第一一五話 海の魔女の物語
天と地に星が満ちている。
耳を澄ませば、遥か遠い波音まで聞こえそうな静かな夜だ。
そんな夜の真ん中でグニドはマドレーンとふたり、碧都マリンガヌイの高台に建つヤムタンガ宮殿の露台にいた。一行が今夜泊まっている貴賓室は、ふたつの部屋が隣り合う形でつながっていて、そのそれぞれから白い半円状の露台が突き出している。グニドがそこへ風を浴びに来るよりずっと前から、マドレーンは隣の露台でひとり、酒を飲んでいたようだった。
「よかったらあなたも一緒にどう? これ、海王国名物の『碧酒』ってお酒なんだけど」
「ムウ……オマエガ、酒、飲ンデイル、珍シイナ」
「そう? まあ、毎日酒浸りのヴェンに比べたら確かに珍しいかもしれないけど、私だってわりと飲む方よ。もともとお酒は嫌いじゃないし」
「ソウナノカ……デハ、オレモ、アウ=モアナ、モラオウ」
グニドが露台を囲う手摺越しにそう答えれば、マドレーンはニッと赤い唇の端を持ち上げて、不意にパチンと指を鳴らした。
すると突然、グニドの眼前でキラキラと輝き出したものがある。それはどこからともなく現れた、星屑のごとき光の粒子だった。粒子は銘々、まるで意思を持っているかのように手摺の上へ集まると、ある一点に向かって収束していく。そうしてひとつの光となった星屑の群は、やがて円筒の形を取った。ほどなくすうっと輝きが収まると、直前まで何もなかったはずの手摺の上に氷入りの硝子の杯が置かれている。どうやらマドレーンが希術によって無から生み出したもののようだ。
「はい。好きなだけ自分で注いでお飲みなさいな。あなたには少し甘すぎるかもしれないけど」
一体どういう仕組みなのやら、開いた口が塞がらないまま杯を凝視していると、そんなグニドの驚愕などお構いなしといった様子でマドレーンが酒瓶を差し出してきた。受け取った瓶は黒く、月明かりだけでは中身が見えなかったが、試しに杯へと注いでみれば驚いたことに、青い。
モアナ=フェヌア海王国を囲む海と同じ、美しく透き通った青だ。
「ム、ムウ……コレ、酒カ? 海ノ水デハナイカ?」
「バカね。確かに海のように青いお酒ではあるけれど、海水は汲んだところで透明でしょ。その色は食用花から抽出された液体を混ぜてつけられたものよ。当然塩辛くもないし、人体にはまったくの無害だから安心なさい」
そう言ってマドレーンが口をつけた彼女の杯にも、よく見るとまったく同じ海色の酒が注がれていた。されどグニドは話を聞いてもまだ半信半疑で、恐る恐る杯の中に長い舌を差し入れる。そうしてペロッとひと口掬い上げてみると、碧酒は確かに甘かった。見た目は小さな海なのに、少しも塩気を感じない。
むしろ果実を絞った汁のような瑞々しい甘さの中に、しっかりと酒の味が溶け込んでいて飲みやすかった。酒精はさほど強くはないようで、グニドにはいささか物足りなかったが、ルルが酒を飲めるようになったら喜んで飛びつきそうだ。
「どう? なかなかおいしいでしょ?」
「ウム……列侯国ノ酒ノヨウニ、苦クナイシ、無名諸島ノ酒ノヨウニ、酸ッパクモナイ。トテモ飲ミヤスイ酒ダ」
「そう。それはよかった」
「……シカシ、オマエ、何故ココニ居ル? 眠レナイカ?」
「ええ、何だか今夜は妙に目が冴えちゃって。ならせっかくだし、マリンガヌイの夜景でも楽しみながら一杯引っかけようと思ったのよ」
杯を片手にそう答えたマドレーンは再び手摺に肘を預け、夜風に靡く金色の鬣を耳にかけた。そうしながら星空のごとき街並みを映す瞳を細めると、珍しく感傷に浸るような横顔をする。
「だけど本当に綺麗ね、この街は。私たちが普段暮らしてるアルビオンも美しい街だけど、やっぱりマリンガヌイには負けるわ。ほんの二十年前はどこも目を覆いたくなるようなひどい廃墟だったのに、人ってどうしてこんなに逞しいのかしらね」
「逞シイ、カ」
「だってそうでしょ? 彼らには神子が授かるような神々の恩寵も、口寄せの民みたいな希術の力もない。なのに何度踏みつけられたって、最後には必ず立ち上がるんだもの。それってすごいことだと思わない? 神子や魔女のように無限の時間があれば、いつか時間が解決してくれると思えることもあるかもしれない。けれど彼らの人生は、せいぜい五十年ぽっちしかないのよ」
「……ソウダナ。ソシテ、獣人ノ寿命ハ、モット短イ」
「ええ、そうね。そんな短い人生を嘆きもせずに、精一杯生きようとするあなたたちを見てると、ときどき羨ましくなるわ。私は生まれたときから永遠の命が約束されてたから、ほんの一瞬ぱっと咲いて散る花のような人生って、逆にちょっと憧れるのよね」
「ムウ……オレ、前カラ気ニナッテイタ。魔女ハ、普通、死ナナイカ?」
「いいえ、死ぬわよ」
「ジャ?」
「死のうと思えばいつでも死ねるし、同じ魔女なら魔女を殺せる。実際、私も何人か同族を殺したしね。神を宿した神子でさえ死ぬときは死ぬんだもの。なら本当に不死なる存在なんて、それこそ神様くらいしかいないんじゃないかしら?」
「ソ、ソウナノカ……ダガ、魔女ハ魔女ニシカ、殺セナイ、何故ダ? 希術デナケレバ、殺セナイ、トイウコトカ?」
「うーん、厳密には違うんだけど、ある意味そうとも言えるかもしれないわね。希術を使わずに魔女と互角に渡り合うなんて、ほとんど不可能に近いだろうし」
「デハ……希術ハ、人ヲ呪ウコト、デキルカ? 呪エバ、魔女ヲ殺セルカ?」
グニドが思わずそう問い重ねると、マドレーンはちょっと驚いた様子で振り向いた。そんな彼女の反応を見て、物騒な質問の理由を問い質されるだろうかとグニドは一瞬身構えたが、直後に返ってきたのはまったく予想外の言葉だ。
「グニドナトス。あなた、ひょっとしてマナの呪いを見たの?」
マドレーンに名前を呼ばれた刹那、グニドの全身にビリッと痺れるような感覚が走った。そうだ。そういえば魔女は名前を呼ぶことで相手を支配できる力を持つと言っていた。だがグニドが緊張に身を硬くしたのも束の間、いつかルエダ・デラ・ラソ列侯国で体が勝手にヒーゼルを押さえつけたときのような異変は起こらない。
ということは今のマドレーンの質問は、強制力を伴ってはいなかったということだ。とはいえここで嘘をつくのは憚られ、グニドはほんの少しの後ろめたさに首を引っ込めながら頷いた。
「ウ、ウム……オレ、列侯国デ、マナニ呪イ、見セラレタ。ダガ、オマエモ、アノ呪イ、知ッテイルカ?」
「ええ、もちろん知ってるわよ。だってマナにあの呪いをかけたのは、私が殺した大魔女だもの」
「大魔女?」
「口寄せの民の中でも特に長く生きた者をそう呼ぶの。私たちの力は基本的に生きれば生きるほど強くなっていくからね。けれど口寄せの郷にも大魔女と呼ばれる魔女は指折り数えるほどしかいない。というか、今はもう実質族長ひとりだけね」
「……? 大魔女、ヒトリダケ……何故ダ? 魔女ハ皆、トテモ長生キスルモノ、違ウカ?」
「ええ、そうね。だけど魔女の多くはある程度長く生きると、人生に飽きるか満足するかして自死するのよ。私たちにとって死とは恐ろしいものではなく、ただ世界に還るだけのことだから……」
「世界ニ……還ル?」
「ええ。それに、かつて大魔女のひとりが力に溺れて暴走してからは、大魔女になれるのは長に認められた者だけという掟ができた。本人がもっと生きたいと望んでも、長に認められなければ例外なく殺されるわ。もう二度とヘレのような大魔女を出さないためにね」
「ヘレ?」
「そう。およそ千年ものあいだ天帝と共謀し、大陸を恐怖と呪いで支配した大魔女ヘレ……彼女こそがマナを呪った張本人であり、私が殺した魔女のひとりよ」
再び杯を傾けながら、マドレーンがどこか遠い目をして告げた真相にグニドは眼を見開いた。だが言われてみれば、昼間に訪ねたヤムアンガ神殿で彼女はこう言っていた気がする。自らを指して『魔女殺しの魔女』、と。
「だけど意外ね。まさかマナが呪いのことを赤の他人に明かしたなんて……もしかして他の獣人隊商の面々も知ってるのかしら?」
「否。教エラレタハ、オレダケダ。ダガ、マナト一緒ニ居タ、ウォン、トイウ男モ知ッテイタ」
「ウォン? ああ、列侯国で義勇軍に雇われてたあの無愛想な傭兵ね。でもマナと一緒にいたってことは……彼、本当の名前はキムっていうんじゃない?」
「ジャ? ナ……何故、分カッタ?」
「実は前に一度だけ、マナから近況を知らせる手紙が届いたことがあるのよ。そこに彼の名前が書かれてあったの。旅先で自分と似た境遇の傭兵を見つけて、すっかり意気投合したからよろしくやってるって」
「イキトウゴウ……?」
いや、むしろマナとウォンとは、見た目も性格も正反対で、端から見れば水と油だったが……とグニドは思わず首を傾げた。しかしマドレーンはグニドのその反応を、ハノーク語が理解できなかったのだろうと勘違いしたらしく「要するに似た者同士気が合ったってことよ」と付け足して話を続ける。
「でも彼の場合は特別でしょ。マナも同じ秘密を抱える者同士だから安心して呪いのことを打ち明けられたんだと思うわ。だけどあなたは……」
「……マナガ、オレニ呪イノコト、話シタハ、恐ラク、ルルノ為ダ」
「ルルのため?」
「ウム。マナハ、オレニ、ルルノコト、守レト……自分ト同ジ運命、辿ラセルナ、ト言ッタ。アイツハ、タブン、ルルト自分、重ネテイタ……」
グニドが手の中の杯を見つめてそう言えば、青い酒の底に沈んだ氷が頷くようにカランと鳴った。グニドがあのときのマナの真意に気がついたのは、この国へ来て彼女の過去を知ったためだ。
それまではルルのためを想った単なる助言だと思っていたものが、実はマナの深い後悔と悲しみから紡がれたものだったのだと知ってグニドは今日、心底恥じた。
ならば自分はマナのために一体何をしてやれただろう、と。
「……なるほどね。確かにそれが理由なら納得かも。マナが生まれる場所や時代を選べなかったように、ルルも好きであの神刻を刻んで生まれてきたわけじゃないものね。そういう自分ではどうしようもないものに振り回されて生きるのを、マナは何よりも嫌ってたわ。大戦後にひとりで大陸を飛び出していったのだって、もとは呪いを解く方法を探すためだったわけだし」
「ダガ、マナハ、呪イヲ解ク方法、何処ニモナイ、ト……ダカラ、自分ハ諦メタ、ト言ッテイタ」
「……」
「マドレーン。マナノ呪イ、本当ニ、解ケナイカ? 呪イモ、希術。ナラバ、同ジ希術、使エバ……」
「残念ながら不可能よ。今もマナを蝕んでいる呪いの種子は、確かに希術によって生み出されたものだけど、製法も正体も未だに解明できていないの」
「ジャ……?」
「要はアレを生み出したヘレの他に、呪いの解き方を知る者はいないってことよ。でも、そのヘレももういない。私もあの女が死ぬ前に、拷問でもして吐かせようと思ったんだけど……いまわの際にあいつは言ったわ。呪いの種子はこの世の誰にも解くことのできない、完全にして無二の呪いだと。だから偉大なるシャマイム天帝国を滅ぼした報いとして、死ぬまで苦しみ続けろ、ってね」
マドレーンがマリンガヌイの夜景を見下ろしながら告げた言葉は、巨大な鉛の塊のごとくグニドの頭をガツンと打った。
完全にして無二の呪い。そんなものが果たして本当に存在するのだろうか。
いや、だがそもそもグニドは、エマニュエルに〝呪い〟と呼ばれるものが実在することすらマナと出会うまで知らなかった。ならば誰にも解けない呪いだって、あるはずがないとは言えない。そしてマナが長い年月をかけ、世界中を探し回っても解呪の方法を見つけられなかったということは……。
「本当ニ……本当ニ、無理カ? マナハ、モウ、助カラナイカ?」
「……」
「ダガ、何故……マナハ、何故、呪ワレタ? 天帝国、倒シタカラカ?」
「いいえ、違うわ。彼女が呪われたのは、天帝国が崩壊するよりもっと前……モアナ=フェヌア海王国が一度滅ぼされたときのことよ。マナは生まれてからずっと性別を偽って、天帝国を騙してたって話はしたでしょ?」
「ウム……ダカラ、天帝国ハ罰トシテ、海王国、襲ッタ、ト……」
「そう。そして女だと知られたマナは強制的に、カエサルのいるマグナ・パレスへ連れ去られた。彼女がヘレに呪われたのはそのときよ。アレは天帝国に逆らった者に対する見せしめだったの。ただ処刑するよりもずっと長い間、死んだ方がマシだと思うほどの苦しみを与えられる方法だったからね」
というマドレーンの答えのあまりのむごさに、グニドは思わず顔をしかめた。
かつて南西大陸を支配していたカエサルなる男は、マナの故郷を焼いただけでは飽き足りなかったのか。国がひとつ滅ぼされ、大勢の罪なき者が死んだだけでは、充分な見せしめにはならないと考えたのか……。
(仮にもカルロスと同じ、神に選ばれた存在でありながら──いや。あるいは神に選ばれたからこそ……カエサルは狂っていたのか?)
かつてルエダ・デラ・ラソ列侯国で目にした神の狂態。
あれがもし、人間たちが〝神〟と呼ぶものの本性なのだとしたら、カエサルもまたいつかのカルロスのように、身も心も神に乗っ取られていたのだろうか?
そして彼の傍にはその異変に気づく者も、命懸けで止めてくれる者もなかった。
ゆえにひとり静かに狂っていったのだとしたら、頷けない話ではない。
「……シカシ、分カラン。女ガ、男ノフリスルコト、何故、悪イカ? 国ヲ滅シ、マナヲ呪ウホド、悪イコトカ?」
「ああ……そういえば竜人って、オスにもメスにもほとんど性差がないらしいわね。おまけに結婚とか夫婦って概念も存在しないとか」
「ウ、ウム……確カニ、オレタチ、ツガイ、作ラナイガ……」
「なら理解できなくて当然でしょうね。だけど当時の南西大陸には、各国の王族に生まれた女は全員、天帝の妻にならなければならないって決まりがあったのよ」
「……ジャ?」
「つまり絶対にカエサルと結婚して、マグナ・パレスの後宮で一緒に暮らさなければいけなかったの。それは娘を差し出す王家にとって、家族を人質に取られることと同義だった。天帝国に少しでも逆らえば、カエサルのもとにいる娘や姉や妹が殺されるかもしれなかったのよ。ヘレがマナにしたのと同じ方法でね」
マドレーンの答えを聞いて、グニドは久しぶりに背筋が寒くなった。王族の娘を人質とするために結婚し、妻にする──そんなものはただの略奪ではないか。
されどカエサルはそれを大陸中の国々に強制し、拒めば反逆の意思ありと決めつけて罰を与えた。すなわちモアナ=フェヌア海王国が受けたのと同じ死と絶望を。
(だから海王国の先王はマナを王子として育てたのか。自分の娘を守るために……望まない結婚や、人質としての暮らしから遠ざけるために)
だが結果としてマナの正体は暴かれ、海王国は未曾有の惨劇に襲われた。
その事実だけを見れば、先王のしたことは間違いだったとしか言えない。
けれどもグニドはとても彼を責める気にはなれなかった。
何故なら自分も、もしも同じ理由でルルを差し出さなければならないと言われたら、同じ選択をするかもしれないと思うからだ。
実際にグニドはかつて卑劣な手段で長老の座を掠め取ったイドウォルが、ルルに触れることすら許せず谷を飛び出した。とすればなおのこと、カエサルのごとき狂人にルルを差し出すなど冗談ではない。性別を偽るのが無理ならば、きっと自分は刺し違える覚悟でカエサルを殺しに行くことだって考えただろう。
(だが、自分を守るための行動が結果として谷を滅ぼし、おれを死に追いやったと知ったなら……ルルはきっと悲しみに耐えられないだろう。そんなことになるくらいなら、自分ひとりが犠牲になればよかったと泣き続けるに違いない。そして恐らくは、マナも──)
グニドの脳裏で屍の海に座り込み、慟哭するルルの姿がマナに重なる。乾いた砂漠の風景は燃え盛るマリンガヌイの街並みへと置き換わり、美しき都が滅びゆくさまを幻想する。それだけでグニドの胸は潰れそうだ。
──自分さえ生まれてこなければ。
もしも自分がマナの立場でも、きっとそう思わずにはいられなかっただろう。
だからこそ、苦しい。苦しくて仕方がない。
そんなマナのためにしてやれることが何ひとつ見つからないなんて。
「……けれど海王国を襲った悲劇は、決して無駄ではなかったわ。あの事件がなければユニウスはマナと出会わず、革命も起こらなかったはずだから」
「ソウ……ナノカ?」
「ええ。ユニウスが父親を殺そうと決意したのは、マナの絶望に触れたから……彼は博愛の神エハヴの神子。そしてエハヴの恩寵は、他者の心の声を聞く力よ。だからユニウスは耳を塞げなかったの。私を殺して、と叫び続けたマナの心の声にね」
「心ノ、声……」
そうか。確かに《義神刻》を宿していたカルロスにも、悪を滅する力というツェデクの強大な恩寵があった。たったのひと振りで魔物の群を焼き払った彼の剣の閃きは、今もグニドの眼に焼きついている。
ユニウスの場合はそれが、言葉どおり人の心に触れることだった。
ゆえに彼には理解できた。当時マナの心を支配していた絶望の深さも、暗さも、冷たさも、何もかも自分の感情のように。
「……ダカラ、ユニウスハ、マナヲ救ッタカ? 父親ヨリ、マナヲ選ンダカ?」
「ええ、そうよ。意外だったかしら?」
「……」
「エハヴの力はね。ユニウスにとっては呪いみたいなものだったのよ。だってどんなに聞きたくないと願っても、自分の意思とは関係なく人の心の声が聞こえてしまうんだもの。おまけに当時の天帝国には人々の怨嗟と慟哭が常に渦巻いていた。だからユニウスは耳を塞いで、ずっとひとりで閉じ籠もって暮らしてた。だけどどんなに耳を塞いでも消えなかった声があったの。それがマナの心の叫びだったのよ」
殺して。殺して。誰か私を殺して。
二度と来世が訪れないように。永遠の罰を受けて苦しみ続けるように。
マナが叫び続けた声なき声は、他者の声に耳を塞ぎ続けたユニウスをついに動かした。彼はこの世のすべてを劈く声の主を探すため、長年一歩も外に出ることのなかった部屋から踏み出したのだ。そして彼女と出会い、悟り、誓った。
自分はシャマイム天帝国に生まれた皇子として、何と引き替えにしても彼女を救わなければならない、と。
「とまあ、そんなわけで今のアビエス連合国が生まれたのよ。すべてはユニウスがマナの手を引いてマグナ・パレスを飛び出した瞬間から始まったの。連合国にとってあのふたりはまさにアダンとイェヴァってことね。彼らがいなければ今もまだ、南西大陸では天帝国の支配が続いていたかもしれないわ」
「……アダン? イェヴァ?」
「あら、知らない? エマニュエルで最初に生まれたとされる始まりの男女よ。私たち人類の始祖とでも言えばいいかしら」
「……? ダガ、人類ハ、神ノ涙カラ、一度ニタクサン、生マレタ。ヨヘンヤ、ポリーハ、ソウ言ッテイタ」
「ああ、他の大陸の創世記ではそうなってるみたいね。だけど南西大陸では、神鳥ネスの卵から生まれたのは神ではなく人だったと言われてるのよ」
「ジャ……!? ナ、ナラバ、神ハ、何処カラ生マレタ?」
「さあ。私たちの知る創世記では、人類が生まれたときには既に天界が存在して、神はそこからやってきたってことになってるけど……アビエス人はそれが正しい神話だと思ってるから、余計に余所の国から理解されないのよね。人類は神々の営みによって生まれた、だから創造主たる神々を敬い信仰しなければならないって考え方に背くとか何とか……私は別に神様と人類がまったくの別物で、対等な関係でもいいと思うんだけどね」
「ソ、ソウカ……?」
「だって神と人類の違いなんて、要するに種族の違いでしょ。なら人間と獣人が共存することと何が違うの? 確かに神の力は強大かもしれないけど、その気になれば希術でも同じことができちゃうわけだし、だったら私も神として崇められてもいいと思わない?」
「……」
「あら、まるで〝お前が神になったら世界が滅ぶ〟とでも言いたげな顔ね」
「心ヲ読ムナ……」
「うふふ、ほら。他人の心の声を聞くなんて、神の力を借りなくても簡単にできるでしょ。おまけにエハヴの恩寵と違って、希術なら聞きたいときにだけこっそり聞けちゃうわけだし? むしろ希術の方が使い勝手がよくて助かるわ」
「……ソウカ。ダカラ、オマエ、神ヲ恐レナイカ」
「口寄せの民にとって神は信仰の対象じゃないからね。恐れる理由が特にないわ」
「ムウ……ヤハリ、魔女ハ、恐ロシイナ……」
「あら。じゃあ、やっぱり私も神ってことでいいわよね?」
「オレ、精霊シカ、信ジナイ」
言外に自分を崇め敬えと迫るマドレーンの要求を、グニドはぴしゃりと突っ撥ねた。が、マドレーンはいつもどおりにこにこしながら「まあ、つまらない」と言うばかりで、少しも応えていない様子だ。この女も神と同じくらい油断ならないなと思いながら、グニドは黙って碧酒を舐めた。
(だが、そうか。神も人間や獣人と同じ、ひとつの〝種族〟か……)
それは北西大陸では出会えなかった考え方だなと、グニドは眼が脱皮した思いがした。確かにそう考えれば、神と呼ばれるものたちを必要以上に恐れなくて済むような気がする。やつらが得体の知れない存在であることに違いはないが、そういう種族だと思えばいいのだ。そして理解しようと歩み寄ってみればいい。分かり合えるかどうかは未知数でも、今日までグニドが人間たちにそうしてきたように。
「んー、それにしてもちょっと話し込みすぎちゃったわね。いい感じにお酒も回ってきたし、私はそろそろ休むとするわ。あなたももう寝たら、竜人くん?」
「……オレハ、モウ少シダケ、酒、飲ンデイク。コレ、全部、モラッテ良イカ?」
「ええ。もとから客室に用意されてたお酒だから、どうぞ遠慮なく。だけど明日も早いわよ。そっちの部屋の飲んだくれをひとり叩き起こすだけでも重労働なんだから、あなたも夜更かししすぎて起きれない、なんてことにならないようにね」
「ウム……心得タ」
「じゃ、おやすみなさい。よい夢を」
マドレーンは最後にそう告げて手を振ると、軽い足取りで部屋へと消えた。
そんな彼女を横目で見送ったのち、グニドは再び眼下の夜景を見下ろしてみる。
暗闇の中で明滅する、いくつもの小さな光。そのひとつひとつがグニドには、この国に生きる者たちの心のきらめきのように思えた。
同じ光が今、世界のどこかにいるマナにも降り注いでいればいいと、願う。