第一一三話 彼女たちの未来
神官長の言っていたとおり、ヤムアンガ神殿はかなり広大な建物だった。
歩いても歩いても、どこまでも廊下が続いている。
プアカの話によると、神殿では常時百人ほどの神官が暮らしているらしく、彼らの住居も兼ねた建物だというから当然と言えば当然だ。しかしそれ以上にグニドを驚愕させたのは、普段神官以外は立ち入らないと言われる神殿の深部まで、やはり一葉(五センチ)の隙もなく青で埋め尽くされていることだった。
「ヤムアンガ神殿の装飾に使われているタイルは、実は神殿の建設から数百年かけて貼られていったものなんです。ここに描かれている魚や貝、草花はただの絵じゃなくて文字なんですよ。神殿文字と呼ばれる文字で、わたしたち神官と王家に連なる方だけが読み書きできる古いモアナ語……と言ったらいいんでしょうか。一般的なモアナ語には文字がないんですけど、昔から王族と神官だけがこの文字を継承してきたと聞いています」
と、感心して壁や天井を眺めるグニドらにプアカがそう説明してくれたものだから、グニドはますます驚いた。見渡す限りすべてのタイルに描かれた膨大な数の絵がすべて文字? あまりにも想像を絶する世界にグニドは首を傾げるのも忘れて、あんぐり口を開けたまま天井を仰ぎ見た。これだけの文字を神殿の隅から隅まで書き込むともなれば、完成までに数百年の歳月を要したというのも納得だ。
「す、すんげえ……こいつが全部文字なのかよ……けど建物中にこんなびっしり、一体何が書かれてるんだ?」
「お部屋によって書かれてる内容は違うんですけど、廊下の大部分はモアナ=フェヌア海王国の歴史ですね。何代目国王の何様の時代にこんな出来事があったとか、こういう法令ができたとか、そういった記録ばっかりです」
「へえ……じゃ、一般人が立ち入れるあたりには何が書かれてんの?」
「あのあたりは全部創世記から始まるエマニュエルの神話ですね。他にもさっきわたしたちが作業していた『満ち潮の間』とか『引き潮の間』、『細波の間』、『大波の間』なんかはヤム様の神話でいっぱいです。一番奥にある『水神の祠堂』には今までヤムさまに仕えた神官たちの名前が記録されていて、そこだけが唯一神殿内でまだ内装が完成してないんですよ」
「ホッホウ、実に素晴らしい……ヤムアンガ神殿とはヤム神の家であると同時に、海王国の歴史の保管庫でもあるのですなあ」
と、ウーチェンが嘴の上の眼鏡を上げ下げしながら感嘆の声を上げると、プアカは嬉しそうに頬を染めて笑ってみせた。その笑顔を見ただけで、彼女が神殿や海王国をどれほど愛しているのかがひしひしと伝わってくる。新年祭の準備が進められていた『満ち潮の間』を出てからおよそ一刻(一時間)。グニドたちは今年の歌巫女だというプアカに導かれ、なおも神殿を奥へ奥へと進んでいた。
そうしながら様々な部屋を覗き、ここはどんな意味を持つ部屋だとか、普段はこういうことに使われている部屋だという説明を聞く。
中には特定の儀式にしか使われないというがらんどうの部屋も多かったが、しかしまったく殺風景だとか物寂しい場所だとかいう印象を受けないのは、やはりこの大量の文字の群のおかげだろう。さらにグニドが驚いたのは、神殿の中心にある中庭から『海底の間』と呼ばれる地下室へ入ったときだ。
ヤムアンガ神殿はどの部屋にも大きな天窓が設けられ、日の光が燦々と注ぎ込む造りになっているのだが『海底の間』にはそれがなかった。
まあ、部屋が地中にあることを思えば窓がないのは当然だとも言える。だがグニドを驚愕させたのはその部屋の暗さではなく、明かりひとつない暗闇の中で、振り向いたプアカの顔がキラキラと星をまぶしたように輝き出したことだった。
「ふ、ふわあ……! プアカ、どうしたの!? おかお、きらきらしてる!」
「え? ああ、そっか。わたしの顔、今、光ってるんだ。自分だと分からないんだけど、これは刺青の墨に含まれてる海蛍石のせい。海蛍石は夜光貝とおんなじで、昼のうちに日の光を蓄えて、夜になるとキラキラ光るの。神殿はもちろん、街の通りや建物に使われてるタイルの青も海蛍石を原料にしてるから、日が暮れると都全体がこんな風に光るんだよ」
「へえ、あの刺青の着色にも海蛍石が使われてるんだ。だけどそれじゃあ、顔中刺青だらけだった神官長サマなんかがここに来たら、もっとギラギラしそうだね」
「ふふふっ、そうですね。わたしたちの顔の刺青は、年齢や神殿での階級が上がるごとに増えていくので、大人になればなるほどもっとキラキラします。海蛍石はヤムトゥル火山がまだ海底にあった頃、火口から噴き出していた毒で汚れてしまった海を浄化するために、ヤムさまが注がれたご神血から生まれたと言われていますから……だから神官は偉くなればなるほど、ヤムさまの血をたくさん授かることができるんです」
「わあ……まるで神子と乳飲み子を結ぶ血の契約みたいね。海王国の刺青文化にそんな意味があったなんて知らなかったわ。でもアテシがアルビオンで会ったモアナ人の刺青は、夜になっても光ってなかったような気がするんだけど……」
「海蛍石を使った刺青を入れられるのはわたしたち神官だけですから、その方のは普通の刺青だったんじゃないでしょうか。海王国の刺青文化は、神官が刺青を入れる理由を知った島民が、自分たちもヤムさまのご加護にあやかりたいって真似し出したのが始まりなんです。だけどそもそも海蛍石は神官以外の人が採取すること自体禁じられているので、当時の人たちはみんな代用品を使って、見様見真似で刺青を彫ったと聞いてます。それがいつしか一般的な風習になって残ってるんですよ」
「えっ。じゃあ海蛍石を採取するときって、神官自ら海に潜るのか?」
「はい。なので海王国の神官は、下手な漁師よりも泳ぎが得意です! わたしも小さい頃からみっちり鍛えられたので、潜水なら熟練の海女さんにも負けませんよ」
とどこか得意げに言ってから、プアカは不意にグニドの知らない言語を唱えた。
するとにわかに『海底の間』の壁に掲げられたいくつもの燭台に火がともる。
あまりにも突然の出来事にグニドたちはぎょっとした。
あれらの燭台は、恐らくモアナ語だろうと思われるプアカの言葉に反応したのだろうか。だとすればまるでマドレーンが使う希術のようだ。
「わっ! び、びっくりした……何かと思ったら希灯具があったのネ」
「ケレウス?」
「希術を応用して作られる希工品のひとつよ。小さな希石を埋め込むことで、火種や燃料がなくても簡単に火をともせるように作られた灯具のこと。ここは日の光が届かないから、夜光貝の明かりは使えないのね」
「そうなんです。希灯具が発明される前はいちいち外から明かりを持ち込んでたみたいなんですけど、さすがに不便だからって、わたしが生まれる直前に改修されたらしくって。こういう希工品がたくさん発明されたのも、マギステル教授が希術を広めて下さったおかげなんですよね! 本当に便利な世の中になったって、島中の人もみんな喜んでますよ」
「あら、それはよかった。私はあくまできっかけを作っただけで、希術を国創りに活かそうと決断したのはユニウスだから、厳密には全部彼のおかげだけれど……千年にも渡るシャマイム天帝国の支配と大戦で荒廃した国々が、たった二十年でここまで復興できたことを思えば、彼の判断は正しかったのでしょうね。だとすれば私も故郷の掟を破って暴れ回った甲斐があったわ」
くすりと笑ってそう言いながら、されどマドレーンの表情には、人間たちがよく〝人を食ったような〟と形容するあの感じがなかった。珍しいこともあったものだなと思って見やった彼女の瞳の中で、燭台にともる希術の火が揺れている。
彼女が見つめる炎の先には、グニドの知らないアビエス連合国の過去が浮かび上がっているのかもしれなかった。マドレーンはそんな国の歴史を二百年も前から見つめてきた魔女なのだ。それは三十年ちょっとしか生きられない竜人のグニドにはまるで想像もつかない、途方もないことのように思われた。
「あ……あの、マギステル教授──」
「──おっ? おい、見ろよ! この部屋、妙に潮臭いと思ったら、奥にまた水槽があるぞ!」
ところが刹那、プアカが何か言いかけたところで、にわかに頭の上のヨヘンが騒ぎ出した。言われてつと奥を見やれば、なるほど、確かに突き当たりがまた水場になっている。されど床が四角く切られていた入り口付近の池とは違い『海底の間』の池は床がゆるやかに傾斜して、奥に向かって下がっていく形をしていた。
そうして低くなったところに海水が溜まり、水際は白い砂で覆われている。
まるで部屋の中に小さな砂浜が再現されているかのようだ。
「あ……え、えと、この『海底の間』は普段禊に使われている部屋です。あの海水にひと晩浸かれば、目に見えない穢れも綺麗に落とせると言われてるので」
「へえ、禊の間か。ってことはここの海水って、地上の水槽に引かれてる水と何か違うの?」
「いいえ。海水自体はどの池も同じ水路から引いてるんですけど、ここにはラウリムが咲いているので……」
「ラウリム?」
「ホウ。ラウリムと言えば〝海底花〟。ほとんど光の届かない海底にのみ咲くと言われている花ですな」
「はい。正確には花みたいな飾りのついた海草らしいですけど……ラウリムは海中の不浄なものを食べてくれる花だと言われてるので、そのラウリムが咲いてる海水に浸かれば、人の穢れも食べてもらえると考えられているんです」
「え? 花が穢れを〝食べる〟……?」
「ホホ。海底花の生態はまだまだ謎が多いのですが、我が大学の研究によると、あの花が光のない海底で生きられるのは同じ水域で共生する魚類の糞から必要な栄養を得ているからではないか、という説が今のところ有力なようです」
「ふ、糞から栄養を……!?」
「ええ。そら、ここからも水中にふたつの光が見えるでしょう。奥の方でひっそりとともっている淡い光が海底花、その周りで忙しなく動き回っているのが閃魚と呼ばれる小魚です。彼らは真っ暗な海底でも、ああして体の一部を発光させることで仲間と交信しているのですよ。そして海底花の光に寄ってくる海虫を食べ、次々と排泄される彼らの糞を海底花が取り込むという寸法です」
「へえ……海底花も閃魚も、本当にお互いを利用し合って生きてるんですね。で、花の方は汚いはずの糞を吸収して取り除いてくれるから、浄化の力があると信じられてるってわけか」
「けど、ここって人工の海底だし……閃魚のエサになる海虫ってあんまりいないんじゃない?」
「そうですね。なので神殿の魚たちにはいつも人工のエサをあげてます。集めた海虫を乾燥させて磨り潰したあと、海草から煮出した汁を混ぜて練った特製のエサなので、魚たちの食いつきもバツグンです!」
「あ! じゃあ、ルルもおさかなにエサ、あげれる!?」
「もちろん。ちょっとしかないけど、わたしがいま持ってるエサでよければ」
「ヤーウィ! グニド、グニド、おさかなにエサ、あげてもいい!?」
「ウム。プアカ、礼ヲ言ウ」
「ふふっ、どういたしまして。深海で暮らすティティにエサやりができる機会なんてそうそうないでしょうから、よかったらグニドさんもどうぞ」
プアカは笑ってそう言うと、首から下がった巾着を開き、中から小さな葉っぱの包みを取り出した。その葉を開くと、中には麦粒くらいの大きさの丸薬に似たものがくるまれている。どうやらこれが魚たちにやるエサのようだ。
グニドらはプアカから譲られたそれを分け合い、水際まで行って水中へ放ってみた。するとすぐに奥の暗がりからピカピカ光る瞬きの群がやってきて、我先にとエサを食らい始める。暗くて魚の姿はよく見えないのに、光が水面を叩くほど群がり暴れるさまは、まるで魚とは違う未知の生物を見ているようだ。
「ヤーウィ! すごい、すごい! おさかな、ピカピカ、いっぱい!」
「う、うおぉぉ……! 食いつきがすごすぎて、落ちたらオイラまで食われそうなんだけど……!」
「そりゃいいな。エマニュエル広しと言えど、無名諸島の家禽に続いて海王国の魚にまで丸飲みにされた冒険家なんて他にいないよ。ってわけでヨヘン、アンタも一発飛び込んでみたら?」
「ラッティ、それ暗に死ねって言ってる!? なあ、死ねって言ってる!?」
「あら、アテシも名案だと思うわ。これぞまさに兄さんの言ってた〝お金には換えられない尊い体験〟ってやつじゃない?」
「アルンダァ! そんときゃおまえさんも道連れだからな!?」
などとはしゃいでいるルルたちを後目に、一行はこの『海底の間』の砂浜で少しだけ休憩を取ることにした。何だかんだで一刻ほど歩き通しだったので、エサやりのついでに少し休んでいこう、とウーチェンが提案したのだ。
しかしどうせ休むのならすぐ上の美しい中庭で休んだ方がよいのではないか、とグニドなどは思ったが、エサに群がる閃魚を見て大喜びしているルルを見たら、まあここでもいいか、と気が変わった。
しばらく彼女らと共に明滅する魚の群を観察していたグニドも、ほどなくどかりと砂浜に腰を下ろしてみる。神殿の床を覆う砂は思ったより深く、握ってみると無名諸島の浜辺の砂と同じ感触がした。つまりきめが細やかで柔らかい。
どうやら本当の砂浜から運んできた砂のようだ。こんなに質のいい砂があるなら久々に砂床を作って潜ってみたいな……などと思いながら、ときにグニドは三歩ほど離れて座ったヴォルクがふとプアカに声をかけるのを聞いた。
「ところで……プアカ。さっき何か言いかけてなかった?」
「えっ?」
「いや……何もないならいいんだけど。マドレーンさんに何か訊きたいことがあったのかな、って」
「あら、そうなの? 私に答えられることなら何でもどうぞ?」
「えっ、あっ、いえっ、あの……!」
と、突然話を振られたプアカはひどく慌てた様子で、あわあわとヴォルクとマドレーンを見比べた。かと思えば薄暗い室内でもそうと分かるほど赤面し、膝の上に置いた両手を見つめながらもじもじしている。
「え、えっと……じ、実は、わたし……いつかユニウスさまと一緒にアビエス大戦を戦った人と出会えたら、訊いてみたいなあと思ってたことがあって……」
「何かしら?」
「そ、その……マギステル教授は、当時アビエス連合軍にいたマナキタンガ女王とも親しかったんですよね?」
と、やがて遠慮がちに上目遣いでそう尋ねたプアカを見やり、マドレーンはほんの一瞬紫色の瞳を細めたように見えた。が、すぐにいつもの調子で微笑むと「そうね」と言って頷いてみせる。
「マナは当時ユニウスの右腕みたいなものだったから、連合軍で彼女を知らない人はいなかったわよ。訊きたいことっていうのはあの子のこと?」
「はい……女王さまってどんなお方だったのかなあって、わたし、最初に歌巫女に選ばれたときからずっと気になってて。ほら、歌巫女って本来は、代々王家の姫さまが務めてきたお役目じゃないですか。だからもしも時代が違ったら、マナキタンガ女王が歌巫女として舞台に上がっていたのかなあ、って……」
「ソウナノカ?」
「はい。実は歌巫女とは、モアナ=フェヌア王家に成人前の子女がいないときにだけ神殿から選ばれる代役だったのです。しかし王家はアビエス大戦勃発直前に天帝の怒りを買い、残念ながらマナキタンガ陛下以外の王族はひとり残らず討たれてしまいました。そして陛下の長きに渡る不在により、今では神殿から歌巫女を選ぶのが通例となりつつあるのです」
とプアカに代わって説明してくれたのは、嘴から眼鏡を下ろしたウーチェンだった。そういえばさっきマドレーンが、マナはかつて〝マナキ王子〟と呼ばれ、男として育てられていたと話していたのを思い出す。けれども王家の子が性別を偽っていたことを知った天帝は激怒し、この島へ攻め寄せたとか……。
結局マナが女であることがどうして天帝の怒りを買ったのかは分からずじまいだが、今はプアカの話を聞く方が先決だろうとグニドは話の腰を折るのを遠慮した。
するとプアカは意を決したように、小さな両手をぎゅっと握り締めて言う。
「昔、マリエさまが言ってたんです。生きているうちに一度でいいから、女王さまが神殿で歌うお姿を見てみたかったって……もちろん、女王さまはとっくに成人なさってるので、次に王家の人が歌うとしたら女王さまの子孫ってことになると思うんですけど……」
「……」
「実は、マリンガヌイが天帝国軍に襲われた当時、神殿で神官長を務めておられたのはマリエさまのお母さまだったんです。そしてマリエさまはずっと、女王さまのことが天帝国に知られてしまったのも、あの事件でたくさんの人が殺されたのもお母さまと、それを止められなかった自分のせいだと思ってるみたいで……」
「ホウ。それはまたどうして?」
「マリエさまのお母さま……つまり先代の神官長は、女王さまがまだマナキ王子と呼ばれていた頃、宮殿の外で唯一王子の正体を知っていた人物だったそうです。そして同時に人一倍信仰心の厚いお方だったらしくて……そのせいで女王さまの成人が近づくにつれ、先代は焦り出したのだとマリエさまはおっしゃってました。代々王家が務めてきた歌巫女のお役目を、お姫さまがいるのにやらないのは罰当たりなんじゃないか、って……」
ゆえに先代の神官長はマナキ王子の正体を一時的に偽って、今度は神官を名乗らせてはどうかと王家に提案したらしいとプアカは語った。
そうして神殿から選ばれた歌巫女として舞台に上げれば、王子が実は女であることを隠したまま歌巫女の役目も務められるはずだと考えたのだ。
しかし王家は彼女の提案を受け入れなかった。
何せ一時限りのこととはいえ、王子を女として神殿に入れることで彼女の正体に気づく者が現れるかもしれない。ならばそんな危険を冒してまで生まれたときから王子を名乗っているマナに歌巫女をやらせる必要はないだろう、と。ところが先代は王女が歌巫女の役目を拒むのはやはりヤムへの不敬に当たるとして、粘り強く王家との交渉を続けた。何度断られても懲りずに食い下がったというのだ。おかげで王家と神殿の関係は次第に険悪になり、両者の議論も平行線を辿り続けたという。
「なるほど。つまり我が子を守りたいワイヒ陛下と、ヤム神への信仰を守りたい先代が対立してしまったということですな。王家にしてみれば万が一にも王子の正体を知られれば、天帝の怒りを買って国家存亡の危機に晒されることは目に見えていた。されど神殿側もヤム神への正しい信仰を怠れば、国に災いが降りかかるやもしれぬと恐れたのでしょう」
「要するに王家も神殿も、国を守りたいから譲れなかった……と?」
「そういうことになるのでしょうな。しかしそうして両者の関係が悪化すれば、事情を知らぬ者たちも異変に気づいて騒ぎ出す……」
「はい……女王さまの正体が外に洩れたのもそれが原因だったみたいです。何でも宮殿で偶然先代と王さまの口論を聞いた人が、真相を天帝国に密告したとか……」
「当時は天帝の息がかかった人間がそこら中にいたからね。宮殿の内部から密告者が出たとしても、何ひとつ不思議じゃないわ」
「だけど、そのせいで海王国は天帝国に蹂躙されて……王族も国民も、たくさん犠牲になった……」
「……はい。おまけに女王さまも天帝国に連れていかれてしまって……海王国に残されたのは瓦礫の山と、庇護してくれるはずの王家を失って途方に暮れた民だけでした。先代はそんな祖国の惨状を見て、自分のせいだと泣き崩れていらっしゃったとか……そしてマリエさまも、先代と同じ罪の意識を今も背負っておられます。女王さまが祖国に帰ってきて下さらないのも、先代や自分を恨んでいるせいじゃないかと思い詰めていらっしゃるみたいです」
うつむきがちにそう告げたプアカの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。これは先刻他の部屋の見学中に聞いた話だが、実はプアカには母親がいないらしい。
彼女の母は産後すぐに亡くなっており、代わりに育ててくれた神官長が今では母親代わりなのだとプアカはちょっと面映ゆそうに、されど誇らしげに語っていた。
(それでプアカも神官長が自分を責める姿を見るのがつらいのか……だがマナが国に戻らないのは神官長のせいじゃない。あいつにかけられた呪いのせいだ。だから神殿の者たちが責任を感じる必要はないと言ってやりたいところだが……)
ルエダ・デラ・ラソ列侯国でグニドが目にしたマナの呪い。彼女の胸に埋め込まれたあのおぞましい呪いを解く方法は、どれだけ探しても見つからなかったとマナは言った。だから彼女は死に場所を求めてさまよっている。呪いに蝕まれて苦しみながら死ぬのではなく、少しでも何か意味のある形で一日も早く死にたい、と。
しかしここにいる者たちは、マナが呪われている事実を知っているのだろうか。
仮に知っていたとしても、その呪いを解く方法がどこにもないから死のうとしているだなんて聞かされたら、今度は別の意味で苦しむのでは?
そう思うと真実を告げるのが正しいことなのかどうか、グニドには分からなかった。ゆえに黙りこくっていると、不意にマドレーンが口を開く。
「そう。だけどマナが国に戻らない理由は他にあると思うわよ」
「え?」
「私の知ってるマナ・ピリニヒって王女様は、いつも思い詰めた顔をして死に急いでる怖いもの知らずって印象だったわ。おかげで連合軍時代もしょっちゅう無茶をしては周りを困らせてた。まるで生きてるのが苦痛で仕方ないって感じで……」
「オイ、マドレーン──」
「あの子はね。海王国があんな悲劇に見舞われたのは神殿のせいだなんて、たぶん微塵も思ってなかったと思うわよ。常に死に物狂いで天帝国と戦っていたのはむしろ、自分を責めていたせいじゃないかしら」
「え? 女王さまが、自分を……?」
「ええ。海王国が滅びたのは自分のせいだと……だからこの戦いは贖罪なんだと、あの子は口癖みたいにそう言ってたわ。自分さえ生まれてこなければ、誰の命も失われずに済んだのにってね。だからマナは〝帰ってこない〟んじゃなくて〝帰ってこられない〟んだと思う。彼女は本当に祖国を愛してたから……きっと今も自分を許せずに、故郷へ帰らないことで自分を罰しているのかもね」
水際ではしゃいでいるルルたちを遠く見つめながら、マドレーンは静かな口調でそう言った。すると息を呑んだプアカの大きな瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
それが決壊の合図だった。プアカは幼さの残る顔をくしゃくしゃにして泣き出した。日に焼けた頬はあっという間に涙にまみれ、彼女は何も言葉が出ないという風に顔を覆ってうなだれてしまう。
「プ、プアカ。大丈夫カ?」
「は……はい、ごめんなさい……だけど、どうして……女王さまはなんにも悪くないのに……!」
「そうね。マナを天帝に人質として差し出すことを拒んだのは彼女の両親だし、そのために性別を偽り続けた人生が全部水の泡になったのも密告者のせいだものね」
「わたしも……わたしも、そう思います。それにわたしの知る限り、この国に女王さまを恨んでいる人なんていません。だって女王さまは命懸けで天帝国と戦って、わたしたちに自由を与えて下さった……だから誰もが口を揃えてこう言うんです。一日も早く女王さまに帰ってきてほしい、そしてあの戦いから立派に立ち直った島の姿を見てもらいたいって……だって、わたしたちも女王さまと同じくらい、この国が大好きだから──」
指の間から涙声を振り絞り、プアカは泣いた。
グニドはますますかける言葉が見つからなかった。
だってもしもマナが故郷に帰らない理由が呪いのせいだけでなく、マドレーンの言うとおりなのだとしたら、彼女の贖罪はとっくに終わっているはずだとグニドも思う。されど世界でマナだけが今も自分を責め続けているのだとすれば、そんなにつらく悲しいことが果たして他にあるだろうか。
「……そう。そうね。その言葉、あの子にも聞かせてあげたいわ」
やがて泣きじゃくるプアカに手を伸ばし、彼女の黒髪を撫でやったマドレーンの手つきと声色は、意外なほど優しかった。
この女にもこんな声が出せたのか、と驚きながら、しかし同時にグニドは思う。
(自分さえ生まれてこなければ、か……)
先刻マドレーンが代弁したあの言葉。それが数日前、無名諸島の浜辺で聞いたルルの言葉と不意に重なる。彼女は泣きながらこう言っていた。ラナキラ族の村でクムが命を落としたのは自分のせいだ、と。そしてグニドもいつかルルのために死んでしまうのではないかと思うと、恐ろしくてたまらない、と……。
(今後もし、また誰かがルルのために命を落とすようなことがあったら……あいつもいつかマナと同じ苦しみを抱えることになるんだろうか)
そう思い至った刹那、グニドはようやくすとんと腑に落ちた。
ああ、そうか。だからマナは言っていたのか。自分と同じ運命をルルには辿らせるな、と。そのためにこれからも彼女を傍で守ってやれ、と──
(……マナ。お前は誰よりもルルの未来を想ってくれていたんだな)
──だったらおれは、お前の想いごとルルを守ろう。
海の彼方で別れた彼女に思いを馳せながら、グニドは改めてそう誓った。
けれどルルの未来は守れても、故郷に別れを告げた海の国の魔女の未来は、一体誰が守ってくれるというのだろう?