第十一話 大地の肚
ルルは、地べたに座り込んだグニドの腹に身を預けて眠っていた。
たぶん、はしゃぎ疲れたのだろう。二人が竜祖の祠を逃げ出し、死の谷の地下に広がる洞窟に潜り込んでから、もうだいぶ長い時間が経つ。
ここからは空の色は見えないが、たぶん今頃は太陽が砂漠に落ち、星空が大地を包んでいる頃だろうとグニドは思った。
大地の肚。
ここはそう呼ばれている場所だ。
大地の肚の入り口は死の谷のそこかしこにある。そこは鱗を焼くような砂漠の日の光が届かない代わりに年中薄暗くて湿っぽく、あちこちに湧き水や地底湖が湧いているような場所だった。
イドウォルの放った追っ手は、今も自分たちを探しているのだろうか。そう思いながら、グニドはじっと目の前の闇を睨んでいる。
その闇は青白かった。洞窟の壁や天井、それに地面から覗く夜光石の青い光がぼんやりと洞窟全体を照らしているからだ。
竜人は元々夜目がきく。だからこのくらいの明かりがあれば、洞窟内のことはかなり遠くまで見通すことができた。
巨大な迷宮のごとく入り組んだ大地の肚は、今、グニドの左右に向けて伸びている。そのどちらから追っ手が来ても逃げられるようにと、グニドはいくつもの道が複雑に交わる地点を選んでそこを今夜の寝床と決めた。
だが寝床と言ってもグニドは眠らない。大地の肚を抜けるまでは極力眠らず、絶えずイドウォルの追っ手を警戒しているべきだとそう決めた。
竜人は膂力と体力が自慢の生き物だ。四日くらいならばそれほど眠らなくとも活動に支障はない。
しかし問題はルルの方だ。ルルは竜人の間で「ひ弱」の代名詞とされている人間で、しかもまだとても小さい。その上この十年ほとんど地下の檻を出ることなく過ごしてきたから、砂漠をうろつくエリマキスナトカゲほどの体力もなかった。
だからグニドはこまめにこうした休息を挟み、ルルを休ませてやらなければならない。最初の方は『ぴかぴかの石! まっくらの花! おっきな水たまり!』と生まれて初めて見る外の世界に感激しきりだったルルも時間が経つと言葉少なになり、疲れを訴えるようになった。
このままではいずれ追っ手に追いつかれるのではないだろうか。そんな危惧がないわけではない。
しかしルルを守るために巣を捨てて逃げてきたはずが、そのルルに万一のことがあっては本末転倒だ。だからここは焦る心をぐっと抑えて、冷静かつ慎重な判断を重ねなければならない。
『……』
巣を、捨てた。
その言葉をもう一度、胸に刻みつけるように心の中で繰り返し、グニドは腕の中にいるルルを見下ろした。
初めはこんなつもりでこの人間を拾ってきたのではなかった。ただあまりに小さくて喰えそうな場所もなかったから、育てて喰うべきかどうか巣に持ち帰って皆に問おうと思ったのだ。
それがいつの間にかこの小さな人間の子供に対して特別な感情を抱き、守ってやりたいと思うようになっていた。
この感情を一体何と呼ぶのか、グニドは知らない。
けれどもそれはたぶん、竜人にとって絶対の存在である群に生を捧げるよりも、もっとずっと価値のあるものだ。
ただ一つだけ、グニドにはとても気がかりなことがあった。
何も告げずに巣に置いてきてしまった悪友のスエンやエヴィのことだ。
二人は今回のグニドの謀叛をどう捉えただろうか。今頃グニドの仲間というだけで、イドウォルから理不尽な仕打ちを受けてはいないだろうか……。
二人のことを考えると、グニドの胸中は暗く翳った。できることなら今すぐ巣に駆け戻り、二人の安否を確かめたかった。
だがもうここまで来てしまった以上後戻りはできない。今はグニドが卵から孵ったときから傍にいた、あの二人の兄弟を信じるしかない。
(それにおれが巣を去ることで、少なくともイドウォル派とその支配を肯んじない仲間の衝突は避けられる。イドウォルに群を預けるのは不安だが、ひとまずこれで一族の共喰いは避けられるはずだ……)
じっと足元の岩を見下ろし、グニドはそう言い聞かせた。イドウォルによる一族の支配は受け入れ難いが、グニドがそれ以上に危惧していたのは、群の仲間たちが意見の対立から殺し合いを始めてしまうことだ。
その未来を避けるためには自分かイドウォル、そのどちらかがいなくなるしかなかった。
だからこれは一族を守るために必要なことだったのだ。そう思うことにする。
問題はイドウォルによる群の支配がどう転ぶかだが、こればかりは死の谷を見守る祖先の英霊に祈るしかなかった。
どうか我が一族をお守り下さい、と――。
『――グニド』
二枚の瞼を閉じ、この地下道を巡っているはずの精霊たちに祈りを捧げる。しかしほどなく名を呼ばれ、グニドははっと目を開いた。
一瞬、精霊が応えてくれたのかと思ったがもちろん違う。
グニドを呼んだのはルルだ。まだ眠ってからそれほど経っていないはずなのに、目覚めたルルはひしとグニドに身を寄せると、洞窟の闇を見つめて怯えたような顔をする。
『どうした、ルル?』
『あっち』
『え?』
『あっちから、こわいひとたち、くる。みんな、グニドをさがしてる。にげよう』
差し迫った声で促され、グニドは即座に立ち上がった。
竜人の聴覚は人間のそれより遥かに優れている。だがルルが怯えて指差した方角からは足音も話し声も聞こえない。
それでもグニドはルルの言うことを信じた。何故分かるのかと問い質せば、ルルはこう答えるに決まっているのだ。
〝風が教えてくれた〟と。
そしてグニドはその風の正しさを知っている。だからルルを寝かしつけるために外していた鎧を素早く着込み、大竜刀を腰に提げてルルを抱き上げた。
『行くぞ、ルル』
『うん』
恐らく今のルルには、グニドの背にしがみつく体力も残っていないだろう。だからグニドは小さなルルを腕に抱え、腹の下で守るようにして駆けた。
ルルが指差したのとは逆の方角へ逃げ、その先で更に二股に分かれた道を右へ行く。大地の肚は確かに迷路のようだが、竜人にとっては庭と同じだ。まだ狩りにも行けないような年頃の竜人はみんなこの地下道を遊び場にして、洞の中を這う蛇やトカゲを捕まえたり、地底湖で素潜りの練習をしたりする。グニドも幼い頃はよくスエンやエヴィと〝肝試し〟と称してここへ来た。
だから追っ手から逃げきるためにはどこへ向かえばいいか、本能が知っている。
グニドの目的地は最初から一つだけだ。その場所まであと少し。それまでルルの体力が持ってくれることを祈るしかない。
『もう少しでゆっくり休めるからな、ルル。それまで頑張れ』
『うん……ルルは、へいき。がんばる』
腹の下から聞こえた声は明らかに衰弱していた。まったく〝平気〟ではなさそうだが、それでもルルは耐えようとしている。
グニドは自分の鎧にしがみつくルルの弱々しい力を感じて、それに応えるようにより強く彼女を抱いた。
大丈夫だ、ルル。
お前はおれが必ず守ってやる。
『――ここだ』
それからしばらくののち。
青い闇の中を駆け続けたグニドがやがて足を止めたのは、とある道の先――崩落した岩盤によって塞がれた行き止まりだった。
ようやく目的地に着いたと知り、グニドの腹の下から顔を覗かせたルルは目を丸くしている。まあ、それもそのはずだ。この道はグニドが生まれるよりずっと前から、もう誰にも使われていないと聞いている。
『グニド、ここ? でも、道、ないよ?』
『心配するな。ここには秘密の抜け道があるんだ。ちょっと待ってろ』
グニドはそう言って一度ルルを下ろすと、目の前に立ち塞がる岩の山に歩み寄った。
崩れて積み重なった岩は、上の方にほんの少し、それこそ蛇やトカゲが通れるくらいの小さな隙間があるだけだ。
しかしグニドが目をつけたのはその上方の隙間ではなく、山の麓にでんと居座る一際大きな岩だった。
その大きさは立ち上がったルルの身長ほどもある。しかしグニドは迷わずその岩に手をかけると渾身の力で押しやった。
すると岩はズルズルと音を立て、洞窟の壁に沿ってずれていく。この程度の岩を動かすくらい、竜人には朝飯前だ。本当は大竜刀の一振りで叩き割ってしまってもいいのだが、そうしないのには理由がある。
『――よし。まだ使えそうだな』
やがてその岩の後ろから姿を現したのは、更に地下へ潜るような形で口を開けた横穴だった。
グニドはその横穴へ長い首を突っ込み、まだ道がちゃんと使えることを確かめる。この穴の中には夜光石もなく、塗り潰したような闇があるばかりだが、そう長くはない一本道で、誰も知らない地上への抜け道につながっていることをグニドは知っていた。
この道の存在を知っているのはよく一緒に〝肝試し〟に来ていたスエンだけだ。幼い頃、二人で大地の肚を探検している最中に、この岩の後ろから風が流れ込んでくることに気づいて偶然見つけた。
それをエヴィにすら教えず秘密にしたのは、何かの拍子に怒らせた彼女から逃げるとき、この道が格好の隠れ家になったからだ。昔からエヴィの逆鱗に触れたときはいつもスエンと二人でここに隠れ、嵐が過ぎ去るのを待った。
とは言え最後にこの抜け道をくぐったのはもうずいぶん前のことだ。自分もスエンもエヴィも、群の皆に一人前の戦士として認められてからは、この地下に下りてくることはほとんどなくなった。
だから今は、二人と共にこの地下を駆け回っていた頃が懐かしい。
グニドは遠い日の記憶に思いを馳せながら、しばらく暗い穴の中を見つめていた。
この穴をくぐれば、恐らくもう二度と、自分はあの日々へ帰れなくなる。
『グニド?』
どれくらいの間、そうして懐古に耽っていたのだろうか。
グニドはふと名を呼ばれ、ようやく我に返った。見ればいつの間にかすぐ傍へやってきたルルが不思議そうに、そして少しばかり心配そうにグニドを見上げている。
『グニド、だいじょうぶ?』
『……ああ、おれは大丈夫だ。ルル、お前、先に一人でこの穴に潜れるか?』
『うん。でも、グニドは?』
『おれもすぐに潜るさ。ただここは入り口が狭いから、お前を抱いたままじゃくぐれない。だから少し先に行って待ってろ。暗いから足元に気をつけるんだぞ』
『わかった』
ルルは心得たように頷くと、とてとてと横穴の前まで行き、しゃがみ込んで興味深げに穴の中を覗き込んだ。
それからふと地面に腰をつき、両足を先に入れたかと思えば、そのままするっと穴の中へ滑り落ちていく。賢明な判断だ。穴の入り口はやや急な傾斜になっているので、頭から入るより尻で滑り下りた方が安全に下りられる。
『グニド、いいよー!』
ほどなく穴の奥から声がして、グニドはいよいよ自分も頭を突っ込んだ。
あの頃から体が一回り大きくなったせいか、この小さな入り口をくぐるのはなかなかにきつい。それでもグニドは限界まで身を屈め、先に突っ込んだ両手で体を押し出すようにしながら何とか穴の中へ転がり込んだ。
入り口をくぐってすぐの傾斜は腹を覆う鎧で滑り下り、どうにか事なきを得る。
この横穴は入り口こそ狭いが、一度中へ入ってしまえば大人の竜人でも立って歩けないことはないのだ。そこでグニドは器用に立ち上がると、長い尾を体に巻きつけるようにして振り返り、穴の入り口へ手を伸ばした。
先程までこの穴を塞いでいた岩を元に戻すためだ。岩の裏側にはスエンと二人で掘った凹凸があって、そこに手をかければ穴の中からでも岩を動かせる。
『……』
――なあ、これって名案だよな。オレたち最高のコンビだぜ、グニド。
この岩にボコボコと大竜刀を叩きつけながら、そう言って得意気に笑っていたスエンの姿が脳裏をよぎった。
けれどグニドは、その記憶に蓋をする。
渾身の力で岩を引き戻し、余計な感傷は岩の向こうへ置いていく。
『ルル、そこにいるのか?』
『うん。ルルはここだよ、グニド』
夜目のきく竜人さえ何も見えない闇の中。
グニドはふんふんと鼻を鳴らしてルルの居場所を嗅ぎつけると、すぐにまた彼女を抱いて歩き始めた。
ここまで来れば、もう追っ手を心配する必要はない。あとはこの先の道から地上へ出て、どこへなりとも逃げればいいだけだ。
『グニド』
『何だ?』
『ルルたち、これからどこにいくの?』
『そうだな……まずはこの先の道から砂漠に出て、それから他の人間がいるところへ――』
言いながら暗い横穴を這い出し、グニドはついに目的の抜け道へ出た。
だが、そうして再び夜光石の光を目にしたところで立ち止まる。
青白い闇と静寂が、束の間大地の肚を満たした。
しかしそういう沈黙に耐性のないそいつはにわかに自身の大竜刀を地面へ叩きつけ、一声高く吼えて言う。
『待ってたぜ、グニド』
グニドは黙って、腕の中にいるルルを下ろした。
闇に溶けるような黒い鱗と、一際趣味の悪い鬣型。
それらを惜しげもなく夜光石の光に晒しながら、悪友は、そこにいた。