第一一七話 上陸、新大陸
モアナ=フェヌア海王国の都マリンガヌイは、街全体が青いタイルで飾られていたことから〝碧都〟の異名を持っていた。ではマグナーモ宗主国の都アルビオンはというと、ここは〝白都〟と呼ばれるらしい。
〝白都〟とはすなわち、ハノーク語で〝白き都〟という意味だ。
なるほど。アルビオンは確かに白い。見渡す限り真っ白だ。
建物も、石畳も、すべてが白い。
そしてその白が今、第一空艇団の帰還を出迎える群衆で埋め尽くされている。
「おかえりなさい、リベルタス提督、マギステル教授!」
何隻もの飛空船が無事降下したアルビオンの港には、そんな虹色の歓声が雨のごとく降り注いでいた。ルエダ・デラ・ラソ列侯国や無名諸島、モアナ=フェヌア海王国と、様々な国を巡ってきたグニドでさえも初めて遭遇する規模の人の群だ。
『ふわあ~! グニド、みて、みて! ナムが、すっごくいっぱい!』
『あ、ああ……まるで戦場だな……』
と半ば呆気に取られながら、グニドはルルを抱えて港へ下りた。
これはマドレーンの忠告に従って、事前に『凡化』の術をかけてもらっておいてよかったなと胸を撫で下ろす。そうしなければグニドやクワトは海王国のときの比ではない人数に囲まれて、最悪押し潰されていたことだろう。
「いやあ、久々に帰ってきたぜ、我が故郷! 相変わらず種族のごった煮だなぁ、この街は。余所の国から帰ってくると、何だかこっちの方が新鮮に感じるぜ」
「だね。にしてもまさかこんな数の群衆に迎えられるとは……なんか部外者の場違い感半端ないな」
「まあ、謙遜することないわよ、ラッティさん。獣人隊商は連合国では珍しい外からのお客様なんだから。アビエス連合国の民を代表して、改めて歓迎するわ。ようこそアルビオンへ! ってね。チュチュ!」
と、ようやく生まれ故郷へ帰ってこられたためか、今日はヨヘンだけでなくアルンダも上機嫌だ。早朝にモアナ=フェヌア海王国を出発してから数刻後。
グニドらがマグナーモ宗主国最北の地に降り立ったのは、その日の午をいくらか過ぎた頃のことだった。南西大陸の北端に位置するマグナーモ宗主国は、二十八の国からなるアビエス連合国の頂点に立つ国家だ。
いや、ヨヘンたちの話によれば連合国に加盟する国々の間に上下や優劣はないそうだから、もっと事実に即した言い方をするなら連合の〝代表〟だろうか。宗主国の〝宗主〟というのも、グニドにも理解できる言葉に直すと〝連合をまとめる長〟といった意味合いらしく、ゆえに宗主国の都アルビオンには大陸中から様々な国の出身者が集まるのだと聞いた──もちろん人間も獣人も種族を問わず、だ。
『わ、わ! グニド、あそこ! すっごくお耳のながい人がいる!』
『うむ……本当だな。あれは列侯国で見たウサギという獣に似ているが……』
『あっちには、ウーチェンじゃない鳥人もいるよ!』
『おお……確かに鳥だが、梟人ではないな……もしやカラスか?』
「──おかえり、ヴェン、マドレーン、それにエクターも。無事に帰ってきてくれて何よりだよ。みんな長旅ご苦労様」
ところがいざ未知の大陸へ上陸したグニドらが珍しがってあたりをきょろきょろしていると、不意にヴェンたちを親しく呼ぶ声がした。誰だと思って振り向けば、真っ先に目に飛び込んできた鬣色にグニドは目を丸くする。何故なら──青。
その人間の長く伸ばされた鬣は、海のように深い青色をしている。
ほんの少し青みがかって見えるルルの鬣よりも、よりはっきりとした青だ。
(普通、人間の鬣の色というのは黒や金や茶色ばかりで、たまに違う色を見かけても、緑や白や紫なんかが多かったが……)
少なくともグニドはルルの他に青色を帯びた鬣を見るのは初めてだ。
ゆえについ呆然とその人間の姿を目で追うと、彼の姿を認めたヴェンが、ひょいと気安く手を挙げて口角を吊り上げた。
「よう、ユニウス。大将自らお出迎えとは、ずいぶん熱烈な歓迎じゃねえか」
「……え!? ゆ、ユニウスさま!?」
ヴェンがさも平然と呼びかけるので、グニドは一瞬反応が遅れたが、彼はたった今、確かに目の前の人間を〝ユニウス〟と呼んだ。すると呼ばれた方の人間も特に否定せず、驚愕している獣人隊商の面々を顧みてにこりと笑う。
千年もの長きに渡り大陸を恐怖で支配したシャマイム天帝国を打ち倒し、現在のアビエス連合国を築いた博愛の神子──ユニウス・アマデウス・レガリア。
この見るからに若い人間がそうなのかと、グニドもにわかには信じられずに何度も目を瞬かせた。鬣が青いのにも驚きだが、ユニウスはグニドが想像していたよりもずっと細身で、年齢もラッティやヴォルクとさほど変わらないように見える。
いや、けれど実際には、ユニウスの年齢は見た目よりもずっと上のはずだ。
何せ彼がヴェンやマドレーンと共に革命軍を率いて戦ったのは、今から二十年も前の話なのだから。
(そうか。神子になった人間は魔女と同じで、確か年を取らないんだったな)
どうりで思っていたよりもずっと若く見えるはずだ。おまけにユニウスの肌は色白で、長い鬣も首の後ろでひとつに括って垂らしているから、一見しただけではオスなのかメスなのか見分けるのが難しかった。身にまとう衣服も、丈の長い貫頭衣のようなゆったりとしたもので体の線が分かりにくいから、事前にオスだと聞かされていなければ本当に雌雄の判別がつかなかったかもしれない。
「やあ、はじめまして。あなた方がヴェンたちの報告にあった獣人隊商の皆さんですね。ようこそ、アビエス連合国へ。いかにも僕が連合国宗主のユニウス・アマデウス・レガリアです。このたびは僕の仲間が色々とお世話になったようで……」
「い、いやいやいやいや! お、お世話になったのはむしろアタシらの方で……! と、というかまさかこんなところで連合国のトップにお会いできるとは……」
「はは、驚かせてしまってすみません。ですが僕も国外からのお客様がいらっしゃると聞いて、いてもたってもいられなかったものですから」
「あ? 何だよ、じゃあお前の本当の目的は獣人隊商に会うことで、俺らの迎えはついでだってのか、ユニウス?」
「そんなことはないよ。連合国史上初の国外遠征に出ていた仲間を心配しないわけがないだろ? 特にヴェン、君を国の外へ出したりしたら、そのまま自由を求めて行方を晦ますんじゃないかってみんな不安がってたんだから」
「ケッ。俺だってできることならそうしたかったけどよ。常にそこの淫乱性悪魔女と真面目一徹の白猫隊長殿に監視されてちゃあ、さすがにしおらしくしてるしかなかったぜ」
「あらあら。どうやら〝しおらしい〟というハノーク語の解釈について、私たちとこの飲んだくれの間には大きな隔たりがあるみたいね、エクター?」
「まったくです……私は本国へ帰り着く前に心労で全身の毛が抜けて、白猫隊にいられなくなるのではないかと気が気ではありませんでしたよ」
「ごめんよ、エクター。苦労をかけたお詫びに君には高級マタタビを用意しておいたから、六聖日の間くらいは大いに羽目をはずすといい」
「にゃッ……にゃにゃにゃにゃにゃんですとッ!? ハッ……い、いや、しかしユニウスさま。ご厚意は大変有り難いのですが、鈴の騎士たる者、いかにめでたき六聖日中であろうとも節度を失うわけには……」
「いや、お前、今めちゃくちゃ素が出てたろ。今更取り繕っても遅えぞ」
「そうよ。エクターはただでさえ真面目すぎるんだから、ユニウスの言うとおり、たまには羽目をはずしたらいいわ。で、ユニウス、私へのご褒美は?」
「マドレーンの分なら先払いしたはずだけど?」
「え? 何のこと?」
「昨日はマリンガヌイのヤムタンガ宮殿に一泊したんだろ? で、その謝礼の請求を僕の名前を使って帳消しにしたって聞いたけど」
「えぇ? でも、あれはあくまで宰相さんのご好意であって、ご褒美とは言わないんじゃない?」
「僕の名前を出せば宰相ならタダにしてくれると分かった上で彼の好意に甘えたんだろ。というかマドレーン、君……他にも何かやましいことを隠してないかい?」
「あら、何のことかしら?」
「さっきから君の周りで希霊が異様に渦巻いてて聲が全然聞こえないんだけど」
「ああ、これはあなたへの気遣いよ。こんなに人出のあるところじゃ聲がうるさくて敵わないでしょ? だからあなたの負担を少しでも軽くしてあげようと思って」
「へえ、そうなんだ、ありがとう。君がわざわざ聲を隠すときって、大抵いつもろくでもないことをしでかすから、つい疑っちゃったよ」
「……なあ、アルンダ。〝聲〟って?」
「聲っていうのは、ユニウス様が《愛神刻》を通して聞かれる人の心の声のことよ。普通の声とは違ってユニウス様にしか聞こえないものだから、分かりやすいようにそう呼んでいるんですって」
と、ラッティの肩に腰かけたアルンダが答えるのを聞いて、グニドはなるほど、と内心頷いた。そういえば昨夜マドレーンが、博愛の神子であるユニウスには生まれつき〝心の声を聞く力〟があるのだと話していたのを思い出す。
だが今の会話から察するに、マドレーンは希術を使って自らの心の声を聞かれないようにしているということだろうか?
ということは希術を使えば神の干渉を退けることも可能なのだなとグニドが感心していると、再びこちらを振り向いたユニウスが、にこりとやわらかく微笑んだ。
「まあ、とはいえまずはお客様をおもてなしするのが最優先だね。獣人隊商の皆さんは、今夜の宿はもう決まっているのかな?」
「へ? ああ、いえ、宿はこれから探そうと思ってたとこでして……」
「それはよかった。ではアルビオンに滞在される間は、ぜひマグナ・パレスの客室を使って下さい。もちろん、皆さんが嫌でなければですけど」
「え!? む、むしろワタシたちみたいな余所者が、マグナ・パレスにお邪魔してもよろしいんですか……!?」
「もちろん。というかたぶん、今から泊まれる宿を探すのはかなり難しいんじゃないかな。今の時期はどの宿も、新年祭目当てのお客さんで満室だから……」
「あ。な、なるほど……言われてみれば確かにそうですね。ならせっかくだし、お言葉に甘えちゃっても……?」
「ええ、歓迎します。というわけでヴェンたちも一緒に行こう。帰国して早々で申し訳ないけど、諸々の報告を聞かせてもらうよ」
というユニウスの提案により、グニドらは一路マグナ・パレスなる場所へ向かうことになった。このマグナ・パレスとは、かつてシャマイム天帝国の天帝カエサルが暮らしていた宮殿で、今はユニウスの家であり、また彼と共に連合国を治めたり守ったりする者たちが集まる場所でもあるのだという。
(しかしユニウスというのは、度量の大きい男だとは聞いていたが、想像以上に気さくで無防備だな。いくら事前に話を聞いているとはいえ、おれたちのような見知らぬ余所者をいきなり自分の縄張りに泊めるとは、大陸を丸々ひとつ治めるほどの長にしては警戒心が足りないというか、気安すぎるというか……)
それも博愛の神エハヴとやらの力で、こちらの心中を見透かせるがゆえなのだろうか。確かに他人の考えが手に取るように分かるなら、グニドらにはユニウスに対する敵意も害意もないことは一目瞭然なのだろう。
加えてアビエス連合国自体が二十年前の大戦以来、何の争いもない平和な国だということも彼の無防備さの一因なのかもしれない。
されどそんな豊かな大国の生みの親でありながら、偉ぶるでもなく、気取るでもなく、誰にでも分け隔てなく接することができるとは……。
(まったく……イドウォルにも脱皮後の皮を煎じて飲ませてやりたいな)
などと内心ため息をつきながら、グニドは天幕のような布の天井だけが乗った馬車の上で、手を振る民衆に応じるユニウスを見やった。他方、グニドらは飛空船から下ろした獣人隊商の幌馬車に乗り、ユニウスやヴェン、マドレーンを乗せた二頭立ての馬車についてゆく。こうして馬車の荷台に揺られるのは何だか久しぶりだ。
無名諸島から仲間に加わったクワトなどは馬車を見ること自体初めてだからか、幌を被った荷台を覗き込むや「オォ、オォ……!」と声を上げ、ひどく興奮した様子だった。そうして馬車が走り出したあともルルと一緒になって荷台から身を乗り出し、アルビオンの白い街並みを眺めては尻尾を忙しなくバシバシしている。
「ふわあ~、クワト、すごいね! マリンガヌイはまっさおさおすけだったけど、アルビオンはまっしろしろすけだね!」
「マッシロ、シロスケ……?」
「そうだよ、しろすけだよ! でも、アルビオンはどうしてしろいの?」
「へっへーん! そいつはなぁ、ルル。何百年も前にこの街を造った天帝カエサルが、空の神であるシャマイムの神子だったからだよ! ほら、空の上には雲があって、雲の色は白いだろ?」
「うん!」
「だからカエサルはアルビオンを雲の上の街みたいにするために、建物をみんな白くするよう命令したって話だ。そもそも白や青ってのは神様を連想させる色だから縁起もいいしな」
「まあ、一説には今の季節、大陸北端にあるアルビオンは暑くて大変だから、少しでも屋内が涼しくなるように建物の外壁を白くしたって話もあるみたいだけどね」
「ムウ……? 壁ガ、白イト、涼イカ?」
「そうよ。白は陽射しを反射するから、壁が白いと建物の中に熱が籠もらないの。その代わり、夏のアルビオンの街中はまぶしくて敵わないけど……」
「確かに、建物とか石畳からの照り返しがかなりキツいな……夏のアルビオンに来るのはアタシも初めてだけど、これじゃあっという間に日焼けしそうだ」
と、馭者台で馬の手綱を握るラッティが、昨日マリンガヌイで買ったポワイヤシの葉で自らを扇ぎながらぼやいた。今朝までいたマリンガヌイの暑さに比べれば、アルビオンは気温こそ高いもののカラッとしていて過ごしやすい。
ただ白い街並みに日光が反射してまぶしいというのは確かにアルンダの言うとおりで、ルルははしゃぎながらも終始目をしぱしぱしていたし、グニドも瞳孔を限界まで絞ってもまだまぶしいと感じるほどだった。
(しかしこの街は本当に人が多いな。マリンガヌイのアンガ・バザールも相当な人出だったが、アルビオンはまるで街全体がバザールだ)
その証拠に港にもあれだけの人数が集まっていたというのに、通りに出てもまだ人の列が続いている。彼らは国の英雄であるユニウスやヴェン、マドレーンをひと目見ようと詰めかけているらしく、行けども行けども歓声の嵐だ。アルンダ曰く、アビエス連合国軍が大陸の外まで進出したのは今回が初めてのことなので、他国へ遠征した第一空艇団の無事の帰還を祝いたい人が多いのだろうという話だった。
そもそも空艇団が出動した理由も、かつてのユニウスのように巨悪を倒すべく立ち上がった神子カルロスを救援するという栄誉あるものだったから、連合国民は彼らの活躍をとても誇らしく思っているようだ。もっともルエダ・デラ・ラソ列侯国で起きた出来事の一部始終を知るグニドとしては、カルロスたちが迎えた結末を手放しで喜ぶのは難しく、少々複雑な気分だったが。
「まあ……連合国軍の介入がなければ、列侯国は早晩エレツエル神領国に乗っ取られて、大変なことになってただろうっていうのは事実だからね。そして列侯国が神領国の隷属国になれば、中央海を挟んで神領国と連合国が本格的に睨み合う構図になってた。それを未然に防げたのは、結果として大手柄だったんじゃないかな」
「た、確かに、エレツエル神領国とアビエス連合国が本格的に衝突を始めたら、世界を巻き込む大戦争になるって言われているものネ……どちらも大陸を丸ごとひとつ治めるほどの大国同士だから……」
「ダガ、連合国ハ、空飛ブ船、アル。トテモ強イ。ナラバ、神領国ニモ負ケナイ、違ウカ?」
「そりゃ技術力の面では我がアビエス連合国が圧勝だろうけどな。しかしエレツエル神領国は、本土の他に北西大陸北部の広大な植民地まで持ってやがる。つまり物量と兵力ではあっちが上手だ。エレツエル人は人も物資も植民地から情け容赦なく徴発して、湯水のごとく戦地に送り込む冷血さも併せ持ってるしな」
「神領国の強みはそこだよな。あの国は首脳陣が軒並み血も涙もない上に、目的のためなら手段を選ばない。いずれ起こるだろう連合国との戦争に備えて各地の遺跡を荒らしては古代兵器を掻き集めてるって噂もあるし、ほんと勘弁してほしいよ。超兵器を駆使した大国同士の戦争なんて、考えただけで死にたくなる」
「大丈夫よ、ラッティさん。確かに連合国と神領国の関係は険悪だけど、ユニウス様は戦争なんて望んでいらっしゃらないわ。この二十年は発足したばかりの連合国を安定させるために内側にばかり意識が向いていたけれど、今回の派兵を契機に今後は外交にも力を入れて、神領国との戦争を回避する術を模索したいとおっしゃっていたから──」
と何やら話がだんだんと難しくなり、グニドが懸命に理解しようと首を傾げていたときだった。突然、視界の端でルルがはっとしたように体を起こし、数瞬その場に硬直する。どうしたのかと目をやれば、途端に彼女もグニドを振り向き、真っ青な顔をした。かと思えばすぐさまグニドに飛びついて、衣服へと縋りついてくる。
『グニド、たいへん! 道のむこう、なにかいる……!』
『え?』
『なにか……なにか、とてもわるいもの! ユニウスがあぶない……!』
それはあまりにも唐突な警告だった。が、グニドは知っている。
ルルもまたユニウスと同じく、グニドたちには聞こえない声を聞く者だ。
そして彼女が聞いているのは精霊の声。ならばこれは精霊の警告だ。
瞬時にそう理解したグニドは、ルルを抱きかかえると同時に立ち上がった。
そうして荷台から飛び降り、直前にルルが示した方角へ視線を走らせる。
そこに見えたのは、前方の馬車に乗るユニウスたちの姿をひと目見ようと押しかけた群衆。彼らに握手を求められ、笑顔で応じるユニウス。
そんな通りの様子を見下ろすように建ち並ぶ白い建物……。
しかしルルの言う〝とてもわるいもの〟とは何なのか、怪しいものは見当たらない。ルルが指し示したのは馬車の進行方向だが、いるのは無害そうな民ばかりだ。
いや、あるいは大勢の群衆にまぎれてユニウスを狙う不届き者がいるのか。
だとすれば今すぐ彼に警告しなければと、グニドはルルを抱いたまま馬車を追うように駆け出した。
『ルル、ユニウスを狙っているのがどいつか分かるか!?』
『わ、わかる……けど、みえない!』
『どこだ、人垣の向こうか!?』
『ちがうよ! ──あそこ!』
と、ルルがグニドの腕の中から指さしたのは、ユニウスたちを乗せた馬車の行く手にある建物だった。アルビオンに並ぶ家屋はどれも屋根が平らで、人が屋上に出られる仕組みになっているのか、ルルが示した建物の上にはたくさんの洗濯物が干されている。白くて大きな布が何枚も紐にかけられ、風に翻っているのが見える。
が、分かるのはそれだけだ。
そこに誰かが隠れているということなのかもしれないが、グニドにも見えない。
何しろ建物は二階建てで高さがあるし、人が多すぎて鼻がきかない。
ならばどうすればユニウスを守れるか?
答えは三歩進むうちに出た。グニドは一気にユニウスの馬車へ肉薄すると、足音に気づいて振り向いたヴェンの名を叫び、彼に向かってルルを放り投げる。
ぽーんと宙高く放り出されたルルの体は、悲鳴を上げたヴェンが押し潰されながらも受け止めてくれた。が、突然のことに驚いたのは馬車に群がっていた群衆も同じで、誰もがぎょっと立ち竦んでいる。おかげで道が見えた。グニドは硬直して動きを止めた人々の間を縫うように素早く駆け抜け、ユニウスらの乗る馬車を追い抜いた。と同時に人混みを抜けて強く踏み込み、白い石畳の上で跳躍する。
「ジャッ!!」
そうしながら体を拈り、尻尾を振り抜いた反動で勢いと回転をつけながら、白い布の翻る屋上に向かって飛刀を投げた。同時に投擲した三本の飛刀は何もない宙空に吸い込まれた──かに見えたが直後、驚くべきことが起きる。というのも、
「ぎゃっ!?」
とにわかに悲鳴が上がったかと思えば、三本の飛刀のうちの一本が何もないはずの空間に突き刺さり、べろりと景色が捲れたのだ。グニドは着地と同時に目を疑った。捲れた景色の下にはなんと人間がいて、右肩に飛刀が突き刺さっていた。
しかも飛刀はそいつが身にまとった景色の上から刺さっていて、何もないはずの空間に飛刀が浮き、赤い血が滲んでいる。
一体何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。が、混乱した頭で唯一理解できたのは、やつが奇襲に驚いてよろめいた拍子にさらに景色が捲れ、その手に弓のようなものが握られているのが見えた、ということだ。
「ちょっと、あれ……! 私が極秘に開発してた透化布じゃない!? エクター!」
途端に同じものを目撃したマドレーンが色めき立ち、翼獣に跨がって馬車の傍らを進んでいたエクターを振り向いた。するとエクターも心得たというように帽子を押さえて即座に飛び立ち、捲れた景色の狭間にいる人間を取り押さえようとする。
ところが相手もすぐに彼の接近に気がつくや、とっさに景色を脱ぎ捨てた。
なんとやつの全身を隠していたのは、周囲の景色を鏡のごとく映し出す不思議な布であったらしい。されどそんなことがあるのかと唖然としている場合ではなかった。隠れ蓑を剥ぐと同時に肩に刺さった飛刀も引き抜いた謎の人間は、上空から牙を剥いて襲いかかろうとした翼獣に向かって弓を構え、瞬時に矢を放った。
しかしあれもまた変わった弓だ。やつが構えた弓は弦が地面に対して水平に張られていて、ヴェンの得物である希術銃に似た引き金がついている。
そしてやつがその引き金を引くだけで、一瞬にして矢が放たれた。
すんでのところで気づいたエクターが手綱を操り、辛うじて矢ははずれたが、翼獣が空中で体勢を崩した隙に不審者は身を翻し、一目散に逃げていく。
「なんてこと……! 誰かが私の留守中に研究室に忍び込んだのね!? やっと完成した試作品だっていうのに、盗まれるなんて冗談じゃないわ! ヴェン!」
「お、おぉ……!? 何だよ、何が起こってんだよ!? 嬢ちゃんのせいで俺だけなんも見えてねえぞ!?」
「暗殺者よ! 一応馬車には防護術をかけてあるけど、急いでユニウスを連れて避難して! 私はあの泥棒を取っ捕まえてズタズタにしてくるから!」
「ま、待ってくれマドレーン、君とエクターだけじゃ──」
とユニウスが止めるのも聞かず、マドレーンは怒りのためか、たちまち長い金鬣を生き物のごとくうねらせた。直後、彼女の体はまばゆい光に呑まれて形を変え、愕然とするグニドの目の前で巨大な一羽の猛禽になる。
「えっ……えっ!? あれってもしかしてマドレーンさん……!?」
と馬車を止めたラッティが慌てふためきながら見上げた先で、天高く舞い上がった金色の猛禽は、喝、と甲高く吼えるや否や長い尾と冠羽を翻して飛び去った。
そうして建物の上を飛び過ぎる間際、何かを掴み去ったように見えたのは、恐らくあの鏡の布を回収したのだろう。それを追うようにエクターも翼獣を駆り、先程の不審者が逃げ去った方角へと天空を馳せてゆく。
「はあ……おい、帰ってきて早々これかよ……ユニウス。まさかとは思うがお前、またマグニどもを挑発したんじゃねえだろうな?」
「……」
と、依然ルルに潰されたまま、馬車の座席に沈んだヴェンが覇気のない声色でそう尋ねた。されどユニウスは気まずそうに顔を背けるばかりで答えない。
アルビオンの白い街並みは騒然とした空気に包まれ、人々は恐慌していた。
──暗殺者。
去り際にマドレーンが叫んだあの言葉が事実なら、どうやらアビエス連合国も、波乱とはまったくの無縁……というわけではなさそうだ。