を駆け下り、さらにヴェンのにおいを辿っていくと、やがて一行はユニウスが演説をしていた〝舞台〟と呼ばれる空間の端に出ていた。その舞台の正面に広がる客席には、既に誰の姿もない。あれほどの群衆に埋め尽くされていたはずの広間が、すっかりがらんどうになっているのだ。
而して巨大な虚となった会場に先程から響いているのは、倒れたサヴァイの傍らに膝をつき、何度も彼の頬を叩くヴェンの声だった。さらに彼の周囲にはユニウスやマドレーンの他、会場の警備についていたらしい連合国兵の姿がある。が、グニドが何より仰天したのはそんな彼らの中に、ひとりだけ異様に黒々とした外見のマギサが佇んでいたことだ。一体いつの間に移動したのか、彼女はまるで初めからそこに居合わせていたかのように超然と眼下のサヴァイを見下ろしていた。
「マギサ、お願いだ。あなたの力で、何とかサヴァイを助けてほしい。僕にできることなら何でもするから……」
「……ユニウス。連合国の宗主たる者が、軽々しく〝何でもする〟などとのたまうものではない。第一、先にも言ったように、サヴァイ・シエンティアは魂ごと肉体を貫かれたのです。人の肉体の形とは、魂の設計図によって定められたもの……今のシエンティアは、その設計図ごと体を破られている。これは我々口寄せの民の力をもってしても、修復し得ぬ欠損です」
「そんな……」
力なく掠れた声でそう呟いたユニウスは、今にも膝から崩れ落ち、座り込んでしまいそうだった。グニドたちが駆けつけたことにも気づかぬ様子で、完全に血の気の引いた顔色のまま、辛うじて立ち尽くしているといった様子だ。
彼の足もとでは血の海に沈んだサヴァイが、今にも消え入りそうな浅い呼吸を繰り返していた。サヴァイの胸の真ん中にはぽっかりと、人間の拳大の穴が開いており、彼を貫いた光の矢は既に消え失せている。
あの傷ではもう助からない。誰もがひと目見てそう確信するであろう、凄惨なありさまだった。それでもサヴァイが何とか息をしているのは、マドレーンが希術で彼の命を繋ぎ止めているからに違いない。普段はヴェンに負けず劣らず飄々としている彼女も、今回ばかりはさすがに余裕のない表情で額に汗を浮かべていた。
されどマドレーンがどんなに懸命に力を注いでも、サヴァイの傷は一向に塞がる気配がない。列侯国で《兇王の胤》に襲われたルルを救ってくれたときには、あれほど深い傷でも一瞬で治癒していたのに、今回はどうも勝手が違うようだ。
「族長……確かに人間の魂の欠損は希術では治せないかもしれないけど、希霊を注いで氣魄を活性化させれば、魂の自己再生能力を高めることはできるでしょう。それさえ間に合えば……!」
「……マドレーン。シエンティアの魂は核ごと貫かれている。なれば外部から希霊を注いだとてどうにもならぬことは、汝にも分かっているでしょう」
「じゃあ、このまま黙って見殺しにしろって言うの!?」
と、珍しく声を荒らげたマドレーンは、刺すような眼差しで族長であるはずのマギサを睨み据えた。が、対するマギサはやはり超然として、どれほど威嚇されようとも眉ひとつ動かさない。黒く長い睫毛を伏せて、小さくため息を零した瞬間でさえも、彼女は感情というものを一切感じさせなかった。
「……マドレーン。やはり汝は人間と深く交わりすぎる。他者を我々のごとく永遠に生かすことなど能わぬのだと、クラルスのときに学ばなかったのですか?」
「……!」
「まあ、とはいえ、今ここでアイテール教団に手柄を与えるのは得策ではない。建国の英雄に名を連ねるシエンティアの死は、連合国に修復し難いひずみを生むことになるでしょう」
「そいつはいつもの有り難い予言かい、口寄せの郷の大魔女さんよ。だがあんたの力をもってしても、サヴァイを救うのは不可能なんだろ?」
「ええ、我々には不可能です。されどこの場にただひとり、シエンティアを救える可能性を持つ者がいる」
「あ……? 誰のことだ?」
そう尋ねたヴェンが怪訝そうに顔を上げた刹那、マギサは依然表情を変えぬまますっと静かに左手を上げて、ある一点を指差した。
すると当然、居合わせた皆の視線が彼女の示した先へ集中する。
グニドは目を見開いた。何故ならマギサがまっすぐに指し示したのは、他でもないグニドの腕の中──そこで小さくなって怯えているルルだったからだ。
「え……は……? さ……サヴァイさんを救える可能性を持つ者って……もしかして、ルル?」
「ム、ムウ……? ダガ、ルルハ、魔女デハナイ。ルルハ、希術、使エナイ」
「いいえ。その子供は神術師であり、希術師です。神霊と希霊……この世のあらゆる霊子に干渉し、操ることを可能とする。それが、万霊刻」
──神術師であり、希術師?
一体どういうことだと混乱しながら、グニドは腕の中のルルを見下ろした。
万霊刻とは精霊との交信を可能とし、彼らに触れるための神刻ではないのか?
それが神刻を介して生まれる力ならば、ルルが行使しているのは神術なのだろうとグニドはそう思っていた。しかし今のマギサの口振りは、まるで──
「ルルアムス。汝にサヴァイ・シエンティアを救う意思はありますか?」
まるで思考が追いつかないグニドを余所に、マギサは淡々とそう尋ねた。
人智を超えた存在に突然名前を呼ばれたルルはびくりと驚いた様子だったが、やがて今にも息絶えそうになっているサヴァイへ視線を落とし、唇を震わせる。
「る……ルルは……ルルなら、サヴァイを、たすけられる……?」
「ええ。ただし、人間の魂……その核に触れることは、神の領域を侵す行為に等しい。ゆえに幼い汝の体では、神刻がもたらす負荷に耐えられぬやもしれません」
「な……」
「さらに言えば、サヴァイ・シエンティアは連合国の利益のみを考えて、エレツエル神領国との確執を抱える汝らのことを、早々に追い出すべきだとユニウスに進言していました。それでも汝は、シエンティアを救いますか?」
「族長……!」
と、わざわざ付け加えずともよい情報を並べたマギサを、マドレーンが再び険しい表情で見やった。
が、マギサはやはりどこ吹く風で、ただじっとルルの答えを待っている。
「る……ルルは……」
ほどなく静まり返ったがらんどうに、ルルの震えた声が響いた。
「ルルは……むつかしいこと、わかんない。でも……でも、ルルも今日まで、ラッティとか、カルロスさんとか、マドレーンとか、いろんなひとにたすけてもらったもん。だったらルルも、サヴァイのこと、たすけたい……!」
「ルル、」
「それに……ルルならたすけられるのに、たすけられないのは、もうイヤ。ジェレミーも、さっきのしろいコも、とてもわるいもの。わるものにみんながひどいことされるのも、もうイヤだ……!」
グニドの衣服の胸もとをぎゅっと握り締めながら、ルルは決然とそう叫んだ。
そのとき彼女の脳裏にはきっと、無名諸島で救えなかったクムの姿が浮かんでいたに違いない。
──自分はもう弱くてちっぽけな、守られるだけの存在ではない。
ルルは全身を使ってそう叫びたがっているように、グニドには見えた。
「……グニド、どうする? ルルはこう言ってるけど、さっきのマギサさんの話が本当なら……」
「……」
「グニド。ルル、やるよ。おねがい。サヴァイのこと、みすてないで……!」
腕の中から見上げてくるルルの表情は真剣で、グニドは迷った。
確かにラッティの言うとおり、先程のマギサの言が事実なら、仮にサヴァイを救えたとしてもルルの身に危険が及ぶかもしれない。されどここでサヴァイを見捨てれば、ルルの心にまた大きな傷を残すことになりはしないか。
何より知識の番人たるサヴァイを失えば、アビエス連合国は……。
「……。マドレーン」
「何?」
「オマエ、無名諸島、下リル前。空デ、魔物ニ襲ワレタ。アノトキ、オレノ魂、半分、貸シタ。合ッテルカ?」
「ああ……そういえばそんなこともあったわね。でもそれがどうかしたの?」
「ルルハ、神術師デアリ、希術師ダ。サッキ、マギサ、ソウ言ッタ。ナラバ、ルルニ、オレノ魂、貸ス。デキルカ?」
「えっ……だ、だけど、グニド! アナタもあのときは、マドレーンさんに魂を渡したせいで動けなくなったデショ? あれと同じことをまたやるっていうの?」
「ウム。ルルノチカラ、希術ト同ジ。ナラバ、デキルハズ、ダ」
「……確かに、さすればシエンティアを救える可能性も上がるでしょう。なれど次は、汝の魂の半分では済まないかもしれませんよ」
「構ワン。ヤッテクレ」
「……なら、グニドの魂だけで足りないときは、俺もルルに力を貸すよ」
「ヴォルク、」
「ああ……そうだな、それがいい。いざってときはアタシの魂も貸してやる。みんなでやれば絶対うまくいくサ。なあ、クワト?」
「ヤ。ウェ・アラン・アマン・フェファ・レンガン、ルル」
果たしてラッティの言葉が通じたのかどうか、最後はクワトも頷いて、黒く鱗張った大きな手でルルの頭を優しく撫でた。すると金の首輪に飾られた人蛇の秘石がチカリと光り、きゅっと唇を結んだルルが頷く。
「グニドさん……獣人隊商の皆さんも、こんなことになってしまってごめん。だけど、厚かましいのを承知でお願いする。どうか……サヴァイを救ってほしい」
「ウム。任セロ」
まるで今にも泣き出しそうな、弱々しい声色で告げたユニウスにそう答えて、グニドは再びルルを見た。そうして目だけで『やれるな?』と尋ねれば、ルルも『やれるよ』と力強い眼差しで返してくる。死の谷を出てから半年あまり。ここまでの旅でルルもこれほど逞しくなったのかと思うと、グニドは素直に誇らしかった。
ゆえに互いに額を合わせ、確かめ合う。
おれたちならきっと大丈夫だ、と。