第一一一話 碧の神殿と歌巫女(タプワヒナ)
ヤムアンガ神殿が別名『碧の神殿』と呼ばれる理由はすぐに分かった。
何しろ、青い。何が青いって、すべてが青い。
神殿の建物も、それを囲う人工の池も、とにかく青一色なのだ。
じっと目を凝らしてみれば、その青は街の他の建物と同じく、青いタイルで飾られているためだと分かる。しかし街中の建物はすべてがタイルで覆われているわけではなく、白い壁がところどころタイルで飾られているという感じなのに対し、ヤムアンガ神殿は余すところなくすべてが青だ。
おまけに神殿の外壁を埋め尽くすタイルには波や魚、貝、草花などをモチーフにした絵が細かく描かれ、池の中にまでそういったタイルが敷き詰められていた。
しかもよくよく覗き込んでみると、池には宝石のように青い魚が放たれ、群をなして泳いでいる。池の水は潮臭く、わざわざ掬って舐めてみるまでもなく、海から水を引いているのだとすぐに分かった。
「ふわあ~! グニド、みて、みて! おさかな!」
「ウム……鱗、トテモ、キラキラシテイル。キレイダナ」
「うん!」
「ホホホ。あれは海王国では〝海の星〟と呼ばれる魚。彼らの鱗は日光をよく反射するので、ああして群で海面近くを泳ぐのですよ。するとあまりのまぶしさで天敵は目が晦み、狙いを定められなくなるのだとか」
「ヤムアンガ神殿は屋内でも魚を飼ってるけど、アウフェツはよく日の当たる場所にしか寄ってこないから、ここでしか見れないんだよね。ちなみに神殿内で売ってるエサを買えば、魚にエサやりもできるよ」
「グニド! ルル、おさかなにごはん、あげたい!」
「ウム……デハ、中ニ入ルカ」
街に出るなり再び肩車されたルルが、ラッティの話を聞くや頭上で騒ぎ出したのを聞き、グニドはやれやれと思いながらも池の真ん中を貫く青いタイルの道を渡った。神殿の入り口と門とをつなぐ橋のような道の上には、他にも現地の住民や観光客と思しい者たちが行き交い、事前にラッティから聞いていたとおり、ここはマリンガヌイでも特に人の集まる場所なのだと分かる。
「ムウ……ダガ、神殿、大陸デ見タ〝教会〟トハ、形、トテモ違ウナ」
「そりゃ教会と神殿じゃそもそも役割が違うもんよ。どっちも神様を信仰するための場所ってのは変わらないが、教会は同じ教えを信奉する信徒の集会所って意味合いが強いのに対して、神殿はあくまで神様を祀る場所だからな。しかも後者は祀られてる神様に祈ったり感謝を捧げたりしたいなら誰でも出入りしていいってスタンスだ。要は他の神様を信仰してても、そこの神様に用があるなら入ってオッケーってことだな」
「……? デハ、教会ハ、他ノ神ヲ信ジル者、入ッタライケナイカ?」
「まあ、何が何でも絶対にダメってことはないが、場所や用件によってはやっぱり歓迎されないだろうぜ。何せ教会系組織は同じ神様を信仰してても、やれ解釈の違いだの教えの違いだのでよくモメるからな。だが神殿は神々に対する信仰心さえあれば、どの神のどんな教えを信じてようがウェルカムだ。教会みたいに信徒を集めて組織化するってことも基本的にはしてないしな」
「ムウ……ナラバ、同ジ〝信仰〟ナノニ、教会ガ信ジル者選ブハ、何故ダ?」
「身も蓋もない言い方をするなら、組織としての運営を安定させるためかな。信徒が増えれば増えるほど教会の権力や財力は大きくなるから、自分たちの信じてるものを守ったり広めたりしやすくなるだろ。逆に言えば他の神派や教派に信徒を取られると、その分教会の力が弱まっちまう。だからどうしても排他的にならざるを得ないんだよな」
「そういうところが人類の悲しい性よねえ。本当ならどの神にも優劣なんてないはずなのに、自分たちの都合や思い込みで正しいだの正しくないだの言い出して、最終的に〝生命はみな平等〟とか〝隣人を愛せよ〟とかいう神々の教えに思いっきり背いちゃうんだから」
「デハ、海王国ハ、神殿ノ他ニ、教会モアルカ?」
「いいえ。モアナ人の多くは古くから海神ヤムを信仰の対象としているものの、特定の宗教組織には属していません。ですから海王国には教会が存在していないのですよ。過去に何度か大陸からの進出を試みた教会もあったようですが、戒律を厳格に守り、毎日礼拝に出席し、定期的に喜捨をするという教会のありようは束縛されることを嫌うモアナ人の風土に合わず、結果としてどの教会も布教を断念せざるを得なかったようです」
「ムウ……モアナ人ハ、決マリヲ守ルコト、キライカ」
「ホッホッホッ。というよりも、モアナ人の多くは嬉しいことがあれば神殿に感謝を捧げに行き、悲しいことがあれば神の前で泣き、苦しいことがあれば神に導きを乞えばいい、という考え方なのです。つまり彼らにとっての〝信仰〟とは、誰かにああしろ、こうしろと命じられて型どおりにするものではなく、まるで家族のように神を近くに置き、敬い、共に過ごすことなのですな。モアナ人の生来のおおらかさは、一年を通じて温暖な海王国の気候の賜物だとする説もありますが、私はそういった信仰の在り方もまた、彼らの民族性に大いなる影響を及ぼしているはずだと考えております」
というウーチェンの話を興味深く聞きながら、グニドらはいよいよ扉が開け放たれたままになっている神殿の入り口をくぐった。
途端にルルが天井を見上げて、またも「ふわあ~!」と感激の声を上げる。
何しろヤムアンガ神殿は建物の外側だけでなく、内側まで青一色だ。おまけに高さ一枝(五メートル)以上ありそうな天井の真ん中は、タイルではなく硝子に覆われており、屋内にいながら燦々と照る常夏の太陽を感じることができた。
そんな天井を支えるいくつもの角柱には、まるで樹木に咲く花のように白い巻き貝が飾りつけられている。
どうやらいずれも柱から伸びる金具の先に貝殻が引っかけられているようで、グニドが気になって眺めていると、視線の先に気づいたヴォルクが口を開いた。
「あれは夜光貝だよ」
「ヤコウガイ?」
「うん。昼のうちに太陽の光を貯めておいて、夜になるとぼんやり光る性質を持った貝。海王国ではよく照明に使われてる。火を使うより涼しくて済むからね」
「フム……アレガ光ルノモ、敵ノ目、晦マセルタメカ」
「いや、夜光貝はむしろ逆。夜に海底で光ってると、色んな海虫が光に集まってくるらしい。で、夜光貝はそれを捕まえて食べてるって話」
「ム、ムウ……海王国ノ生キ物、皆、賢イナ……」
「グニドグニド、みて! ほんとに中にもおさかながいるよ! こっちはキラキラしてないやつ!」
「あー、ルル、あんまり興奮して身を乗り出すと落ちるぞ。あとクワト、ここの魚は捕食厳禁だからな。そんな物欲しそうな目で見てもダメなものはダメだ」
とラッティがやや呆れた口調で言うので、グニドがふと目をやれば、そこではクワトが道の端にしゃがみ込み、屋内にまで作られた池の中を凝視していた。
彼の視線の先には外で見たアウフェツよりもさらに大きく身が張った、うまそうな魚が泳いでいる。それを見つめるクワトの牙の間から今にも涎が垂れそうになっているところを見るに、考えていることはどうやらグニドと同じらしい。
「おや、これはこれは、ウーチェン教授ではありませんか。お早いご到着ですね」
ところが肉食の獣人がふたり並んで己の食欲と戦っていると、不意に道の先からウーチェンを呼ぶ声がした。おかげでハッと我に返ってみれば、神殿の奥へと続く階段の上に異質な服装をした人間が立っている。
いや、服装というか、あの格好は踝まで届く長い布を体に巻いているだけだ。
左の肩から斜めに巻かれた布はゆったりとして、着る者の体格をすっぽりと隠していた。が、恐らくあれはメスの人間だろう。
何しろもとは黒色だったと思われる灰色の髪は豊かで波打っていて、唯一覗いた右肩もオスにしてはかなり薄い。さらに首からは貝殻と魚の鱗で作られた首飾りを下げ、頭には緑の葉で編まれた冠のようなものも被っていた。
が、何よりも見る者の目を引きつけるのは、顔中に描かれた青い紋様だ。
無名諸島でカヌヌたちが顔や体に描いていたものにも似ているが、彼女のそれはやや黒ずんでいて、何となく皮膚の上に描かれている感じがしない。とするともしや何かを塗っているわけではなく──直接肌に彫り込まれた刺青、だろうか?
「ホホウ、誰かと思えばコ=モアナ神官長。よいところでお会いできました」
「えっ。し、神官長!? あの方が……!?」
とウーチェンが言うのを聞くなり飛び上がったのは、全身の毛を逆立てたポリーだった。神官長、ということは、彼女がヤムアンガ神殿で暮らす人間たちの長ということだろうか。顔に彫られた刺青のせいで年齢は推測しづらいものの、落ち着いた声の感じからしてそこそこ年は重ねていそうだ。
しかしここでは本当にメスが長を務めているのだなと、神殿に着く前のウーチェンの話を思い出しながらグニドはいささか驚いた。
何せ今までグニドが見てきた人間の群はいずれもオスに率いられていて、メスが長をしているなんて見たことも聞いたこともなかったから。
「ホッホッホッ、左様。あちらにおわす淑女こそ、二十年に渡ってヤムアンガ神殿の神官長を務めておられるマリエ・コ=モアナ殿です。神官長、こちらはエルビナ大学で希術学の教鞭を執っておられるマドレーン・マギステル教授。そして彼女と共に北西大陸から渡ってこられた獣人隊商の皆様です」
「まあ。マギステル教授といえば、アビエス大戦でユニウス様やマナキタンガ王女と共に戦われたという、あの?」
「ええ、そのマギステルで間違いありませんわ。お会いできて光栄です、神官長」
「こちらこそ、ようこそヤムアンガ神殿へ。おまけに北からのお客様だなんて珍しいこと」
「実は彼らと共に旅をしている鼠人族のヨヘン君は学生時代、私の研究室に出入りしていた教え子でしてな。その誼で今回、彼らにもぜひヤムアンガ神殿で行われる新年祭の準備を見学させたいと思い連れてきたのですが、構いませんかな?」
「もちろんですわ。素敵なお客様が大勢お見えになって、ヤム様もお喜びになっているはず。よろしければ歓迎の印にわたくしが神殿内をご案内致しましょう」
という思いがけない神官長からの提案に、グニドたちは思わず顔を見合わせた。
まさか神殿の長自ら案内役に名乗り出るとは夢にも思わず、素直に甘えてしまっていいものかと皆でウーチェンに視線を送る。
「ふむ。どうです、皆さん? コ=モアナ神官長直々に神殿内部を案内していただけるというのは、滅多にない機会ですぞ」
「そ、そりゃそうでしょうけど、アタシらみたいな部外者がそんな待遇で迎えてもらっちゃっていいんですか?」
「しかし皆さんは、他でもないマギステル教授のお連れ様ではありませんか。であれば私から見ても至極妥当な待遇かと」
「まあ一応、教授もユニウス様やマナキタンガ女王のご友人ですしね……」
「あら、〝一応〟とは失礼な言い草ね、アルンダ。ユニウスもマナも私にとってはまぎれもなく大切な友人よ」
「でも教授、さっきその大切なご友人に、ヤムタンガ宮殿への宿泊費を払わせようとしてましたよね?」
「ええ。だって私とユニウスの仲だもの、それくらい当然じゃない?」
「……ユニウス様の博愛精神はとてもご立派だけど、アテシの個人的な見解としては、やっぱり付き合うご友人は選ぶべきだと思うわ」
「ウム……同感ダ」
と、終始悪びれた様子もなくにこにこしているマドレーンに呆れつつ、グニドらは神官長の好意に甘えて神殿を案内してもらうことになった。
彼女が現れた階段を上るとその先には、入り口を入ってすぐの池の間よりさらに広大な空間が広がっている。そこは『祈りの間』と呼ばれる神殿内で最も大きな広間だそうで、いくつもの柱が左右対称にずらりと並んだ荘厳な空間の奥には、確かに祈りや供物を捧げるための祭壇が鎮座していた。
祭壇の前には何人もの客が列を作り、自分の番が回ってくると持ってきた供物を捧げて手を組み合わせる。供物は花や果物や硬貨など様々で、皆が思い思いの捧げ物を手にヤムへ祈りに来ているようだ。おかげで祭壇は既にたくさんの供物が山積みになっており、端の方にあるものから少しずつ、神官長とよく似た衣装に身を包んだ女たちが広間の外へ運び出しているのが見えた。
ああして運び出された供物は、神殿の奥にある『供物庫』なる場所に保管され、ヤムの所有物として管理されるらしい。と言っても中には長く保存できないものも多くあるから、たとえば花なら枯れるまで神殿内に飾ったり、食い物なら貧しい者たちに配られたり、金なら神殿の維持費に回されたりもするのだという。
ただ、供物を捧げる上で大切なのは〝何をどれくらい捧げるか〟ではなく、ヤムに捧げ物をしたいと願う心であり、祈りや感謝の気持ちさえ籠もっているなら道端で拾った小石でもいいのだと神官長は笑った。
そして供物庫では、たとえ小石であっても保存ができる限りは保存し、やがて部屋がいっぱいになるとまた少しずつ外へと出して、最後は海へ流すのだという。
するといくつかの捧げ物は海の潮の流れに乗って、再び海王国の浜辺へ戻ってくる。そうして流れ着いた品々は〝ヤムの贈り物〟と呼ばれ、最初に見つけた者が所有する権利を得るという変わった風習もあるようだ。
が、たとえ生粋のモアナ人であっても、一般の訪問客が立ち入れるのはこの『祈りの間』まで。そこから先は神官と彼らに許可された者しか入れない神聖な場所なのだと言いながら、彼女はグニドらを扉の向こうへ招き入れてくれた。
ちなみに海王国に来て初めて聞く〝神官〟とは、神殿の内部で暮らし、神に奉仕するために働く者たちのことをいうらしい。そう聞くと何となく死の谷の祈祷師や無名諸島で霊術師と呼ばれていた者たちを思い出すが、彼らは精霊に畏敬の念を示しこそすれ、仕えているという感じではなかった。
そもそもグニドには目に見えず、声も聞こえない存在に〝仕える〟というのがどういうことなのか、いまいちよく分からない。ゆえに思い切って尋ねてみると、神官長は青い刺青と小さな皺に飾られた顔で、穏やかに微笑みながら答えた。
「ふふふ。確かに姿の見えない相手に仕えるというのは、一見奇妙に思われるかもしれませんね。ですがわたくしたちの仕事は何も特別なことはなく、王宮で王に仕える家来と何ら変わりません。王にとっての家がヤムタンガ宮殿ならば、ヤムアンガ神殿はヤム様の家。ですからわたくしたちは日々神殿を守り、美しく整え、ヤム様に代わって来客をもてなすのです」
「ムウ……ヤムハ、ココニ、居ナイノニ、カ?」
「はい。残念ながら先代のワイヒ陛下がお隠れになって以来、ヤム様の御霊である《海神刻》の行方を知る者はおりません。ですから今の我々は、長いあいだ家を留守にされている主のお帰りを信じてお待ち申し上げているようなもの、と思っております。その間に人々が、ヤム様やかの神に選ばれし王家への感謝と敬意を忘れぬように語り継ぎ、導きを与えるのもまた、わたくしたちの大切な役割です」
「あー……そういやヤムタンガ宮殿も先代の崩御以降、ずっと主が不在の状態ですもんね……ちなみにヤムアンガ神殿の主要な神官の家系もモアナ=フェヌア王家の血を引いてるって聞いたことがあるんですけど、いつまでも玉座を空けとくわけにもいかないから、神殿から新王を立てようって話にはならないんですか?」
「そうですね。確かに我がコ=モアナ家の始祖は王家にゆかりある者だったと聞いていますが、のちに血を巡って争いが起きぬよう、何代にも渡って王族との婚姻が禁じられてきました。ですので王家との血のつながりはほとんどなくなっていますし、何より我々は今もマナキタンガ女王のお帰りを信じておりますから」
「……」
「そういえば神官長は、あの子……マナとは面識があるのかしら?」
「ええ。女王がまだ〝マナキ王子〟と呼ばれていた頃に何度かお会いしたことがあります。残念ながら碧都が天帝国に攻め落とされ、女王が虜囚として連れ去られたあとは、再びお目にかかること叶いませんでしたが……」
「マナガ……天帝国ニ、連レ去ラレタ?」
「マナは当時天帝の目を欺くために、王女じゃなくて王子として育てられていたからね。だけど結局女だってことがバレちゃって、力づくで天帝国に連れていかれたのよ」
「……? 女ハ、天帝国、行カネバナラナカッタカ? 何故ダ?」
「何故って、そんなの──」
「──ああ、着きました。こちらが今回、我々が新年祭の準備を進めている『満ち潮の間』です」
ところがマドレーンがグニドの疑問に答えるよりも早く、神官長がとある扉の前で足を止めた。相も変わらず目が痛くなるほど細かな装飾が描かれたタイルの壁の中、その扉の上には満月の絵が掲げられている。なるほど、さては〝満ちた潮〟と〝満ちた月〟をかけているのかとグニドが感心していると、ほどなく神官長が扉へ手をかけた。そうして開かれた扉の先から聞こえてきたのは──歌、だ。
細くのびやかな歌声で紡がれた、歌が聞こえる。
「ウーチェン教授。あちらが次の新年祭でモアナ役を務める歌巫女ですわ」
「ホホウ。彼女が……」
と、神官長の言葉を受けたウーチェンが扉の先に視線を向けて、黄金の瞳を細めた。かと思えば彼は嘴の上にちょこんと乗った眼鏡をわずか引き下げ、二連硝子の向こうから興味深げに覗き込む。ウーチェンの眼窩に嵌め込まれたふたつの月に映るのは、部屋の奥に組まれた大きな台の上で歌うひとりの人間の少女だった。
彼女は歌巫女。数日後に迫った新年祭で、神の娘を演じる少女だ。