第十話 罠、そして――
「ふん、ふん、ふふん、ふん、ふふーん♪」
薄暗い地下牢に、弾むような鼻歌が響いていた。
歌っているのは言わずもがなルルだ。ルルは現在檻の中へ入ったグニドの腹のあたりにすっぽりと収まって、座ると地につくほど長い鬣を櫛で梳いてもらっている。
こういう世話はこれまでイダルがやっていたのだが、イドウォルが新しい長老になってからというもの、彼女がこの祠へやってくるのは危険なので代わりにグニドが請け負っていた。
深い深い海の底を思わせる色の鬣を丁寧に梳いてもらい、ルルは先程からご機嫌だ。それにしても人間というのは本当に小さい生き物だなとグニドは思う。何しろ座り込んだグニドの腹のあたりに収まっても、その頭はグニドの喉元にさえ届かないのだ。
『おい、ルル』
『なぁに?』
『それ、何の歌だ?』
『知らなーい』
『知らない歌は歌えないだろ』
『だって、これはルルが自分でかんがえたの。楽しいときにうたうんだよ!』
『ふーん……いいな、お前はいつも楽しそうで』
『グニドは楽しくないの?』
『まあ、楽しくはないな』
『えっ。グニド、ルルといっしょにいるの、いや?』
『そういうことじゃない。ただ最近、地上で嫌なことがあってな……』
『そう言えばイダルも、スエンも、エヴィも、みんなぜんぜんこないね。ルル、ちょっとさみしい……』
『……。みんな、ここへはあまり来られなくなったんだよ』
『どうして?』
『お前は知らなくてもいいことだ』
緩やかに波打つルルの鬣に櫛を通してやりながら、抑揚もなくグニドは言う。すると途端にルルはしょんぼりとして、グニドを見上げていた顔を再び正面へと向けた。
ルルの鬣は一本一本が信じられないくらい細いので、こうして定期的に櫛を通してやらないとがんじがらめになってしまう。かと言ってそこへ無理に櫛を通そうとするとルルが痛いと騒ぐので、竜人の戦士として尋常でない膂力を持つグニドとしては、その加減が難しい。
グニドはできる限り慎重にゆっくりと櫛を通したが、案の定また歯の間に鬣が絡まった。
それを痛くないようにほどくのがまためんどくさい。昔のような鋭く尖った爪があれば、その爪の先で鬣の絡まっている部分をすっぱりと切ってしまえるのだが、先代の長老にルルの世話係を任されたときから彼女を誤って傷つけないよう、爪は鑢で削ってしまっていた。
だから今のグニドの爪は、まるで人間のそれのようだ。こんな有り様だから地上ではイドウォルたちに〝人間かぶれ〟などと嘲笑されるのだろうか。
『……』
ルルの鼻歌は、いつの間にか止んでいた。
いくつかの檻が並ぶ地下牢には、黎明のような静けさが満ちている。
しかしグニドは櫛の歯に絡まった鬣をほどくのと、憂鬱な群の将来のことを考えるのに夢中でその沈黙に気づかなかった。
イドウォルが継承の儀式を経て、ドラウグ族の正式な長老となったのはつい昨日のことだ。
それを快く思わない者は群の中にも大勢いたが、他部族の長たちの総意とあっては覆すこともできず、結局誰もが口を閉ざしてその結果を受け入れるしかなかった。
これからドラウグ族はあのオスを頂点にいただいて暮らしていかなければならない。だが日頃から喰うことと暴れることしか頭にないイドウォルに、長老としての責務が果たせるとは思えない。
現にイドウォルは今も先代とドニクの喪が明けたばかりだというのに、早速東の戦線に一族を率いて赴くと喚き立てていた。おかげで巣は戦の支度に大忙しだ。
だがグニドは正直、戦場になど行きたくなかった。戦うこと自体は嫌ではないのだが、これからはあのオスの下で刀を振るうことになるのかと思うとげんなりする。
(だいたい、おれがいなくなったらルルの世話はどうするんだ。スエンもエヴィも戦に行くことになったら、イダルは一人でここに出入りしなくちゃならない)
竜祖の祠は、今やイドウォルの縄張りだ。死の谷で最も神聖なこの場所は、戦の間も誰かが残って番をしなければならない。
それには当然イドウォルの息がかかった者たちが当てられるだろう。そうなればイダルが一人で祠に出入りするのは危険だ。イドウォルは今も自分に楯突いたイダルを許していない。
だからあの事件以来、イダルのことはグニドたちが守っている。しかしそのグニドらが全員戦のために出払ってしまったらどうなるか。
その先を考えることすら億劫になり、グニドは深いため息をついた。
ルルの鬣はまだほどけない。さすがにまどろっこしくてイライラしてくる。
『ああ、くそっ。何なんだこの櫛は。不良品か?』
『くしはわるくないよ。グニドがわるいんだよ』
『何?』
『イダルはもっと上手だもん。イダルがやるとぜんぜんいたくないんだよ』
『だから、イダルはもうここには来れないんだって。エヴィもスエンもだ』
『どうして? グニドはおへやにもどったらみんなに会えるんでしょ? ルルもイダルたちに会いたい!』
『わがまま言うな。お前は檻から出たら駄目なんだ。だいたいお前みたいなのが巣をうろうろしてたら、あっという間にみんなに喰われちまう』
『どうしてルルがくわれるの? イダルたちはルルのことたべたりしないもん!』
『いや、そうじゃなくてな……』
『ルルもイダルに会いたい。会いたい会いたい会いたい!』
『おい、暴れるな。余計に鬣が絡まるだろう』
『かみなんてもうこのままでいい! グニドのいじわる!』
『はあ?』
『どうせルルはいつもなかまはずれだもん! だったらもうずっとひとりぼっちでいいもん! グニドなんか、もうしらない!』
突然怒り出したルルはそう叫ぶや否や、ぱっとグニドの首の下を飛び出して自分の寝床へと飛び込んだ。
そうして山のように折り重なった襤褸の下に潜り込み、出てこなくなる。
グニドはそれを見て茫然とした。
――〝もうずっとひとりぼっち〟。
『……おい、ルル』
呼びかけたが、返事はない。ただ小さな襤褸の山の中からすすり泣く声が聞こえるだけ。
そのときまで、グニドは知らなかった。
いや、気づかなかった。
気づかないようにしていた。
ルルが自分をグニドたちの〝仲間〟だと思い込んでいることを。
何故ならそう仕向けたのはグニドだ。グニドの使命はこの人間を従順な家畜として育てることで、そのためにはルルに〝自分はここで飼われているのが正しい状態なのだ〟と思い込ませる必要があった。
しかしルルは人間だ。ここでは人間はグニドたちにとって〝餌〟でしかない。
その〝餌〟が自分を竜人の一員だと思い、周囲に対して愛情を持ち始めている。
グニドはその事実を認めたくなかった。
だって、それを認めてしまったら――。
『……。ルル』
あの日――グニドがイドウォルと決闘し、窮地に追い込まれた日。
あのとき自分を救った竜巻のことについて、グニドは一度ルルに「お前がやったのか」と尋ねた。しかし返ってきた答えは「覚えてない」、ただそれだけだった。
だがグニドは確信している。あの竜巻を起こしたのは間違いなくルルだ。
あるいは本人には自覚がなく、無意識に起こしたものだったのかもしれないが、どちらにせよルルがグニドを救ったという事実に違いはない。
そしてそれは恐らく、ルルの〝グニドを守りたい〟という気持ちがそうさせたのだろう。
それはルルからグニドへ向かう感情の裏返しだ。
その事実に気づいてしまった今、自分は――。
『なあ、ルル。出てこいよ』
檻の隅にこんもりと積まれた襤褸の前にしゃがみ込み、グニドは言った。
瞬間、目の前の山がぴくりと動いたが、ルルが出てくる気配はない。
『別にお前に意地悪したいわけじゃないんだ。悪かったよ』
『……』
襤褸の山は沈黙していた。
それを見たグニドは一度鼻から息をつき、さて何と言って説得したものかと尻尾をゆらゆら左右に揺らす。
『ルル。イダルたちがここに来ないのはお前に会いたくないわけでも、仲間外れにしたいわけでもない。ただ先代の長老が亡くなって、イダルたちはここに入っちゃ駄目だってことになったんだ。だから来られない』
『……どうしてイダルたちは入っちゃだめなの?』
ようやく、山の中からくぐもった声が返ってきた。
グニドはそれを聞いて薄く笑い、しかしそれをルルには覚られないように言う。
『新しい長老がそう決めたんだ。ここじゃ長老の言うことは絶対だ。それを破ってここへ来たら、イダルたちが罰を受ける。お前だってそんなの嫌だろう』
『……でも、グニドはきてるよ?』
『ああ。本当はおれもここに入っちゃ駄目なんだ。でも、おれまで来なくなったらお前に餌をやるやつがいなくなるし、それじゃお前は本当にひとりぼっちだ。だから来てる』
『る……ルルのために?』
『ああ、そうだよ』
『でも……でも、それじゃあグニドがあたらしい長老さまにおこられるよ?』
『構うもんか。おれは新しい長老が大嫌いなんだ。あんなやつの言いなりになるくらいなら、叱られてもお前の顔を見に来る方がいい』
『……』
『なあ、ルル。そろそろいいだろう。さっきの櫛、お前の鬣に絡まったままだ。何とかしてそいつを取らないと』
グニドは促したが、それきり襤褸の山は何も答えなくなった。
まさかそのまま寝たのではあるまいなと、グニドはついに立ち上がってむんずと目の前の山を掴む。
そうして一気に数枚の襤褸を剥ぎ取ると、すぐに背中を丸くしてうずくまっているルルの姿が目に入った。
けれどその肩が時折跳ねるように震えている。どうやら泣いているようだ。
『おい。なんで泣くんだよ』
『だって……』
『そんな体勢で泣いてたら顔中砂まみれになるぞ。ほら』
呆れながら言って、グニドはルルの腕を掴み、そのまま立ち上がらせようとした。
するとそのとき、ルルの背中にかかっていた鬣がさらりと流れて、幼い瞳がこちらを見上げてくる。
見る者の意識を吸い寄せるような、美しい淡黄色の瞳。涙をいっぱいに溜めたその瞳に束の間気を取られた直後、グニドの腹にすさまじい衝撃が走った。
思わず「オフッ!?」と声が漏れ、グニドは後ろへひっくり返る。ルルがいきなり腹へ飛び込んできたのだ。今日は鎧をまとわず、薄い上衣を一枚着ていただけだったから、その衝撃はやわらかい腹の皮膚を衝き抜けてグニドの内臓を直撃した。
『グニド、グニド、グニド、グニド!』
『る……ルル……お前な……』
『ルル、グニドのこと、好き!』
『知ってるよ……』
『グニドは、これからもルルに会いにきてくれる?』
『ああ、来るさ』
『ほんとに!!』
『おれはお前の世話係だからな……死なない限りは最後まで面倒見てやる』
『ヤーウィ! それじゃあ、グニドとルルはずっといっしょ! いっしょだよ! ねっ!』
先程までの怒った顔はどこへやら、ルルは涙を溜めた目に満面の笑みを浮かべて言った。
そんなことより早く腹の上からどいてほしいのだが、ルルは仰向けに倒れたグニドを覗き込みながら目を輝かせるばかりでちっともどける素振りがない。
泣いたり怒ったり笑ったり、まったく忙しいやつだ。
そう思いながら、しかしグニドは呆れる気も怒る気も失せた。
エマニュエル広しと言えど、きっと竜人にここまで至近距離で接し、おまけに嬉しそうに笑ってみせる人間など他にはいまい。
この人間は竜人というものを知らなすぎるのだ。
だがそれでいい。
ルルアムスは、そのままでいい。
『――おうおう、何だ。ずいぶん楽しそうな声が聞こえるなァ?』
そのときだった。
突然ドスのきいた声があたりに響き、その声がたちまち黒い感情となってグニドを耳から冒していく。
胸焼けがした。露骨すぎるほど露骨に眉をしかめ、グニドは間の抜けた体勢から首をもたげた。
そうして見やった鉄格子の向こう。
そこに新長老のイドウォルを始め、数人の取り巻きたちがいる。
『イドウォル……ここに何の用だ?』
『口のきき方に気をつけろ、グニドナトス。お前、誰に向かって話してると思ってる?』
わざとらしく首を傾げ、舐めるような目つきでイドウォルが言った。その口の端に浮かんだ下卑た笑みがますますグニドを不愉快にさせる。
こんなときにこの場所で、こいつの不器量な顔など見たくなかった。
それでも一応、こいつは今や自分たちの長なのだ。グニドはそう思い直し、起き上がって腹の上からルルを除ける。
『で、何の用ですか、長老?』
誰が聞いてもふてくされた口調ではあるものの、グニドは申し訳程度の礼を取り、立ち上がりながらルルの姿をイドウォルから隠した。
この場所にイドウォルが現れたのは、グニドの記憶する限りこれが初めてだ。その事実が何か不吉な予感を呼び起こし、グニドの中で警鐘を鳴らしている。
『いや、用があるのはお前じゃない。そこにいるおチビちゃんだ』
『……何?』
『実は今日は、そのおチビちゃんを使って試したいことがあってな。何、他の人間みたいに生きたまま喰おうってわけじゃない。ただちょっと、最近気になる話を耳にした。その真偽を確かめに来たんだ』
グニドの中の嫌な予感が、ますます膨れ上がった。取って喰うわけではない、とイドウォルは言うが、その顔には明らかに嗜虐的な笑みがある。
怯えたルルが、背後でひしとグニドに縋る気配があった。どうやら竜人に対する恐れを知らない彼女も、イドウォルには何か不穏なものを感じたらしい。
『待て、イドウォル。こいつのことはおれが先代から一任されている。事と次第によっては、いくらお前の言うことでも承服できない』
『おいおい、そう怖い顔をするなよ。俺はまだ何も言ってないだろう? それに試したいことってのは、お前がそのおチビちゃんを大事に育ててきた苦労が本当に報われるのかどうか確かめるためのもんだ』
『何だって?』
『とにかく、まずはそこを出ろ。話はそれからだ』
『グ、グニド……』
グニドの上衣を掴むルルの力が強くなった。背中の鱗は、彼女の小さな手から伝わる震えを確かに感じ取っている。
だがここでイドウォルの命令に逆らい彼を刺激すれば、またどんな暴れ方をされるか分からなかった。
グニドは仕方なくルルを振り返ると、その体を抱き抱えて先程の襤褸の山へ戻してやる。そうしてルルの耳元で『ここでじっとしていろ』と囁いた。
そのあるかなきかの囁きはしっかりとルルの耳に届いたらしく、彼女はグニドを見上げてこくこくと頷いている。
しかしその瞳にはやはり怯えの色があった。薄い涙の膜と恐怖を湛えた目で見つめられると、グニドの胸には苦い罪悪感がよぎる。ルルのこんな顔を見るのは、この十年で初めてのことだ。
『……それで、一体何なんだ、お前の〝試したいこと〟ってのは?』
檻の片隅にルルを残し、グニドは警戒しながら鉄格子の扉を出た。長老の前では不敬に当たると分かっていながら、その手はしっかりと腰の大竜刀を掴んでいる。
ところがそのときだった。
イドウォルの取り巻きの一人が突然グニドの横をすり抜け、そのまま檻の中へと侵入した。
声にならないルルの悲鳴が聞こえる。ぎょっとして振り向いたグニドは、すぐさまその取り巻きを止めようとした。
『おい、お前! 勝手にそいつの檻に入るな――』
と、グニドがみなまで言い終える暇もなかった。
不躾なイドウォルの取り巻きに気を取られた一瞬の隙。その隙に動いた二人の戦士が、後ろからすかさずグニドの両腕を抱え込んだ。
無論どちらもイドウォルの取り巻きだ。驚いたグニドはとっさに二人を振り払おうとしたものの、どちらの腕もがっちりと固められ、多少暴れたところではびくともしない。
『くそっ、放せ! おい、イドウォル! 一体何の真似だ!』
『だから、何度も同じことを言わせるな、グニドナトス。俺のことは〝長老様〟と呼べと――言ってるだろうが!』
刹那、ビシリとすさまじい音が響き、グニドは横面に衝撃を感じた。
グニドの目の前で素早く身を翻したイドウォルが、その長い尾でグニドの顔を打ったのだ。竜人の頭部は硬い鱗で覆われているため痛みはさほどではないが、あまりの衝撃に脳が揺さぶられ、ぐわんぐわんと耳鳴りがする。
『グニド!! ――ひっ……』
遠くでルルの悲鳴が聞こえた。一瞬意識が遠のきかけたグニドは、ぶるぶると頭を振って何とか正気を取り戻した。
しかし次に聞こえたのは、恐怖に泣き叫ぶルルの声だ。見れば檻に入ったイドウォルの取り巻きが襤褸切れの山に身を隠すようにしていたルルを引きずり出し、その小さな体を冷たい床に組み敷いている。
『ルル! おいイドウォル、ルルに何をする気だ!』
『あーあー、そう吠えるな。さっきも言ったはずだ。俺たちはこれから、あのメスの人間に今後も飼育する価値があるかどうかを見定める。あいつは元々この谷で人間を繁殖させるためにお前が連れてきたんだろう?』
『ああ、そうだ。だが人間のメスが繁殖可能になるのは、生まれてから十五年くらいあとで……!』
『それだよ、それ。実は俺が聞いた話によるとな、何でも人間は十歳くらいでも繁殖させようと思えばできるらしい。あいつは初めからそれを目的に育ててきた家畜だ。どうせ繁殖させるなら少しでも早い方がいいだろう?』
『馬鹿を言うな! 人間の繁殖適齢期については、先代が砂王国に掛け合って詳細に調べて下さったんだ! 確かに十五を迎える前でも繁殖できる人間はいるが、あんまり早すぎると体が出産に耐えきれず、死んでしまうことの方が多いと!』
『そのときはそのときだ。それに、竜人のメスの中にも時々卵を産めない出来損ないがいるように、人間の中にもいくら交尾したところで繁殖できない個体がいるらしい。仮にもしこいつがそういう個体なら、これ以上は育てるだけ時間の無駄だ。だから今のうちに繁殖可能な個体かどうか確かめておくべきだろうと思ってな』
『ふざけるな! そんなもの、あと五年待ってからでもいいだろう! だいたいそいつを繁殖させるって言ったって、それにはオスの人間がいなきゃ……!』
『グニドナトス。お前、〝半獣〟って知ってるか?』
『何……!?』
勝ち誇ったように口角を吊り上げ、イドウォルは金色の眼を三日月の形に細めた。
その表情の何と醜悪なことか。グニドは腹の底からどす黒い炎が噴き上げてくるのを感じながら、今にも喰らいつかんばかりの剣幕でイドウォルを睨みつける。
『〝半獣〟、あるいは〝半獣人〟。こいつはその名前のとおり、俺たち獣人と人間の間に生まれる混血のことだ。俺もまだ本物は見たことがないが、伝え聞いた話によると、こいつを作るには人間のメスを獣人のオスが犯せばいいらしい』
『イドウォル、お前……!!』
『今回の交尾はあくまで〝試し〟だ。これであのチビが見事半獣を生んでみせたら、今後も飼育を続ける価値はある。幸いなことに人間ってのは、繁殖期じゃなくても交尾すればガキを生めるらしいからな。――要するに、こいつは繁殖本番の予行練習だよ』
再び甲高い悲鳴が上がった。檻の中でルルを仰向けに転がしたイドウォルの取り巻きが、嫌がる彼女を押さえつけ、白い貫頭衣を捲り上げている。
その光景を見た瞬間、グニドは頭の中が真っ白になった。
半獣。
半獣人。
冗談じゃない。
仮にルルが既に繁殖可能な肉体になっていたとして、そんな化け物を生ませるために、自分はあの子を育ててきたわけではない。
『いや……!! いやだ!! 助けて、グニド!!』
その瞬間、グニドの中で、何かが音を立てて切れた。
咆吼。
その壮絶な衝波が檻を、柱を、大地を震わせ、あまりの吼え声に怯んだ二人の戦士の力が緩む。
グニドがその隙を見逃すはずもなかった。我を失うほどの怒りに任せて左右の戦士を振り払い、刀を抜き、瞬時に二つの首を叩き斬った。
再び咆吼。その牙はまっすぐにイドウォルを向いている。
血飛沫を上げる刀を振り上げた。
殺してやる。
今度こそ殺してやる――!!
『――動くな!!』
突然真横から声が聞こえた。振り向いた先、冷たい鉄格子の向こうで、イドウォルの取り巻きがルルの首に刃を向けているのが見えた。
次の瞬間、再びすさまじい衝撃が頭部を襲い、グニドはその場に薙ぎ倒される。
イドウォルの尾の一撃だった。一瞬意識が飛び、次に気がついたときには祠中にイドウォルの高笑が響き渡っている。
『やったな! ついにやりやがったな、この青トカゲが! お前は長老であるこの俺に逆らったあげく! その刀で同胞を殺した! これでもう言い逃れはできんぞ、グニドナトス!』
『イドウォル……!!』
『まったく馬鹿なやつだよお前は! 初めから馬鹿だ馬鹿だとは思ってたが、まさかこんな喰いカスみたいな人間一匹のためにてめえの竜生を棒に振るとは! さすがは〝人間かぶれ〟なんて呼ばれるだけはある!』
二度目の尾の一撃は、最初の一撃より遥かに強烈だった。
おかげで未だに焦点が定まらない。耳鳴りが止まず、意識が朦朧とする。
それでもグニドの目には、こちらを見て泣きながら何か叫んでいるルルの姿が見えていた。
渾身の力を振り絞り、手を伸ばす。
大竜刀。
しかしあと少しでその柄に手が届くという、刹那。
刀はイドウォルの尾によって弾き飛ばされ、代わりに降ってきた彼の右脚が思いきりグニドの手を踏みつけた。
地下牢にグニドの悲鳴が響く。見上げた先で、イドウォルが自身の大竜刀を高々と振り上げていた。
その口元には、狂気の笑み。
『じゃあな、人間かぶれ』
鈍い音が降ってきた。
それはグニドの生の終わりを告げる、風の断末魔――
『――やめてええええええっ!!』
閃光が、走った。
その瞬間、グニドの視界は余すことなく白に染まった。
直後、グニドの鼻先を掠めたのは、猛烈な熱量を孕んだ炎の風。
その風に呑まれたイドウォルが、燃え上がりながら悲鳴を上げている。
『なっ……なんだありゃあ……!?』
想像を絶する光景だった。これには檻の中にいたイドウォルの取り巻きも唖然とし、束の間我を失っている。
だがその取り巻きも馬鹿ではなかった。
床に転がされ、荒い息をしたルルの胸元で何かが光っている。
――神刻。
脆弱な人間だけが使役することを許された、精霊の意思を操る力だ。
『こ、このっ……! てめえがやりやがったの――かッ……!?』
動揺と共に振り上げられた大竜刀はしかし、二度と振り下ろされることはなかった。
何しろ取り巻きの刀は、右腕と共にあらぬ方向へ吹き飛んでしまっている。
喉が潰れたような悲鳴が上がった。しかしグニドはその耳触りな断末魔を、再び首ごと叩き斬った。
ばたばたと音を立てて降り注ぐ血の雨から、ルルを庇うように覆い被さる。そうして黒緑色の鱗を赤く塗り潰されながら、グニドはそっとルルを抱き上げた。
『グニド……!』
『もう大丈夫だ、ルル。……怖かったな』
すさまじい力を使った弊害か、それとも直前までの恐怖によるものか。抱き上げられたルルはグニドの腕の中で、引きつけを起こしたように泣いていた。
そうしていると、まるで十年前に拾ったばかりの彼女を抱き上げたときのようだ。
けれどあのときと違うのは、ルルが泣きながらグニドの名を呼び続けていること。
そして腕の中にあるその小さな小さな温もりを、グニドが愛しいと思っていることだ。
『やっぱりお前だったんだな』
泣きじゃくるルルをあやしてやりながら、グニドはそう呟いた。
イドウォルと決闘したあの日のこと。グニドの中にあった確信はついに確証を得た。
ルルの胸に刻まれた神刻は、グニドの想像を遥かに超えた力を持っている。
この子は精霊に愛された子だ。
そんな精霊の愛娘を、あんな下劣な者どもの凶牙にかけてたまるものか。
グニドは腕の中にしっかりとルルを抱いたまま振り返り、しかしそこでようやく地下牢からイドウォルの姿が消えていることを知る。
『あいつ……』
途端に黒い憎悪が胸に広がり、グニドは小さく舌打ちした。
どうやらあれだけ派手に燃えたにもかかわらず、イドウォルは討ち損ねたようだ。竜人は確かに頑丈な生き物だが、それにしたところでイドウォルのそれは常軌を逸している。
このままでは逃げたイドウォルが手下を呼んでくるのは時間の問題だろう。そう判断したグニドはようやく落ち着き始めたルルを一度床に下ろし、傍で倒れている首のない竜人の死体を一瞥した。
――どんなに立派な誇りがあったって、同胞を手にかけたらイドウォルと同じだ。
数日前、エヴィに向かってそんな偉そうな言葉を吐いたのはどこの誰だったか。
グニドは苦々しい思いでそう思ったものの、こうなってしまった以上は腹を括るしかない。
『ぐ……グニド、なにやってるの……?』
未だ檻の隅で体を震わせているルルをちらりと見ながら、しかしグニドは無言で作業を進めた。
倒れている竜人の死体から鎧を剥ぎ取り、大きさを確かめる。イドウォルが引き連れてきた取り巻きが、自分と背格好の近いやつで良かった。これならグニドが身につけても特に支障はなさそうだ。
『ルル。お前、水、出せたりしないか?』
『え……?』
『このままじゃ臭いで追われる。血を流したいんだ。できるか?』
『う……うん……』
できる、と小さく呟いて、ルルはじっとグニドを見つめてきた。
その幼い瞳には戸惑いと疑問が乗っている。それもそのはずだ。何しろグニドはこれまでルルに、胸の神刻の力はむやみに使うなと口を酸っぱくして言い聞かせてきた。
だがこれからグニドがしようとしていることを実行に移せば、もうそんな甘えたことは言っていられなくなるだろう。
もしかしたらこの先、自分たちの身を守るためにはルルの力も必要になるかもしれない。
だからグニドもルルを見つめ返し、ゆっくりと頷いた。
「――アメル・ゲメリアン・ハイネ」
目を閉じたルルが澄んだ声で何かを唱える。それは恐らく、彼女にしか分からない精霊たちの言葉なのだろうとグニドは思った。
が、次の瞬間、突然グニドの頭上に滝が生まれ、ザバーン!という盛大な水飛沫と共に大量の水が降ってくる。
『……』
この水量は予想外だった。
グニドが浴びた同胞の血は綺麗に洗い流されたが、代わりにグニドは全身びしょ濡れになった。
『こ、これでいい?』
『……。ああ、最高だ』
もしかしたらルルは精霊と心を通わせることこそできるものの、その力の操り方をまだ完全に掌握していないのかもしれない。
グニドはそんな推測をしっかりと頭の隅で押えながら、ぶるぶると全身を振るった。緋色の鬣から大粒の水滴が飛び散る。これは乾くまでだいぶ時間がかかりそうだが、この際背に腹は変えられない。
グニドは体を拭う時間も惜しんで鎧を着込んだ。案の定、ずっしりと重い鋼の鎧はグニドの鱗にもしっくりくる。
首の付け根から下腹部まで覆う前当てをしっかりと革帯で固定し、大竜刀は腰に佩いた。
それから檻の隅にあった襤褸切れでごしごしと鬣を拭い、ある程度水気を切ってからルルに背を向けてしゃがみ込む。
『乗れ』
『え?』
『ここを出るぞ。おれの首に腕を回して、絶対に放すな』
『で、でもグニド、さっきルルはここを出ちゃだめって……』
『事情が変わったんだ。このままじゃお前、またさっきのやつらに怖い目に遭わされるぞ。それでもいいのか?』
グニドがちょっとすごむような口調で言うと、ルルはさっと青い顔をしてふるふると首を横に振った。
そうして言われるがままグニドの背中によじ登り、しっかりと首に腕を回す。ルルの細くて短い腕は、グニドの首の周りを一抱えするので精一杯に見えた。
余裕ができたらもう少し楽に運べる方法を考えてやらなければいけないが、今はこのとおり非常時だ。竜人は大地を駆けるとき、上体を屈め、首を伸ばし、頭と尾を地面と水平にしながら駆ける。グニドがなるべくその姿勢を保っておけば、ルルが自らの体重を支える必要はほとんどなく、振り落としてしまう心配も減るはずだ。
『ルル』
『な、なに?』
『お前、時々おれの話を聞きたがったよな。外の世界は一体どんな風になってるのかって』
『う、うん。グニド、いろんなおはなししてくれたよ。ぴかぴかひかる石の道のはなしとか、ずうっとずうっとつづいてる砂の海のはなしとか』
『ああ。これからその世界をお前にも見せてやる。しっかり掴まってろよ』
背中の重みを確かめるように、グニドはちょっと体を振った。
途端にすぐ耳元で、ルルが息を飲む音がする。この先の未来に怯えたのではない。外の世界へ行けるという、歓喜に満ちた声なき声だ。
それを聞いたグニドは笑って、ついに檻を飛び出した。
覚悟はもうできている。
人の子を乗せた竜人の若き戦士は、広い広い世界を目指して、一目散に駆け始めた。