第一二二話 真後ろの鳥、足もとの卵
シーカー家の人々は古代ハノーク人たちが手がけた人造の神刻を〝人工刻〟と呼んでいた。古代人が神々の魂のかけらであるはずの神刻をどうやって創り出していたのかは不明だが、シーカー家の調査によれば無から生成していたわけではなく、既存の神刻から神の力を抽出したり、掛け合わせたりして新種を生み出していた可能性が高いようだ。
しかし何故古代人たちは、かように冒涜的な手段に手を染めてまで新たな神刻を求めたのだろう。単に〝知りたい〟という欲求を満たすため?
あるいはただの神刻よりも──大神刻よりも強大な力を持つ神刻を生み出して、神々を超越するため?
(だがそうした神を神とも思わぬ振る舞いが神々の怒りを買い、結果大天災を引き起こしてハノーク大帝国を滅ぼした……と、シーカー家は考えているようだった。仮にその説が正しいとすれば、神々の復活をもくろむエレツエル神領国がハノーク人の遺産を徹底的に消し去ろうとしているのにも筋が通る。マドレーンは太古の超技術の大半は、古代希術によって実現されたものだと言ってたし……だとすればなおのこと、エレツエル人が古代文明や希術を憎むのにも納得だ)
と、マグナ・パレスの客室で寝台に腰を下ろしながら、グニドはじっと考え込んでいた。そうして見つめる先には、中庭の噴水でクワトと戯れるルルの姿がある。
識神図書館からの帰り道、ポリーに例の『ワタアメ』なる菓子を買ってもらったルルはご機嫌だった。噴水の縁に腰かけ、串に刺さったワタアメを頬張っては、満面の笑みを浮かべて両足をパタパタさせているのが動かぬ……いや、動く証拠だ。
他方クワトはそんなルルの傍らでなんと噴水に浸かっており、獣の姿を取って水面から目だけを出していた。どうも無名諸島では常に水辺で暮らしていたせいか、やはり水の中にいると落ち着くらしい。
ルルはそうと知ってか知らずか、時折クワトに話しかけながら小さな雲に似た菓子を千切り取ると、彼が口を開けたところへちょんと置くようにして与えていた。
何も知らない者が見たら、幼子が鰐に食われそうになっていると慌てそうな光景だ。が、当のクワトはのんきなもので、ルルからワタアメを与えられるたび、
「アマイ、アマイ」
と、覚えたてのハノーク語を嬉しそうに連呼していた。
「だけど驚いたわネ。まさか万霊刻の正体が、古代ハノーク人によって造られた人工の神刻だったなんて……」
「ウム……」
「サヴァイさんやナンニャさんはあくまでひとつの仮説だとおっしゃってたけど、そう考えると辻褄が合うことが色々あるような気がするワ。ほら、ルルちゃんって時々ハノーク語でも竜人の言葉でもないものを話すでしょ? 列侯国で出会った光の神子さまは、アレを古代ハノーク語じゃないかとおっしゃってたし……」
と、同じくルルとクワトのじゃれ合いを眺めながらそう言ったのは、グニドと並んで腰かけたポリーだった。実を言うと現在マグナ・パレスの客室にはグニドとルル、クワト、そして彼女の四人しかいない。何故ならラッティは予定どおり図書館を出たところでヨヘンを拉致し、アルンダと共にスダトルダ家へ向かったからだ。
ヨヘンは案の定最後まで帰省を拒否し、叫んだり暴れたりと大変だったが、あの小さな体で抗い切れるはずもなく、最後にはあえなく連行されていった。
ヴォルクはそんなラッティたちに同行すると言ってついていってしまったし、マドレーンとサヴァイもふたりで話し合わなければならないことがあるからと、マグナ・パレスの入り口で別れたきりだ。グニドも当初は図書館での用事を済ませたらぜひヨヘンの家族に会ってみたいと思っていたのだが、禁書庫で知り得た事実があまりにも衝撃的すぎて思考と感情がついてこなかった。
ゆえにルルを連れてひと足先にマグナ・パレスへと戻り、目下懸命に頭の中を整理しようと努めている。しかし考えれば考えるほど分からない。
仮に禁書庫で目にした『一三五五』の記述がすべて事実だったとして、人工刻は何のために創られたのか? それを身に宿した人間はどうなるのか?
そもそもルルは何故、あの神刻を持って生まれた?
当のルルは話が難しすぎてことの重大さを理解できていないようだが、グニドとしてはそんな得体の知れない神刻をいつまでも彼女に持たせておきたくなかった。
そもそも万霊刻さえ手放してしまえば、ルルがエレツエル人から狙われる理由もなくなるのだ。されどその解決策を実行に移すには問題があった。本来、神刻は人間たちが『神刻師』と呼ぶ者の技術によって自由につけたりはずしたりすることができる。けれどもルルのような天授児──生まれたときから神刻を身に宿している者──から神刻を取りはずすのには、かなりの危険が伴うらしいということだ。
「これは人間と獣人を分ける決定的な差のひとつなのだが、人間の肉体には『神術回路』と呼ばれる特殊な神経が存在する。この神術回路が神刻と結合すると、一般的に『神気』と呼ばれる外界の霊子に干渉し、神術を使うことができるようになるわけだ。そして回路と神刻の結合というのは通常、術者が神刻を肉体に刻んだ時点から始まり、神術を使えば使うほど進行していく。ところが天授児の場合は生まれたときから神刻を身に宿しているわけだから、天授刻はもはや体の一部だ。ゆえに回路と神刻の結合度も極めて高く、無理に剥がすと神経を傷つける。それによって激しい痛みに襲われたり、身体に麻痺などの障害を負ったり、最悪の場合は死に至る事例もあるようだ。そもそも天授児というのは世界的に見ても大変稀少な存在ゆえ、安全に神刻と分離するための研究がほとんど進んでいないのだよ。ユニウスも生まれたときから《愛神刻》と共にある天授児だが、大神刻はそもそも人間の任意でつけたりはずしたりはできない代物だからな。彼のケースはあまり参考にならんだろう」
とは、識神図書館からの帰り道で聞いたサヴァイの言だ。さすがはアビエス連合国の最高学府たるエルビナ大学の長というべきか、彼の持つ知識量はとにかく膨大で、しかもハノーク語に不慣れなグニドにも分かりやすく丁寧に解説してくれた。
おかげでグニドは、天授児であるルルから万霊刻を引き剥がすのがどれほど危険な行為であるかを嫌というほど理解してしまい、現在頭を抱えている。
万霊刻の正体が分かればきっと新しい道が見えるはずだと、今日まで漠然と信じていた希望が突然霧散してしまった気分だ。真実はむしろ事態をより複雑で困難なものにしてしまった。知らなければよかったとは思わないが、知ったところで何の解決にもならないだなんて現実はあまりに非情だ。
グニドはグルル……と喉を鳴らして低くうなると、長い首を垂れてうなだれた。
「……ポリー」
「なぁに?」
「ポリーハ、昔、エレツエル神領国ニ居タ、聞イタ。エレツエル人ノ長モマタ、カルロスヤ、ユニウスト同ジ、神子ダ。シカシ、皆、エレツエル人ハ信用デキナイ、残酷ダ、言ウ。神領国ノ長モ、ソウカ?」
グニドがそう尋ねると、ポリーはにわかに目を見開き、ぐっと体を硬くした。
見るからに何かに怯え、ひどく緊張した様子だ。
以前ラッティから聞いた話によれば、ポリーは獣人隊商に入る前、神領国で奴隷として飼われていた。エレツエル人は単に獣人を虐殺するだけでなく、ポリーのように弱く無抵抗な者は捕らえて奴隷にしているようだ。
そしてグニドも人間たちが〝奴隷〟と呼ぶ存在がどういうもので、どんな扱いを受けるのかはよく理解している。何故なら竜人と長年同盟関係にあるシャムシール砂王国もまた奴隷を使役する国だったから。
「ムウ……スマン。神領国ノコト、話シタクナイカ?」
「い、いえ……いえ、大丈夫ヨ。昔のことは、あまり思い出したくないのは事実だけど……でも、もうそんなことも言ってられないワ。だってルルちゃんを守るためには、どうしても神領国と戦わなくちゃいけないみたいだから……」
そう言って一度胸に手を当てると、ポリーは震える吐息を落とした。
やはり奴隷時代の記憶は今も彼女を蝕み、苦しめているようだ。
されどポリーはやがてきゅっと口先を引き結ぶや、意を決したように茶色い鼻を持ち上げた。彼女がそうして見つめる先には、いつの間にかワタアメを食べ終え、今度は噴水を泳ぐクワトの背に乗ってはしゃいでいるルルの姿がある。
「……でも、ワタシはネ。実を言うと、エレツエル神領国の本国……つまり、北東大陸にいたわけじゃないの。北西大陸の北の方……昔、ラッティの故郷があったあたりは全部、神領国の植民地になってるって話は前にしたことがあるでしょう?」
「ウム。植民地、ハ、神領国ガ支配シタ国ノコト。エレツエル人ガ、滅ボシタ国、乗ッ取ッテ、好キ勝手シテイル、ト……」
「うん、そうヨ。ワタシはその植民地で働く奴隷だったの。だから本国のことって実はよく知らないのよネ。だけど神領国を治める聖主──秩序の神トーラの神子エシュア・ヒドゥリーフは、カルロスさまやユニウスさまとは全然違う。本当に残酷で恐ろしい人だって聞いてるワ」
「ダガ、エシュアハ昔、悪イ王倒シタト聞イタ。ダカラ、エレツエル神領国、創ッタ。ナラバ、ユニウスト、トテモ似テイル。ナノニ、残酷デ信用デキナイカ?」
「確かにエシュアがエレツエル神領国を築いた歴史は、ユニウスさまがアビエス連合国を樹立するまでの経緯によく似ているけれど、国を創ったあとの統治の仕方はまるで違うでしょ? ユニウスさまはみんなが平等で争う必要のない国を創ろうとされてるのに対して、エシュアは人々を恐怖で押さえつけて反抗できないようにしている……ワタシは、あのふたりはまるで鏡写しみたいに真逆の存在だと思うの」
「ムウ……確カニ、ソウダナ……」
「エシュアはとにかく秩序を重んじる人で、少しでもそれを乱す者は誰であっても容赦しない……自分が定めた聖法に背く者は絶対に許さないと聞いてるワ。エシュアのいる神都エルヘンのレムエル神殿でも、誰もが怯えながら暮らしてるって……これまでエシュアに逆らった人たちは皆殺しにされているから、誰も彼に刃向かえないのヨ。いくら神子とはいえ、たったひとりの人間に〝気に食わない〟と思われたら殺されるって、あまりにも理不尽だと思わない?」
「ウム……」
「だからワタシは、エシュアはカルロスさまやユニウスさまみたいに話の通じる人ではないと思う……グニドはきっと、エシュアと直接会って話せば、ルルちゃんのことを助けてもらえるかもしれないと思ったのよネ? だけど彼は、そもそも獣人の言葉になんて耳を貸してはくれないワ。神領国の法律では、獣人には人権がないことになってるの。つまり人間と対等に話をすることすら許してもらえないのヨ」
むしろ人間にわずかでも逆らったり、口答えをしたりしようものなら即処刑。それが神領国における獣人の扱いだとポリーは言った。ゆえにかの地では何をされても、どんなに苦しくとも口を噤んで耐える他ない。一度でもエレツエル人に捕らえられた獣人に許されるのは、隷属か死かのどちらかを選ぶことだけだから、と。
「……そう思うと、ワタシは本当に幸運だったのヨ。エレツエル人の支配から生きて逃げ出せる奴隷なんて百人に一人もいないんだもの。あのときラッティたちがワタシを見つけて、救い出してくれなかったら……きっとワタシは今も鞭で打たれながら、エレツエル人の奴隷として生きてたと思うワ。あるいは飢えと虐待で、とっくに死んでいたかもしれないわネ」
そう言って弱々しく笑ってみせたポリーは、また昔のことを思い出してしまったのか今にも泣き出しそうに見えた。そこでグニドはまたしてもグルル……と喉を鳴らし、自らの尻尾をポリーの尻尾に巻きつける。
他の獣人はどうだか知らないが、少なくとも竜人は互いの尻尾を絡め合うことで相手を慰めたり、励ましたりするのだ。ポリーの尻尾は短くて、しかもくりんと巻き上がっているから向こうから絡めるのは無理だろうが、しかし彼女もそんなグニドの意図を読み取ったのか、尻尾の先をぴくぴくと揺らして応えた。
「ソウカ……デハ、ヤハリ、エシュアト話スルハ、無理ダナ」
「ええ、そうネ……他の方法でルルちゃんを守るとしたら、やっぱり万霊刻をはずすのが一番確実なのでしょうけど、それも簡単ではないみたいだし……」
「ウム。エレツエル人ニ、ゼッタイ、見ツカラナイ方法、アレバ良イガ……」
「うーん……普段、大陸の人間はほとんど近寄らない無名諸島すら安全じゃなかったものネ……他に神領国でも干渉できない国と言えば……倭王国とか?」
「ワオーコク?」
「北西大陸の東の海に浮かぶ島国ヨ。何でも倭王国は国全体が常に濃い霧に覆われていて、余所者は滅多に上陸できないんですって。大昔にエレツエル神領国が侵攻しようとしたときも、霧とカムカゼに阻まれて断念したらしいワ」
「カムカゼ……トハ、何ダ?」
「ワタシもヨヘンから聞いただけだから詳しくは知らないんだけど、伝説によればエレツエル人が倭王国に近づくと、そのたびに大きな嵐が起きて、彼らの船をみんな沈めてしまったんですって。それを倭王国では〝カムカゼ〟……つまり〝神さまが国を守るために起こして下さった嵐〟と呼んでいるそうヨ」
「フム……」
「あとはトラモント黄皇国と同盟を結んでるツァンナーラ竜騎士領も安全かしら。黄皇国が今も神領国の侵攻を受けずにいるのは、竜騎士領の竜たちに守られているからだっていうし」
「〝リュウ〟……ソウカ、竜カ。ダガ竜ハ、トテモ高イ山ノ上、棲ンデイル。違ウカ?」
「そうネ。竜たちの暮らす竜の谷は、竜の背に乗っていかないと辿り着けないくらい高いところにあるって聞いてるワ。麓から自力で山を登って谷まで到達できたのは、トラモント黄皇国を建国した何百年も昔の英雄だけなんですって」
「ムウ……デハ、倭王国モ、竜騎士領モ、行クコト、トテモ難シイナ……」
「ええ……でも、そういう外界と隔絶された土地だからこそ、外敵に脅かされずに済んでいるのでしょうネ。それで言ったら、グニドとルルちゃんが暮らしてた死の谷もそうだけど……」
「ム?」
「だって同盟相手のシャムシール人ですら、竜人だらけの死の谷には滅多に近寄らないんデショ? 実際、ルルちゃんもグニドに拾われてからの十年間、エレツエル人に見つからずにいたわけだし……」
「ム、ムウ……ソウカ……確カニ、ソウダ」
と、まったく盲点だった土地の名を挙げられて、グニドは思わずバシバシと尻尾で寝台を叩きまくった。
──死の谷へ戻る。
そうか、その手があったかとグニドは顎を摩って考える。竜人の間には古くから『真後ろの鳥、足もとの卵』という言葉があるが、ポリーの提案はまさしくそれだ。前を向いていてもほとんど後ろまで見渡せる竜人の眼は、唯一自分の真後ろと足もとだけが死角であり、目当てのものがすぐそこにあっても意外と気づかない。
つまり〝近いものほどよく見落とす〟ということだ。
谷で生まれ育ったグニドはあまり考えたことがなかったが、外界から隔絶されているという点で言えば、死の谷もまさしくそうなのだろう。
(問題は同族殺しの罪を犯したおれは谷へは戻れないということだが、あそこにはスエンもエヴィもイダルもいる。ならイドウォルのやつさえ何とかすれば、ルルはまた谷で暮らせるかもしれない。谷の外の世界を知った今、ルルは谷に戻りたがらない可能性もあるが、これを機に竜人も人間と歩み寄れば……)
シャムシール人以外の人間とも共存する、とまではいかずとも、せめて無用な争いを避け、取り引きできるような関係になれれば。さすれば人間が谷で暮らすために必要なものは最低限手に入るし、人間の竜人に対する敵意もやわらぐ。
今のままではいずれ谷ごと竜人を滅ぼそうとする人間が現れるかもしれないと危惧していた先代長老の遺志を継ぎ、ルルこそが人間と竜人の架け橋となるのだ。
もっとも谷で暮らすとなると、グニド亡きあとのルルを支えるつがいを見つけるのが困難だという欠点も生じるが。
「ムウ……竜人ハ、ニンゲント、ツガイ、ナレナイ……ソレガ問題ダ……」
「えっ? つ、つがいって……急に何の話?」
「モシ、ルルガ、マタ谷デ暮ラス、ナッタラ、人間ノツガイ、作ルハ難シイ。ダガ竜人ハ、ニンゲント、交尾デキナイ……」
「ぐ、グニド! ああああアナタはまたそういう話を……!」
「ジャ?」
「あ、あ、あのネ……! ま、前々から言おう言おうと思ってたんだけど、竜人以外の種族の間では普通、こっ……交尾、とかの話は……!」
と、またしても全身の毛を逆立てたポリーが、何故か顔を覆いながらそう言いかけたときだった。突然、彼女の言葉を遮るようにコンコンと客室の扉が叩かれて、ふたりは同時に振り返る。どうやら誰か訪ねてきたようだ。
ラッティたちが戻ったなら、わざわざ扉を叩いたりはせず部屋に入ってくるだろうし、そもそもヨヘンが騒がしいのですぐ気づく。
ということは、扉の向こうにいるのは彼ら以外の誰かと思われるが誰だろう。
そう思ったグニドが思わず視線を送ると、ポリーは逆立った頭の毛をせっせと直して「わ、ワタシが出るワ!」と立ち上がった。そうして扉まで駆けてゆき、返事をしながら把手を引いた直後、彼女の口から短い悲鳴が漏れる。
何故なら扉の向こうに立っていたのが、ゆったりとした白い長衣に身を包んだアビエス連合国の宗主──ユニウス・アマデウス・レガリアだったからだ。
「ゆ、ゆ、ゆ、ユニウスさま!?」
「やあ。お休み中のところ、突然押しかけて申し訳ない。アルビオン観光一日目は楽しめましたか?」
「え、ええ、おかげさまで……!」
「あーっ、ユニウス! ユニウスだあ!」
ところが思いもよらない人物の訪問に、ポリーがせっかく整えたはずの毛並みを膨らませながら上擦った返事をしていると、ユニウスに気づいたルルが中庭から駆けてきた。而して嬉しそうに走り寄るルルを見て、ポリーがさらに「ヒィ!」と小さく悲鳴を上げる。
というのもルルは直前までクワトと水浴びをしていたせいで、貫頭衣の裾からボタボタと水滴を垂らし、そのままの装いでユニウスに抱きつくかに見えたのだ。
「こ、こら、ルルちゃん! そんなびしょびしょのままお部屋に上がっちゃダメでしょう!? あとユニウスさまのことは呼び捨てじゃなくて、ちゃんと〝ユニウスさま〟ってお呼びしなくちゃダメよ……!」
「んぅ?」
「あはは、僕の呼び方は別に何でもいいですよ。昔の仲間も気兼ねなく呼び捨てにしてますし……だけど本当にずぶ濡れだね、ルルアムス。水浴びしてたのかな?」
「うん! クワトがね、ふんすいの中をスーッておよぐからね、ルルもいっしょにスーッてしてたの! たのしいよ!」
「そっか、噴水を気に入ってもらえたみたいでよかったよ。ただ、客室は冷却具で涼しくしてるから、濡れたままだと風邪をひいてしまうかもしれない。まずは体を拭いて着替えておいで?」
「わかった!」
びしょ濡れの頭を撫でられたルルは弾んだ声でそう言うと、ポリーに連れられて早速衝立の陰へ着替えに行った。彼女を追って中庭から戻ったクワトも全身から水滴を滴らせ、しかも服も着ないまま人型に戻っている。が、ルルが叱られているのを見て、濡れたまま部屋に入ってはいけないと理解したのか、客室と中庭をつなぐ硝子戸の前で立ち止まったクワトは、そこからユニウスに一礼した。
しかしユニウスも笑って会釈を返しているところを見ると、クワトが孵化したままの姿でいることは特に気に留めていないようだ。
そのさまを見て、やはりこの男は底知れぬ懐の深さを持っているなと感心しながら、グニドも立ち上がって彼を迎えた。するとそれに気づいたユニウスが、まるでグニドの顔色を窺うようにちょっと小首を傾げてみせる。
「ところで、グニドさん。今、お時間いいですか?」
「……ム? オレニ、何カ、用カ?」
「はい。実は少し、お話を伺いたいことがあって……もちろん都合が悪ければ出直しますが」
「否、構ワン。ココデ話スカ?」
「いや、よければ僕の秘密基地にご招待したいのだけど、どうかな?」
「ヒミツキチ……?」
聞き慣れないハノーク語に瞬きしながらも、グニドは何か妙に興味をそそられて頷いた。途端にユニウスは嬉しそうな顔をして「じゃあ、早速」と促してくる。
ほどなくグニドが案内されたのは、マグナ・パレスの裏手に広がる庭園だった。
この白亜の宮殿は、正面入り口がある表側にも見事な庭が広がっているが、裏口から出た先にもまた別の庭園があったらしい。
というかよくよく見れば、グニドたちが現在宿泊している表の宮殿の裏にもまた別の宮殿が建っているではないか。表の宮殿だけでもこれほど広く立派な造りだというのに、さらに他にも建物があるのかとグニドが驚いて立ち尽くしていると、裏庭へ続く白い階段を下りながら振り向いたユニウスが微笑んだ。
「あの別宮は僕たちの宿舎……あるいは家みたいなものですよ。本宮はアビエス連合国の政治を動かしたり、お客様をもてなしたりする行政府兼迎賓館で、関係者の住居は裏手にあるんです」
「ムウ……ソ、ソウカ。オマエタチノ巣……ナラバ、ヴェンヤ、マドレーンモ、アソコニ住ンデイルカ?」
「ええ。もとは父の後宮だった場所だから、僕ひとりで暮らすには広すぎるし、寂しくてね。だから何人かの仲間に一緒に住んでもらってるんですよ」
「デハ、サヴァイヤ、ナンニャモ、カ?」
「いや、彼らの場合は家庭があるから、家族と街で暮らしてる。サヴァイも結婚する前はマグナ・パレスに住んでいたんだけどね」
なつかしそうにそう話しながら、しかしユニウスの足は別宮とは別の方角に向いていた。てっきりあの宮へ案内されるとばかり思っていたグニドは意表を衝かれ、慌ててユニウスのあとを追う。やがて辿り着いた建物を見上げて、グニドはまたしてもあんぐり口を開けたまま立ち竦んだ。何故なら庭園の片隅に佇むその建物は、壁も天井もすべてが硝子で築かれた──硝子の宮殿だったからだ。
「ようこそ、小晶宮へ。ここが宮内でも僕しか入れない、正真正銘の秘密基地です」