第一二四話 マグニフィカト・アイテール
ゲホッと咳き込んだユニウスの唇から、青い血がほとばしるのをグニドは見た。彼の背中から突き出た鏃が、燦々と照る日の光を浴びて異質な閃きを放っている。
「ユニウス──」
と、それを目にしたグニドが名前を呼ぶよりも早く、白い衣服をまとった彼の体はゆっくりと頽れた。否、あくまでグニドの目にはそう見えたというだけで、本当は何もかもが一瞬の出来事であったのかもしれない。
「ユニウス!」
ほどなくユニウスが地面に膝をつき、胸を押さえてうずくまるのを見たグニドは慌てて彼に駆け寄った。矢は彼の左胸を貫いており、碧血で濡れたユニウスの唇はヒュウヒュウと異音を立てている。恐らくは肺腑をやられたのだ。
だがグニドは戦士としての長年の経験から、この矢をすぐに抜いてはならないと直感した。神子の傷は大神刻がもたらす恩寵によってたちどころに癒えるというが、肺を貫通しているとなれば話は別だ。下手に抜けば傷口から血が溢れ、ユニウスの肺を満たしてしまう。そうなれば彼は呼吸ができない。
ゆえに矢を抜くのは、ルルのような癒やしの術が使える者か、医術の心得のある者が来てからでなければ。そう判断したグニドはただちに大竜刀を抜き放ち、鬣を逆立てながら振り向いた。ユニウスをこんな目に遭わせた下手人を逃がしてはならないと思ったためだ。するとやつはまだそこにいた。相手はどう見ても人間だ。
しかしマグナ・パレスでよく見かける、帽子とひと揃えの服装──そう、スジェやニストも同じ衣服を身につけていた──をしているところを見るに、宮殿の関係者だろうか? だとしたら、ユニウスの側近く仕える者が何故?
(まさか、アイテール教団か?)
ユニウス暗殺の機会を窺うために、やつらが手の者を忍び込ませていた?
ユニウスは何とか教団を許し、共存の道を探ろうとしているのに?
そう思うと途端に激情が込み上げてきて、グニドはうなりながら牙を剥いた。
されど下手人はそんなグニドの様子にも怯むことなく見慣れない得物を構える。
あれは一見弓に似ているが、弦の張り方が水平で、矢を放つための引き金がついている──ああ、そうだ、確かラッティたちが〝弩〟とか呼んでいた代物だ。
昨日ユニウスを襲った暗殺者が所持していたのと同じ……。
「ゴホッ……ぐ……グニドさ……ダメだ──」
刹那、背後でユニウスが何か呻いたような気がしたがグニドは構わず、吼えた。
すぐそこに佇む小晶宮の霊石がビリビリと震えるほどの咆吼は、一枝(五メートル)以上も先にいる暗殺者の鼓膜を劈き、図らずも手もとを狂わせる。
おかげでグニドに向かって飛来した二本目の矢は、掠りもせずに耳もとを通りすぎていった。それを視界の端に捉えながらグニドは瞬時に大地を蹴り、一気に暗殺者へと肉薄する。だが相手も冷静だった。
次の矢を番える手つきには若干の焦りが見えたものの、迫り来るグニドから距離を取るようにあとずさりつつ弩を構える。今度の狙いは正確だった。放たれた矢は鎧を身につけていないグニドの胸もと目がけ、一直線に飛んでくる。
けれども、甘い。完全な不意討ちならばともかく、射線が丸見えのまま放たれた矢に歴戦の竜人が怯むわけがない。ゆえにグニドは足を止めることなく猛進し、鏃が衣服を食い破ろうとした瞬間に難なく手で払いのけた。
竜人の腕を覆う硬い鱗があれば、この程度のこと造作もない。
しかし暗殺者にとってはまったく予想外の行動だったようで、動きに初めて動揺が見えた。その一瞬の隙を逃すことなくグニドは踏み込み、大竜刀を一閃させる。
避ける間もなき一撃は無防備な相手の首を捉え、直後、容赦なく刎ね飛ばした。
男の頭部が帽子ごと宙を舞い、やがてドシャリと地に落ちる。
首から噴水のごとく血を噴いた男の体も一拍遅れて倒れ込んだ。青々と茂った庭園の下草が、バタバタと音を立てて降る血雨に濡れる。グニドたちが小晶宮から現れるまで男が身を潜めていた木陰の緑は、みるみるうちに赤黒く塗り替えられた。
「──ユニウス!」
ところがほどなく背後から聞こえた呼び声で、グニドははっと我に返る。
見ればそこにはいつの間にかマドレーンの姿があって、倒れ込んだユニウスを助け起こそうとしていた。一切の足音も気配もなく彼女がどこから現れたのかはまったくの不明だが、即座に異変を察知して駆けつけてくれたのは有り難い。
グニドもすぐに大竜刀を腰へ戻すと、大急ぎでふたりのもとへと駆け寄った。
「マドレーン! スマン……ユニウス、オレ、カバッタ。オレノセイダ」
「いいえ、とりあえず命に別状はないから大丈夫よ。とはいえ、まずは矢を抜かないと……グニドナトス、私が鏃をはずすから、そうしたらあなたの腕力で矢柄を一気に引き抜いてくれる?」
「ウ、ウム……ワカッタ」
言われるがままグニドがしゃがみ込んで矢柄に手をかけると、マドレーンはすぐさま左手を掲げてパチンと軽く指を鳴らした。すると見えざる刃に付け根を切り落とされたように、ユニウスの背中から覗いていた鏃がひとりでに地に落ちる。
それを認めたグニドは可能な限り素早くひと思いに矢柄を引いた。先端に鏃がついたままでは再び体内へ引き込んだときに引っかかってしまうおそれがあったが、事前にはずしておいたおかげで、矢はすんなりとユニウスの胸から引き抜かれる。
「ゲホッ、コホッ……ま……マドレーン……」
「大丈夫よ、ユニウス。あなた以外、誰も負傷してない。だから今は喋らないで」
「か……彼、は……あの……アイテール、教徒は……?」
「……そっちは残念ながら竜人くんが仕留めちゃったわ。だけどあなたの命を狙った現行犯だもの。どのみち生かしてはおけなかったでしょう」
マドレーンが冷静な口調でそう諭すと、ユニウスは苦痛に歪んだ表情をさらに歪ませて悔やむように目を閉じた。
彼がそうする間もマドレーンは胸の傷に手を翳し、希術の光をともしている。
恐らくはユニウスの肺に血が流れ込まないよう、処置を施しているのだろう。
「ユニウス殿、マギステル教授!」
間もなく本宮の方からもユニウスを呼ぶ声がして、植え込みの向こうから数人の兵士を従えた禿頭の大男──『百雷公』ことホルム・スヴァールが駆けてくるのが見えた。彼はユニウスが地に伏しているのを見るやみるみる青ざめ「何ということだ……!」とおめいている。が、彼が取り乱すよりも早くマドレーンがすっと右手を挙げて、無言のまま「静かに」と告げた。グニドの咆吼にも負けないスヴァールの大声が轟くと、ユニウスの傷に障ると思ったのかもしれない。
「ユニウスなら大丈夫よ、スヴァール公。彼には常に暗殺対策の防護術がかかってるから、矢は心臓を避けた。下手人も竜人くんが処刑済みよ。だけどあなたたち、どうしてここが分かったの?」
「いや、それが、ユニウス様が宮内で保護していた例のアイテール教徒が客室から姿を消していて……おまけに室内から、やつの世話役をしていた宮仕官の死体が見つかったんですよ。衣服を剥ぎ取られた状態で、衣装棚に詰め込まれて……」
と、マドレーンの質問に答えたのは、スヴァールの巨体の陰から現れたモジャモジャ頭の半獣人──ではなく彼の肩に乗せられたヨヘンの従兄のスジェだった。
どうやら彼らは先の暗殺未遂犯が世話係を殺して脱走したことを知り、ユニウスを探していたようだ。ということは殺された世話係の衣服をまとって変装していただけで、先程の男は昨日の暗殺者と同一人物だったのだろう。
どうりでやつと同じ武器を使っていたわけだと思いながら、グニドは青い血で濡れた足もとの矢柄を睨み、グルルル……と喉を鳴らした。
「まったく、こうなるのが目に見えてたから〝せめて牢屋に入れるべきだ〟と言ったのに……まあ、過ぎたことをぼやいても仕方がないわ。とにかくスヴァール公、申し訳ないのだけれど、あなたの兵を少し貸してもらえるかしら。愛神の恩寵があるとはいえ、今日一日くらいは大事を取ってユニウスを寝室に閉じ込めないと」
「う、うむ……要は安静にしていただくということだな。そういうことなら、まずは担架を持ってこさせよう。何せここから後宮までは距離がある。今のユニウス殿にご自分で歩いていただくのは少々酷だ」
「ええ、助かるわ。それからスジェ、あなたは医務官の手配をお願い。あと、そこに転がってる死体の処理もしないと……」
「ガッテンです。なら一緒に死体を運び出す人手も手配してきますよ。そうと決まれば行くぞ、ニスト。悪いが急ぎで頼む」
肩の上からスジェがそう声をかければ、ニストはこくりと頷いて、すぐさま身を翻した。そんな彼らのあとを追うように、スヴァールが連れていた兵の中からも数名が踵を返して走り出す。やがて彼らの足音が遠のくと、残ったスヴァールの手を借りてユニウスがようよう体を起こした。
依然として顔色は悪く、額にも脂汗が浮かんでいるものの、マドレーンが手を翳すのをやめたところを見ると傷はだいぶ癒えたようだ。
「ユニウス、大丈夫カ?」
「うん、何とか……心配をかけてごめん。小晶宮を出た途端、明確な殺意が聞こえたものだから、とっさに体が動いて……」
「なるほど。ということはあの男は、あなたがここにいると知って待ち伏せしていたわけね。だけどいくら護身石があるからって無茶をしすぎよ。とにかくすぐに後宮に戻って、医務官の診察を受けてちょうだい」
「ああ……でも、今は僕よりもグニドさんの心配をすべきだよ」
「ジャ?」
「彼の狙いは僕じゃなく、グニドさんだった。だから僕が射線に飛び込んで阻止したんだ。僕よりも彼を狙った理由までは分からないけれど……あれは確かにグニドさんへ向けた殺意だった。それだけは間違いないよ」
未だ青い血が滲んだままの胸を押さえながらユニウスがそう言うのを聞いて、グニドは目を丸くした──暗殺者の狙いはユニウスではなく自分だって?
されどグニドはつい昨日この国へやってきたばかりの余所者だ。
なのに何故アイテール教団に命を狙われなければならないのか?
グニドは首を拈って考えたが、どれほど思考を巡らせてもやはり思い当たる理由がなく、ついには頭が完全に横ざまになるほど困惑した。
「ムウ……アイテール教団、狙イ、オレ……? 昨日、ユニウス襲ウ、邪魔シタセイカ……?」
「どうかしら。教団の暗殺が失敗するのは今に始まったことじゃないし、もし報復が目的なら、常にやつらの企みを妨害してる私だって狙われるはず。なのに連中がそうしないのは、魔女にはどうしたって敵わないとビビり散らかしてるからよ。そんなヘタレ根性丸出しのやつらがつい昨日、目の前で人間離れした嗅覚と戦闘力を見せつけてきたあなたに正面から挑んでくるとは思えない。どうしても腹いせがしたいなら、もっと弱くて狙いやすい相手を選ぶはずだわ。たとえば──ルルアムスとかね」
と相変わらず冷静な素振りで告げたマドレーンとは裏腹に、グニドは刹那、ぞっと鬣が逆立つのを感じた。確かに暗殺者の狙いが昨日の報復であったなら、グニドを直接狙うより、幼いルルを襲う方が簡単かつ効果的だ。
けれども男は宮内を自由に歩き回れるよう変装までしておきながら、客室にいるルルやポリーではなく、わざわざグニドを襲いにやってきた。
そう考えるとマドレーンが指摘する違和感にも一理ある。
しかしだとすればなおのこと、やつは何のために自分を狙ったのだろう?
「とにかく……そういうわけだから、マドレーン。念のため獣人隊商の皆さんにも警固の人手を回すよう、衛兵隊に通達しておいてほしい。あと、あのアイテール教徒の身辺について、詳しく調べておいてもらえると助かるんだけど……」
「はあ……分かったわよ。せっかくの年末休暇だっていうのにしょうがないわね。なら、ちょうど当人も死んだことだし、今夜にでも口寄せしてみるわ」
「……うん、ごめん。よろしく頼むよ」
暗い眼差しを湛えてそう言うと、ユニウスはさらにスヴァールの手を借りてよろよろと立ち上がった。いくら傷が癒えたとはいえ、担架が来るまでじっとしていた方がよいのではとグニドは案じたが、ユニウスは構わず、おぼつかない足取りである場所へと向かっていく。ほどなく彼が膝をついたのは、なんとグニドが息の根を止めた男の傍らだった。そうして首から上を失くした亡骸を見下ろし、沈痛の面持ちで胸に手を当てるや、指先を使ってそこに何か描くような仕草をする。
「……スヴァール公。スジェが戻ったら、犠牲になった宮仕官の名前を聞いておいてもらえますか。それから、出身地や家族についても調べてほしいと……」
「承知仕った。なれどあまりご自分をお責めなさいますな、ユニウス殿。此度の一件は、ユニウス殿のご温情を歯牙にもかけぬマグニどもの愚かさが招いたこと。然るにユニウス殿が矢面に立たれる必要は……」
「いいえ。犠牲者の遺族には、僕の責任として公式に謝罪します。僕の指示や認識の甘さが招いたことなのは間違いありませんし……何よりこれ以上、教団に対する民の敵意を煽りたくありません。誰かを憎まずにはいられないのなら、僕を憎んでもらった方がいい……もちろん、彼の遺族にも」
凪のごとく静かな口調でそう言いながら、ユニウスはためらいもなく死体の手を取り、そっと胸の上に重ねた。そうしながら彼はやはり親しい友でも亡くしたように苦しげな顔をして、暗然とうなだれている。
(この男は、どうしてそこまで……狙いはおれだったとはいえ、たった今、自分もそいつに殺されかけたんだぞ)
そんなユニウスの姿を信じられない思いで見つめながら、グニドはふと自身の右手がぬめるのを感じた。視線を落とせば、男の首を刎ねた際に付着したらしい赤い血が、黒緑色の鱗を濡らしている。
途端に何かが胸に閊えて、グニドはまたしても低くうなった。まるで何か、とてつもなく大きな過ちを犯してしまったような気分に苛まれながら。
×
「──それで、例の首尾はどうなっている?」
「ああ……準備の方は順調だ。だが当初の想定よりもずっと早く『狂魔女』が帰国してしまった。アレが白都にいたのでは、計画の完遂は難しい」
「チッ……忌々しい異端者め、あのまま海の向こうへ去ればよかったものを。偉大なる天帝陛下を弑逆しただけでは飽き足らず、我々の邪魔ばかりしおって」
「……アポストルスは何と言っている?」
「たとえ未然に防がれたとしても、実際に天譴を下す覚悟を示すことが重要だと。さすれば愚民どもをさらなる恐慌の渦へと突き落とし、日和見ばかりのユニウスへの不信感を増大させることができる。而して民衆を分断し、大陸を再び混沌に陥れること能えば、我らの信仰の正しさも自ずと証されるだろうとの仰せです」
「なるほど……しかしユニウスの周辺では、我が教団を早々に葬るべきだとの声が強まっていると聞く。やつがその声に押されて挙兵すれば一大事では?」
「そうなればむしろ、我らにとっては願ったり叶ったりでしょう。戦争以上の混沌が果たして他にありますか?」
「されど我らの信仰が守られねば、いくら混沌を生み出せたとて意味がない。教団が滅べば、教義を受け継ぐ者も途絶えるのだぞ」
「ふん。真の信仰者たる我らを断ずるとなれば、神罰を受けるはあちらの方よ。教父猊下の教えに従う限り天は我々を導き、お守り下さる」
「ですが、新しく遣わされてきたあのアポストルスは、本当に信用できるのですかな? せっかく白都に潜入させた同志に、突然獣人殺しを命じるなど……」
「何だ、聞いていないのか? 問題の獣人はまだ幼い聖女を拐かし、邪教に染めようとしていると聞く。そやつの手から何としても聖女を解放し、神の道へ引き戻さねばならぬとのお達しだ」
「なんと。天に除けられし獣人風情が、神の声を聞く娘を連れているというのか。その話が事実なら、確かに我らの手でお救いせねば……」
「い、いや、だが、あの新参のアポストルスは、何かこう、いささか狂気じみているというか……突飛な言動もさることながら、常に不気味な仮面を被っているのも気になるし……」
「おい、貴公。猊下に遣わされし者を疑うというのか? 確かにあやつの面妖ないでたちは気にかかるが、猊下の信任を受けた使徒であることは間違いないのだぞ」
「も、もちろん疑ってなどおりませんよ。ただ今までのアポストルスと比べると、身なりや振る舞いが際立って奇怪なのが気になるだけで……」
「左様に些末な問題は、今はどうでもよろしい。ともかく年明けの聖戦に備えて万全を期すことが目下の最重要事項です。魔道に堕ちた裏切りの神子に、これ以上世を乱させるわけには参りません。各々方、ゆめゆめ手抜かりのないように──マグニフィカト・アイテール」
「マグニフィカト・アイテール!」